池に指輪を落としたら
烏川 ハル
池に指輪を落としたら
口うるさい妻から逃げるようにして、近所の池で過ごす。それが休日の恒例行事であり、あの日も私はバス・フィッシングを楽しんでいた。
晴れ渡った青空の下、日頃の鬱憤やモヤモヤを投げ捨てるような勢いで、ルアーを水面へキャスト。魚が食いついてくれたら、そうしたネガティブも一緒に食べられて、消え失せるような気分になるのだった。
バス・フィッシングなのでキャッチ・アンド・リリースであり、釣り上げた魚はその場で放流。この日も当然そうしていたが……。
バシャバシャと激しく音を立てて、水中へ帰って行くブラックバス。それと重なるようにして、ポチャンと小さな水音が聞こえた。
「何か落としたかな?」
どうせ小さな釣り道具だろう。少しもったいないが、買い直せば済む話なので、焦りもしなかった。
しかし。
ふと自分の左手に目をやって、そんな余裕は吹き飛んだ。
薬指にはめていたはずの、結婚指輪がない!
魚を逃す際、指にぶつかって外れたに違いない。
……と原因を今さら考えるのは現実逃避だ。大事なのは、この失態をどうリカバリーするか、ということだった。
このまま帰宅して「指輪、池に落としちゃった。ごめん」なんて言おうものなら、妻がどんな態度を示すか。想像するだけでも怖くて、背筋が震えてきた。
とりあえず、池に落ちたことは確実だが、海や川と違って流される心配はなかった。底まで見えるほど澄んだ池ではなく、正確な場所はわからないが、きっと近くに沈んでいるはず。
自分では冷静なつもりで色々考えながら、私はルアーを交換する。水面を泳がせるタイプから、
重いオモリと大きなハリを、軽くキャストする。
遠くではなく近くに。
この辺りに指輪が落ちたのだろう、という範囲に。
ルアーを投げて、リールを巻いて、それをひたすら繰り返す。魚ではなく、落とした指輪を釣り上げるために。
いくら近くに落ちたとはいえ、探るべき領域はそれなりに広く、小さな指輪を釣り上げるのは難しかった。それでも可能性がゼロでない以上、諦めるわけにはいかなかった。
やがて、不思議な手応えがあった。
ルアーが何かに引っ掛かったのだ。
一瞬、根掛かりしたのかと思ったが、そうではない。ずっしりと重い感触ながらも、一応はリールを巻くことが出来る。
水中の流木に引っ掛かった場合に似ているが、それとも少し違う。無機物ではなく生き物のように、自発的に動いている感じだ。魚が泳いで暴れるほど激しくはなく、亀が釣られてしまった時の動きに近いが、明らかに亀よりも大きな物体だ。初めての感触だった。
少しすると、ザバーッと水面から浮かび上がってきた。
びしょびしょに濡れた、白い服の女性だ。水の中にいた時点で普通の人間ではないし、白い服といえば幽霊を連想したり、濡れた女といえば「ぐっしょりとシートが濡れて、女は消えていたのです!」みたいな怪談を思い出したりもするが……。
一般的に、そうしたお化けは、長い黒髪の日本女性というイメージだろう。一方、池から出てきた彼女は、ボブカットくらいの金髪碧眼。頭の上には
彼女は無言で肩に手を伸ばし、少し服を破きながら、引っ掛かっていたルアーを強引に毟り取った。両手で顔を
「あなたが落としたのは金の指輪ですか、それとも銀の指輪ですか?」
いつのまにか彼女は、手のひらに指輪をのせていた。右手に金の指輪、左手に銀の指輪だ。
どちらもピカピカと輝いており、単なる金色・銀色ではなく、素材からして純金製・純銀製なのが見て取れた。
私の結婚指輪も銀色だが、光沢もデザインも、彼女の手の上の指輪とは全く違う。しかも、よく見れば……。
「どちらも違います。ただの結婚指輪です」
「正直なあなたには、金の指輪と銀の指輪、両方とも差し上げましょう」
「どちらもいりませんから、結婚指輪を返してください。それです」
私がビシッと指を突きつけた先は、彼女の左手の薬指。あろうことか、池の中から現れた女性は、私の結婚指輪を指にはめていたのだ!
「あら残念。これ、私も気に入ったのに……」
着服する気満々だったらしい。それでも、渋々といった表情で指輪を外して、私に返してくれた。
「では、ごきげんよう」
軽く手を振りながら、水の中へ沈んでいく。
それを見届けて、私は帰り支度を始めた。
あれはこの池の女神か何かだったのだろう、と思いながら。
こうして、紛失事件は無事、解決したはずだったが……。
その夜、ベッドの中で妻が激怒した。
「指輪から別の女の匂いがするじゃないの! どういうこと? 大事な結婚指輪なのに!」
(「池に指輪を落としたら」完)
池に指輪を落としたら 烏川 ハル @haru_karasugawa
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