私の彼氏は目が悪い
椿恭二
私の彼氏は目が悪い
私の彼氏は目が悪い。
ハチ公前で待ち合わせをしていると、笑顔で誰かに手を振っているので、知り合いにでも出会ったのかと思ったが、相手は怪訝な顔をしている。私が横に立って、どうしたの? と聞くと、ドッペルゲンガーでも見たような顔をした。
二人で熱海旅行に行った時に、大浴場から上がってきた彼の髪が、まるでモデルのように光沢を持っていたので何があったのか尋ねると、シャンプーが泡立たないので「安物はダメだな」と、大量に使って洗い続けていたら、コンディショナーだったそうだ。
初めて出会った時も、睨みつけるような形相だったが、単に真剣に黒板も文字を読んでいただけだった。
私は彼とここまで長い時間を過ごしてきたけれど、眼鏡のない姿を見るのは、お互いが少しだけいつもより体の距離を縮めている時だけだった。
いつも分厚いレンズの先の目は少し小さく、横から見ると輪郭の線がずれている。 何を考えているのかさっぱり分からないが、そのレンズの先にある瞳に翳りはない。それは私を見るときも、ずっと変わらない。
まるでアイデンティティーのように、眼鏡には拘りがあった。フレームはヴィンテージものを好んで、五本をかけ回していた。
定番の黒縁、昔の詩人が好きそうなべっ甲柄、ジョン・レノンみたいな丸眼鏡、グレーの昔の工業製、アンディー・ウォーホルがかけていそうなピンク色の半透明のフレーム。彼がどの眼鏡をかけてくるかで、その日の気分が分かるような気がした。
私は、黒縁の日はフランスの思想家の妻。べっ甲の日は五十年代の詩人のミューズ。丸眼鏡の日はオノ・ヨーコ。グレーの日はジャズマンの恋人。ピンクの日はファクトリーの一員。
そんな風に思えば、付き合い始めて一周年の記念にマクドナルドを買ってきた、ボサボサの髪で本の虫の、ロマンスのかけらもない愚か者といても、それなりに愉快なものである。
ある日、二人で連れ添って買い物に行くと、ショウウィンドウに腕時計が並んでいた。ふと、顔を上げると、そこは一流ブランドの小店舗だった。私は一目惚れしてしまった。過度な装飾があるわけでもないが、ワンポイントのハートが少しだけお茶目だ。今まで持っているものと違い、知的な雰囲気も良かったし、今の年齢でしか付けられない若者らしさもあった。ただ、小さな値札には六桁の数字が並んでいた。
彼に目をやると目を細め、「意外とお手頃なんだね」と言った。恐らく一桁読み間違えている。私は柄にもなく、誕生日が近いよね、とねだってみた。彼にしては珍しく、うんうん、と頷くともう一度ガラスに思い切り顔を近づけて、一瞬眉を顰めたが、何かを決意したように眼鏡を直した。
暫くすると、彼は短期アルバイトを開始した。郵便局が年賀状の仕分けに、人員補充を行うことにしたのだ。「郵便局で働いていた小説家がいた」と述べていたが、彼のような無精を雇う雇用先は限られている。
年末年始、私は田舎に帰郷してしまったが、彼は勤勉に働き続けた。少々、申し訳ない気もしたが、私は雑炊を食べて、紅白歌合戦を観ていた。その間も彼は新年のささやかな挨拶を、市井の人々に届ける作業に没頭していたのだろう。
地元の友人と初詣に出かけた数日後、下宿に帰ると、疲弊した彼が尋ねてきた。そしてお土産のみかんをぱくぱくと食べながらぼやいていた。何でも、彼の担当した地区だけ、異常に郵便番号の仕分けミスが多かったそうだ。私には葉書の上の六マスの数字を顰めっ面で見つめている姿が浮かぶ。
私の大学最後の誕生会は、チェーン店の居酒屋で大盛況で行われた。内定の決まった友人も多く、私も何とか食い扶持には困らない未来が訪れそうだったので、胸を撫で下ろしていた。ただ彼は、どうにも的を得ない。スーツを買ったは良いものの、「洋服の青山」のロゴのある袋に入れたまま壁にかかっている。
周囲に盲目で本に溺れる彼は、今日も最近新しく買ったらしいヴィンテージの眼鏡をかけながら、壁のお品書きを細目で眺めながら、小海老の唐揚げやら焼き鳥を頼んで食べている。誰も気が付いていなかったが、私が彼の新作を褒めると、嬉しそうに今はなき八十年前のブランド名を自慢した。
一人の友人がそんな彼に「就職どうするの?」と尋ねると、「これ虫が入っていない?」とシーザーサラダの上の黒胡椒を、フォークの先で突いた。
社会という大地から少し浮遊感を持った彼は、その視力と同じように曖昧にしか現実を捉えていない節がある。それに対して私が不安にならなかったと言えば嘘になるし、愛だの恋だのと聞こえの良い言葉では解決できない諸問題を孕んでいることも承知していた。
プレゼントの時間になった。皆が皆、貧乏で飢えていたが、心は貧しくなかった。そのハングリーが我々の原動力だった。
友人のラッピングを開いてみても、無理して買ったマグカップやハンドメイドのブレスレットだった。この時代が永遠に輝き続けるのは、我々にお金がないからだ。
当然目玉は彼からの「例の時計」である。仲間も彼氏がどんなプレゼントを送るかは、興味津々だった。
「誕生日おめでとう」と彼が、本ばかりが入った鞄から出してきた。小さなラッピングの袋に、例のブランドの名前はなかった。なるほど、気取る男だと思われたくないので、わざわざラッピングを移してきたのか、と私は思った。
意気揚々と小箱を開けると、あの日見たものとは違う時計が入っていた。「ごめんね」と眼鏡の奥で瞳が揺れた。箱に入っていたのはあのデザインによく似ていたので笑みが漏れた。周囲も、アイツにしてはなかなかだ、と世辞を言ったので満更でもない。私も少しだけがっかりしたが、それでもきっと散々郵便局でヘマをやらかしたであろうボンクラなのは分かっているし、彼は彼なりに一生懸命に葉書を仕分けしたのだ。彼の想いそのものに満足したし、純粋にお金がなくてもプレゼントを欠かさなかったことが心から嬉しかった。
それが、彼が絶対に嫌いになれない理由だ。
愛、とは安っぽいが、それがある気はまだ信じていたい歳で、これは決してお金では買えない時計だ。
だんだん彼が悪魔の水で泥酔して、トイレと座卓の往復を繰り返すようになり始めたのを見計らって、どんな時計だろう、と私は携帯で腕時計の裏の聞き慣れないブランド名を検索した。ネット通販サイトに表示された値段は、例の時計とは二桁違った。私はやれやれ、と思ったが、彼から貰った方が何倍も美しく見えた。
ふと、もう一つ思い当たる先程から盛んに彼が繰り返していた眼鏡のブランド名を打った。そこには六桁で取引されるヴィンテージ眼鏡が表示された。
この、愚か者め。
楽しいねぇ、楽しいねぇ、と己の彼女の心に嵐が吹き荒れていることも露知らずに、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す彼を睨みつけると、慌てながらメニュー表に隠れるくらい顔を近づけた。眼鏡がズレたままタッチパネルを操作するのを周囲に笑われている。プリンが三つ、私の机に到着したが、この男の愚かしさはどうしようもない、と私はため息が出た。
笑顔でほろ酔いの仲間の「今日は楽しめよ!」という冗談に、馬鹿だな、今晩は地獄だ、プレゼントの問題ではない。私が何とかしなければこの男はこのままでは一生ダメになる、と思いながら、彼のアパートまで無言で到着すると、私は問答無用で煎餅布団の上に正座させた。
「時計、嬉しかったよ。全然、あの時計より気に入ったし、壊れるまでつけるよ」
「う、うん……」
「買ったのね、メガネ」私の声は澱んでいた。
「ごめんなさい」
「いくらだったの?」
「十五万円です……」彼の声は萎縮して、微かに震えていた。
十五万円! 眼鏡一つに十五万円も払う、大馬鹿者が目の前にいる。そしてその馬鹿は私の彼氏なのだ。
「別にね、私のお金じゃないから、何を買っても構わないよ。プレゼントだって、私は想いがあれば何でも良いし、貰えただけで嬉しいよ。あのブランドでなくても、これからも一生大切にすると思う。でもさ、これから就職とかもあるんだよ」
私は言葉にしながら、本当に怒っているのは、時計が手元に来なかったことでも、彼が眼鏡を買ったことでもないことに気が付いていく。
「このまま永遠に大学は続かないんだよ。いつまでも現実は講義じゃないんだよ」もうすぐでキャンパス・ライフは、昔の束の間の古き良き思い出になる。ここで学んだことは段々と忘れていき、代わりに新しい社会の荒波で生きていく術を覚えていくのだ。
「私たちのことだって考えなくちゃいけないでしょ……?」
私は自分の声が哀感を帯びていることに気が付いた。
「これからの生活も考えなきゃいけないでしょ……?」
ここまで隠蔽して、関係を続けてきたツケが来たのかもしれない、と私は思った。
眼鏡に大枚を叩く、就職活動もする様子もない男。私の怒りは彼のバイト代の消えた先でも高額の眼鏡でもない。我々の関係の先行きの不安、というものに他ならないのだ。
それが言葉になってしまった。私は詩人のミューズでも、オノ・ヨーコでも、ジャズマンの恋人でも、ファクトリーの一員でもない。ボンクラの彼女だ。
彼は黙って聞きながら、物憂げにジャージの毛玉を毟っていた。
「少し、考える時間が欲しい」とぽつりと呟いた。
一週間後に、駅前の喫茶店で待ち合わせすることを約束すると、私は玄関に向かった。相変わらず彼は正座していて、下を向いた時にズレた眼鏡を直していた。
それから数回キャンパスで彼を見かけたが、お気に入りなのか件の眼鏡ばかりかけて、喫煙所でぼんやり煙草を吸っていた。
私は待ち合わせの時間に喫茶店に到着すると、既にそこに彼はいた。いつもは小難しそうな本を読んでいるが、今日は緊張している。
目の前のソファーに腰掛けると、恭しく机の上の小箱を私に手渡した。
「これ、あの時計。おめでとう」
「どうしたの? だってもう今ので気に入っているし。それにお金は?」
彼は困ったような顔で何も答えなかった。
ふと、最近眼鏡を一つしかかけていない理由が分かった。
「嬉しくなっちゃったんだ。だから買ったんだ、あの眼鏡」
「どうして?」
「院試に受かったんだ」
「院に進むの?」私は胸が締め付けられた。
「うん、もう少しやってみたいんだ。でも言えなかった。だって別れることになる。だけどワガママだった」
「バカ、さっさと報告してよ。女ってのはアンタほど脆くないの」
「うん、そうだ。だから別れるしかない」彼はこの瞬間まで、暗中模索していた。
「バカ」
「僕が悪かった」
私はコーヒーカップの縁を撫でた。その指先が微かに震えていた。
視界が霞み、テーブルに雫が一粒落ちた。私も馬鹿だ、と思った。その横に、彼はすっと駅前の風俗店のティシュが滑らせられた。
顔を上げると、彼は眼鏡をしていなかった。細めた目で静かに頭を振った。
だが瞳は、確かに私を見ている。そして、いくら目が悪くても、そこには私への複雑な優しさと愛らしきものが溢れていて、彼にはそれがずっと見えていた。
今までもこれからもそうだった。
私の彼氏は目が悪い。
しかし、彼はその目でしか見えない遠い世界。
いつももっと遥か彼方の地平を望んでいたのだろう。
私の彼氏は目が悪い 椿恭二 @Tsubaki64
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