涯の少年

陸 理明

とあるグループホームにて



 グループホーム「養老の郷」に、彼がやってきたのはある夏の日のことだった。

 最近、認知症が進行し、ことさら外を出歩きたがる入居者がいるため、厳重にチェーンが巻かれ、二重のロックがついている扉を慣れた手つきで管理者の近藤マミは開けた。

 そして、少しだけ驚いた。

 インターホンを使って来訪を告げた客が、自分よりも背の低い子供だったからだ。

 見たところ、十歳ほど。

 小学校高学年にはなっていないだろうと、マミは判断した。


「何か、ご用?」


 できるかぎり優しい声を出してみた。

 高齢の入居者を相手にするよりも、少しだけ穏やかに。

 最近は接する相手が耳の遠い年寄りばかりということもあり、子供にどういう風に対応すべきか思い出すのに時間がかかりそうだったからだ。

 いかにも猫なで声の自覚はある。


「―――人に会いに来ました」


 彼―――は、そう言った。

 丁寧に櫛の入れられた黒髪とやや赤みのある頬、キメの細かい肌をもったいかにも育ちの良さそうな男の子だった。

 きちんとアイロンのかけられたシャツと半ズボン、お洒落感のあるベスト、それにワックスで磨かれた革靴という、よそ行きのお出掛けスタイルというのが良い家庭の出身のようだ。

 にこりと笑う顔も人好きがする。

 マミも思わずできる限りで最高の笑顔を返してしまった。

 生き返る。

 そんな風にさえ感じた。

 高齢者向けの施設にはよくあることだが、室内に漂う老いの臭いと死の香り、その二つを嗅ぎ続けた彼女にとってこの男の子の存在は一服の清涼剤のようでさえあった。


「えっと、あ、入居者さんのお孫さん?」

「いいえ。近所に住んでいたことがあります。こちらで元気にされているとうかがって、一度だけでも会いたいと思ってきました」


 マミは少し顔をしかめた。

 家族ではないのか。

 そういう場合はどうするべきだったかな。

 基本的にこの手の施設には入居者の家族以外は顔を出したりはしないものだ。

 例外的にかつての友人とかはあるが、まったく関係ないとなると認知症の老人をだますために近づく悪徳な業者であることもあり、家族の許可なしでは合わせたりはしないものである。

 ただ、元近所の子供が訪ねてくるなんてことはこれまで見たことも聞いたこともない。


「うんと、普通はそういうのダメなのよね。……ちなみに聞くけど、どなたを尋ねてきたの?」

「田之中苗さんです」

「―――たのなか? ……えっと、そういう苗字の方はいないんだけど」

「あ、すいません。苗字は大庭さんでした」

「大庭さん?」


 確かに大庭苗という入居者はいる。

 今年で85歳にになる要介護認定5の寝たきりのお婆さんだ。

 そろそろお迎えが近いかもしれないということでお看取りの契約も済ませてあるから、おそらく大往生はこの「養老の郷」になるだろう。

 大庭さんの知り合いというのなら、もう死期が近いということでやってきても不思議ではない。

 ただ、本人はさっき食事介護をしたあとで眠ってしまっていた。

 客が来たからといって起こすのは可哀想だ。


「大庭さん、さっきご飯を食べてから寝てしまってお話とかはできないのよ」

「構いません。苗お婆さんに会わせていただけませんか」


 マミは少し悩んだ。

 この男の子は誠実そうで真面目な感じだ。

 眠ってしまった老女に何かをしでかすようには見えない。

 管理者権限で引き合わせてあげてもいいような気がする。

 このグループホームにはほかに8人の入居者がいるが、彼らにとっても悪いことではないだろうし。

 結論として、マミは男の子を施設の中に招き入れた。

 害はないだろうと判断してのことだ。

 とても例外的だが、最悪の場合、彼女が運営会社の役員に叱られればいいだけのことだ。

 デフレ期にできた施設だけあって給料はあまりよくないし、待遇もいいとはいえない会社だから理不尽なことを言われたら辞めてしまってもいいという判断もあった。

 今どきこの手の介護福祉施設なんて職員は引手あまただ。

 さっさと辞めても次の職場は幾らでもある。


「いいわ、入りなさい」

「ありがとうございます」

「大庭さんのお部屋はこっち」


 それほど大きくもない施設だ。

 一階の端にある「大庭苗」の部屋にもすぐに案内できた。

 就寝時以外はなにかあったときのために開けっぱなしにしてある部屋の外から老女が静かに眠りについているのがわかった。


「大庭さん、寝ているけどいいの?」

「大丈夫です。起きるまで待ってます」

「高齢者ってずっと寝ているけど、子供には退屈な時間よ」

「慣れてますから」


 そう言って微笑まれては何も言えない。

 部屋の中に入っていき、用意された椅子に腰かけると男の子はじっと大庭苗の顔を見た。

 特に変な気は起こしそうもないと思ったので、とりあえずマミは部屋を出た。

 管理者の彼女にはほかにしなければならないことが沢山あるのだ。

 食堂兼広間となっている部屋に行くと、さっきの男の子を目敏く見つけていたのか、数人の入居者が声をかけてきたが適当に誤魔化した。

 彼らからしても珍しいのだろう。

 家族が訪ねてくるのも珍しい場所だ。

 しかも家族といってももう初老になった実の子とかばかりで、あんな年頃の本当の子供がやってくることなどかなり稀な出来事である。

 気になるのだろう。

 とはいえ大庭苗のプライバシーにかかわることをおいそれと口にはできない。

 マミはさっさと切り上げて事務用の机に戻り、管理者として必要な書類へ目を通し始めた。

 夕飯の支度が始まる前にしなければならないことはたんとある。

 さっきの男の子のことは気になるが、あまりのんびりとはしていられない。

 ―――しばらく仕事をしていると、「大庭苗」という個人のファイルが目に入った。

 何気なくそれを手にとり、パラパラとめくった。

 本当に何も考えていない行動だったが、ある書類に目が釘付けになった。

 それは大庭苗という老女の入居した年についてであった。

 平成2○年○月1日とあった。

 今から七年前。

 かなりの古株だ。

 頭が殴られたようなショックを覚えた。

 マミが管理者になったのは今年のことだったせいですぐには気が付かなかったが、大庭苗の入居が七年前だとすれば、少なくとも彼女はその頃までは自分の家にいたはずである。

 あの男の子の証言通りに近所にいたとしても、それは最低でも五年前。

 彼はまだ十歳ほどの見た目であるということは、大庭苗と知り合っていたとしても三歳か四歳ぐらい。

 いくらなんでも死期が近いからといってわざわざ訪ねてくる関係が築けていたとは思い難い。

 いや、ありえないといってもいい。

 では彼はなんのためにここにやってきたのか。

 弾かれるようにマミは立ち上がると急いで大庭苗の部屋へと向かった。

 戸が閉まっていた。

 普通なら常時開けることになっている戸が。

 変な予感がして、一気に開け放った。

 男の子は静かに立っていた。

 その手を老女が握っていた。

 眼に涙を浮かべて。

 口元は歓喜につりあがっていた。


「―――久彌ひさやさん、久彌さん」


 大庭苗は男性のものらしい名をぶつぶつと呟いていた。

 入れ歯だらけの口は普段はそれほどはっきりとものをいうことはない。

 涙がとめどなく零れていた。

 滂沱、というのが相応しいぐらいに。


「久彌さん、久彌さん」


 その必死の声に対し、男の子は優しく応えた。


「どうしたんだい、苗。そんな風に泣いていちゃ子供みたいだよ」


 とても十歳の男の子のものとは思えない語り口調であった。

 まるで酸いも甘いも噛み分けた好々爺のような。


「久彌さんが……久彌さんが……帰ってきてくれたのですね。―――久彌さんが」

「ああ、僕は帰ってきたよ。昔のままさ。でも、苗は変わらないね。子供みたいにそんなに泣いたりして」

「……だって、だって」

「苗がそんな風だから僕は心配して帰ってきたんだよ。そんなんじゃあ、立派な女性になれないじゃないか」

「苗は、苗は、久彌さんが帰ってきてくれただけで嬉しいのです……」

「うん、そうだね。僕は帰ってきたよ。きちんとね」

「久彌さん……」


 最後にぎゅっと強く握りしめて(とはいえ老女だ、そんなに強くはない)、大庭苗は再びさっきまでと同様に眠りについた。

 目覚めたときにこのことを覚えているかどうかは、認知症の有無にかかわらず定かではない、まるで亡くなるかのような眠り方だった。

 思わず駆け寄ろうとしたミナを制したのは男の子だった。


「大丈夫だ。苗は普通に寝ただけさ」


 男の子はついさきほどまでとはまったく異なる無表情を保っていた。

 とても十歳―――見た目そのものの年齢とは思えない。


「……あ、あなた、


 口に出たのはそんな疑問。

 しかし、紛れもなく最も知りたい疑問であった。

 被っていた猫を脱いだどころか、まるっきり別人になってしまったようであった。

 いや、むしろ、この変貌は―――


(いきなり年をとったみたいな……)


 眼前の男の子はマミをはるかに超えた年寄りのようにさえ思えてしまった。


「僕はこの娘の幼馴染さ。十歳まで近所で一緒だった」

「えっ!?」


 マミには聞いていることが理解できない。

 この男の子は何を言い出しているのだろう。


「十一になる頃だ。僕は浮浪児として、人攫いに捕まって売られた。売られた先は変な研究施設だった。それで、こことここをいじられたんだ」


 久彌というらしい男の子は人差し指で自分の頭蓋骨の二カ所を叩いた。


「当時はまだ色んな研究が盛んにおこなわれていてね、中には人の成長を止めるためにホルモンの発生を抑止するというものがあったんだ。最近では、成長を促進することで家畜やら作物やらを早く大きくさせるために行われているものの逆の位置かな。よく考えればわかるけれど、生物の成長を止めたって本来は何の意味もない。だから、今となっては表立って使われることのない研究成果だ。でも、七十年前は普通に使われていたんだよ。―――なんのためか、わかるかい?」

「……さ、さあ」

「その研究は、幼生固定ネオテニーを人工的に産みだすためのものだった。ネオテニーというのは性的に完全に成熟した個体でありながら非生殖器官に未成熟な、要するに子供としての性質が残る現象のことをいうのさ。つまりは子供の姿をした大人をつくること、裏返せば子供のままで成長を止めることだ。大人になれない子供をわざわざ作るなんて、まともな経済的には損失だろ。ただね、そういう永遠に年を取らない子供にも需要があるんだよ」


 久彌はそっと手を伸ばした。

 マミの手の甲に触れた。

 途端に今までに感じたことのない快感が走った。

 触っただけで、しかも何もしているようにも見えないのに。


「うまいもんだろ。触れた瞬間にほんの少し撫でるんだ。それだけで女も男も昂ぶらせることができる。でも、こんなものは僕が教え込まれた技術のほんのさわりに過ぎない。僕はね、閨でだったらどんな相手でもものの数分で絶頂に導くことができるように躾けられた―――性童隷セクシャルドレンにされたんだよ」


 白い繊手が頬の触れるだけでマミはいいようのない心地よさを覚えていく。

 それはすべてこの子供のしていることなのだ。

 同時に吐き気を催す不気味さもあった。


「十歳の見た目のまま固定され、大人の欲望の吐きだし口として何十人もの主人のもとを売買譲渡されて、気が付いたら七十年も経っていた。その間、僕がどういう風に生きて何を考えていたかなんか、君に説明する必要はないだろう」


 不意に産毛だけでかすかに感じていた感触が消えた。

 その掌は優しく寝たきりの老女のものに添えられていた。


「―――よく待っていてくれたね、苗。僕は君のことさえ忘れかけていたというのに。でも、君は僕を覚えていてくれたんだ」


 久彌はもう一度だけ大庭苗―――いや、彼にとっては田之中苗の手を握ると小さく囁いた。


「汚れきった僕には他人に対してのどんな想いももう見当たらないけれど、君がずっと待っていてくれたことだけは記憶しておくから。じゃあね、さようなら」


 男の子―――の皮を被った恐ろしい妖魅のような生き物は音も立てずに室内を去っていった。

 これまでマミが出会ってきたどんなものも、彼にはきっと及ばない。

 あれは、本当に、化け物だったのだろう。

 かすかな寝息をあげる老女の顔を見た。

 認知症のせいで昔のことしか思い出せなくなっている彼女はとても幸せそうだった。


「―――子供の頃の想いだけをもって旅立てたら、誰が何と言おうと幸せなのかもしれないのね」


 少しだけ乱れた毛布を掛け直してからマミは部屋を後にした。







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涯の少年 陸 理明 @kuga-michiaki

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