第5話 置いて行かれる恐怖
平日、母が朝から翌朝まで働きに行く日は、いつも叔母の家に預けられた。叔母は苦手だったが、一つ年上の従姉が私には姉の様な存在だった。どんな寂しさも、姉と一緒なら忘れることができた。
だから大丈夫。そう、母に会えなくても。母と会話が成立しなくても。
しかしそんなある日、私は不用意な一言から姉を傷つけ、大喧嘩をしてしまった。姉に出てて行けと言われた私は、夜勤に出る前の母のいる家へと引き返す。
「ママぁーーーー。うぁああーーーーん」
鍵を持っていない私は、ドンドンと、玄関のドアを叩いた。中に母がいなかったら、このままどうなるのだろうか。それは、子どもだった私には、大きな恐怖だった。
「ママぁ、開けてよぅ。ママぁー」
泣きながらしばらく叩き続けると、中から寝起きの母が出て来る。
「なに、あんた」
「帰れって、帰れって言われたの」
「はぁ? あんたとしゃべってても意味わかんない。電話するからいいわ。もう、忙しいのに」
眠たさと、仕事に行く時間へのイライラで、母の不機嫌さは加速していく。それでも、私は母にただ縋りついた。
「ママぁ」
「分かったから、うるさい。静かにして。電話するんだから」
母はそう言うと、叔母に電話をかけ始めた。私は抱き着きたいのを我慢して、母の足元にしゃがみ込む。母は元から、私がベタベタするのが好きではなかった。手を繋ぐのも、いつも父の役目であり、母とはした思い出はない。
電話越しでも、母は不機嫌さを隠そうとはしなかった。
「ちょっと困るんだけど。そんなコト急に言われたって、あたしだって休めないし。はぁ? 知らないよー。もういいわ。じゃあね」
母はかなり怒った様子で受話器を叩きつけた。そして大きなため息をつき、私を睨みつける。
「あんたいい加減にしてよ。こんな忙しい時に。言っとくけど、今日なんて急に休めないんだからね」
「ママ?」
まくしたてるように言う母の言葉など、今の私には半分も理解できない。ただ怒られていることだけは伝わり、涙がぽろぽろ零れ落ちた。しかしそんな私を無視して、母は仕事に行く支度を始める。私は泣きながら、それを見ていることしか出来なかった。
「ママは仕事だから。そこに食べるものあるし、お留守番しといて」
「え? ママ?」
すでに窓の外は真っ暗だ。こんな時間に、一人で留守番などしたことなどない。それなのに、母は尋ねるわけでもなく、吐き捨てるように言うと、玄関で靴を履き始めた。
「ママ、ママ、やだ。置いて行かないで」
「あんたが悪いんでしょ。余計なこと言うから。全く、あたしもいい迷惑よ。家から出たらだめたからね。じゃあね」
母は振り返ることなく、泣いて立ち上がることも出来ない私を置いて、部屋の鍵を閉めた。
「やだぁぁぁぁぁぁ。ママぁぁぁぁー。やだ、置いて行かないでーー」
自分の耳にすら付くような大きな叫び声をあげても、玄関のドアが開くことはなかった。
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