初めての彼氏と、雪と。

「何を見ているの?」

 と、彼が言ったので私は裸の体に毛布を巻きつけながら

「雪」

 と、応えた。


 曇天どんてんの空は変に明るくて、しんしんと降る雪は、みぞれ交じりで、綺麗なもの、というよりも寂しいもののように私の目に映った。


「ねえ、ふくちゃん。服を着るか、ここにおいで。そんな格好で窓際にいたら風邪をひいてしまうよ」


 私は彼を無視した。無視して雪を眺め続けた。


 ー……初めての時も雪だったな。


 私は思い出していた。

 団地の自転車置き場で、小学校二年生の時だった。

 降りしきる雪の中、私と、汚らしい浮浪者みたいな垢じみた男以外に人はいなかった。

 友達にクリスマスパーティーにお呼ばれした後だったのか。

 とにかく、夕方で凍るように寒くて。


 私の体に文字通り杭を打ち付けるように、抽送を繰り返す男を無理やり受け入れさせられながら。

 私は、かわいげなく、涙一つ零さずに、曇天から降り注ぐ粉雪を綺麗だなあ、と場違いなことを思いながらただただ眺めていた。


 私は自分自身のショーツを咥えさせされていたから声も息も出せなかったが、

 汚らしい名前もない男が吐く息は、湯気のように白かった。


 私は珍しくズボンじゃなく、スカートを履いていて、だから、下半身を全部脱がされずに済んでよかったなあ、と、やっぱり明後日あさってのことを考えていた。


 痛みはどこか遠く、私は遠い空の上から、犯されている自分自身と、私の上で腰を振り続ける男とを

 神様のような視点で眺めていた。


 男が、か細く吠えて、身体を震わせた瞬間に、どくどくどく、と自分の狭い器の中に、何かを注がれたのがわかった。

 生温かいその液体が私を満たすと、私は不意に幸福を感じた。

 それは完全なる不幸なはずなのに、雌としての本能なのか。それとも余りにも寒かったから、温かい体液を受け止めたことにほっとしただけなのか。

 幸福を感じた、その理由はわからない。

 考えても永遠に分からない、解けない問題というのは存在するのだ。

 それで 私の『初めて』は終わった。


 今、私の隣にいる『彼』は、私がレイプされた過去があることを知っている。私が話したからだ。


 彼は私が初めての相手だったし、私は若かったので、そういう経験があることを付き合っている相手にちゃんと話すのは、礼儀だと思い込んでいた。


「あ、でもHIVとか性病とかにはかかってなかったから安心して」


 ちゃんと検査したんだー。のほほんと言う私に彼はしんと、重たく、沈黙していた。


「高校生の時にね、保健所でHIVの検査して、今年の四月に二十歳になったから、献血するついでに全部調べてもらった。婦人科にもいったよ。性病も貰ってなかった。だから大丈夫」


 へらへらとだから大丈夫なんだよー、とほがらかに話した私に彼は言った。


「大丈夫じゃない……」

「へ?」

「全然、大丈夫じゃない!!」


 彼は大きな声で叫んで、拳をどん、と壁に打ち付けた。……彼、空手の黒帯持ってたはずだけど、大丈夫かな、壁。賃貸ちんたいですけど。と、また、ちょっとずれたことを考えていた私に彼は続けた。


「全然、全然、大丈夫じゃないよ……」

「え、あ? え? 何が大丈夫じゃないの?」


 彼の気持ちが全く理解できなかった私はオウム返しで彼に尋ねた。彼は涙にぬれた仔犬みたいな目で私を見た。

 なんでこの人、泣いてるんだろう。私は分からなかった。本気で、わからなかったのだ。


「君が! 大丈夫じゃないの!!」


 え? 私? 私がですか?


 次の瞬間、息が止まるぐらい強い力で抱きしめられていた。ぐぇ、と蛙みたいな声が出そうになったぐらいだった。彼の目からぼろぼろ、ぼろぼろ、涙がこぼれる。


「目の前にそいつが居たら、ぶっ殺してやるのに。それが出来ないのが悔しい」


 そうですか。殺しますか。そうですか。怖いですね。


 突然の殺害宣言さつがいせんげんに、内心ちょっと引きながら、「痛いよ、林くん」と私が声を出すと、彼は慌てて私を開放した。


 彼は子供が好きで、数学を専攻していて、小学校の教諭免許を取るための課程をとっていた。

 一浪していた私と違って現役合格していたし、同じ大学に通っているといっても、偏差値は彼の方がはるかに高いのではないだろうか? と、思われた。


 彼は はあ、とため息を吐いて「あのね ふくちゃん」と私に向き直った。


「君が体験したのは……いや、現在進行形で続いているのは、『乖離かいり』という状態だ。あまりに辛い体験をしたときに人間は、身体と心の回路を切り離してしまう。だから、自分自身に起こったことを、他人事のように感じているし、自分に起こったことなのに、空から眺めていたような気がする、なんて言うんだ」


「……そうなの?」


 きょとん。と、した目をしていたのだろう。泣き止んでいたはずの彼の目にまた涙が浮かぶ。


 私は理解できなかった。自分の理解の範疇外だったのだ。


 男の人に泣かれた事なんて初めてだったし。しかも、なんで泣かれているかさっぱりわからないし、しかも、一応、告白されて私はそれを受け入れたわけだから、彼は初めての恋人ということになるし、今、ことを致したら、私は処女ではないはずなのに久しぶりだったからか、出血してしまうし。なんだか彼--林くんに申し訳ないことばかりだ。


「ご、ごめんね、林くん」

 とりあえず謝ってみた私に、林くんはぶんぶんとかぶりを振った。


「君が謝る必要は一かけらもない。でも、聞きたい。君はなんで僕が泣いていると思ってるの?」


 超難問が出た。目の前の初彼が泣いている理由を述べよ。答え。情緒不安定だから。いや、それ言ったら怒られるな。なんて答えるのがベストアンサーなんだろ?


「……全然、わからないって顔してるね。そうだよね、わからないよね」


 林くんが、手でごしごしと顔を、流れ続ける涙をぬぐう。私は困ってしまった。こういう時何と答えるのが正解か分からないから、正直に「うん」とだけ言って彼の言葉を待った。


「君が泣かないから、泣けないから、僕が代わりに泣いているんだよ」


 ……はい?


 彼が動く気配がして、私は身を固くした。また、ものすごい力でハグされるのはご勘弁かんべん、と思ったのだ。

 だが、彼は、今度はまるで壊れ物を扱うように優しく私を抱きしめて、私のひたいに口づけを落とした。


「今はわからなくていい。でも、覚えておいて。君はそれだけひどいことをされたってこと。

 深すぎる傷を負ったとき、人はその傷の痛みから逃れるために、自分に麻酔をかけてしまう。

 本当は君は泣いた方がいいんだ。怒った方がいいんだ。

 あまりに辛すぎる現実に心が追い付いていないだけなんだよ」


 呪文じゅもんのように繰り返されるその言葉に、私はなんだかぼーっとしてきた。


「……そう、なのかな」

「そうなんだよ」


 私の裸の鎖骨さこつあたりに彼の生暖かい涙が落ちる。こんなに泣いてくれている彼に、私が差し出されるのは、からっぽの、もう汚れてしまっている肉体と、彼の言葉曰く『麻酔をかけている』心だけだ。

 それを非常に申し訳なく感じて、押しつぶされそうな責任感に、ちょっとだけ泣きそうになった。


「ごめん」

「謝らなくていいって!」


 彼は叫ぶように言う。私がびくっと身を震わせるとちょっと待ってて、と彼は言い残して、服をてきぱきと身に着けると、台所へと向かっていった。


 男の人の心理はよくわからない、と思って ただ成り行きを見守っていると、台所からじゅうじゅう音がした。


 ソースの焼けるいい匂い。


 私は、とりあえず、待った。なんかよくわからないけれど、私の初めての彼氏は、私に料理を作ってくれているらしい。それは何だか良いことのように思えた。若干お腹もすいてるし。


 十分ぐらいそうしていただろうか、林くんはお皿にてんこ盛りになった焼きそばとフォークを差し出しながら、言った。


「はい、焼きそば。俺、料理あんまりうまくないから、美味しくないかもしれないけれど食べて」


「うん……」


 食べない、という選択肢はなかった。私はおずおずと差し出された焼きそばを食べた。


 うん。確かに野菜が多すぎて、若干、ソースの味が足りない気がする。でも、優しい味だ。なんというか、彼の人柄を表している気もする。ふわっとした麺。ちょっと甘い、薄めのソースの味。沢山のもやしとキャベツと人参。そして、少しの豚小間。


「美味しい。美味しいよ。林くんも食べ……」


 林くんは、涙をたたえた目で私を見ている。今にもその切れ長の目からまた、透明なしずくがこぼれてきそうだ。


 私は、見なかったことにして、若干じゃっかん美味しくない、その焼きそばを口に運び続けた。


 そうして、今に至るわけですが――。


「ねえ、ふくちゃん。雪って、そんなに面白い?」


 林くんがちょっと、面白くなさそうに唇を尖らせながら言う。あの日から二年の時が経ち、私は二十二歳に、彼は二十歳になっていた。


 二年付き合って気が付いた。彼は若いからかもしれないが、自分自身に一番、注視してもらわないと、愛情を注いでもらわないと、むくれる傾向がある。


 私は雪を眺め続ける理由を言わない。初めてを奪われた日のことを、話すことはもうない。それは、繊細な林くんの心をやみくもに傷つけるだけだと、学んだから。


 それでも、私の中をノックするその衝撃的な光景は消えてくれない。そして、私は、林くんのためには泣けるようになったが、どうしても自分自身のために泣くことは出来ない。


 私の心の中の大切なものは、多分、処女膜と同時に、粉々に踏みにじられ、消えてしまったのかもしれない。その上を雪が覆い隠すように降ってくれたのは、せめてもの救いのように感じる。


「……神様っていると思う?」

 私は、雪を眺めながら、彼が今日も今日とて作った焼きそばの皿とフライパンを片づける算段を頭の中で考えながら、そんなことを言葉にする。


「……いないと思う」

 林くんは、そう言った。なんだか、その答えが意外な気がして、私は彼を首をかしげながら見つめてみた。


 彼は震える声で言った。


「もし、神様が居たら――居てくれたら、ふくちゃんは酷い目に遭ってない」


 ……嗚呼ああそうか。


 私は彼をにぶい、と思っていた。でも、とっくに見透みすかされいたんだ。


 私が降りしきる雪を眺めながら、何を考えていたか。何を思い出していたか。


 その瞬間だった。


 私の目から、ぽろ、と 何かが流れたのがわかった。


 --神様が居たら、ふくちゃんは、酷い目に遭ってない。


「あれ? あれ?」


 壊れた蛇口のように、私の目から、熱いものが溢れ出す。


 林くんに、負い目があった。綺麗な体じゃなくて、申し訳なかった。壊れてしまった心しか差し出せないことが心苦しかった。そして。


「どうしたの?」

 震える声で私を見つめる林くんの顔を私は見ることが出来ない。罪悪感ではちきれそうだった。


「私が--私なんかが、林くんの初めての彼女で、ごめんなさい」


 ごめんなさい、ごめん、ごめんなさい。

 私は、謝り続けていた。みぞれ交じりの雪はいつのまにか本降りになって、街を、線路を、覆いつくそうとしていた。

多分、もうすぐ電車が止まってしまう。その前に林くんの家を出て、両親が待っている実家に帰らなければならない。わかってはいる。でも、身体が動かない。その前に嗚咽おえつが、止まらなかった。


 林くんは、沈黙し--ほっとしたように言った。


「やっと、泣いてくれた」


 欲しかった言葉とは、違うけれど、と 前置きして、彼は 羽毛布団を 押し入れからひっぱりだした。

 少しほこりくさかったけれど、ふわふわと温かいそれに包まれながら、ぶるりと体を震わせると、彼の、林くんの腕がすっぽりと私を包んだ。


「ありがとう。僕の初めての彼女になってくれて」

「--私なんかが」


 私なんかが、私なんかが、と。うわ言のように繰り返すと、いいんだ、と林くんは言った。


「門限過ぎちゃうから、僕から、ふくちゃんの両親にメールを打っておくよ。だから、もう--寝ていいよ」


 ね、と 林くんは ぽんぽん、と私の裸の背中をたたく。


 確かに、たくさん、沢山、彼と身体を重ねて、そのあと焼きそばを食べて、あの日の、破瓜はかの日を思い出して、いっぱい泣いて、今日は疲れた。


 眠気の幕がするすると落ちていく。「おやすみ」と、優しい林くんの声がした。


 雪の中で、私はハリモグラのように 羽毛布団と、彼の体の包まれて、小さく丸まりながら柔らかい眠りに落ちていった。


 私の初めての彼氏が、私の長い髪をく気配がしている。男の人の手は、こんなに優しく、女の人に触れることが出来るんだなあ、と私は思う。


 知らなかった。知らないことだらけだ。

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