秘められし赤
なな
秘められし赤
終わりに向かっていくような寂れたまちにも新年は訪れ、除夜の鐘も鳴り響く。ひとり夜道をゆっくりと歩く老婆にも、当然のように新しい年はやってきた。
ふと、老婆の足が止まる。いつの間にか、目の前に何者かが立っていた。
男だ。薄汚れた、暗い色のコートを着ている。男は老婆に両手を差し出していた。汚れた両の手のひらには、赤いお守り袋がひとつ。灯りがほとんど届かない夜闇の中であるというのに、その赤はぱっと目に飛び込んできた。男はそのまま微動だにしない。真意を問い質そうにも、それを許さない空気が滲み出ている。
老婆はひとつため息を吐き、赤いお守り袋を手に取った。視線が男から外れたのはほんの一瞬。けれど、その間に男は消えていた。
老婆は苦笑して、「最期の頼みぐらい、引き受けてやるかね」と、誰にともなく呟いた。
老婆は、幼い頃からこの世のものではないものが視えていた。そのためだけとはいえないが、家族とは疎遠になり、共に暮らすひともなく、友人といえる関係の人間もいないまま、先日八十を迎えた。
ひとり、アパートの一室を借りて暮らしている。北側の、陽の光も満足に入らない部屋で、男から受け取ったお守り袋をじっと視ていた。正確には、そのお守り袋に憑いている、赤い着物の女を。女の口からは、絶えず呪詛が吐き出されている。同時に、その呪詛を外へ漏らさないよう、淡い光がお守り袋にまとわりついている。
ふう。ひとつ息を吐くと、老婆はお守り袋を炬燵の上に置き、横になった。体中に、いやな痛みやしびれがまとわりついている。
もう長くない。そう医者に告げられ、治療を断り、どれだけ経ったのか。まさか新年を迎えることができるとは、医者も思ってはいなかっただろう。それでも、確実に肉体は動かなくなってきている。終わりへと向かっているのは事実で、それも遠くない。けれど、それを避けたいとは、どうしても思えなかった。すでに八十年も生きたのだ。これ以上生きても、いや、今まで生きてきたことすら、肯定して良いのかわからない。自信がない。何も、なにひとつ、この手にはない。
次第にうまく思考がはたらかなくなってきた老婆は、眠りの海へと漕ぎ出した。
いつもは揺られているだけの船は、今日に限って明確な夢を紡ぐ。老婆はとしごろの、若い女になり、幼馴染の青年との祝言を喜んでいた。けれど、祝言の日、女は斬り殺される。白い着物に染み込んでいく赤、赤、赤。幼馴染の青年が着物ごと女を抱きしめる。女を想う心と、殺した相手を憎む心が、赤とともに着物に染み込んでいく。恐ろしいほどの速度で、着物はそれを吸い取った。青年は着物の一部を持ち去り、怪しげな男を訪ねる。男は、その布を赤いお守り袋に。
暗闇に、赤い着物の女が揺れる。悲しみに耐えているようにも、恐ろしい憎しみを堪えているようにも視える。その顔が、こちらを振り向こうとして……
赤いお守り袋を持った人間たちが、現れては消えていった。お守り袋を持つと、しばらくは彼らに幸運が訪れる。しかし、幸運は長くは続かない。気づいたときには捨てることが許されず、幸運の反動は容赦なく持ち主に襲いかかった。それらは女の、あるいはあの青年の、あらゆるモノの意志とは関係のない、このお守り袋に課せられてしまった業だ。
突然の痛みに、老婆の意識が浮上する。いつの間にか眠っていたらしい。寝起きは体がうまく動かないが、今日はそれだけではない。鈍痛が全身を覆っていた。息も苦しく、脈も速い。老婆はやっとのことでお守り袋を、赤い着物の女をみた。
「あんた、あたしと一緒にこないかい? そんな風になってる、より」
それ以上は言葉にならず、老婆は終わりを悟った。それでも、最後の力で炬燵の上のお守り袋に手を伸ばす。必死の思いで握りしめた。古びたカーテンの隙間から落ちる光の中に、老婆を見下ろす女が視える。けれどその表情を確かめることができないまま、老婆の意識は深く深く落ちていった。
「ばあさん、なにがあった?」
「なんもないよ」
「なんもないわけがあるか。体の中の悪いもん、ぜーんぶなくなってるぞ」
「はん、それで検査費たっぷり取ろうって魂胆だろうがね、ビタ一文足りとも払わないよ。まぁ、払う金もないけどね」
「はいはい。でもな、ばあさん。あんた、運び込まれたとき、そのお守り、握りしめて離さなかったんだよ」
口を噤んだ老婆に何を思ったのか、医者は呆れた顔で病室を出て行った。残された老婆は、手の中にあったお守り袋をじっと視る。赤い着物の女は現れない。
病室に、新しい光が差し込んだ。あたたかく、やわらかく、すべてを許すかのように。
秘められし赤 なな @nano1257
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