ワン・フォー・ツー

真矢野優希

第1話

 「祐奈ゆうなのことなんてもう知らないし!出てってやる!」

 「あーはいはい。ちゃんと晩ご飯までには帰ってくるんだよ」

 引き留めようとするのが面倒で、つい雑な対応をしてしまう。それがさらに灯里あかりの気に障ったようで「むきーっ!」とわざわざ声に出してその怒りを露わにする。子供か。

 そんな大人子供の灯里はどしどしと音を立てながらソファに座る私の前を横切ると、テーブルに置かれたスマホを掴みまたどしどし。

 下の階の人に迷惑だよそれ。

 灯里の動きを目で追いながらぼんやりとそんなことを思う。

 その考えが通じたのか灯里がぴたりと立ち止まる。ぎぎぎ、と錆びついたロボットのような動きでゆっくりと顔をこちらに向ける。

 への字に曲がった口や膨らんだ頬はわたし怒ってるんですと訴えていて、こういう状況じゃなければ「そういうところもかわいいよ」と口にするのだけど、それは今求められてる答えじゃない。じゃあなにを求められてるんだというと……難しい。

 解答のわからない答案用紙を必死に埋めるように心が焦る。

 何か言わなきゃいけないんだけど、気持ちに舌が追いつかなくて上手く言葉にならない。

 時間だけが水底に沈むように重く満ちていく。

 「……出てくから」

 先に口を開いたのは灯里だった。喉の奥から絞り出す、苦しそうな声色だった。

 「……そう」

 対して私の反応は淡白なものだった。

 待って、とか。

 落ち着いて、とか。

 言えることはいくらでもあったはずなのに。

 いまさらそんなことを言えない気恥ずかしさと何を言ってもどうしようもないという諦めが混ざり合って言葉が喉の奥でつっかえる。

 灯里の瞳が水面に波紋を描くように揺れる。

 それを見るのが耐え切れなくて視線を逸らす。散らかった雑誌を目の端に捉えて、あとで片付けなきゃと見当違いなことを思った。

 沈黙が私と灯里の間を埋める。心臓の音だけが耳に届いてうるさい。

 なにか言ってよ。

 自分勝手なことを願う。当然そんなものが叶うはずもなく、灯里はもう未練はないとでも言うように背を向ける。

 たぶん、ここが。最後のチャンスだと思った。

 「───ぁ」

 掠れた音が口から漏れる。未だ形にならない言葉を見つけようと思考をフル回転させる。ぱたぱたと靴を履く音が最後通告のように聞こえた。

 なにか言え、言え、言え。

 なんでもいいからさっさと言ってしまえ!

 「ねぇ、やっぱり──」

 ようやく言いたいことが見つかる。でも、それはあまりにも遅すぎて。

 言葉の続きは、扉の閉まる音に遮られて灯里には届かなかった。



 

 本当に帰って来ないつもりなのか。

 行く当てはあるのだろうか。

 だとしたらそれはどこ?

 ぐるぐる、ぐるぐると。

 そんなことばかりが頭の中で渦を巻く。

 でも、これといった解決策は思い浮かばない。だって、考えるフリをして目の前の問題から逃げているだけなのだから。

 口の乾きを感じて、お茶でも飲もうとソファから立ち上がる。

 「あ、れ」

 家具の配置も、部屋に染み付いた匂いも何も変わっていない。それなのに部屋に違和感を覚える。

 何かが足りない、と頭の片隅が訴えていた。

 「…………」

 じっとしていると後悔が足を引っ張りそうな気がして、だから逃げるように台所に向かう。ポットに水を注いでスイッチを入れる。お湯が沸くまでの時間がもどかしかった。

 時計を見ると昼の一時を過ぎていて、そうしてやっとお腹が空いたなぁと感じた。順序が逆な気がする。

 何かあったっけと戸棚を漁る。

 「ふりかけ、缶詰、パスタ……は茹でるのが面倒。あとは」

 カップ麺がふたつ。赤いきつねと緑のたぬき。

 どっちにしようか迷って緑を手に取る。

 「じゃあ私は赤いきつねね」

 そんな声を聞いた気がした。振り返っても誰もいない。その声の主はさっきこの部屋を出て行ったのだから。

 「……なんで」

 目元が潤みそうになる。堪えようとぎゅっと目を閉じて俯く。

 「なんでこうなっちゃうかな」

 胸には大きな穴が空いたような喪失感があった。放っておけばそこから私の全部が零れ落ちてしまいそうだった。そうして残るものは、……ものは。

 たぶん何もない。

 灯里がいるから私で、そうじゃなきゃ、それはもう私じゃない。

 二人でひとつなんだ。

 「本当に」

 ああ、全く。

 「ほんっとーにしょーがないやつだ、私」

 失ってから初めて気づく、なんてことは言う気にならない。そうやって知るくらいなら初めから後悔を生む選択なんてしなければいいからだ。

 でも、それでもやっぱり、人はどこかで間違える。

 間違えて、悩んで、迷って、考えて。

 そうして別の解答を見つけてまた歩き出す。

 合ってるかどうかはきっと問題じゃなくて。

 その道に続きがあるか、ということが重要なんだと思う。

 いまならまだやり直せるだろうか。

 不安は失敗という未来を想像させて足を止めようとする。

 そこから一歩踏み出すにはちっぽけな勇気が必要だった。

 『ゆーなのしょーらいのゆめはなに?』

 不意に昔のことを思い出す。出会って間もない、まだ幼稚園の頃の記憶。

 『しょーらいなんてむつかしいことわかんないよ』

 『むむ。ゆめがないなーゆーなは。おとなになったときたいへんだぞー』

 にひひと灯里は笑う。たぶん言ってることの半分も意味を理解してないと思う。変なとこで意地っ張りというか大人ぶりたいというか、そういう変わったやつだった。

 『じゃ、じゃあ。あかりちゃんにはあるの、しょーらい?のゆめ』

 『あたし?あたしはねえ』

 そこでゆっくりと息を溜める。

 そうして、少しだけ照れくさそうに、でも自信に満ちた笑顔で灯里は言った。

 『ゆーなとずうっと、ずーっと!いっしょにいる!』

 「……ああ、うん。そうだね。そうだよね、灯里」

 灯里はその夢を叶えた。いや今も叶えている途中、だった。

 小中高と同じ学校に通って、大学はさすがに離れてしまったけれど、その代わりに一緒のアパートに住むようになって。そして気が付けば一緒に暮らして十年が経とうとしている。

 「……ごめん」

 大切な人の、大切な夢を私は壊してしまった。

 元に戻るかはわからないけれど、だからその償いをしなくちゃいけない。

 たとえそれが、どんな結果を生むとしても。

 「……行こう」

 手に取ったカップ麺をそっと棚に戻す。また二人で一緒に食べれることを願いながら。

 そうして二人分のコートを手に取って、私は家を飛び出した。 



 町中走り回っているうちに気が付けば茜色が空を染め始めていた。

 冬の日暮れは早い。髪を揺らす風は夜の冷たさを伴って身震いするほどだった。河川敷は遮るものがなくてその冷たさを容赦なく浴びせてくる。

 そんな夕暮れの河川敷に、縮こまるようにして灯里はいた。

 飛び跳ねそうになる心を抑えてゆっくりと近づく。

 息遣いが聞こえるほど近くまで来て、でもなんて声を掛けようかと迷う。

 「あ」

 手に持っていたコートが風に攫われ、それがぼふっと灯里の頭の上に落ちた。

 「………むう」

 もぞもぞとコートが怪しく蠢く。頭に被ったまま着ようとして、でも出来なくて結局肩に羽織ることで落ち着いたみたいだった。

 「嫌がらせ?」

 風に揺れる水面を見つめながら灯里が問いかけてくる。

 「純然な好意だよ」

 そういうことにしておいた。

 「……よくここがわかったね」

 「ううん、それが全然」

 は?と驚くように灯里がこちらを見上げる。そこで久しぶりに視線が交差した。

 「最初は駅前に行って。で、そこから商店街とか高台の公園とか。川の向こうにも」

 それでも見つからなくて半ば諦めながら帰路に着いていたら偶然灯里を見つけたのだ。

 「こんな近くにいたなら最初からここを探しておけばよかった」

 誤魔化すようにえへへと笑う。

 灯里は少しだけ残念そうに肩をすくめた。

 「スマホ」

 「え?」

 「持ってったんだから連絡取ればよかったのに」

 「あっ。あー……」

 盲点だった。そういえば私のスマホは、と探してみるけど無い。たぶんテーブルに置きっぱなしだ。

 ばっかじゃないの、と灯里が笑う。

 たぶん、きっと。灯里はずっと私を待っていたんだ。だっていうのに私はスマホは家に置いてくるし町中走り回るし。確かに灯里の言うようにばかだった。

 想いが、考えが通じ合うことは難しい。

 だからこそ、言葉にして伝えなきゃいけないのだと思う。

 「灯里」

 夕焼けに目を潰されないように、じっと灯里を見据える。

 「やっぱり、私の隣には、灯里が居てほしいって思う」

 「……ごめん、って謝るのかと思った」

 「うっ、それはその、ごめんなんだけど、ええと」

 視線が彷徨う。夕焼けの赤と灯里の顔とを行ったり来たりする。

 「いいよ、別に。もう怒ってないし。続けて」

 「……うん。ごめんね、灯里」

 息を吸う。冷たい空気が肺と頭の中を満たして余分な思考をさらっていく。

 伝えたいことを目を逸らさずに言う。

 「ひとりはいやだよ」

 だから、

 「一緒にいて」

 言いたかったことはそんな自分勝手なこと。

 ずるいなあと思うし、我儘だなあとも思う。

 でもしょうがない。私には灯里が必要……というか大事、っていうかなんかもう、言葉で表せないくらいに好きなのだから。

 いつかの夢を聞いたときから、ずっと。

 私の告白に灯里が驚いたように目を白黒させる。

 「祐奈がさ」

 「うん」

 「そーいうこと言うの、珍しいよね」

 「……そうかな」

 頬が少し赤くなる気がした。たぶん風が冷たいから。

 「大人になった、ってことだよ」

 よくわかるような。わからないような。

 相変わらずな大人ぶった言動に苦笑する。大人ぶった、というかもう十分大人なんだけど。

 でも、うん。灯里が言うように、その変化を良いことだと受け止めることにする。

 変わって、変わらなくて、少し変わって。

 そういうものを積み重ねながらこれからも生きていくのだろう。

 そこには望まないものもあるかもしれない。

 それでも。

 幸いが多く積み重なることを私は願う。


 

 「帰ろっか、祐奈」

 伸ばされた手を取る。

 「うん、灯里」

 夕日は沈んで群青と朱が交わる空が広がる。夜空には星が瞬き始めていた。

 その星を導にしながら、ずっとふたりで歩いていく。

 これまでも。

 これからも。

 

 

 

 



 


 

 

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ワン・フォー・ツー 真矢野優希 @murakamiS

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