夢であって、夢じゃない


「……まさか……で、……とか」

「え? 何?」


 実際に会えると思っていなかった人物が、空を背に、聞き取れない言葉に眉を顰め首を傾げている。

 その柔らかなハチミツ色の髪が光に透ける様は、まるで蜜のようで、舌で絡めたら甘く溶けてしまいそうだなと青年は目を細める。

 不意に、口寂しさを覚えた。

 かろうじて動く右手で、近くに来てくれと促した。

 瓦礫の上に立つその人物の顔が近づく。

 白い滑らかな頬から肌の甘い匂いが香る。

 問いかけようとする唇が薄く開き、花びらのように震えるのが見えた。

 もっと近くに来い、と指先を動かす。

 充分に近づくのを待ち、その小さな形の良い頭の後ろに素早く手を伸ばす。ハチミツ色の柔らかな髪に指先が触れた瞬間、逃げる隙を与えず残された僅かな力を全て使って、ぐっと引き寄せると唇に唇を押し当てた。

 突然のことに驚き、青年の掌を押し返そうとした抗いは束の間で、気づけば互いの唇の柔らかさに溺れていた。舌を差し入れれば逃げようとするのを絡めとり、呑み込み、呑み込まれるそれは、与えているのか奪っているのか分からない。

 やがて青年が唐突に咳き込み、口内に血が溢れるのを感じ、唇を離した。


「……オレは、アンタをホログラムで一目見た時からずっと、こうしたかったんだ」


「どうして、こんなことをしたの?」


 血で赤く染る口元を手の甲で拭きながら、その静かなスミレ色の瞳で瓦礫に埋もれる青年を見下ろす。

 その言葉は唇を奪ったことではない事だと知って、青年は軽く眉を上げる。


「いつ分かった?」         

「脳保管施設へのテロの犯行声明文が通知されるその、数日前かな。その日、あらゆる仮想空間内のウェルカムセンターの背景にデザインを模して、とある文章が掲示された時に引っ掛かるものを感じたんだよね」


 その文章とは、次のようなものだった。


何にでもなれるが、何もない

良い場所であるが、何処にもない

何者でもあるが、誰でもない

夢であって、夢じゃない


「仮想空間を揶揄する文章にも読めるけど、真実その通りのことでもあるからね。がやった事なのか探り合いをしているうちに、たった一日でその文章は消えた。直ぐに忘れられ、国の偉いさんも、運営側の誰も気にしていないようだった。だけど……」


「まさか、あの時には既に?」 


 久しぶりに現れたホログラムの姿。

 射るようなスミレ色の瞳。


「うーん。そうだね。知ってたよ。だって、この管理と監視の行き届いた世界で、捕まりたいのでなければ、事前にテロの犯行声明をすること自体が馬鹿げた話じゃない? もしそれがなら、予告なんて必要ない。入念な準備に加え監視の目を掻い潜り、虚を突く以外の何がある? それに全ての脳保管施設をテロ対象にするのは無理があるとはいえ、ご丁寧に特定の脳保管施設の場所を明示するなんて。加えて直前の、あの事件。強制アップデート隠蔽工作をせざるを得ないほど拡散されやすい、ビジュアル的で衝撃的な道化師による犯罪。

 だけどんだよ。そんなものは、ね。気になったら調べてみたくなっちゃって。そしたら直ぐに分かった。たったひとつの共通点。テロ予告を受けた脳保管施設の管理者は、どういう訳か、みな同じ生活プラントの出身者だったんだよね。外部からの攻撃なのだとすれば共通の敵がいる筈で。だけど、そんなもの居るわけがない。お互いでの自爆テロってことかなぁって。で、そのきっかけとなる出来事も見つけた」


「……偶然は、存在しない? ふッ、ふふっ。クククッ。そうだな」


 楽しそうな笑い声は、粘液が絡むような音を立て、苦しそうに咳き込むたびに鮮血が散るのが見えた。


「でも、どうやったの? どの保管施設の過去の配送記録を追跡しても爆発に使えそうな、それらしい物は一切無かったのに」


「気密性の高い建物といえば……粉塵爆発を起こす。それ以外、方法は無かった。皆、嗜好品はそれぞれだろうから何を使ったかまでは知らないが、砂糖でもお茶でも小麦粉でも、許されている物を少しずつ貯めて置いたんだよ」これからは嗜好品も許されなくなるな、と遥か高い空を見上げながら呟く言葉は、近づく大きなサイレンの音で掻き消される。

  

「あと少しで自由になれたんじゃないの?」

「自由とは、脳ミソだけになって終わりなく仮想空間で生きることなのか?」

「だからといってこんなエゴ……赦される筈がない」

「誰に? オレには赦されたい相手はいない」


 青年のその言葉に、スミレ色の瞳が初めて揺れるのを見た。


「ホログラムでしか見たことがないアンタに、ひと目会って触れてみたいと、ずっと思っていた。そしたらどうだ? アンタがこうして、ここに居る訳はなんだ? 偶然が存在しないなら、これにも理由がある筈だろ?」


 お互いの探り合う視線を、先に逸らしたのはスミレ色の瞳だった。


「分からない」


 その声には哀しみに似た響きがあった。

 まるでその姿は、昔の自分だと思った青年は、薄れゆく意識の中であの日が蘇るのを感じる。


 夜の終わりを「親」と迎えたあの日。


 丘の上に肩を並べ見上げていたのは、月がない菫色の空。その所々赤味が帯びる様子は、蠢く雲の滲む血のようにも見え、恐ろしくて身体が震える。

 その時、すぐ傍で穏やかな声が聞こえた。


『震えているね……怖いのかい? 暁闇というのだよ。やがて夜が明け、朝になる前のひと時。恐れることはない。私たちは今、始まりを見ているんだ。そうだよ……キミの名前と同じ』

 

 ――やっと分かった。

 呼ばれたいと願うのは、特別な相手。


「……あかつき

「え?」


 青年が閉じかけた目を開けると、スミレ色の瞳が落ちて来るのが見えた。

 ああ、あの日と同じ空の色だ。

 恐れることは、ない。

 青年は微笑み、目を閉じて、その瞳を永遠に焼き付ける。


「もう誰も呼ばなくなった、オレの名前。よかったら覚えていて……出来るなら」


 呼んで、欲しい。

 


 その時、温かな涙が目蓋を濡らすのを感じたが、それがどちらのものかは、もう分からなかった……。







『Take responsibility for yourself and live freely.』






《了》







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