数えて春を待つ
葛野鹿乃子
数えて春を待つ 前編
冬の底だと思った。
谷底のような山間の村を見下ろす。雪化粧が家と畑と山の輪郭を隠している。今にも雪に埋もれて、家は潰れてしまいそうだった。
例年より雪が多い。もう三月も末だというのに、いっこうに雪が溶ける気配がない。村の蓄えもほとんど尽きた。春が来ないとどうすることもできず村はほろんでしまう。
丘から村への道を下っていく。村長に呼ばれているのだ。村の子供が村長の家に呼ばれるなんて、普段だったら悪いことをして叱られるとき。でも、今日はきっと違う。
村長の家に行くと、村長の他に少年がいた。
ニールだ。ほとんど同じ年で知った顔だけれど、あまり親しくはない。
「アンニカも来たか。では始めようかの」
村長は白い髭に覆われた顔を私たちに向ける。暖炉で火が燃えていて温かい。まだ冬の寒さが薄れないから、暖炉の火も絶やせないのだ。
「二人には村をあげて頼みたいことがある」
「それ、冬が終わらないのと関係があるの?」
私の問いかけに村長が頷く。
「そうだ。この時季になっても春が来ない。湖の水は凍ったままで、花も緑も雪の下から出てこない。今のままでは村はもたないだろう。だが、何とかする方法がないでもない。二十年以上も前に、今のように終わらない冬が来たことがある。そのとき古くから伝えられていた方法で無事に春が来た。その方法をお前たち二人にやってもらいたい」
ニールが下を向く。
「なんで、おれたち二人なの」
「この方法は、村の子供が二人でやらねばならん。山の奥深くまで行って、山の中にある春の欠片を持ち帰るのだ。雪の中、険しい山の道を歩いてもらうことになる。丈夫で根気強いお前たちなら何とかなるだろう」
村の大事な役目を担うことになるのだ。私は身が引き締まって背伸びをしたけれど、ニールは下を向いたままだった。私はこの子のことをよく知らない。嫌なのか、荷が重いのか、怖いのか。ニールの暗い目からはわからなかった。
「春の欠片って何なの?」
私が尋ねると、ニールのことを気難しそうに見ていた村長が私に目を向けた。
「南の山は知っておるな。そのてっぺんに、春の神さまが棲むといわれておる台座がある。祭壇のようなものだ。そこにある桜の枝をひとつ持ち帰ってくるのだ」
桜の枝。こんな冬に、そんなものが本当に山にあるのだろうか。
山を登る日は雪が降っていた。
私たちは毛糸の防寒具を着込んでリュックを背負った。リュックには食べ物や毛布、ランプが入っている。村人みんなに送り出され、雪が積もる南の山を私とニールは登り始めた。
緩やかな傾斜の山で、標高もあまり高くはない。夏場だったら子供でも半日くらいで登り降りができる、絶好の遊び場になる。今は雪が積もっていて歩きにくいから、丸一日くらいかければ何とか暗くなるまでに行って帰ってくることができるだろう。
お互い無言だった。ぎゅ、と雪道を踏み固める音だけが聞こえてくる。
雪がちらちらと降っている程度だから、視界は良好だ。晴れと曇りの中間のような天気だけれど、寒さは依然として変わらない。防寒具をしっかり着込んでいるから動けるが、皮膚が外気に触れている顔だけ、刺されるようにぴりぴりと痛む。
横を見ると、ニールも黙々となだらかな雪の坂道を登っている。ニールは村長の家で見たときと同じように、顔を俯きがちにしていた。あのときと同じ暗い目をしている。
とっつきにくそうで、何を話せばいいかもわからない。同じ村にいたのにほとんど話したことがない。そんなに家が離れていたわけではないはずなのに。
無言で歩き続けた。
夏には小一時間もかからない山の中腹に、少し時間をかけて辿り着いた。
坂ばかりの山がここだけは平地になっている。私は前を行くニールに声をかけた。
「少しだけ休憩していかない?」
ニールは顔を半分だけ振り返らせた。無感動な黒い瞳が私を捉える。
私は少したじろぎながらも続ける。
「山の天気が崩れるかもわからないし、休めるときに休んだ方がいいわ。予定も順調だし、少し休んでも時間には余裕がありそうだし」
言葉を重ねるたびに言い訳をしているような気持ちになる。
「まあいいけど」
ニールはリュックを雪の中に下ろし、盛り上がった雪の上に腰を下ろした。雪で見えないが、場所からして中腹にある巨岩だろう。
私も同じようにリュックを下ろして彼の隣に座った。お互いリュックの中から保温ボトルを取り出し、用意してきた温かいココアを飲んだ。こっくりと甘く、温かいココアが身体も温めてくれる。ニールも同じようにココアを飲んでいたが、浮かない顔をしていた。
「ニールと話すのって、これが初めてだよね」
保温ボトルに蓋をしながら話しかけてみる。
「それがどうかした」
あまりにニールの反応が冷たいので、つい険のある声が出てしまった。
「あんたっていつもそんな態度なの? 村では何事も助け合ってやっていかなくちゃいけないんだから、そんなに不愛想なのはよくないよ」
ニールはむっと眉を吊り上げた。
「うるさいな。アンニカに関係ない。おせっかいってよく言われるだろ」
「言われないわよ」
ニールがリュックに保温ボトルを押し込んで、リュックを背負った。
「ほら、もう行くぞ」
「あ、待ってよ」
慌ててボトルをリュックにしまった。リュックを背負うと、ニールは既に歩き始めていた。少しくらい待ってくれてもいいのに。
村ではみんなが助け合うのが普通だ。一緒に畑を耕して、羊を追って、羊毛から糸を取って、山で山菜を採る。そういった村の営みのすべては、助け合いで成り立っている。
だからニールみたいに不愛想な人は村には少ない。どうしてこんな態度ばかり取るのだろう。村の中で遠くから見かけたニールは、大人の手伝いをして笑っている普通の子だったと思う。決して冷たそうな印象は受けなかった。もしかして、私が嫌われているからなのか。
またお互い無言で山を登っていく。
降雪が少し強くなってきたようだ。暗くなってきた。風がないのが救いだ。足でちゃんと地面を踏みしめながら、緩い坂を登っていく。
雪がいよいよ強くなってきた。風が出て、山の上から激しく吹きつけてくる雪がひどくて目も開けていられない。腕で顔の上に庇を作って、ようやくうっすらと目を開けることができた。積もった雪も一緒に風に煽られ、まるで濃霧がかかったように視界がきかなくなっている。傍にいるはずのニールの姿もほとんど見えない。
一際強い風が吹いて、思わず足を止めた。
うっすらと白い光が雪の中に灯った。ニールがすぐ傍にきていた。
彼がリュックの中のランプを灯したのだ。視界が広がるわけではないけれど、ニールのいる場所がすぐにわかるのは心強かった。
「アンニカ、大丈夫か」
「何とか」
ニールが私を気にかけてくれるとは思わなかった。
ランプの光が、ニールの声が、心細くて震える身体に温かさをくれる。
「天気、ひどくなってきたな。引き返した方がいいかもしれない」
「だ、だめだよ。私たちが引き返したら、村に春を呼べなくなっちゃう」
私たちを見送ってくれた村の人たちの姿を思い出す。みんな私たちに期待していた。このままだと、みんなが終わらない冬に閉じ込められて苦しむだろう。それは嫌だった。
「春なんて、来なくていいんだよ」
ニールは、顔を思いきり歪めてそう吐き捨てた。
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