変わってしまった彼と、太陽と。

 私が二十三歳になったとき、事件は起こった。


 はじまりはほんの些細なこと。女友達に「あなたのしていることはお節介で迷惑」と注意されたのだ。

 当時、大学生だった私は、仲たがいしている女子と男子の間に挟まれて、お互いを結びつけようと必死だった。お節介、というより 教授から出されたグループ課題を片づけるために必死で立ち回ったことが、女子の誤解を招いたのだった。

 そして、折悪くインフルエンザに罹り、熱に浮かされたへとへとの体でくだんのグループ課題にとりくんでいたら父から電話があった。

 体調を心配してくれるのかな、と内心すこし、期待していたら「お前、奨学金もらってたよな。貯めていたよな。その中から、百万円ぐらい都合つかないか。うちの商売、今、ちょっときつい局面なんだ」と言われた。

 私は、体調を気遣う一言がなにもなかったことにショックを受けながらも「いいよ。貸してあげる」と言った。

 そう言いながら目から反射的にぽろぽろと、涙がこぼれていた。

 林くんはタイミングが悪く、自動車免許をとるために九州の実家に帰ってしまっていた。

 全てが私を攻撃しているかのように感じた。入っていた旅行部の先輩からも「ねぇ、部活さぼりがちなの、なんで!?」と責め立てられた。

 私一人で受け止めるには、辛すぎる現実がいくつもいくつも立ちはだかって、だんだん、食べられなくなり、眠れなくなっていった。


 体重が四十五kgを切ったとき、生理が止まった。そして、しばらくすると、不正出血が止まらなくなった。


 毎日一、二時間の睡眠で、なんとかしていたが、口に出来るのがホットミルクだけになったとき、既に高校を卒業し、社会人になっていた親友は仕事の合間を縫って私の元に駆けつけてくれた。私のささやかなSOSをキャッチしてくれたのは親友だけだった。


 事情を話しながら、涙を流す私に「とにかく食べて。寝て。プリンなら食べられるよね?」ごめん、食べられない、と言う私の目の前で彼女は私の両親に電話した。


「福ちゃんをこれだけ追い詰めて、本当にあなたたちは何を考えているんですか。それでも子供の親ですか」


 ……両親は、親友からの電話でやっとことの重大さに気付いたらしい。


 その場で親友は、林くんにも電話をかけた。


「林くん。あなたが大変なのはわかってる。でも、あなたは福ちゃんを将来の伴侶にって考えているんでしょう? 今年、福ちゃんを親御さんに紹介する、田舎に連れていくって言ってたよね? 今、福ちゃんは 崖っぷちにいるよ。 未来の奥さんが死んでもいいって思うなら帰ってこなくていいけれど、そうじゃないなら、ぐ東京に戻ってきて!」


 ……私が言いたくても言えなかったことを親友は言った。私の目から壊れた水道管のように涙が次から次にあふれて止まらなかった。

 そして、親友が買ってきてくれたプリンやゼリーに少しずつ、本当に少しずつ、私は手を付けた。


 親友が買ってきた、五個ぐらいのプリンやゼリーのうち、二個はなんとか食べられた。でも、あとはやっぱり温かいミルクしかお腹には入らない。


「今、体重測ってみて」


 親友の命令に従って、私は体重計に乗った。体重は三十八kgになっていた。服を着たままだから、実際の体重は三十七kgぐらいなのかもしれない。


「食いしん坊の福ちゃんが、こんなになってしまうまで放っておいた、福ちゃんの家族や、友だちや、彼氏のことが私は本当に許せないーー。ね、福ちゃん。明日、一緒に病院にいこう。入院になっても、いいよね?」


 私は、うん。と頷いた。それしかないなら、体調が治るなら、我慢する。そう言った。親友は、ほっとしたような顔をした。


 やがて 父が、母が、帰ってきた。林くんは明日朝いちばんの飛行機で東京にかえってくることになった。事情を知った 両親の顔は蒼白をとおりこして 土気色に見えた。


「私が明日病院に付き添ってもいいのですが、出来たら 福ちゃんのお父さんか、お母さんが福ちゃんを病院に連れて行くのが話が早くていいと思うのですが、頼んでもよろしいですか?」


 中学時代からの付き合いだが、初めて見るたっぷりと険を含んだ親友の物言いに、父と母は顔を見合わせた。親友は静かに怒っていた。今ならわかる。怒れない私の代わりに、親友は怒ってくれていた。

 泣けない私の代わりにかつて、林くんが泣いてくれたように。


「明日、林くんが 九州から 東京に 来てくれるそうです。福ちゃんと彼を逢わせてあげてから、なるべく設備が整った病院に連れて行ってあげてください。よろしくお願いします」


 私は、そんな親友をぼうっとした目つきで見つめていた。御礼すらほとんど言えなかった。まだ取り掛かり中の大学の課題がある、と言ったら それと福ちゃんの命とどっちが大事なの? と言われて もうパソコンには触らないように、と言い含められた。 

 

 その夜、親友は私の手を握りながら、私が眠りにつくまで一緒にいてくれた。人の体温を感じたのは久しぶりで、私はやっと まとまった量の睡眠をとることが出来た。


 そして、翌朝、朝一番に林くんが家にやってきた。


 「ふく……ちゃん?」


 林くんは唖然とした顔をしていた。それほどまでに私は痩せ細り、やつれ切っていいたらしい。


 「どうしたの? 何があったの? 全部、俺に話してくれる?」


 優しい声。優しい体温。両親が、私を抱きしめる林くんを見て、涙を堪えている。私は あのね……と言って全てを話そうとしたが、言葉にならなかった。

ただ、ぐっと唇を噛んで、「会いたかった」とだけ 口にした。


 親友からのメールは 彼にも届いていたらしい。 彼は、私の大学の友達たちと 何やら電話口で話していた。言い争う、というより、諭すような口調だったのを覚えている。


 親友は彼と入れ替わりで「仕事があるから帰るね」と言って颯爽と帰っていった。


 ……今でも思うが、私に親友が居てくれなかったら、私は本当に死んでいたかもしれない。


 それぐらいぎりぎりの状態だった。両親と彼に付き添われて、私は都内の病院の精神科の診察室に入った。その場で身長と体重を測られ、問診され、事情を話すと、先生は「今、死にたいと思いますか?」と私の目を見ながら言った。


 私は 答えられなかった。


 ただ、目から大粒の涙を流して、「辛いです。生きているのが、辛いんです」とだけ、やっと言えた。


 そうして、私は 精神科の閉鎖病棟に入院した。 最初に出された 食事はどろどろの流動食で 食べるのが本当にきつかったが、食べないと退院は出来ないと言われて ひと匙 ひと匙、 その まずい食べ物を 少しずつ 少しずつ 口にした。


 両親が週に一回お見舞いにくるのだけが救いだった。


 そして、入院して出会った人たちから聞いた悲惨な身の上話が、少しだけ私を救ってくれた。 私より辛い思いをしている人たちがこれだけいる、という現実が私の心をわずかばかりだが、軽くしてくれた。


 私が退院できたのは夏だった。その間、林くんと連絡はとれなかった。病院の規則で、一親等の親族としか連絡はとれない決まりなのだ。私と林くんは、ほとんど婚約者と言っていい間柄だったし、指輪も貰っていたけれど、籍が入っているわけではないから、直截のやりとりは叶わなかった。


 約三か月間の入院。私は退院して早速、林くんに電話をした。ぷるるるる、と電話のコール音がする。 でも、彼はいつまでたっても電話に出なかった。


 忙しいのかな? そう思った私はメールに切り替えた。退院したよ。久しぶりに声が聴きたいな。私はそれだけの短いメールを打って、返信を待った。


 次の日、林くんからメールが届いていたので、私はわくわくしながら、ガラケー(当時はスマホなんてなくて、ガラケーの時代だったのだ)を開いてメールを確認した。そうしたら、


「ごめん、福ちゃんのこと 嫌いになったわけじゃないけれど、 やっぱり俺には受け止められない」


そう、メールには書いてあった。


私は、何度も、そのメールを読んだ。


たった、三十字前後の、その言の葉を、何度も、何度も見つめなおした。


私は また 電話をした。 だけど、コール音がするだけで 彼は電話に出ない。そう。そういうことなのだ。 文字通りだ。 彼は私を受け止められない。受け止めきれないのだ。


そのあと、私がしたこと。


処方された睡眠薬を 安定剤を 一日の限界量まで使って、とにかく眠った。


寝て、寝て、寝て、とにかく寝て。自分の中で限界、と思えるぐらいまで寝て。


そうやって時間をやり過ごした。


ーー彼と再会したのは、そのまた二年後の夏。卒業間際だった。


私は 彼に返すために合鍵を持ち歩いていたから、大学の図書館でばったりと再会した彼に「はい」とその銀色の鍵を渡した。


「ありがとうね。じゃあね」そう言って立ち去ろうとした私の腕をつかんで、彼は何かを言おうとした。何を言うのかと 疑問に思っていたら


「ホテルにいかない?」


と、言われた。 ……私の中で、体内にめぐる血がさあっと冷たくなったのがわかった。


私は でも 回復していたので、笑顔を作れた。きちんと、よそゆきの顔をつくって、


「林くん……変わっちゃったね」


と、だけ言った。


そして、立ち尽くす林くんを置き去りにして、真夏のキャンパスの、鬱蒼とした森の小道へと真っ直ぐに歩き出した。


未練はなかった。けれど、彼がかつてしてくれたことが確かに心の中にはある。

恩人が元カレになっただけ。


「結婚してなくて良かったー」


そんな、私のぼやきは 夏空に、灼けるような太陽に、真っ直ぐ吸い込まれていった。

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私の初めての彼氏と、雪と。 福倉 真世 @mayoi_cat

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