数えて春を待つ 後編
ニールは山中に聞こえるように声を張り上げた。
「春なんか、来たっていいことない。ずっと冬のままでいればいい! 村がどんな目に遭ったって構うもんか。春なんて、ずっと来なければいいんだ!」
ニールはひと息にそう叫んだ。山中に聞こえるように声を張り上げ、肩で息をしていた。
私は言葉が出なかった。
どうしてそんなことを、と思うのだけれど、ニールが性根の悪さで言っているとはどうしても思えなかった。冷たそうに見えるけれど、きっと見た目だけの人じゃない。
今までの雪が、嘘のようにふっとやんだ。
私たちは雪まみれになりながら、辺りを見回した。
周りには何の変哲もない、晴れた雪山の景色が広がっている。
「ニール、あれを見て」
私は指を差した。真っ白な雪の中に、鮮やかな桃色がぽつんと佇んでいた。
それは桜色の裾の長い服を纏った少女だった。春の若枝のような明るい色の長い髪。少女は私たちと目を合わせる。白い雪山で、そこだけ春のような色彩があった。
私もニールもその現実味のない光景に違和感を覚え、ただ少女を見つめていた。
少女は雪の中を、私たちの方へと進んできた。
「山の上」
「山の上に、行きたいの?」
私はつい訊き返した。少女はこっくりと頷く。
どうしてこんなところに、山に行く装備もしていない子がいるのだろう。
私たちと同じように春を呼びに行こうとしているのだろうか。それにしては、子供ひとりだけしかない。春は子供二人で呼ぶものだと村長が言っていた。
「えと、一緒に行こうか?」
「おいアンニカ、こんなところにひとりなんて怪しいって。山にいる魔物かもしれないぞ」
「でも、人だったら放っておけないわ。山の上に行くのは一緒なんだもの。連れて行ってあげようよ」
「どんな目に遭ったって知らないぞ」
「そっちこそ、どうしてそんなに山の上に行くのを嫌がるのよ。村がどうなってもいいなんて思ってないでしょ」
春が来ないせいで村がなくなるかもしれないことを、ニールがわかっていないはずがない。
さっきの「春なんてずっと来なければいいんだ」と声を張り上げたニールの様子はただ事じゃなかった。何か事情があると信じたい。
ニールは私の非難の目線に傷ついたように悲しそうな顔をして俯いた。
「……うちは、八人兄弟だから。他の家よりずっと大変なんだ。だから春が来たら、おれはその町に口減らしのために奉公に出される。春が来たら迎えの馬車が村に入れるようになる。だから、春なんて来ない方がいいんだよ」
ニールはきゅっとくちびるを噛んだ。
私は何も言えなかった。きっと、ずっと寂しくて悲しかったはずなのに。それなのにニールは、自分の手で春を呼ばなければならないのだ。
それがどれだけ辛いだろう。私は今までなんてひどいことを言ったのだろう。
どんな言葉をかけていいかわからなかった。
「けど、そのために村の人が苦しんでいいとも、思わない」
ニールは弱々しくそう付け足した。
ニールは優しい。春なんてずっと来なければいいと言い切ってしまった方が、きっとニールにとっては楽なのに。
「さっきは、何も知らないのにきついこと言ってごめんね」
きっとニールの境遇は、春が来ても来なくても変わらない。決まってしまっていることだから。だから春を呼ぶことに失敗したって、ニールの奉公は取りやめにならない。ただ村が苦しくなるだけ。そのせいで近しい人が亡くなるかもしれないだけ。
彼はそれを知っていて、春なんか来なくていいと心の中で叫びながら、山への道を登って来たのだ。私はニールの手を取った。この子の足が止まるなら、私が引っ張っていく。
「行こう、一緒に。春を採りに行こう」
ニールを送り出すために春を呼びに行くんじゃない。もちろん村のためだけでもない。
私はニールのために山を登る。自分だけ春が来なくていいと思ったせいで村が苦しむ。そんな負い目や暗い気持ちをニールに負わせたりしない。
ニールは頷いてくれた。私たちのやり取りをただきょとんと目を丸くして見ていた桜色の少女を連れて、私たちは晴れた山を登っていく。
どうして急に雪が晴れたのだろう。山の天気は変わりやすいけれど、こんなに、うそのように雪が止むなんて変だ。やっぱり、この少女が関係している気がする。
少しずつ空が近づいているような気がする。
眩しい白い景色の中で、周囲よりひときわ大きい真っ黒な大木が聳え立っていた。
「山のてっぺんって、ここだよね」
私は後ろを振り返った。ニールも困ったような様子で木を見上げている。
村長はてっぺんにある桜の枝を持ち帰ればいいと言った。けれど、てっぺんまで来てもそれらしいものは一切ない。近づいてよく見てみると、この大きな木は桜の木のようだ。
真冬の森の中では、木の芽さえひとつもつけていない。私たちは春を持ち帰れないのだろうか。その場に座り込んでしまいたくなるほど、身体の力が抜ける。
「やっと帰ってこられた」
後ろで、一緒につれてきた桜色の少女が呟いた。
雪の中に足を踏み出し、少女は木へと近づいていく。少女は木の前に立つと、手のひらを黒い幹に押しつけた。そのまま、少女は私たちを振り返る。
「連れてきてくれてありがとう。雪がひどくて、来るのが遅れちゃったの」
少女はそう言うと、そのまま全身から光を放って消えてしまった。
私たちは顔を見合わせた。一体あの子は何だったのだろう。幻か、それとも本当に山の魔物だったのだろうか。ニールに話しかけようとしたとき。
はらはらと、桜色の雪が山の上から降ってきた。
いや、雪じゃない。花びらだ。
さっきまで枯れていた大木は、眩しいほど鮮やかな色の桜の花を咲かせ、花びらを散らしていた。冬の山の中で、ここだけ春が来たようだった。木の先にあった小さな枝がひとつ、ひとりでに折れて地面に落ちた。まるで私たちに枝を分けてくれるように。
「そっか。あの子が春だったんだ」
私は独り言を呟きながら、その枝を拾い上げた。
春が無事にやって来た。
雪は解け、野は春の若葉と花で埋め尽くされた。あたたかな日差しの中で、村人たちが笑い合いながら春の仕事を始めて賑わっていた。
帰ってから、私はひとり家に閉じ篭っていた。家の仕事を手伝う合間の時間を縫って、私はひたすら手を動かしていた。
余っていた布に、黄色、ピンク、緑、紫、青、赤の糸で、たくさんの花を刺繍した。春の花。夏の花。秋の花。冬の花。ひとつずつ季節を越していくハンカチ。
雪解け水が道を泥だらけにしている間に、町から馬車が来るまでに。
ニールが乗る馬車がやってくると母が報せてくれた。
私は家を飛び出す。春の冷たい風が向こうから吹いてくる。春が来て、花が咲いて、日差しはこんなにもあたたかいのに、まだ風は冷たい。
村の入口に馬車を見つけた。ニールもいる。ひとりで村を出ていくニールの隣で、彼を引き取りにきた人と村長、彼の両親が話し合っている。
「ニール!」
私は声を張った。ニールが弾けたように振り返った。
「アンニカ?」
私はニールの前で止まって、息を整えた。
私は作ったハンカチをニールに押しつけた。
「春で、お別れなんかじゃないからね。春が終わって季節が巡ったら、また春が来て、いつか帰ってこられるからね。だから忘れないでね」
言いながら寂しさが込み上げて、ニールがこれからどんなに寂しい思いをしながらひとりで働くのかを思い浮かべて、私の方が先に泣いてしまった。
ニールも一緒に涙を流している。
「うん、忘れないよ、おれ」
ニールは私のハンカチを受け取って、大事そうに懐で抱えた。
ニールは馬車へ乗って町へ行く。彼は私と目を合わせて、小さく笑った。
馬車が道の向こうへ遠ざかっていく。馬車が完全に見えなくなるまで、私はずっと村の入口に立っていた。
故郷のことを忘れずに、刺繍の花をひとつひとつ数えたら。
いつかきっと、また会えるから。
数えて春を待つ 葛野鹿乃子 @tonakaiforest
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