大使夫人、魅せられる。

 王后の成年式には、国内だけでなく諸外国の大使たちも招かれている。招待状を受け取って、彼らは色めきだった。

 ファランドール大使夫人エレオノール・リヴィエラ・ド・ナヴァールもその一人である。

 南に面した正殿に足を踏み入れると、エレオノールは感嘆の溜息をついた。

「瞳が零れてしまいそうだよ。私の仔鹿マ・ビシェット

 と夫のナヴァール伯は微笑む。

「だって、あなた」

 エレオノールの瞳が、あちらこちらと動く。

 回廊にはくまなくガラスがはめ込まれ、光をたっぷり集めている。

 初夏の日差しに照らされた天井の格子や、扉は漆がふんだんに塗られていた。

 二人の立つ床は、いくつかの木を組み合わせ、それぞれ違う色合いを映し出し、模様を描いている。

「まるで千夜一夜物語アラビアンナイトのよう。乳母が読んでくれた、おとぎ話そのものよ」

 と声を抑えながらもはしゃぐ妻に、ナヴァール伯は囁き返した。

「僕の奥さん。驚きをもって世界に触れる君は、永遠の冒険家だね」

「それは探究者の妻だからよ。愛しいあなた」

 小鳥のようなキスを贈り合いながら、エレオノールは嬉しく思った。

 やはり、自分たちには旅が似合う。

 夫は床をしげしげと眺めて「これは黒檀と花梨かな」と推理をし始める。

 その生き生きした眼差しがこんなにも愛しい。

 病気で十年も大使からの任から遠ざかっていたとは、誰も思うまい。

 子どもたちに反対されながらも極東の島国に来たおかげで、夫はかつての情熱を思い出したようだ。

「あなた、そろそろ陛下がメシマスルわ」

「おや、いつのまに御所ことばを習ったのだい」

「海軍卿夫人からよ。なかなかに面白いわ」

 そんな会話を交わしながら、各国の大使達のもとへ向かう。

 隣国のアルビオン王国やシュトルツ大公国の大使たちは、この国の滞在が長い。

 それに比べ、この春に来たばかりの自分達は、まだまだ宮廷事情に疎い。

 エレオノールは積極的に大使夫人たちとの噂話に混ざることにしていた。

「まあ、エレン。あなたたち夫妻は幸運よ。初の謁見が、王后陛下の成年式とあたるだなんて」

 と皮肉気に声をかけるのは、アルビオン王国大使夫人のメアリーだ。

 母同士が親戚で、幼い頃は姉妹同然で育ったものだから、エレオノールに遠慮がない。

「今上陛下はこれまでずっとお独りで謁見に出ていらしたの。あたくしたち、こんなに長くいるというのに、王后陛下のお姿をちらりとも見たことがないのよ」

 メアリーの減らず口は、娘を嫁に出しても変わらないようだ。

 エレオノールは肩をすくめる。

「もったいぶられると、意地でも見たくなるあなたには辛かったでしょうね。でも、あなただって自分の娘を十六歳になるまで人目にさらさなかったじゃないの。あの頃、あなたの手紙を読んでいるだけでヒステリーが移りそうだったわ。おお怖い」

「昔のことすぎて忘れたわ。それに、娘と王后陛下を同列に考えるなんて、おそれおおいことよ」

 メアリーは扇を広げてツンと顎をそらす。

 そして呆れているエレオノールに畳みかけた。

「言わせてもらいますけれど、我が偉大なる女王は十四歳から議会に出席していらしたわ」

「摂政付きでね」

「エレンッ」

「しっ。出御しゅつぎょの笛よ」

 奥宮殿と繋がる扉の両側で、習仕しゅうしの少年が横笛を吹く。短い一節を奏でて、そのまま彼らは深くお辞儀をした。

聖上陛下せいじょうへいかのお出ましです」

 少年のよく通る声が正殿に満ち、ざわめきが静まる。

 やがて扉が開き、侍従武官を従えた今上帝が姿を現した。

 賓客たちは一斉に頭を垂れる。

 ゆっくりと真紅の絨毯を進んでいく気配を、各国の大使だけでなく、国内の貴族までもが胸躍らせてうかがっている。

 おしゃべりなメアリーは、ひっそりとエレオノールの腕を小突く。

「おひとりだわ」

 足音も影もひとつだけだ。

 許しを得て頭を上げれば、やはり玉座にいるのは青年王のみ。

 彼の隣に、極東の王后を探したのはメアリーだけではなかったらしい。

 賓客たちの視線を、今年二十歳になる青年王は澄んだ眼差しで受け止めた。

 エレオノールは彼の瞳の美しさに、思わず溜息を漏らす。

 極上の紫に金の虹彩が散る、この国の皇帝だけが持つ彩り。それは、星が降り注ぐ夜空を思わせた。

 次に正殿に流れたのは、リュートの音色だった。

 エレオノールだけでなく、西洋の者は一瞬皆そう思っただろう。そして、すぐにリュートではないと認識をあらためる。

 先ほど習仕が居た場所に、二人の宮妓が控えていた。

 彼女たちは、エンパイア・スタイルのドレスに長いショールを纏い、綴れ織りのカーペットの上に座っている。

 その膝には、卵を縦に半分に割ったような形の楽器が置かれていた。

 しかしリュートのように糸倉ヘッドが直角に後ろに曲がった形ではない。

 糸倉は真っすぐ伸び、弦は五本。紫檀に螺鈿細工が施され、草花が軽やかに咲き、駱駝の背でウードを弾く西胡人が描かれている。

 宮妓たちは付け爪で弦を弾き、軽やかな音色を響かせる。その音律は甘く柔らかく天上に舞い上がっていく。

 人がひしめく正殿に、たまゆらの風が吹き抜ける。

 ふと、二人の宮妓の間を、ひとりの少女がゆったりとすり抜けた。

 誰もが、楽の音に誘われて花の妖精が降り立ったのだと信じて疑わなかった。

 ここは神秘に包まれた極東。言葉や舞楽でカミと交歓する国。

 その稀なるすべは、ファランドールやアルビオンで発達している魔法とは一線を画すものだ。

 可憐な妖精は衆目をものともせず、純白の裾を揺らしながら真っ直ぐに玉座へ向かっていく。

 一歩すすむたびに、長いヴェールがゆるやかに波打った。

 結い上げた黒髪を飾るのは、オレンジブロッサムの花冠とそのヴェールのみ。

 十八フィート(五メートル以上)はあろうか。かろやかで繊細な刺繍が咲いている。

 長いながいトレーンを捧げ持つのは、これまた可愛らしい六人の子どもたちだ。

 六歳から十歳ぐらいまでの天使たちの姿に、エレオノールは思わず頬を綻ばせる。

「ねえ、エレン。王后陛下のブローチを見た?」

 と、メアリーがエレオノールの袖をひく。

 王后が純白のドレスで現れたものだから、メアリーはすっかり娘気分に戻ってしまったらしい。

 しかしそれはエレオノールも同じだ。

「見ましたとも。とても見事なスルタナイトね」

 スルタナイトはシャラム帝国でしか採れない宝石だ。皇帝サルタンから王后へ贈られたものだろう。

 確信をもって頷けば、メアリーがうっとりと溜息をつく。

「なんて美しいのかしら」

「母上すごいや。あれ一粒で最新の蒸気戦艦三百隻が買えるよ」

 口笛を吹いて茶化しながら、メアリーのとなりに背の高い青年が並んだ。

「ピーター! あなた、また列を離れて!」

 メアリーは必死に声をひそめて末息子を叱った。

「おば上、王后陛下のお顔はどんなだと思う?」

 母の怒りなど、どこ吹く風のようだ。自由なピーターの問いかけに、エレオノールは苦笑した。

「きっとお美しいわ。まるで白藤の妖精のようだもの」

「どうかな。僕は絵でみたけど、ハミ瓜みたいな顔に鉤鼻がくっついていた」

 とまじめな様子で返すので、エレオノールは笑ってしまう。

 メアリーは自分の皮肉屋ぶりを棚に上げピーターの腕をつねった。

「それ以上お喋りしたら本国に帰しますよ。ええ、あなたの兄上にしっかりとお手紙を書いてね」

 途端にピーターは黙り込む。彼が見たのはおそらく『物語絵巻』だろう。

 この国の女性は、黒髪を身の丈より長くのばし、幾重も衣をかさねて奥向きから出ないことが殆どだという。夫以外には顔も見せないことが当たり前なのだ。

 けれど、これからはそうはいかない。優れた外交をするためには、妻の存在が不可欠である。

 王后はそのさきがけとなって、西洋列強と渡り合っていかなくてはならない。


 さざ波が広がり、ついに大きな騒めきに変わる頃、王后は玉座の一歩手前で歩みを止めた。

 ヴェールの内側から、手袋に包まれたたおやかな御手が伸ばされる。

 この国独自の最高礼は、あたかも花神が舞い踊るようだ。

 今上帝は満足げに王后の手をとり、唇を寄せる。優雅で洗練された身のこなしとは裏腹に、青年の目元はうっすら赤く染まっていた。

 愛おしげに王后を見つめる眼差しから、彼がどれだけ今日という日を待ち望んだかが伝わってくる。

 彼はそのまま促すように賓客へ目線を向けた。

 ふうわりとヴェールが翻り、とうとう賓客と王后の視線が交わった。あらわれた花のかんばせに、エレオノールは魅入った。


 十六歳の王后は初々しい煌きに満ちていた。

 顔立ちはまだあどけなさがあるものの、浮かべる表情には知性と落ち着きがそなわっている。

 異国の大人たちを、ゆっくりと見つめかえす余裕もあるようだ。

 王后は裾をつまみ、淑女の礼をとった。それはとても優美な仕草で、彼女が異国のマナーを身につけるために、並々ならぬ努力を重ねていたことがうかがえた。

 ゆったりと顔を上げた王后は賓客に微笑みかけ、その可憐な唇を開いた。


『ごきげんよう、みなさん。今日はどうぞ楽しんでください』


 少女が口にしたのは、欧州宮廷の公用語であるファランドール語であった。

 翠の瞳を輝かせながら、王后は賓客達を言祝ぐ。少したどたどしい発音ながらも、彼女の挨拶は胸に響くものがあった。

 彼女の傍らに立った夫が、その細い肩を抱いた。青年の瞳が、悪戯をしかける子どものようにきらめいた。

『今日は私たちにとって新たなる船出となる。この場にいる者たちに、宣誓の証人となってもらいたい』

 と、若き帝が流暢なファランドール語で話し出す。それまで穏やかに見守っていた大臣が目を見ひらいて固まった。

 どうやら、彼らの主君は予定にない催しをするつもりのようだ。

 帝は王后の左手を取り、その薬指に青くきらめく指輪をはめた。

 繊細な台座の上にあるのは、切子細工が施された色硝子だ。ブルーダイヤモンドにも勝る艶と輝きである。

『今日この日より、私はこの王后を妻とし、生涯かけて守り幸せにすると誓う』

 と言い、王后の耳元で何ごとかを囁く。すると、王后の頬が林檎のように真っ赤になった。

 帝は妻の頬をやわらかく撫で、その額にキスを落とした。そして、彼女の手のひらに同じ切子細工の指輪を渡す。

 王后は震える手で、夫の左手をとり、薬指にゆっくりと指輪をはめた。

 若い夫婦の手に、二つの青いきらめきが灯る。

 王后は、瞳をうるませながらもはっきりと微笑んだ。

『わたくしも、この方を夫と慕い、生涯かけてお支えすることを誓います』

 次の瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が、若い帝と后を包み込む。エレオノールもまた、涙を流しながら手を叩いた。


 やがて王后の家庭教師となったエレオノールはこの日の感激を回顧録に残している。

 はじまりは、政略で結ばれた帝と后であった。ままごとのような夫婦と揶揄されつつ、彼らは過ごした歳月のなかでお互いを知り、本気で愛し合うようになったのだ。

 想い想われ、大切にし合う夫婦のもと、この国はあかるい未来を築いていくだろう。

 何か一つ古いもの。何か一つ借りたもの。何か一つ新しいもの。そして、何か一つ青いもの。四つの幸福を、胸に抱いて。


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そして王后は四つの幸福を得る 俤やえの @sakoron

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