終章


 光が満ちている。見上げる天井の隅に至るまでびっしりと彩られた精緻な文様に石が埋め込まれていた。到底数えられる数ではない。優美な曲線を描いて天へと伸びる植物の意匠。その葉脈や蕾や花弁の先に淡く光を放つ石がある。巨大なドーム天井は中央に明かり取りの窓があって、その縁を飾るさざれの石が本物の星のようにちらちらとまたたいていた。床を這う幾何学模様もその交点ごとに石が並べられ、円を描いている。埋め込まれた石はすべて術石で、どれもが魔力を満杯にはらんで薄青く光を放っていた。

「……圧巻だな」

 イチカがつぶやく。空気そのものが青みを帯びたように部屋中そこかしこで光が明滅しているさまは到底現実とは思えず、どこか酔いそうな雰囲気だった。

「気分は悪くないか」

 朗々とした声が響く。視線だけをやればこの部屋の、ひいてはこの国を統べる男の姿がある。今日も今日とて全身をとりどりの術石で飾ったきらきらしい出で立ちだ。頭に巻いた布には大きな金細工の留め具。その中央で赤ん坊の拳ほどもありそうな琥珀色の術石がその存在を誇示していた。

「目が痛い以外は特に」

 ちらちらと常に視界のどこかが光を放っているのはひどく落ち着かない心地がすると言えば、パンジュは片眉を持ち上げてなるほどとつぶやく。

「本当におぬしは魔力が無いのだな」

 イチカはわずか眉根を寄せてその言葉の意味を問うた。

「全部術石だ。高純度大容量のな。そうそうここまでの魔力圧にお目にかかることはなかろうよ」

 ゆえにこの空間でまっとうに立っているのもなかなかに苦痛なのだと言って、パンジュは背後を示した。そこには大きな長椅子が何脚かしつらえられ、今はファランドールがけだるげに体を預けていた。こめかみに手をやり、眉間にしわを寄せている。気休めに傍らには薄荷茶が出されているが、手はつけていないようだった。

「あれが普通だ」

 スノウと初めて会ったときに同じようなことを言われた覚えがある。どれほど周囲の魔力圧を上げても動じないイチカに呆れているんだか感心しているんだかわからない声を上げていた。

「やはりおぬしは首府に行くべきではないな。きっとスノウだけでなくおぬしも色々いじくり回されるだろうよ」

「魔力がないのに?」

「ないからだ。スノウの魂はおぬしにつながっておる。おぬしなくして生きてはおれぬ。だが、おぬしに魔力を生成する能力が一切ないとなればその魔力はどこから来るのか、という話になり、回り回って人造生命だの新型の回路術式だのの基礎研究につながる」

 そのためには研究標本としてイチカが必要になる。本当に魔力を生成する能力がないのか、あるいは感覚が塞がれているだけなのか、術石での底上げが可能なのか。めったにない人材の組み合わせだ。魔術研究の人間が手放すはずがないとパンジュは皮肉げに笑った。イチカはため息をつく。

「まったくわからん」

 昔から魔術にかかわることは理解も想像もできない話ばかりだ。この部屋の空気は確かに息苦しい気はするが、それは単純に換気が悪いだけだろうとしか思えない。

「ファランドールの反応が普通ならあんたは何で平気なんだ」

「わしは、ほれ」

 男が両腕を広げてみせる。肩口から斜めに術石を連ねた房飾りが光った。

「干渉されぬようにあらかじめ支度をしておるからな」

「この間聞き損ねたが、あんたも魔術師なのか」

 一国を率いる人間にこう気安い物言いをしていいのかとは思ったが、すぐにどうでもよくなった。気にする類いの人間ならそもそもこういった振る舞いはしないだろう。スノウの話を聞く限り、彼が口にする誠意は本物らしかった。

「多少の知識と技術はあるが専門ではないな。素質があるわけでもない。仮に魔術師になるとして、せいぜいが中の下程度であろうよ」

 魔術師の七等級のうち四級がせいぜいだろう。イチカの知る守人の中ではソルレアルが一番魔術の能力が高いと言って、男の指が胸元の術石を弾く。

「だがコレで底上げ出来る。今のわしなら二級相当といったところだろうな」

 軍なら将官相当の地位が約束される階級だ。

「……そこまでか」

「そうだ。そなたは要らぬと言ったが誰もが目の色を変えるぞ?」

 この部屋に埋め込まれた術石の総額は小国の国家予算くらいにはなると、こともなげにつむがれた言葉にイチカはまた呆れたため息をこぼした。相変わらず自分の理解の及ばぬところで世界が動いている。

「一を百にできたとして無を有にはできないだろう。魔力がなくてもとりあえず生きてきた。今更与えられても困る」

 淡々とした物言いにパンジュが喉の奥で笑った。

「本当に、おぬしとスノウでなくばこうはならなかったであろうな」

 男の深い茶の双眸が部屋の中央を見やる。そこには獣たちが額を突き合わせて術式の調整を行っていた。もちろんスノウもそこにいる。クズミだけが少し遅れていた。

「わしは先代の白に一度会ったことがある」

 イチカはパンジュを見る。砂漠の王子は豪奢な刺繍の肩掛けに左手を収めながら淡々と言葉をつむいだ。

「守人と色々あったとは聞いていたが、周囲の人間の顔色をうかがって肩身が狭そうに愛想笑いを浮かべるのだ。仮にあれがおぬしと契約したとて、何も変わらなかったろう」

 アスギリオに寄り添うなどと考えもしなかっただろうし、世界という言葉の前に身を縮こめて諾々と従うばかりだったと半ば確信を持っている。だが当代はそうではなかった。

「スノウは己が望むことを口に出来る。ためらいも疑いもなく一人の人間として立てる。獣のありようを受け入れながら卑屈でなく、世界よりも大事なものがあると声を上げられる。それはきっと、歴代の獣の中でも希有なありようだろうよ。そしてそれは、おぬしもだ。イチカ」

 この部屋の術石をすべて使ったとしてもなおスノウの方が魔力量が多い。異相を有し、本性は人ではない。この世界を巡る理から一歩外れた場所にいる。そんな存在が手元にいることの意味などいくらでも重く見積もれるというのに、イチカはそうしなかった。

「スノウの力は俺の力じゃない。みんなそう思ってるんじゃないのか」

 今の守人に魔術職はいない。ファランドールもサァラもごくごく普通の市井の人間として生きていると聞いた。そこに獣の魔力がどうこういう話は関係がないように思える。

「何もなかったわけではない。サァラはクズミの立ち回りが上手かった。ドールはともにある時間が長いから薄れたように見えるだけだ。皆しがらみを抱えておるよ」

「あんたも?」

「無論」

 パンジュは薄く笑った。持って生まれた以上は仕方が無いなどと思えるようになったのはずいぶん年を取ってからで、振り払えないしがらみにずっともがいていた。その果てにもたらされた守人の契約。獣さえ手元にいれば跡目争いに決定打を与えられると、完全に外堀を埋められた状態での契約だった。

「ヴィーはわしが太子になるための道具でしかなかった。わしも周りも、ヴィー自身もそう思っていた」

 腹を割って話せるようになったのはいつだったか。母と弟を地方へ押し込めて術石の産業化に着手し、自分のよるべき場所と道をかろうじて見いだして立ち止まったころには、パンジュの外見はヴィーユールのそれをとうに追い越していた。パンジュを取り巻く顔ぶれがどれほど変わっても変わらぬ姿のまま、後宮で息をひそめるように暮らしていたと知ってパンジュは己の狭量を突きつけられたのだ。望まぬ状況の中で契約を迫られたのはあの青年も同じだったというのに。何日も顔を合わせぬことなど当たり前だったあの日々を、ヴィーユールはどんな思いで過ごしていたのだろうと思うときがある。

「ゆえにただの親戚の居候のようなおぬしらに何かが救われる心地がするのだ」

「そんな大層な話なものか」

「大層な話だ。アスギリオとイァーマのありようは間違っていなかったと、おぬしらが示したも同然だからな。きっと喜んでいるだろうさ」

 その声ににじむ感情を拾い損ねてイチカはわずか首をかしげた。

「英雄を知っているような口ぶりだな」

「少し話したことがある。もう二十年も昔の話だが」

 一人の夜にするりと意識に入り込んできた金色の英雄。傲慢でなつこくて、一人は寂しいと膝を抱える彼女を覚えている。彼女を顕現させると、ヴィーユールが口にしたときの高揚感は我ながらまるで子供のようだった。彼女の手を取ってやれなかったことを自分は悔いているのだとようやく理解し、同時に叶えねばならぬと思ったのだ。

「ふふ、獣の悲願とわしの願いが一致するとは思わなんだ」

 そうしてこの部屋を用意した。五門機関に察知されることなく完遂し、決して失敗も許されない。到底容易な話ではない。それでもパンジュはアスギリオの復活を望んだのだ。あの夜の彼女を救いたいと願ったのだ。もし万が一のときはこの部屋の魔力全てをつぎ込んで一点集中の拘束術式を組み上げる算段になっている。それでも時間稼ぎとして機能するかどうかぎりぎりで、最終的には獣たちに任せるしかない。

「そんなに話が通じないやつなのか」

「そうではないと信じたいがな。何分前例のないことで魂の接続を誤って理性が飛ぶ可能性はある。備えるに越したこともあるまいよ」

 イチカは小さく鼻を鳴らしてそうかとだけ言った。具体的に想起することのできない話題は苦手だ。どこに重点を置いて受け止めればいいのかもわからない。だが部屋の向こう側で兄弟と話をするスノウの横顔はかつてないほど真摯で、それだけ本気なのだろうとぼんやり思った。今のスノウは何かを望めるのだと、そう理解する。

「……少しは学ぶか」

「ん? 何をだ?」

「魔術を」

 予想外の言葉にパンジュが大仰に眉を持ち上げてみせる。彼に魔術の素養が無いことはよくよく知っているし、興味が無いよりもう一歩踏み込んでかかわりたくないと口にしていたことも覚えていた。

「どういう心変わりだ」

「心変わりというか、あいつは魔術と不可分なんだろう?」

 相手の人となりの都合の悪い部分だけ蓋をして無知のまま突き放すのは不実だと思った。この先の人生がどうなるかはわからないが、短くない付き合いになるのだ。魔術師にはなれずとも彼が生きる上で何を必要とするのか程度を知るに越したこともあるまい。

「何かの役に立つ程度のものが得られるかは知らんが」

 パンジュは眼を細めて何かを言おうとしたが、そこへ鈴の鳴る音がして部屋の入り口にかけられた紗が開けられる。

「悪い、遅くなった」

 振り返れば赤の獣と守人、そしてもう一人青年が部屋に入ってくるところだった。瞠目したイチカが思わず声を上げる。

「ラーズ……!」

 三ヶ月ぶりの親友の姿にラズバスカもまた相好を崩して、大きく手を振った。

「よう、イチカ。久しぶり!」

 紫の守人がにやりと笑みを引いてクズミを見た。

「なかなか気が利いているではないか」

「そりゃどうも。しかしすごい部屋作ったな。幾らすんだこれ」

 赤い瞳が天井をぐるりと見回して呆れきった声をこぼすのへパンジュはさらに笑った。

「サァラ。大丈夫か?」

「……あまり。これは、さすがに圧がひどいわ」

 頭痛がすると言ってこめかみを抑えるサァラへパンジュが部屋の隅を示した。寝椅子に身を預けたファランドールが首をもたげてサァラに手を上げる。

「こっちおいで。無理してもいいことないよ」

「ええ、そうするわ。イチカ、後でまたゆっくりね」

 早々に音を上げたサァラがファランドールの元へ行くのを見送って、クズミはラズバスカに大丈夫かと尋ねた。

「ちょっと息苦しいけど、まぁ大丈夫でしょ」

「過信して無理すんなよ。俺はあっち合流するから」

「りょーかい」

 けろりとした顔でクズミが兄弟たちの方へ向かって、場には男が三人残された。ラズバスカが小さく笑う。

「すげえ光景。獣全部そろってる」

「そうか?」

「そうだよ。実在を疑うぎりぎりの伝説的存在が五人だよ。実感ないのが逆に怖い」

 弾んだ声音にこの男は相変わらずらしいと知って、イチカは安堵と呆れをないまぜにため息をついた。

「ダジューはどうだ」

「とりあえずやれてるよ。そこまで食べ物も違わないし、気候もいいしね。とりあえず生活してくめどが立ったとこ」

 そしてためらいがちに楽しくやっていると付け加えた。それが事実なのかイチカへの配慮なのかを一瞬悩んで、ラズバスカのことだから前者なのだろうと納得を飲み込んだ。

「イチカは?」

 問われてどう返すべきか悩むより先にするりと言葉が出た。

「戦ってる」

「戦う……?」

 予想外のいらえにラズバスカが目を白黒させている。その向こうでパンジュが小さく吹き出したのが見えた。

「とりあえずの日常を守って生き延びるのも、殺してくれと思いながら生かされるのもやめたんだ」

 イチカは深くため息をつく。

「色々人のことをいいように使おうとしていたからな。アフタビーイェの部族連合だの五門機関だのダジューの難民支援議会だの、かけられるだけの外圧をかけてとりあえずイプリツェ行きを回避して今は今後について交渉中だ。だから今は暫定無職だな」

 ラズバスカが絶句した。

「いや、え、イチカが……? 結構事なかれなとこあったのに?」

 無職、という言葉からあまりに縁遠く思われてラズバスカが柄にもなく狼狽した声を上げる。それを見ながらなるほど自分はそう評価されているのだなと思って、上層部もそれを見越していたのだろうと理解した。うんざりだった。

「ことが起きてしまったからもう事なかれではいられないな。……人の平穏を乱すな」

 強い言葉尻に青年はまた目を丸くして、そうして親友の顔を見上げた。

「イチカがそこまで言うの何かすごいな。俺ちょっと感動しちゃった。それもスノウくんのおかげかな」

「そうかもな。最悪あいつに総督府爆破してもらえばいいと思ったら怖いものもなくなった」

「いやいやいや。それは吹っ切りすぎだろ」

 言いながらラズバスカが安堵の笑みをこぼす。

「……よかった。気に病んでるんじゃないかって思ってたから」

「他にやりようがなかったのかとは思っているぞ」

「俺のことはいいんだよ。自分で招いたことだから。むしろ守人がイチカだったから生き延びたんだ。じゃなきゃ今頃ヘレ川に身元不明死体で浮かんでたさ」

 危険だとわかっていながら身を引かなかったつけだ。たまたまそこにイチカが絡んできてしまって、その偶然に親友が心を痛めるのだけが気がかりだった。

「それでも、何かとは思う」

「ありがと。でも今の生活も悪くないしさ。またやりたいこと探すさ。結構そういうのは得意なんだぜ?」

「……知ってる」

 一度目を閉じて深く息を吐き出す。彼に向ける言葉をいくつも用意していたはずなのにどれも場違いな気がして、イチカはそれらをそっとしまいこんだ。

「元気そうで何よりだ」

「手紙も出せなかったもんな。クズミたちも術式の支度で忙しかったし。イチカもとりあえず無事でよかったよ。大変だったって聞いたから」

 それが英雄復活の一連のことを指しているのだと察して、イチカは肩をすくめてみせる。

「俺は覚えてないから大変も何も。まぁ、何年かぶりに寝込んだのは大変といえば大変だったが」

 筋肉痛のような全身痛と倦怠感とめまいと吐き気に襲われ、高熱まで出て文字通り動けなくなった。朦朧とする意識の端でスノウがかいがいしく世話をしてくれたのは覚えている。

「俺よりもスノウのが大変だったろう」

 あの騒ぎの中心にいた上にイチカの看病までついてきたのだ。さらに今日の術式開発のためにユルハとアフタビーイェを何度も往復し、アサーディル社での仕事も継続していた。目の回るような忙しさの中で迎えた今日の日をどう思っているのだろうと視線を部屋の中央へやって、イチカのまなじりがゆるんだようだ。クズミに状況を説明しているらしい少年の表情は明るく、期待に目を輝かせている。待ち望んだときが来たのだと朝から興奮気味だったが、それが最高潮にあるようだ。ラズバスカの来訪にも気づいているのかいないのか。イチカの視線につられるようにラズバスカもまたスノウを見て、ぽつりと言った。

「コレ成功しちゃったらもっと大変になるかもよ」

 その言葉から感情は読み取れなかった。だがラズバスカはイチカよりも魔術に明るい。英雄が体を得て復活するということの意味をもう少し掘り下げて理解しているのだろう。

「構わん。あれがあいつの望みなら、それでいい」

 その先に何があるかわからないのは何であれ同じことだ。何が起きようとスノウなら受け止めると知っているし、イチカもまたともに立ち向かう心づもりでここにいる。案じることは特になかった。

「本当に? 今より追い回されるかもよ?」

「ユルハでさわりがあるようなら出るまでだ」

 スノウと二人新しい生活を始めるのもそう悪くないだろう。どこに行こうとやっていけるという確信があった。

「わーお、旅行も行かないイチカがそれ言うか」

 本気で驚いているらしい親友の声にイチカは己の言葉を思い出す。

 ──昨日と同じ明日。

 ずっと望んできたもの。その本質はきっとユルハにもサイスタの街にもないのだ。それを理解した。今のイチカにとって昨日と同じ明日にはスノウがいなければならない。スノウと二人で重ねる何ということのない時間をイチカは望んでいる。場所がどこであれ。

「熱烈じゃん」

「かもな。まぁ、あいつもだからちょうどいいんじゃないか」

 けろりとつむがれた言葉にラズバスカは珍しく返す言葉を見つけられなかった。




 部屋の中央に描かれた門陣は転移の受け入れ門陣に似ている。四つの真円、安定と補強の文字列。その中央に新たに円を描いて肉体を仮組みするための術式を刻み、核となる術石を置く。それはアスギリオの魔力結晶と化した金線水晶。取り囲むのは魂の複製を落とし込むための術式と生命式。そうして、アスギリオの魂のかけらを持つ五人の獣の血を数滴ずつ。そこに存在強度をを上げるための術式を張り巡らせ、思いつく限りのあらゆる補強を施した。門陣の周囲には虫の入った琥珀と越冬した木の実、枯れ果てた骨、かつて命であったものとこれから命になるものを積み上げて命の外殻を固定する。そしてその魔力を循環させるためのさざれの術石をたくさん。五人が手分けして集めたあらゆる知識と物質とが集積されていた。それは図らずもアスギリオがイァーマを作るときに用意した物と重なり、同じ場所を目指しているのだと知れる。

「いよいよだな」

「遅いわよ、お兄ちゃん」

 ようやく現れたクズミにティーレが揶揄する調子で声をかける。お兄ちゃん呼ばわりするのが気に入ってしまったらしい黒の獣にクズミは肩をすくめ、悪いと言って座に加わった。

「ちょっとパゼル師との通信が長引いてな。五門機関の方に動きはない。まだ起動してないんだろ?」

「起動はしていませんが予備調整はかけています。反応はありますよ」

 レムリィリが答える。その手のひらの上でくるくると薄青い光の粒子が回転していた。それは五門の向こう側でアスギリオの魂が鳴動していることを示している。

「五門機関では観測されていない。アッシュも慎重に動いてるってことだろう」

 クズミはぐるりと部屋を見渡した。足下の門陣、頭上に敷き詰められた術石。五人の獣と四人の守人。その流動する魔力の流れにはすでにアスギリオの気配がある。すべてが確かにそこにあってそして、どこか現実でないように思えた。形容しがたい感情が胸の奥につかえて、くちびるを噛みしめる。自分が何をしようとしているのか、まだ受け入れられていない。

「やっぱり心配?」

 末弟の声に視線を戻す。灰白色の瞳がクズミを見ていた。クズミを案じる色を宿しながらしかし、決して譲ることのない意思をたたえているのがわかる。

「……ラズバスカ、来てるぜ」

「え、あ、本当だ。元気そう。よかった」

 あえて関係の無い言葉を口にすれば彼は当たり前にそれを受け取って破顔した。その様子に少し安堵する。彼に他意はないのだと、この期に及んで確認したいらしい。

「ほら、いい加減腹決めなさいよ」

 ばん、とティーレがクズミの背を叩いた。

「痛えんだけど」

「気にしない気にしない。──大丈夫よ。きっと、大丈夫」

 黒い瞳が笑う。

「私たちは最初に立ち返るだけ。覚えてるでしょ? 私たちが生まれた理由」

 まぶたの裏にあの日の夕映えが見えた。風にはためく黄金の髪と暮れ始めの空の紫。まだ人の体を得たばかりの体を抱き締めて融けるように笑って、そうして。

 ──たくさん、楽しいことをしよう。

 クズミは拳を握りしめた。

「ああ、始めよう」

 五人が門陣の周囲に等間隔に立つ。それぞれの足下に青い炎が揺らいで、全身に流れる魔力の流れを門陣に流し込んでいく。きらきらと術石に青い光を反射させながら複雑に描かれた図形の上を炎が走っていった。交点で分かれて同じ速度で円を描き、次々に術石を割りながら光は陣の中央を目指す。部屋全体が青みを帯びて空気の透明度が下がったようにさえ見えた。五点から流し込まれた魔力が一点で合流して光が噴き上がる。術石が鳴動して鈴のような硝子のような金属のような硬質な音が響き渡った。スノウがまずくちびるを開く。それは古い言葉を連ねた召喚の歌。ヴィーユールが、レムリィリが、ティーレが、そしてクズミが歌声を重ねて五人の歌声が魔力の風に乗って螺旋を描いていく。

 イチカはその光景を声もなく見つめていた。何が起きているのか当然理解などできない。自分の知らない世界が展開されていく疎外感と、それでもなお見入ってしまう何か大きな奔流があった。大きな命の気配とでもいうべきものの中心にスノウがいる。その小さな背中がただまっすぐに背筋を伸ばして立っている。

 隣に立っていたラズバスカががくりと膝を崩した。

「……ラーズ、大丈夫か」

 思わず手を伸べれば青ざめた顔でイチカの腕にすがりつき、けれど自重を支えきれずにそのままずるずると床にへたり込んだ。

「ごめん、無理かも……」

 せめて椅子へと視線を巡らせれば、サァラとファランドールが完全に寝椅子の上に突っ伏していた。そこまでかと振り仰いだパンジュもまた血の気のない顔で固くくちびるを引き結んでいる。そしてイチカの視線に気づいて無理矢理に笑った。

「そなたのそれは、希有な才だと知れ」

 視線で部屋の中央を示す。

「それだけまっとうな状態でいられることには、きっと意味があるのだろうよ」

 五人の獣をイチカはただ見つめる。スノウはなお歌っていた。そのくちびるが、呼ぶものの田を口にする。

 ──アッシュ。アスギリオ。

 胸の奥が熱い。己の意識とは無関係に涙がこぼれていく。気配が近づいてくる。歌を止めない。ただ歌う。かの人への思慕を。降り積もった歴代の獣の声を。ここに至るまでの道のりをスノウは知らない。けれど理解している。すべての獣が、自分たちの魂がずっとずっと待ち望んでいた。

 集約された光の渦がやがて人をかたどっていく。青みを帯びた光を纏って人が顕現する。黄金のごとき豪奢な巻き毛と、今はまぶたに覆われた双眸。魔力の残滓がまとわりついて簡易ながら衣服を編み上げ、確かにそこに彼女を作り上げる。スノウは声を張り上げた。

「──帳のかなた、眠りの淵。かりそめの肉体に落とされし魂を呼び起こせ。これは夢である。それはうたかたである。なれど」

 古式の呪文を紡いでいく。唱和する兄弟の声が同じ音程をなぞって別の誰かの声のようだった。魔力が明滅する。星空のただ中にいるような光がそこかしこできらめいてはじけて流れた。魂を辿る。確かにつながっていると理解する。呼び声を上げる。ここにいると。ここにあれと。

 最後の一節。結実の言葉。

「願いである──」

 光がはじけ飛んだ。




「──アッシュ」

 誰の声かわからなかった。だが確かに名を呼んで、そうしてふるりと金色のまつげが震える。ゆるやかに持ち上げられたまぶたの向こう側は、紫。暮れ始めの空の色。それが一度またたいて、やがて歓喜に染まる。眼前にある双眸を覚えている。蕩けるような声がその名を口にした。

「イァーマ」

 しかしアスギリオは違うとつぶやいて首を振る。

「──スノウ」

 灰白色が笑んだ。

「おはよう、アッシュ。約束を果たしに来たよ」

 白に寄り添う影が四つ。赤、黄、黒、紫。見事に色分けされた四色。イァーマが持たなかった色。けれど確かにイァーマになりうるもの。

「一緒にたくさん、たくさん楽しいことをしよう」

 破顔する表情がまぶしくて愛おしくて、英雄は衝動的にその姿をかき抱いた。記憶にあるイァーマよりも細く幼く、けれど確かに同じぬくもりを持つもの。到底数えきれぬ時の果てに得たもの。確かに腕の中にあると確かめるように強く強く抱く。

「ありがとう。ありがとうスノウ。私を一人にしないでくれて、ありがとう」

 嗚咽がこぼれる。

「さみしいのは嫌だ。一人は嫌だ。お前と、お前たちと、一緒に生きたかった」

 どこで間違えたのだろう。どうやって正せばいいのだろう。やはりわからない。わからないままだった。

「俺もだよ。アッシュ。あのときはあれが最善だと思ったけど、他にやりようがあったのかな。わからない。わからないけど、でも」

 少年の両腕がアスギリオを抱き返す。

「今度は一緒に考えよう。たくさん考えて悩んでそうして、どうしたいか決めよう。大丈夫、やれるよ。きっと大丈夫」

 なだらかにつむがれる声に確かにイァーマの気配があって、アスギリオはしがみつくようにスノウを抱く。

「ねえアッシュ。話したいことがたくさんあるんだ。会わせたい人もいるんだ。あ、そうだイチカにはちゃんと謝ってね。それから鯖の焼いたやつやってみたの結構おいしかったから一緒に食べよう。パンジュが飴胡桃の榛のやつ用意してくれたって。みんなでお茶にしようよ。本当に、本当にたくさんあるんだ。話したいこともしたいこともたくさん」

 そうだよねと兄弟を振り仰げば、四色の瞳が同時にうなずいた。

「ずっと、待ってたんだよ」

 その言葉に、英雄は泣き崩れた。





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獣は遠き約束を胸に抱く 夜渦 @yavuz

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