何者でもあるが、誰でもない
『キミに、名前を与えよう』
その
まず最初に驚いたのは、目の前にいる「親」と呼ばれるプラントの責任者が、これまでのようにホログラムでもアンドロイド型遠隔操作ロボットでもはなかったことだ。
この現実世界に、自分たちを使役する特別な
綺麗に整えられた豊かなシルバーグレイの髪、黒い瞳、肌には年月を重ねた皺や滲みが浮いている。
これが……この「親」こそ、子供が初めて見る生身の人間だった。その身体からは、嗅ぎ慣れた電子臭とは違う、子供の知らない匂いがした。
また、自身のことを『A-11torn2467gel』と認識していたその子供は『
どのような名前を与えられようと、結局のところ名前なんて記号でしかないのに、生身の人間の考えることはよく分からない、と子供は驚いたのだった。
肉体を持つ
制作する
製作されて三年を過ぎると必要なものを脳へ直接インストールする為のチップを埋め込まれ、様々な学習を始めるが、脳のオーバーヒートにより一定数の使いものにならない子供が出て来ることが分かった。植物には太陽と水が不可欠であるように、未熟な脳が成長するためには、充分な管理と運動が不可欠であることが認識されるようになると、
『不思議そうな顔をしているね? いや、驚いたのかな? 見ての通り、私はこの世界に存在する一握りの生身の人間だ。その中にあって、こうして老いることを隠そうともせず、自分の行きたい所へは気儘に出歩く。皆、そんな私のことを変わり者だと言うがね。キミは人間の本来の寿命を知っているかい? そうだよ。永遠の不老不死なんていうのは、まやかしだ。
このプラントは
さて、まずは道具として作製されたキミに名前をつけよう。それから、私がキミを選んだ訳を話そうじゃないか。そう、選んだのだよ。そしていつの日か、名前が単なる記号では無いことにキミが気づいてくれたら、私は嬉しく思う』
「親」の言葉どおり、この子供『A-11torn2467gel』は、他所の
ただ、外の景色がよく見える、天井付近まで届く大きな窓のある部屋で「親」と向かい合い、手ずから淹れた紅茶と手作りであるという焼き菓子を勧められながら、誰かと話しをすることが、それまで窓もない建物に自分だけで、世話をしてくれるのは意思を持たないAIロボットだけだった子供『A-11torn2467gel』にとって、どれほどの衝撃だったのかは、言わずもがなである。
その通り子供は、この生活
生身の人間を見たのも、本物の空を見たのも初めてならば、自分以外の子供を見たのも初めてだった。
そのプラントには、他に三人の子供が居た。一人は自分と同じように、
その場で名前を与えられた『A-11torn2467gel』は、同じように「親」から名前を与えられていたその三人とその「名前」を呼び合い、文字通り顔を突き合わせ寝食を共にする暮らしが始まったのである。
決められた脳への
無論、彼らにもサイバネティック・アバターを持つことは許されていたので、一日の中に朝があり夜があることは、生活プラントに移される前から認識していた。そして選ぶ仮想空間による程度の差はあれ、様々に移りゆく四季も、晴れの日ばかりではなく雨の日があることも。
だが、どうだ。
彼らは、本当の意味では知らなかったのである。
現実の世界の美しい朝焼けの空は、胸を掻きむしりたくなるほど恐ろしく、春の夜の空に浮かぶ月の柔らかな光が、涙で滲むその訳を。降る雨の始まりや終わりには、永劫を溶かした匂いがあることを。
生活プラントに送られて十年経つと
そう、知らなかった。
彼らは、知らなかったのだ。
名前とは、誰かに呼ばれる為にあるのだと。幸せな思い出とは、かくも甘美で、どれほど残酷なものであるかを。
白煙が登ると共にその爆音が轟いたのは、菫色に染まる空の端が暁色と交わる朝――。
その日、世界の何箇所かの脳保管施設で同時多発的な爆発が起きた。
その規模は建屋の屋根部分が吹き飛ぶものから換気口が吹き飛んだだけのものと、被害の大きさや程度は様々であったが偶然にも強制アップデートの最中だった為に、幸いなことに被害に遭った脳の多くは何が起きたのか知らないうちに、その機能を永久的に
「……あー。久しぶりの、空だな」
あちこちで小さな火花が上がっているのが、目の端に見える。瓦礫に半身を押し潰され身動きが取れないので、被害の状況は分からなかったが、二度と見ることはないと思っていた空が、あの頃と同じように自分を見下ろしていることに自然と笑みが浮かんだ。
緊急車両が近づいて来る、サイレンの音が遠くから聞こえる。
降り注ぐ細かな塵は朝の鮮烈な光を反射し、舞い上がる火の粉のようにも粉雪のようにも見えた。
……綺麗、だった。
暁天の星は、すでに見えない。
目の前に広がる空は刻々と色を変え、やがてすっきりとして透明な、薄く淡い水色となった。
空に触れようと、自由になる右手を伸ばす。
その時……。
「A-11torn2467gel、随分な姿だね」
涼やかな声が聞こえた。
青年は、声のする方へ顔を向けようとしてそれすらも儘ならないことに、小さく悪態を吐く。
影が落ちる。
次の瞬間、自分を覗き込むスミレ色の瞳を認めた青年は、信じられない気持ちでその瞳を見つめ返した。
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