(九)

     (九)


 パレットナイフを握っていた。

 真っ白な長方形が暗闇に浮かびあがっている。

 再度の逃避を許可しなかった脳は、今度はあのころの妹を抹消した。それは今、たしかに実存している妹を認めた証。

 呼び戻したのは復讐のため? それとも……。

 しかしそんな問いは、すぐに霧散した。

 どっちでもいい。まず謝りたかった。近くにいて遠くに追いやっていた彼女に……。

 怖れがないわけではなかった。だが思い返してみて―――、

 対面したときの緊張をともなった微笑み……あのころと同じ、まったく邪気の感じられなかった瞳に、怨恨の色は露ほども感じなかった。

 ……許してくれるはず。

 キャンバスを持って廊下に出た。

 今度は記憶のものではなく後ろ姿のものでもない、あれから五年の歳月を経て、すっかり大人っぽくなった彼女を描こう。

 キャンバスの白絵具が乾くまで時間はかかる。でもいい。その間、今まで通り彼女とおしゃべりに花を咲かせよう。依頼人と雇われの関係ではなく、妹と姉という間柄で。……そう、塚井さんも一緒に。

 話すことはたくさんある。五年分を埋めるには、乾燥時間だけでは足りないかもしれない。

 闇の底のように感じていた階下は、明るかった。照明のせいでないことは断言できる。

 あのころのように庭に出て描くのもいいかもしれない。

 真っ白なキャンバスに、はてしないイメージがわいていた。

 段差にゆっくりと片足をおろした。磨かれた踏板は、ほのかに温かかった。


                                〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

後ろ向きの邂逅 tonop @tonop

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ