5.英雄アスギリオ

5.英雄アスギリオ


 パンジュがお抱えの魔術師に用意させた部屋は術石によって魔力圧が一定に保たれ、床に送り出しの門陣が描かれていた。個人を目当てに飛ぶのはどうあっても不安定だ。しかも今回は人数も多い。やりすぎるということはなかろうと言ってパンジュが笑うのへ、クズミが肩をすくめてみせた。

「まさかお前さんも来るとは思わなかったよ」

「邪魔はせぬよ。マニハーイーの総代としてでなく、わし個人として見届けたいのでな」

 今いる守人の中で魔術師の真似事ができるのはパンジュだけだ。どのようにことが運ぶかわからぬとはいえ、確かに同席できるのは彼だけだろう。そこに異論はない。だがそう身軽な立場でもあるまいと言えば男は薄く笑った。

「全てを獣に丸投げするのは幾らなんでも無責任であろ」

 床に青い炎が走る。光は六人を一度に転移させるために常よりも大きく円を描く。スノウは目を閉じた。

「細かいことは考えなくていい。イチカを探せ。それだけでいい」

 クズミの声がする。ゆっくりとスノウは意識を拡散させていった。

 閉じられた瞼の裏を凄まじい速度で風景がよぎる。心臓が徐々に熱を帯びてくる。呼ばれているような、呼びかけているような、曖昧な意思の指向性に覚えがある。イチカをサイスタで見つけたときと同じ感覚だ。漠然と慕わしい方向へ意識を向け、目当てに向けて収束させる。

 海。船。草の原。暮れる空。葡萄畑。鰯雲。渡り鳥。雪の山。いくつもの景色のその先に、金色。

「見つけた……!」

 全身を揺さぶる浮遊感が六人を運ぶ。恣意的に歪められた空間の先、ベーメンドーサ上空のアスギリオのもとへ。

 碧空に青い光が門陣を描く。足場のない中空へ、六人が光の中から吐き出された。間髪入れずにヴィーユールの影が揺らいで、本性をあらわにする。そして身をくねらせて空を駆け、パンジュをその背で受け止めた。暮れ始めの陽光に紫鱗がきらめく。

「全員無事か」

 声を上げたのはクズミだった。足の裏に魔力を集め、空中にたたずむようだ。他の三人の獣も同様にして空に立っていた。空の端が色を替え始めた頃合いだが頭上の空はまだ青い。レムリィリがパンジュを見て小さく笑った。

「そうしていると、物語の登場人物みたいですね」

「勇ましかろ?」

 紫竜に乗り、腰に螺鈿の黒太刀を佩いた砂漠の王子は、夕映えの中にあっていっそ見事な造作であった。

「お願いだから無茶だけはしないでね。──下、来てるよ」

 本性に戻ったヴィーユールの声は常の声とは違う。確かに空気を震わせてはいるのだが、なかば頭の中に直接響くようにして届く。一同は足下に視線を落とした。

「あら、全員集合って感じじゃない」

 尋常ではない数の魔術師と歩兵とおぼしき兵士たちがそこに整列していた。場所は五門機関本部まで馬で三日と言ったところの、開けた平原である。

「あちらもかなり正確に座標を割り出したようですね」

 数を数えながらレムリィリが言う。魔術師たちは皆、五角形に二本鍵の紋章が入った揃いの長衣を纏い、歩兵たちの胸元には銀杯とトネリコの意匠。数はざっと二千近い。手には長剣と槍。後方に見慣れぬ台車が連ねてあった。

「あれ、ベーメンドーサの正規軍ですよ」

「なりふり構ってられない、って感じね」

 五門機関と国としてのベーメンドーサは表向き全くの無関係のはずだが、これが現実だ。何としてでもアスギリオをここで留めるのだという強い意志を感じる。

「よく考えたらここにいて平気なの? 顔見られたら外交問題に発展しかねないわよ」

 ティーレがパンジュに尋ねた。

「なに、国を相手にするわけではないからな。あとからどうとでも言い逃れられる」

 そうは言いながらも男は頭の布を巻き直し、目元以外を覆う。今日は黒い布の上に白を重ね、衣服は濃淡を描く青だ。精緻な刺繍を施した金色のリボンで縁取られている。術石を無造作に連ねたものをいくつも体にかけていた。よく見れば手指に指甲花でいくつも魔術の文様が描かれており、装飾品も常のものとは意匠が違うようだ。その意味を獣たちは感覚で知る。

「それだけ知覚錯誤の魔術で固めておいてよく言うぜ」

「備えだけはしておかんとな。あとでうるさく言われてはかなわぬ」

 やれやれといった様子でわざとらしくため息をついたパンジュを、ヴィーユールが揺さぶって抗議をした。

「何回でも言うけど無茶しないでよ?」

「案ずるな。己の分はわきまえておるさ」

 眼下では空に浮かぶ人影に気づいたらしい歩兵たちが騒ぎ始めていた。空を指さし、周囲の人間と顔を見合わせ、声を上げる。それでも統制を失わずにいるのは魔術国家の兵士ゆえのことだろうか。

「あそこの、深緑の旗印のところが本陣ですよ」

 レムリィリの白い指が風にはためく大旗を指さす。ベーメンドーサの旗と五門機関の旗が並び、指揮官の階級に合わせた色の細い旗が一緒に立てられている。

「どうして、こんなにたくさん……」

 スノウがつぶやいた。見たことのない風景に圧倒される。歩兵の数をそろえたところで魔術師の代用にはならない。それでもこれだけの人数を集めるということは何が考えがあるのだろう。

「恐らくですが、魔術砲の類いでしょう。兵の投擲槍にも術石が組み込んであります」

 レムリィリの声が平坦だ。その金色の双眸は軍勢の後方にある台車を見つめている。

「アッシュは魔術の英雄といったところで戦争屋じゃないからな」

 物量で押しきればあるいはと考えたのだろう。実際、獣であっても二千の投擲槍をさばけるかと言われて確たる答えは出せない。クズミは平原全体に意識を巡らせる。五門機関とベーメンドーサが本気になったにしてはこれでも魔術師の数が足りない。伏兵がいるはずだった。

「スノウ。お前はイチカを連れ戻すことだけ考えろ。下は俺たちが何とかする」

 五門機関の目的は世界を維持することだ。ソルレアルの死によって黒の守人が欠けている今、彼らとてスノウを殺すのは最終手段にしたいはずだった。ならば火力を集中させてアスギリオを、イチカを殺して封印を維持しようとするだろう。

「何か、現実じゃないみたい」

 異国の空で軍勢を足下に見ながら、記憶の彼方の英雄を待っている。心は凪いでいるが神経は高揚しているのか、全身が総毛立つような緊張がびりびりと全身を巡っていた。

「はは、ここからさ」

 クズミが笑う。それは奇妙な笑いだった。暮れ時の空に響く声に惜別に似た色を読み取ってスノウは口をつぐんだ。彼はこの先を知っているのだ。

 そうして、西の空。鮮やかな赤がとろけるように暮れていく。そのかなたから航跡を引いて何かが来る。スノウは拳を握りしめた。

「来たぞ」

 スノウはイチカのいる場所を全身で感知している。けれどそれはイチカの姿ではない。金色の巻き毛の、美しい白皙に夕映え色の長衣。瞳は暮れゆく空の紫。昔ながらの魔術師の杖に腰を下ろし、下界を楽しんでいる風情は夕焼けの中にあってただただ美しい。

 眼下の兵士たちの間に緊張が走ったのがわかる。スノウはあえてそこから意識をそらし、まっすぐにアスギリオを見た。

「おそろいだな」

 いっそ優雅さを纏って、女は笑う。スノウは何と声をかけて良いかわからない。アスギリオは組んだ膝に肘を乗せ、手のひらに顎を預けている。

「……杖、どうしたの」

「これか? 古道具屋の親父にもらった。例の、ほら、術石。あれのせいで魔術師が杖を持たなくなったらしいな。どうしてもと言ったら見つけてくれたよ」

「お金は?」

 我ながら場違いな問いかけだと思う。だがスノウはまだどうしていいのかがわからないのだ。

「今時欲しがるやつもいないからと、ただでくれたぞ。旅の途中だと言ったら弁当までくれてなぁ。いや、ああいう親父はいいな」

 おかしそうにアスギリオは目を細め、笑う。その表情には確かに人を愛おしむ色があって、スノウの胸に鈍い痛みが走る。アスギリオは中空に留まる獣たちを見渡し、そしてその姿にぱっと表情を華やがせた。

「パンジュ。久しいな。お前が来るとは思わなかったよ」

 旧知の仲のような言葉だ。緊張が走った。ヴィーユールが警戒をあらわに身構える。ちり、と尾の先の魔力が青く揺らいだ。それを手のひらで制し、パンジュが口を開く。

「獣に全てを丸投げしてのうのうとしているのは無責任であろ。何もできずともせめて見届けるのが誠意というものだ」

 アスギリオがくつくつと笑う。

「見届ける、か。少し見ない間にずいぶんと大人になったものだ。お家騒動は終わったか?」

「パンジュ……?」

 ヴィーユールが低くパンジュの名を呼ぶのへ、男は静かに紫竜の首を叩いた。

「母上の謀反の頃だ」

 男は実母と弟が引き起こした跡目争いのさなかに契約の話を持ち込まれ、次期総領の足場を確かにするために守人となった。術石の採掘と交易を基幹産業として育てていこうとしていた頃だ。強大な魔力の後ろ盾は何ものにも代えがたい説得力があった。

「ちょっと体を貸してくれと言っただけなんだが、まぁ強固に断られてなぁ」

 残念だったとアスギリオがため息をついて、ヴィーユールのそれよりも明るい紫の瞳が笑みを引く。

「ふふ、大きくなった」

 まるで遠縁の親戚のような英雄の物言いに紫の獣がうなるように声を上げた。

「……言ってくれればよかったのに」

 初耳だとぼやく声には怒りよりも失望の色が濃い。

「今のわしなら言えるがな。十七の子供には無理な話だ」

 何もかもが敵だったとパンジュが笑う。父の名で、生まれた順番で、あるいはその手中にある魔力でしか人は少年を評価しなかったし、少年もまたそれが当たり前だと思っていた。それは契約したばかりの獣も同じだ。自分にかしずくものが一人増えたところで彼の人格に向き合うものなどいないのだと達観し、摩耗した精神はアスギリオの声を拾い上げたのだ。

「だが踏みとどまったのだから、よくよく褒めておくれ」

「ええ……評価しにくい……」

 飾るところのないヴィーユールの声音が心地よかった。

 どうして踏みとどまったのが自分でも覚えていない。だが、彼はアスギリオの侵入を拒絶した。拒絶することができた。

「イチカは、そなたの言葉に応えたのか」

 目をそらすことなく、まっすぐにアスギリオを見る。五門機関で会った青年は踏みとどまる力を持っているように見えた。それこそ黒の守人の方がよほど体を明け渡す危うさを秘めていると思っていたし、あるいは赤の守人が周囲との軋轢に心折れる可能性を案じていた。それなのに、英雄に絡め取られたのは白だった。その理由を問う。紫色の瞳が笑んだ。

「いや。この体には魔力が通っていない。力押しで入らせてもらった」

 そもそもアスギリオをはねのける力を持っていなかった。弱った隙に後ろから殴りかかったようなものでイチカと対話はしていない。そう言われてスノウは拳を握りしめた。大きく息を吸う。イチカが折れたわけではないのだ。

「まぁ、経緯はどうあれ久しぶりの体だ。もう少し遊ばせてもらおう」

 そう言って陶然と笑うアスギリオの周囲に、突如青い炎が走った。地上と同じように中空を走り、三重の六角形を描く。軌跡から立ち上る光が鎖の形に編み上げられていく。同時に、周囲に忽然と人が現れた。その数、十二。皆が皆、揃いの深い緑色の長衣を纏っている。上空の風にぴくりとも動くことなくその場に静止し、言霊を紡いでいく。ヴィーユールが気色ばむのをクズミが止めた。

「無駄だ」

 十二の音階が段階的に魔術をつむいでいくのを、アスギリオは無表情に眺めていたが、やがてため息をつく。

「邪魔をするなと、いつも言っているだろう」

 その手がひらめいた瞬間、巨大な硝子を落としたような音とともに十二人の魔術師が吹き飛ばされる。描かれていた精緻な魔術陣は砕かれ、きらきらとした欠片をまき散らして消えていった。

「私とイァーマの時間だ。横から茶々を入れるな」

 眉間にしわを寄せ、杖に座したままアスギリオは不愉快げに魔術師たちを見る。

「そうはいきません。魔術の英雄」

 答えたのは十二人の中で最も早く体勢を立て直した壮年の男だった。その全身は術石と絹のリボンとで編み上げた術具に飾られており、飛行の術式がその周囲を浮遊する。

「その二つ名は嫌いなんだ。呼ぶな」

「事実でしょう。あなたの存在が魔術を何百年分も先に進めたのだから」

「……今も後悔しているよ。無責任に世に送り出したことをな」

 アスギリオは不機嫌を丸出しにし、取り繕いもしない。余裕のある笑みを浮かべていた顔が、今は嫌悪感に彩られている。

「帰れ。お前たちも、下の連中もだ」

 眼下に控える歩兵たちはいつの間にか面覆を下ろし、槍を手にこちらを見上げていた。その穂先に、術石の光が明滅する。その意味がわからぬアスギリオではない。小さく舌打ちをして面倒なものをとつぶやいた。

「お前たちの王の尻拭いをしたのは誰だと思っている」

 ゆっくりとアスギリオの指が魔術師たちに向かう。反応したのはスノウだった。足下に集めた魔力を瞬間的に爆発させ、魔術師たちとアスギリオの間に飛び込み、自らの体でもってアスギリオの視界をふさぐ。そしてそのまま二人の姿は、青い炎に包まれて消えた。魔力の残滓が真円を描いて揺らめいて、沈黙だけが横たわる。一瞬の出来事に誰も動けなかった。

 その沈黙を破ったのはクズミだった。

「パゼル師。お前さん、フェウフの王立学院に出向中のはずだろう」

 世間話をするような気安い口調とともに、赤い瞳がパゼルと呼ばれた壮年の男を見る。クズミの知る一級魔術師だ。五門機関内での地位も悪くない。

「緊急事態ですから」

 短く言って、男は心臓の上に手をやる。アスギリオが何をしようとしたのか、理解しているらしい。

「そっちの算段を聞いていいか」

 大方の予想はできているが念のため、とクズミが言うのへパゼルは恐らくその通りですよと静かに答えた。

「五門を死守します。そのためならイチカ・ラムダットファン・ローを殺すこともやむなし、との結論です」

「結論も何も。いきなり臨戦態勢じゃないか。話し合いの余地はなしか?」

「……話し合えるとお思いですか」

 パゼルの表情がゆがんで、心臓の上で拳を握りしめた。パゼルは魔術師として才能に恵まれ、自己研鑽も怠らなかったと自負している。その結果としての一級の肩書きだ。にも関わらず、アスギリオを前に何もできなかった。何かができるとも思えなかった。白の獣が飛び出さなければ対抗術式をつむぐ間もなく心臓を止められて墜落していたことだろう。その本能的な恐怖を押しのけてまで話し合いを持とうというのは、あまりにも難しい。

「同じ場所に立てもしない相手と話をするのは不可能です。まして世界の命運がかかっている以上、その選択肢を優先することはできません」

 パゼルの声は固い。彼の立場における裏表のない言葉なのだろうと知って、やはり実直な男だと思った。

「うん、俺たちも最初はそのつもりだった。スノウを殺す選択ができない以上、イチカを殺してしまうのがどう考えても早い」

 そして確実だ。世界を守る最善の手だとクズミも思っていた。

「でも少しだけ待ってくれないか」

 言葉で彼女に語りかけるだけの時間が欲しい。そう口にすれば他の魔術師たちが気色ばむようだった。

「スノウが説得に失敗したときはそっちの邪魔はしない。状況によっては手助けもする。だが今、スノウが戻ってくるまでは追尾しないで待ってくれ」

 クズミの言葉にパゼルが眉根を寄せる。

「あなたらしくないですね」

 二百年前のアスギリオ復活以来、五門死守を掲げてきたのはクズミ自身だというのに。

「別にそっちの選択を捨てるってわけじゃない。状況が逼迫してるのは同じだ。それでも少しだけ、誠意を示したいんだ」

 英雄と、末弟に。

「誠意があるとかないとか、そういう抽象的な話ではなく、我々には世界を守る責務がある」

 パゼルの隣に立つ男が声を上げた。アスギリオが五門を開放しこの世界を焦土と化す可能性があるのなら、それを未然に防ぎ対処するのが五門機関の義務だと声を荒げる。クズミは答える言葉を見つけられない。全く同じ言葉をスノウにぶつけたのは他ならぬ己だ。代わりに鷹揚に笑ったのはパンジュだった。

「知っておるよ。そなたらの考えもよくわかる」

 だが大義名分は人を盲目にする。強大に過ぎる力は人を狂わせる。五門機関はその双方を持つ組織なのだと自覚しなければ、それはすぐさま暴力に姿を変えると言って首を振った。

「英雄が求めているのは、そういうことではなかろ。ごくごく普通の人間が持つ、甘えのようなものだ。そこに軍勢をぶつけたとて何一つ解決はせぬよ」

 ふっと琥珀の瞳に郷愁めいた色がよぎる。

「獣だろうが英雄だろうが守人だろうが、意思を持って眼前に立つならばその存在を尊重せねばならぬ。それを全てすっ飛ばして世界を語るな」

 男の指がヴィーユールの鱗をなぞり、獣はぱたりと尾を振った。小さく笑う。そしてふいに声音を変えて眼前の魔術師たちを睥睨した。

「さて、あの二人が戻るまで少しわしと話をしようか。五門機関」

 びくりと長衣の肩が跳ね、男たちは突然圧を増した砂漠の王子にたじろいだようだった。

「そなたら、契約を急いでイチカを国に売ったな?」

 自分のときと同じように。

 パンジュの言葉には確かな怒りがあった。

「一応言っとくと、イチカがアッシュに乗っ取られた直接の原因は完全にそれだぜ。親友を人質にとられて傷つかないやつがいるもんか」

 クズミもまた口を開く。泣き出しそうな顔のスノウがラズバスカをダジューに連れてきたのだ。つまり回り回ってこの事態を引き起こしたのは五門機関の不面目だと暗になじる。パンジュはクズミと目配せを交わし、大仰なため息をついて見せた。

「とりあえず世界を守る前提で、あの二人が戻るまで少しわしと話をしようか」

 彼らはこの先も生きねばならぬのだから。




 アスギリオを巻き込んで転移した場所がどこなのか、スノウには正確にはわからない。咄嗟に離れた場所へと願い、頭に浮かんだ風景を目指して飛んだ。空は半ばが闇に沈んで銀粉を吹き付けたように星が浮かぶ。足下から潮騒のような音がして視線を落とせば、河口のようだった。川幅は広く、かつては街だったのだろう。建物の基礎をなす石積みが草の合間に埋もれていた。杖に乗ったままのアスギリオが眼下を見下ろし、呆然とつぶやく。

「ここは……」

 風が金色の髪をさらう。その姿はわずかに青い燐光を帯びているようだ。彼女の横顔に昔を懐かしむ色だけを見て取ってスノウは尋ねる。

「知ってるところ?」

「……昔はそこに大きな橋がかかっていて、ずいぶんと大きな市場だった」

 常設の店や露天が所狭しと軒を連ね、土地が足りなくて船を並べて店にしていたと言えばスノウが感心したように目を丸くした。

「すごいね。サイスタも川沿いに大きな市場があるけど、船かぁ。揺れない?」

「揺れる。揺れながら食事を作って売ってる」

「酔いそう……」

 かつての記憶はアスギリオの中にはいまだ鮮やかだが、眼前の景色にその面影はない。橋もずいぶんと簡素なものがかけられているだけで、少し雨が降れば流されてしまいそうだ。無性にこみ上げてくる郷愁と寂寥を押し込めるようにつぶやいた。

「お前、魚は好きか」

「うん」

「鯖を塩焼きにしてパンに挟むとうまいんだ」

 船の屋台でよく売っていたと言えばスノウがおいしそうだと言って声を弾ませた。

「街ごとないんじゃもう食べられないのかなぁ……あ、でも鯖か。ならうちで作れないかな」

「できるかもな。玉葱を入れるといいぞ」

 かつてイァーマは眉をひそめたものを、スノウが当たり前にいいねと言ったのが少し不思議だった。彼と今眼前にいる少年は別の存在なのだと突きつけられる心地がするが、それでも流れる魔力はこの体になじんだイァーマのそれと同じだ。彼であって彼でない。今更にその齟齬に認識がつまずく。

 ──ああそうか。ゆっくり話すのは初めてなんだ。

 前回顕現したときクズミと会話をするだけの時間も余裕もなく、その前もそのさらに前も同じだった。獣たちはアスギリオを五門の向こうへ戻そうという意思ばかりが先走り、アスギリオもまたいかにそれを出し抜くかしか考えていなかった。イァーマと同じでイァーマと同じではない彼らと言葉で触れあうのは、例がなかった。

「あ、それで思い出したんだけどパンジュのところで飴胡桃食べたよ」

 スノウは当たり前に会話を続ける。

「……懐かしいな」

「うん。俺も初めて食べたはずなのにそう思ったんだ。だからきっと、アッシュと食べたんだろうなって。で、アフタビーイェには榛のもあるんだって」

「それはうまい」

「ね、絶対おいしいよね。今度パンジュに持ってきてもらおう」

 スノウが笑う。屈託のない笑顔だった。何としてでももう一度封印してみせると気負うでもなく、どう害されるかと怯えて身構えるでもなく、当たり前にアスギリオの言葉に応じて笑っている。その面差しがやはりイァーマに似ていると思って、アスギリオは表情をゆがめた。誰かとこうやって笑い合うのが思い出せないほど久しぶりだった。鼻の奥が痛むのをこらえながら言葉がこぼれる。

「ああ、本当にどこで、間違えたんだろうな……お前とそうやって買い食いをして時々遠出して、誰かの役に立つ魔術でも作っていればそれで良かったはずなのに」

 気づけば王宮にいて、王が望むままに楽しくもない魔術を生み出していた。それが何をもたらすのかなんて考えもせず、諦めかけていた居場所を夢見てしまった。人の輪に迎え入れてもらえると思ってしまった。

「私はお人好しなんかじゃない。魔術でしか居場所を作れなかっただけだ」

 それを居場所と呼んでよかったのか今となってはわからない。

「アッシュ……」

 スノウは彼女の言葉を思い出す。

 ──さみしかったんだ。

 それは決して忘れることのない一番最初の記憶。いまだ人の形をうまくとれぬこの身を抱いた彼女が絞り出した言葉。重ねた願いの果てに生み出された自分たち。それを思い出す。そうして己の中にある確かな思慕を形にする。

「アッシュは、さみしいの」

 尋ねた。見上げた紫が泣き笑いの形にゆがんでいく。

「ああ、さみしいな。一人は、さみしい」

 ──さみしいよ。イァーマ。

 スノウはくちびるを噛みしめた。そして意を決して口を開く。

「俺たちは、間違ってた」

 予想していなかった言葉にアスギリオが片眉を持ち上げた。

「世界なんてものを背負わせてアッシュを一人にした。ずっと、ずっとアッシュはさみしいのは嫌だって言ってたのに」

 彼女が守ろうとしたものを守ろうとするあまり、アスギリオ本人を守ろうとしなかった。五門の向こう側へ押し込めてそのさみしいに向き合おうとしなかった。

「だから、アッシュの体を作ろう」

「……何だって?」

「遠見の夢渡りの応用で術石を核に魔力で肉体を仮組みして、そこに眠っている人の意識と人格の複製を落とし込む。そういう術式が出たんだ。それをもう少し踏み込んで、俺たちの体と同じように生命式を入れ込んで動くようにすればアッシュの体になるはずなんだ。そうすれば五門を開けることなくアッシュはこっちに来られる」

 ヴィーユールとティーレと三人、大急ぎで仕上げた術式はまだまだ荒削りだ。この状態で起動したところで反発してはじける可能性の方が高い。それでも見せられるものが出来たのだとスノウは口の中で構築式をつぶやく。少年の言葉に呼応した魔力が青い光を帯びた文字になって浮かび上がり、その手のひらの上でくるくると回転する。アスギリオが読み解けないはずがなかった。

「それで、一緒に五柱術式の解式を作ろうよ。五門開放と同時に逆算解除ができればアッシュは自由で、世界も守れる」

 紫色の瞳で文字列を追いながら英雄は呆然と解式とつぶやく。

 すぐに完成することはできないだろう。術式は組み上げるよりもほどく方が何倍も難しい。だがそれでも魔術の英雄と獣の魔力と術石。その全てがそろって解除が出来ないなんてこともないはずだ。たとえスノウの体が力尽きたとしても、何代かかってでも作り上げてみせる。そう決めていた。そうして開放された世界で。

「アッシュとたくさん、楽しいことをしたいんだ」

 まっすぐにアスギリオを見る。

「俺たちはそのために生まれたんだから」

 スノウの言葉にはためらいも負い目もない。灰白色の双眸がひたと彼女を見据えていた。そのまっすぐなまなざしから逃げるようにアスギリオは目を伏せた。

「……そんなことを言ったのはお前が初めてだ。正味千年、誰も私をあそこから連れ出そうとはしなかった」

「方法がなかったんだと思う。俺のもアッシュを出す手段でしかないし、術石がなければそもそも起動が出来ない。魔力が全然足りない」

 願っても叶える手段がなかったのだ。それが今、ようやく手が届く。五柱術式を組み上げたアスギリオがこちら側にいればきっと、その先も不可能ではない。全てをあるべき形に戻す未来を自分たちは望めるはずだった。

「まだちょっと調整しなきゃいけないけど、時間はかからないと思う。だから、今はイチカの体を返して欲しい」

 そうすれば自分は大切なものを両方守れる。そう口にするスノウに、アスギリオの朱唇がふいに笑みを引いた。

「ふふ、なんだ。お前は無邪気な子供だと思ったが、なかなか狡猾じゃないか」

「アッシュ?」

 確かな冷笑にスノウは眉根を寄せる。何が彼女の神経に触れたのかわからない。

「そうやって血を流すことなく私を剥がそうとしているのだろう? わざわざ囮の術式まで組んでご苦労なことだ」

「違う!」

 弾かれたようにスノウが声を上げるが、アスギリオには届かない。紫の瞳には失望と諦観だけがある。

「クズミがいるのに私を解放などさせるはずがなかった。知っているか? あいつがこの二百年、どれほど私を警戒していたか」

 五門機関に獣と守人を集めるようになったのはクズミの発案だった。アスギリオに入り込まれそうな守人を早期発見し、事前に策を講じるための会合だ。同時に五門に獣が集結することで鍵の強度を高め、五門の向こう側にいるアスギリオにイァーマはここにいると示して押しとどめる。クズミの守人が実際にアスギリオ顕現の媒介となったこともあって、五門機関は概ねクズミの言葉を聞くようになっていた。実際クズミの意図した通りにことは進み、五門に来ることで魂の強度を上げた獣は鍵としての強度も上げることとなり、アスギリオは容易にこちら側へ干渉することができなかった。パンジュに接触できたのはずいぶん久しぶりだったのだという。

「人間不信のさなかにいたパンジュにクズミの言葉は届かなかったのさ」

 五門機関にも行かず、ヴィーユールとも距離を置いた。自身の抱える葛藤のいずれをも他者と共有せず、ただ黙して耐えていた。そんな子供の隙間に入り込むのは難しくなかった。

「まぁ失敗したがな」

 女のくちびるが笑う。それは自嘲のようにも見えたが、スノウにはその感情の名前がわからない。ただ痛みを抱えたようだと思った。

「さ、おしゃべりはおしまいだ。今この体は私とイチカで半々だ。イチカがお前の言葉に応じれば私は体の主導権を奪われて帰る。イチカが応じなければこの体を殺すしかない」

 クズミのように、とことさらに名前を挙げるアスギリオの言葉に浮かんだ感情はどこか後悔のようにも見える。

「まぁお前にまで恨まれるのも本意ではないからな。私に触れてみろ。そうすればイチカと話をさせてやる」

 言いながらアスギリオは周囲の魔力圧を高めていく。それはつまり、彼女はスノウと戦うつもりということだ。

「どうして、どうして戦わなきゃいけないの」

「こんな形でもお前たちとふれあうのは楽しいからさ。結局私は魔術師だからな。魔術を使うことをやめられない」

 紫色の瞳が蕩けるように笑んだ。

「あまり悠長に構えているとイチカの体に限界が来るぞ」

 アスギリオの魂から流れ込む魔力にいつまで体が耐えられるのかアスギリオ本人にもわからなかった。何しろ魔力が皆無という人間をアスギリオは知らない。恐らく突然変異のようなものだろう。

「まぁ長期戦にしてイチカが動けなくなるのを待つ、という手もあるが」

 魔力負荷に耐えられなくなれば誰かが手を下すことなくイチカは死ぬ。そうすればアスギリオは封印の向こう側へと去り、世界は守られて全ては万々歳だろうとアスギリオは無理矢理に笑った。

「そんな手ないよ。俺はイチカを死なせない。何としてでも、だ」

 そのために来たのだと灰白色の瞳が臆することなく紫色の瞳を見る。アスギリオのくちびるが嘲笑めいた弧を引いた。

「私を、救えなかったくせに」

 ぞくりとスノウの背筋に冷たいものが走った。

「私には、そんなこと、しなかったくせに」

 アスギリオの感情に引きずられて彼女の周囲が青く光る。魔力圧が高まっていく。アスギリオは杖から立ち上がり、スノウと同様に足の下に魔力を集めて空に立つ。その周囲で強い魔力が渦を巻き始め、尋常ならざる圧の高さにうっすら青みを帯びて見えた

「言葉など、どうにでも弄することができる」

 夜に沈む空の上で彼女の金色の髪は自ら光を放つ。

「どうして怒るの」

「怒ってなどいない。お前がイチカを死なせないと言うのならやってみろと言っているだけだ」

 アスギリオが笑う。

「違う。俺はイチカを死なせないし、アッシュを開放してみせる」

 イチカを死なせないだけでは足りないのだと少年が声を張り上げる。だがアスギリオはくちびるの端で笑うばかりだ。

「やってみろ」

 魔術の英雄は杖を振り上げた。

 それは曲がりくねった秦皮の木。魔力の伝導率を上げるために宝石がいくつか飾られている。大きな石は外して売ってしまったのだろう。ところどころに石の台座だけを残し、残るのは術石でもない小さな半貴石ばかりだ。それでも今それらはアスギリオの魔力を受けてちらちらと青い光を灯していた。

 杖の先から放たれた光の矢が次々とスノウに襲いかかる。少年は瞬時に編み上げた氷柱でそれを受けながら拘束の術式を口にするが、言霊を紡ぎ終えるより先にアスギリオの手の一振りで氷は強制的に水に戻されて地に落ちた。詠唱が途切れる。くるりとアスギリオが杖を回転させた瞬間に悪寒が走り、スノウは詠唱を放棄して両手を振り上げる。青い光がスノウの周囲を駆け巡って壁となり、その瞬間に炎の龍が激突してきた。防壁ごとあたりを震撼させながらすさまじい熱量に肌が総毛立つ。反射的に口の中で唱えた構築式に応じて少年の足下に四つの真円が走った。アスギリオの背後に転移したスノウが拘束術式を放とうとするのと振り返った龍が炎を吐いたのが同時。拘束式は焼け落ちた。スノウは距離を取って後方へと退いたが、龍の追撃はなくぼろぼろと形を崩しながら消えていった。ただ熱の残滓だけが夕闇迫る夜に漂う。

「反則だろ……」

 思わずつぶやいた。アスギリオがその言葉を聞きつけて笑う。

「何も反則なぞしていないぞ?」

「人間が、無詠唱でその起動速度はおかしい。そんな間髪入れないで構築かけたら反発するだろ」

 呼吸が浅くなる。頭が働かない。戦う、ということを根本的にはき違えていたことに気づかされる。今まで人に魔術を向けたことなどなかったし、明確な敵意でもって攻撃をされたこともない。組み上げてきた術式はどれも平和で牧歌的なものばかりで、その経験を押しのけてアスギリオの攻撃をいなすのは容易ではなかった。

 アスギリオは戦争屋ではない、とクズミは確かにそう言った。だが彼女は明らかに人を攻撃することにためらいがなく、そして手慣れている。

「これでも一応魔術の英雄で通っているからな」

 そう言って笑う彼女の向こう側を、何を重ねてその杖を振るえるのかを、スノウは知らなかった。

「こんなのもあるぞ」

 杖を振る。杖先から生み出された光の帯に薄青い文字が浮かんでは消える。その帯はゆらめきながらアスギリオを包み込んでいき、忽然とその金色の姿をかき消した。スノウが瞠目する。次の瞬間、本能に身を任せて一気に舞い上がった。その背後に何かの気配が迫る。逃げ切れるかどうかといったところで、突然みぞおちに強い衝撃を受けた。予想外の方向からの衝撃に息が詰まり、視界が揺れる。魔力の出力が不安定になり、体勢を崩しかけたのをかろうじて身をひねって安定を図る。無理矢理動かした体の下で青い魔術の光が燃え上がった。スノウの指先が空中に文字を描く。

「全ての事象は収束しあるべき姿を取り戻し、その秩序乱すなかれ!」

 文字は生き物のように中空の一点を目指して泳ぎ、張りついた。アスギリオの姿を再び引きずり出す。光の文字が帯の魔力を腐食させていた。

「やるじゃないか」

 アスギリオは不敵に笑う。術を破られたことなど大したことではないというように。

「お前、魔術を人に向けたことがないんだろう? 大健闘だ。あとは反撃だな」

「俺は、アッシュと戦いたくないよ」

 スノウの表情がゆがむ。確かに獣や守人たちは五門の封印を最優先してきた。それでも守人はアスギリオを憎悪しているわけではないし、獣もまた変わらぬ思慕を抱いてアスギリオを思っている。そこに疑いも揺らぎも存在しない。ゆえに数多のアスギリオの後継に獣は惹かれ、ともに生きさせてくれと願い、見送ってきた。似た魂に寄り添おうとしてきた。存在の根底にずっとアスギリオを抱えてきた獣が彼女を傷つけたいなどと思うはずがなかった。だがアスギリオは冷たく言い放つ。

「それは私じゃない」

 風が彼女の黄金の髪を巻き上げて吹き抜けていった。

「私に似たもので私を語るな。寄り添ったつもりになるな。それは私じゃない」

 五門の向こう側で意識を取り戻したとき、あまりにもむごいと頭を抱えた。時の止まった深遠の闇の中でただ一人意識を持ち続けるのかと。アスギリオに五門を開けることはできない。そのための鍵だ。頭ではわかっていたはずの現実はいともたやすく心を折りにくるのだと思い知らされた。ならばせめて外の様子を知るだけでもと願って、混濁と覚醒を繰り返す中で意識が戻るたびに幾通りも幾通りも術式を編み上げ、起動し、五門の壁に阻まれた。それでも他にやることもないのだ。飽きもせずに実験と失敗を繰り返してそうして、どれほどの時が経ったのか、ついに意識だけを外に出すことに成功した。はやる心が辿るのは分け与えた魂のかけらと魔力。

 ──イァーマ。

 アスギリオの生み出した獣。魂の半身。必ずそばにあると、彼はそう言った。確かに彼の気配がある。魂がそこにいると知覚する。

「増えてるなとは思ったがまぁ、元々本性が一つではないしそういうこともあるかと思った。たとえ分かたれていてもイァーマはイァーマだ。何も変わらない。そう思ったよ」

 そうして目にしたのは。

「知らないやつと楽しそうに生きてるイァーマだった」

 アスギリオの凄絶な笑みにスノウは言葉を失う。

「いや、わかるぞ。わかるさ。イァーマは単身で命を回せない。そんなことは私が一番よく知ってる。だが守人? 私の後継? 何を言っている?」

 感情に引きずられて魔力が燃え上がる。

「イァーマは、私の獣だ。誰かにやった覚えなどない」

 紫色の双眸に走る激情は嫉妬と羨望とそして、憎悪の色をしていた。

 スノウの脳裏にレムリィリの言葉がよぎる。

 ──守人はアッシュの代わりではなく、アッシュのそばにいるための道具でもありません。

 拳を握りしめる。守人を選ぶということがこんなにも彼女を傷つけている。かける言葉を見つけられない自分があまりにも情けなかった。

「そんなわけで私は守人というものに結構な焼き餅を焼いている。お前たちは誰だ、とさえ思っている。だから」

 美しい手が自らの胸元を示した。

「イチカを守るのはお前次第ということだ」

 仮にここでイチカが死んだとしてもアスギリオは傷つかない。それどころか少しだけいい気味だと思う。

「ふふ、お前が思っているよりずっと私はねじくれているんだ」

 そう言ってアスギリオは笑ってみせる。

「さぁ世界を守るんだろう? この体を殺せばいい。そうすれば私はおとなしく帰るさ」

「嫌だ。イチカは絶対に死なせない」

 半ば反射的に答える。アスギリオが鼻白んだ。

「お前以外の全員がイチカを殺して封印を守れと言っているのに?」

 今までみんなそうしてきたのにと不愉快げにひそめられる眉に構うことなくスノウは吠えた。

「関係ない。俺は絶対に、絶対にイチカを死なせないって決めたんだ」

 ──お前の望みを言え。

 突然イチカの声が耳の奥によみがえる。体が熱くなる。灰白色の瞳が燃え上がるようだ。両手が空中に円を描く。青い炎がほとばしる。

「イチカを死なせない。それが俺の、望みだ」

 拘束の術式に気象操作を乗せる。横殴りの吹雪が突如アスギリオに襲いかかる。アスギリオが口の中で言霊を重ねながら杖を回転させた。杖先からつむがれた術式が吹雪をほどいてただの風へと変じさせていく。視界が晴れると同時にとぷりとスノウの姿がかき消えたが、魔術の英雄は動揺することなく右手で杖を横薙ぎに振り払う。それは転移術式から肉薄しようとしたスノウの横っ面を的確にとらえ、容赦なく跳ね飛ばした。

「大言壮語は若さの特権だが、過ぎると不快だぞ」

 風が渦を巻く。スノウが周囲の空気を固めて体制を立て直し、そのままアスギリオに風の網を向けようとするのをすかさず杖が相殺する。

「道筋はできてる。俺たちはやれる。アッシュだってわかるだろ?」

「やれるかどうかなんてもうどうでもいい。お前たちは私より世界が大事で私より守人が大事なんだろう。それがどうしようもなく不愉快だ」

 杖を持たぬ方の手が指先で中空に文字を描く。青い光を放ちながら氷の矢となってスノウに降り注いだ。咄嗟の防護壁が間に合わない。

「ぅ、あ……ッ」

 右の上腕をぶち抜かれてスノウは一瞬体勢を崩した。だが即座に身をひねって追撃をかわし、認識阻害の術式で軌道をそらす。体の修復は即時に行えるが、痛みと衝撃は処理するのに時間を要した。肩で息をしながらスノウは言葉を探そうとするが、頭が回らない。アスギリオを納得させるだけの言葉をつむげない。イチカを思う気持ちとアスギリオを思う気持ちに序列などないのに。

「獣といえど痛いだろう。そうまでする必要があるか? どのみちお前より先にイチカは死ぬ。お前は残される。早いか遅いかの違いなら世界を守って私を満足させて終わればいいだろうに」

 スノウは奥歯を噛みしめる。腹の奥からふつふつと何かがせり上がる。その感情の名を自覚するより先に言葉がほとばしった。

「焼き餅でも恨み節でも何でもいいよ。俺たちはアッシュを救えなかった。それは事実だ。でもそれをイチカにぶつけるのは間違ってるだろ」

 アッシュ、とスノウがアスギリオの名を呼ぶ。

「俺はアッシュのことが好きだよ。イァーマはアッシュのことを愛してる。それは何代経っても何年経っても変わらない。ずっと付き合う。魂がある限りずっと。でも、イチカはイァーマでもアッシュでもないんだ」

 スノウの手のひらが翻る。それは砂金を撒くように見えた。金色の光が夜に満ちる。

「イチカを返して」

 アスギリオが張り巡らせた魔力の壁に金色が激突して爆発を引き起こす。空気が逆巻いて収束し、白い光が目を焼いた。髪が乱され、スノウの姿がかき消える。間髪入れずに襲い来る拘束術式をいなしながらアスギリオはスノウを探した。

「ん……?」

 脈絡なく星が漂っていた。燐光たなびく光が場違いなほどふわりふわりと優しく浮かび上がり、ぱっとはじけて火花を散らす。帚星のように尾を引いて落ちるものもあればかすんで消え行く光もある。夜の中でか細くはかない光はひどく幻想的で、それがスノウの魔力をこぼれさせたものだと知るのにアスギリオは少しだけ時間を要した。

「攪乱のつもりか」

 星がはじけるたびに魔力圧が上がっていく。星の一つ一つが放つ魔力によってスノウの居所がぼんやりしてつかめない。確かにそちらにいるはずだと意識を向れば反対側から呼ばれたような気がして、定まらない。舌打ちをするのと同時に声が響いた。

「我が力の残滓、永遠ならしめる理より放たれ、反転し、今わが言葉に従え!」

 星が、空へ落ちる。地から天へと落ちる星がはじけて真っ白にあたりを染め上げる。視界が奪われる。咄嗟に言葉の方へ光弾を放つが手応えがない。視界を巡らせようとして、本能でばっと頭上を振り仰ぐ。夜の中に、白。

「アッシュ──ッ!」

 魔力の足場をほどいてスノウが落ちてくる。そう思った瞬間には眼前に灰白色。スノウは金の指輪をくわえていた。それは淡い緑色の術石で飾られた、指輪。緑の術石は風の力を引き出す。風に体重を乗せて滑空し、肉薄したのだ。どん、と衝撃を受けてアスギリオは体勢を崩される。杖がすり抜ける。立て直せない。

 ──落ちる。

 腹の中心をつかまれて地上へと引きずり下ろされる。髪が視界を塞いで舞い上がる。まっすぐに空を落ちる。一瞬のうちに自分の身に起きたことを理解して、それでも半ば反射で術式をつむごうとしたアスギリオをに誰かがしがみついている。その正体を知るのと、ばさりと羽音がしたのが同時。

「あ……」

 音がこぼれた。

 白い翼が視界を覆っていた。自分を抱き締める少年の背中にいっそ不釣り合いな巨大な白い翼。彼の姿が変じていく。アスギリオを抱く腕は鱗に覆われた足へ、全身は衣服ごと羽毛の中に埋もれ、後頭部には飾り羽。変わらぬ色の瞳がアスギリオの顔をのぞき込んで、そして力強く羽ばたいた。その羽ばたき一つでアスギリオの体は落下を止め、そうして優しい風に乗ってゆっくりと地上へと降ろされた。すとんと膝をつく。あたりは夜に沈んで星明かりばかり、生き物の気配は無い。ただかすかな風に丈の低い草がそよぐばかりの、開けた場所だ。すぐそこが落ち込んでいて、どうやら水が溜まっているらしかった。呆然としゃがみこんだままのアスギリオのすぐ隣に自ら光を放つような白い鳥が降り立ち、そうして輪郭を崩して人の姿を取った。

 その姿を見上げる。純白の髪と灰白色の双眸。幼さを残した横顔はけれど、確かに愛したものの面影を宿していた。

「そうだお前、飛べるんだったな」

 イァーマの本性は五つの獣の姿。それら全てを押し込めて外側を組み直して人となる。そんなことを思い出した。忘れていたわけではなかったが、どこか遠いことのように感じていたようだ。口では獣と言いながらその人格を当たり前の一人の人間だと思っていた。

「二人乗りなんかしなくてよかったろうに」

 喉の奥で思わずつぶやく。わざわざ杖に乗らなくても彼なら城壁の一つや二つ下りるに苦はない。するとスノウがきょとんとアスギリオを見た。

「だって二人で乗るのが良かったんでしょ?」

 その声はスノウのものでありながらスノウのものではなく。

「イァーマ……」

 滲む視界の向こうに確かに懐かしい顔が見えた。胸の奥が熱い。彼がそこにいると、確かにそう思った。

「大丈夫? 爪、痛くなかった?」

 スノウがアスギリオの傍らに膝をついてその腹と背を交互にのぞきこむ。咄嗟のことに力加減ができた気がしないと心配そうにする少年を半ば衝動的にかき抱いた。驚いて肩を跳ねさせたスノウだったが、やがてアスギリオの背に手を回してぎこちなく抱き締めた。かつての守人にしたようにその背を何度も撫でる。それだけのことにアスギリオの双眸に涙があふれた。当たり前のぬくもりが腕の中にある。感情がこぼれて名をつむぐ。

「イァーマ……」

 ──ああそうだ。

 お前は、あたたかいんだった。

 嗚咽がこぼれる。こんな、こんな当たり前を手放して自分は何をしてしまったのだろう。戯れに手をつけた世界を組み替える術式。それはすなわち世界を破壊することに他ならないのだと思いもしなかった。イァーマに説明したら彼はどんな反応をしただろう。きっと呆れたような顔をして次の瞬間に素っ頓狂な声を上げて、そうして馬鹿じゃないのと言ってアスギリオを詰っただろう。そうしてその術式を表に出すことなく無に帰し、全てを始まらないままに終わらせたはずだ。

「ああどうして、そうならなかったんだろう……」

 日々の小さな文句を口にしながらもそれを上回る幸せな時を重ねて、そうして命をまっとうすることができたはずなのに。どうして、こうなってしまったのだろう。自嘲がこぼれる。きっとどこかで自分は間違えたのだ。

「でも、どこかわからないんだ……どうすれば正せるのか、わからないんだ……」

 スノウは黙ってアスギリオの体を抱き締める。かすかに震える肩は存外に細く華奢で、身長とそう変わらない長さの杖を振り回せるようには思えない。ぼろぼろとこぼれる涙がスノウの肩口を濡らす。体温よりも熱いそれはやがてひやりとまとわりつき、腕の中の体温を鮮やかにするようだった。

「俺も、わからない。俺も、俺たちも、いっぱい間違えた。でも正す方法なんてわからないからだから、今できることをしようと思ったんだ」

 たどたどしい言葉を重ねる。

「一緒に考えよう。これからどうするか、一緒に決めよう」

「イァーマ……」

 触れあったぬくもりが融けていく。あの石英の洞窟であふれた思慕が今、融けていく。

「ねえアッシュ。ずっと、ずっと会いたかったんだ」

「……私もだ。ずっと、さみしかった。お前に、会いたかった」

 瞠目する。夕映えの中で自分を抱いてくれたあの腕に今、自分はいる。突然それを認識した。

 涙が堰を切ってあふれ出した。アッシュ、とくちびるが名をつむぐ。何度も何度もその名を重ねながら、御しきれぬ感情がほとばしる。声を上げてスノウは泣き崩れた。幼い子供のようにわんわんと泣き続ける自分を抑えられなかった。ただ胸の内にこみ上げる愛おしさが熱い。

 星明かりの草原で二人抱き合って泣いた。声を上げて、互いの名を呼びながらあの別れを悔やみ、惜しみ、そうして今触れあうぬくもりに魂が融けていく心地がした。ここに至るまでの時の長さも、世界がどうの五門がどうのという題目も何もかもが形を失う。そんなものどうでもよかった。そんなもののために獣は生きてきたわけではない。ただこのぬくもりを、初めて見た美しいあの光景をもう一度目にするために生きてきたのだ。

 どれほどそうしていたのか、このまま全て融けあってしまえばいいのにとさえ思いながら、そうはなれないことを二人は知っている。スノウ、とアスギリオが少年を呼んだ。ゆるやかに腕をほどいて、開放する。

「約束だったな。イチカを返そう。何、リハンのようにはならないさ。私が無理矢理乗っ取ったんだから、私が離れれば元に戻る」

 名残を振り切るように一度首を振って、スノウから離れる。

「リハンはどうして……」

 泣きはらした目でスノウがつぶやいた。

「本人が拒んだ。もう嫌だと言って。それが守人の話なのか、人生それ自体の話かまではわからん」

 体の持ち主が全てを拒んで閉じこもってしまえばたとえアスギリオが離れたところで肉体の主導権は宙ぶらりんになるだけだ。彼は獣を拒んだ。それはアスギリオの干渉ではなく獣の落ち度でなく、彼自身の決定だ。長い問答の末に結局、クズミが手を下した。

「残酷な話だがな」

 膝を払って立ち上がれば、スノウも慌てて立ち上がった。眼前に立った少年はアスギリオと目線が変わらない。灰白色の瞳を間近に見た。

「前から思っていたが、そんなきれいに五色に分ける必要があったか?」

 ことさらに茶化せば、スノウは呆れたようにため息をついた。その仕草にやはり自分の知る姿を重ねてしまってアスギリオはわずかくちびるを噛みしめる。

「俺もそう思う。結構悪目立ちするんだよね」

 不思議なことにスノウはイァーマの顔を知らない。アスギリオのことはよく覚えているのに自分のこととなるともやがかかったように思い出せなかった。顔立ちも、色も。今ほど鏡をのぞき込むことが多い時代でなかったことを差し引いても少し奇妙だった。そうして尋ねる。

「イァーマは何色だった?」

「亜麻色。目は、空の青だ」

 知らない色彩にスノウはわずか目を見開いた。きょうだいの誰も持っていないそれに、ああそうかと呆然とつぶやく。

「イァーマは、アッシュだけの獣だから」

 そのかたちだけは分けなかったのだ。アスギリオの後継を選んで魂を分けてもらう。彼女が守ろうとした世界を守るためにはそれしかない。だがそれは同時にアスギリオの傷になり得るとわかっていたのだろう。ゆえに自分と同じ姿に作らず、名前も引き継がなかった。それは予想ではなく確信だった。その感情に覚えがある。ナナのための自分であろうとした自分と、きっと同じだ。そしてようやく理解した。

「俺は、イァーマだけどイァーマじゃないんだ」

 口にしてみれば当たり前のことだ。たとえ魂を使い回していたとしても完全に同じ存在にはならない。それはクズミたちの口ぶりからも明らかだ。傾向はあれど、全ての獣の人格と意思は独立している。

「俺は、俺の望みを叶えていいんだな……」

 アスギリオもイチカもどちらも諦めない。それはスノウの確かな望みだが、イァーマの意思ではない。イァーマならイチカよりもアスギリオを選ぶだろう。その当たり前が、すとんと心に落ちた。

「さて、おしまいだな。スノウ。お前は長生きをしてくれ。会えて、よかった」

 無理矢理にアスギリオが笑うのへ、スノウが声を上げる。

「待って、だからどうして人の話を聞かないの。あの術式は囮じゃないってば」

 アスギリオを真正面から見た。金色の髪と紫色の瞳。懐かしいその色彩。そうして泣き出しそうなのを無理矢理に笑う表情。それはあの永の別れの日に似ていた。スノウは首を振る。これは別離ではないのだと。

「俺たちはアッシュの体を作る。アッシュが自分で五門を越えられるなら話もずっと早い。すぐ体を作ってアッシュを呼ぶよ。だから、一緒に五門を開けよう」

 イァーマはもうイァーマではないけれど、それでも彼と願うことは同じはずだ。だから五門を開けてそうして。

「一緒に楽しいことをしよう。そのために俺たちは生まれたんだから」

 暮れ始めの空の色が見開かれてそうして、笑った。

「お前は本当に、むちゃくちゃだな」

 何度も何度も繰り返された言葉に心が軽くなった気がした。仮に彼の言葉が叶わなかったとしてもそれはそれでいいと思える。少なくとも今は、スノウと過ごしたこの時間を愛おしみながら封印の向こうへと戻れそうだった。

「まったく、お前なら本当にできる気がしてくるからたちが悪い」

「だから本当に叶えるってば。アッシュも大概信じてくれないよね」

「そりゃあ千年は短くないからな」

 喉の奥で笑って、そうしてアスギリオは手を伸ばした。スノウの頭を撫でる。イァーマにやったことはない。だがどうしてか、この少年に触れたいと思った。スノウ、と名を呼ぶ。

「まぁ、待つさ。千年はかからないだろう?」

 もちろんと即答する声にゆるやかに破顔して、アスギリオの体から光が立ち上っていく。きらきらと金色の光の粒をまといながら風に紛れて散る花びらのように彼女の体が剥がれていってそうして、闇が訪れた。




 スノウの腕にイチカが落ちる。

「え、待ってイチカ重い」

 ずん、とかかる荷重がアスギリオの倍はありそうだった。支えきれぬ重さではないが先ほどまでの落差に頭が混乱を来し、スノウは思わず声を上げる。

「起きて、イチカ起きて! 重い!」

 長身が身じろいで低くうなって、そうしてぱちりとその双眸が開いた。あまりにもあっけない覚醒にスノウの方が面食らってしまって体勢を崩し、二人は結局草地に投げ出されることとなった。かろうじてイチカの下敷きになることだけは回避し、尻餅をついたスノウは傍らに声をかける。

「……ごめん。無事?」

「ああ。問題ない」

 抑揚のない声が答えて身を起こした。頭上の星空を見上げる。外だった。

「ここはどこだ」

 確かラズバスカをダジューに逃がして引っ越しの段取りを考えていたはずだ。それがなぜ、スノウの腕の中で目を覚まして夜の草原に放り出されるのかまったく前後関係がわからない。スノウが困ったような声で答えた。

「多分、ベーメンドーサだと思うんだけど……」

「ベーメンドーサ……?」

「俺も場所を特定する余裕がなくて」

 どこかのため池のほとりのような景色に覚えがあるような気はするが、定かではない。

「イチカの体がアッシュに乗っ取られちゃって、イチカを殺すしか止める手段がない、五門を開けるわけにはいかないみたいな話になってそれで、ああそうだパンジュのところにいたんだけど」

 草地に座り込むイチカの隣に腰を落ち着けながら何とか状況説明を試みるが、言葉にすればするだけ支離滅裂になるだけだった。イチカがうなり声のような低い声でスノウの名を呼ぶ。

「理解できない話だということは理解した。時系列で話してくれ」

「うん……」

 事の起こりから今に至るまでをたどたどしい言葉で語る間に、渋面を浮かべたイチカの眉間に見たことがないほど深いしわが刻まれていく。そのまま卒倒するのではないかと思うほどの険しい表情にスノウはかける言葉を見つけられない。

「ええと、あの……」

「待て。まったく処理できていない。時間をくれ」

 イチカが意識を奪われていたのは二日ほどだという。その間に体を勝手に使われ、世界が滅びるのどうのの渦中にあって他国の軍やら守人やらを相手に立ち回った挙げ句、眼前の少年と魔術をぶつけ合って英雄は去った。そうして本来の体の持ち主であるイチカは遠国で目を覚ました。そういうことらしい。

「……いや、無理だろう」

 魔術の素養の有無にかかわらず、そうそう受け入れられる内容ではない。

「何がどうしてそうなる?」

 深く長いため息をこぼしながら気休めに眉間をもむ。だが何をどうしたって理解どころか想像も及ばない話だった。全身の倦怠感に考えるのをやめようかとさえ思ったところで気がつく。

「異常に体が重いんだが」

「だと思う。イチカの体に魔力が通ってないのにアッシュが無理矢理に術式使ってたから」

 魔力がないのなら命を燃やすしかない。恐らく何日か寝込む羽目になるだろう。

「寝込むも何も引っ越しだが。いや待て。そもそも今日にはイプリツェにいなきゃならないんじゃなかったか。今日は何日だ」

 焦燥が背筋を駆け上がって血の気が引く。現実と非日常の折り合いの付け方がわからない。

「その辺はクズミたちが何かしてたから大丈夫だと思うけど……」

 言いながらスノウの中で何かが引っかかった。体が動かないと言って立ち上がることなく足を投げ出す横顔を見る。諦観を滲ませる笑いは乾ききって疲労の色が濃く、どこかそげた印象すらある。

「今から荷造りはきついな」

 イチカが自嘲めいた笑いをこぼして、スノウは半ば衝動的にくちびるを開いた。

「ねえイチカ。引っ越し、やめよう」

「スノウ?」

 少年はその表情を知っていた。それは追い詰められた人間が見せる最後のあがきのようなものだ。抗うことを諦めようとして諦めきれない、けれどどうしていいのかわからない。そんなときに浮かべる笑いだ。大丈夫ではないのに大丈夫だと言って笑うのだ。そうして、何かが壊れる。脳裏に菫色の瞳が笑うのが見えた気がした。

「行っちゃだめだ。イプリツェに行ってもイチカが壊れるんじゃ日常を守ったことにはならない」

「……またその話をするのか」

「するよ。何度でもするよ。俺が守りたいのはイチカだ」

 スノウ、とどこかたしなめる調子を見せる青年の声にかぶせて声を張り上げる。

「パンジュがいる。クズミもいる。何だったら力尽くでも何でもいい。戦おう。俺はイチカの平穏な日常生活を守らなきゃいけないんだ」

 なりふりなど構っていられない、使えるものは何でも使うと語気を荒げる少年をイチカはどこか不思議そうに見ていた。かつて逃げようと口にしたときと明らかに表情が違う。戦おう、と言ったのも初めてだった。

「戦う……?」

「そう。俺ずっと無責任に逃げようって言ってた。でもそもそもイチカが逃げる理由なんかないんだ。絶対におかしい。間違ってるのは向こうだ」

 灰白色の瞳が燃えるようだ。彼がこんなにも強い意志を口にしたことはない。

「五門機関だろうが国だろうが、俺は俺の大切な人を害されるのを許さない」

 断言するさまがどこかまぶしくてイチカはわずか目をすがめる。

「イチカはわざわざつらい場所に行きたいの?」

 行く理由がないとスノウは譲らない。そのまっすぐなまなざしに見透かされているような錯覚を覚えて、イチカは深く嘆息した。そうして、ゆるりと首を振った。

「気持ちはありがたいが──」

「アッシュがね、王宮に入ったときも同じだった。招聘を断って追い回されるくらいならおとなしく適当に言うことを聞いて居場所の一つでももらった方がこの国で生きていける、って。でも、そうはならなかった。俺たちは行くべきじゃなかった。王様に居場所なんかもらわなくたって、よかったんだ」

 結局は戦争に使う魔術ばかりを求められてアスギリオは心をすり減らしそうして、今がある。

「多分あのときの俺がやるべきことはアッシュについて行くことじゃなくて王宮に火でもつけてやればよかったんだ」

「……いきなりどうした」

 突然の過激な発言にイチカが珍しくぎょっとした様子を見せる。

「何か、腹立ってきたなって。あのときの自分にもアッシュにも王様にも。もちろん今の状況も。イチカの親とか友達とか人質に取ろうとしてるってことはそれでイチカを思い通りにできるって思ってるってことでしょ。だったらそうはならないって示すしかない」

 むしろ手を出したら痛い目を見ると思い知らせてやらねばならない。

「さすがによその国から圧力かけられて改めないほど馬鹿ではないよね。最悪本当に総督府爆破してもいい」

「待て待て待て。自分が何言ってるかわかってるのか」

 熱を帯びていくスノウにイチカが狼狽の滲む声を上げた。

「わかってるよ。全部、わかってる。俺はイチカを守るって決めたんだ。国だろうが世界だろうが知ったことじゃない」

 その双眸がひたとイチカを見据えて、その確かな覚悟を伝えるようだった。その迫力に気圧されてイチカはわずか息を呑んだ。

「俺はイチカがすり減るのを見るなんて絶対嫌だ」

 毎日毎日少しずつ何かを削り取られてぼろぼろの心と疲れ果てた顔で帰宅してそれでもスノウに向かって大丈夫と笑った菫色の瞳を、あなただけはそのままでいてと泣いた声を、スノウは覚えている。

 沈黙を守るイチカをスノウが静かに呼んだ。

「イチカはどうしたいの」

 苦しんででもその先を望むというのなら話は別だ。だがイチカはそうするしか道がないと口にするばかりで、彼の願いを言葉にはしていない。

「俺は……」

 喉が干からびたようにイチカの声がかすれる。人ならざる色がこちらを見ていた。彼は強い目をするようになっていた。何かを乗り越え、確かに自分の意思でもってイチカに対峙しているのがわかる。初めて会ったときの何かを誤魔化すようにへらりと笑ったさまが遠い。

 風が二人の間を過ぎていった。ふわりと草の匂いがして、イチカは半ば無意識に空を仰いだ。星明かりが闇をわずかに薄めて、その中でスノウの白が鮮やかだ。かつてこの少年に向けた言葉を覚えていた。

「……俺は、魔術の価値など知らない。だからお前にまっとうな人間として生きろと言った」

「うん」

 家主と居候。それ以上でもそれ以下でもない。イチカはそう言ったし、そう過ごしてきた。穏やかでどこか淡々とした、内だ時間は間違いなく心地よかった。だが、イチカは苦しげに眉根を寄せて首を振る。

「でも結局、お前の力を利用しようとしたんだ。お前を、お前の力を使うことなく傍に置くことで魔術に執心する奴らを笑いたかった」

 魔術なんてくそくらえと本心で思っていたはずなのに、気づけば同じ場所で同じ物差しでスノウを測り、己の自尊心を満たそうとした。

「そう理解したら、何を望めばいいのかわからなくなった」

 ──昨日と同じ明日。

 ずっとそう願ってきた。スノウと重ねる時間をことのほか愛おしむ自分を知っている。それが揺らいでしまった。自分はこの子供の善性を尊んでいるのではなく、彼を無垢な子供のまま傍に置き続ける自分を誇示したいのだ。その浅ましさにどう向き合っていいのかわからない。

「……俺が、それでいいと言っても?」

「誠意のないありようが嫌だ」

 彼との日々を好ましいと思う。間違いなく自分は昨日と同じ明日の中にこの少年を数えている。だがそれを彼に伝えていいのか、わからなかった。自分は本当に気安い同居人として彼を扱えるのか、彼の尊厳を守りきれるのか。懐疑がイチカのくちびるを閉ざす。

 ふっとスノウが笑った。

「そうだ、意外に理想主義者なんだった」

 覚えのあるやりとりにイチカは思わず視線を上げる。

「俺はイチカのそういうとこが好きだよ」

 ゆるく笑みをひくまなざしが優しい。だが同時にどこか不安定にも見えた。

「人一人救えるのなら、と命を差し出してくれた。俺に人として生きろと言ってくれた。それがその場しのぎのきれい事じゃないって俺が一番知ってる。大丈夫。俺にはそれで十分だ」

 イチカは一度としてスノウに何かを命令したり強要したりしたことはない。自分で考えて決めろと、必ずそう言った。当たり前にスノウと食事を共にし、家計の負担が増えたはずなのにそのことは口にしなかった。スノウに今日は何をしたかを問い、話を聞いてくれた。スノウの小さな望みを取りこぼすことなく拾い上げ、休日には二人ふらりと出かけたりもした。その何でもない時間に確かに何かが満たされていったのだ。あの時間を知った今、イチカが昨日と同じ明日を望むと言った意味がよくわかる。

「イチカを守るよ。イチカの日常を守るよ。昨日と同じ明日を取り戻すよ。でもきっと、俺はそこにいない方がいい。俺がいる限りイチカは追い回されて、摩耗していく」

 どれほど物理的に守人から離れられるものなのか試したことはないが、最悪の場合スノウの意識を封じてしまえばいい。結びついた魂さえ存在していればイチカの命が脅かされることはない。守人であることはやめられなくとも、隣に獣がおらず魔力も無い一市民には戻れる。その背後に他国と五門機関がついていると知っていながら手を出すだけの価値はなくなる。矢継ぎ早にそう語るスノウをイチカが遮った。

「なぜそんな話になる」

 男の声音が固い。

「イチカの望みを叶えるのに、一番の邪魔ものが俺だからだよ」

 アスギリオがイチカを押しのけたあの日、イチカが口にした言葉を覚えている。これが守人になるということかと、何かを悟ったような諦めたような声で呆然とつぶやいたのだ。あの瞬間にスノウは理解したのかもしれない。イチカの望みと自分の存在はどうあっても相容れないと。

「スノウ」

 イチカがわずか語勢を強める。

「人の望みを自分の望みにするなと言ったはずだが」

「イチカの望みが俺の望みだ。イチカが害されることなく生きることが何よりの望みだ」

 視線がぶつかる。黒と白。対照的な色彩は互いに譲らない。

「できもしないことを言うな。お前は自分で思っているより生き汚いぞ」

 ナナだけの自分で終わりたかったのにと言いながらイチカの前に現れた。そうして契約で命を長らえ、新しい生活をそれなりに楽しんで過ごしてきた。彼がつむいだ言葉とは裏腹に彼は人生の楽しみ方を知っている。イチカはそのことに安堵したのだ。

「……わかってるよ。手放すのは怖いよ。嫌だよ。でも自分の望みもわからなくなったなんてイチカに言わせるのはもっと嫌だよ」

「そんなものはまた探せばいい。お前は先回りをしすぎるんだ。俺がいつお前と離れたいと言った。守人をやめたいなどと口にした。勝手に決めつけて消えようとするな」

 怒ったような口調に灰白色がまたたいた。

「イチカは、守人でいたいの?」

「違う。お前といたいんだ」

 予想していなかった言葉にスノウが息を飲む。

「イチカ……? え、だってイチカは守人を愚かだって……」

 イチカが長いため息をつく。

「守人になればどれほど獣の価値から距離を置いたつもりでも必ず自分の中にその価値ができあがる。それを軽視していた俺が愚かだという話だ。お前をただの人間として扱っているつもりがその実、獣としての価値を切り離せていなかった」

 スノウ、とイチカが名を呼んだ。ゆっくり立ち上がる。全身の倦怠感はひどいが、動かないほどではない。

「お前を一人の人間として扱っているつもりだった。だが結局俺はお前を獣として見ていた。それに気づきもしないでえらそうなことを並べ立てた。すまなかった」

 それでも、と真摯な声が続く。

「お前にまっとうな人として生きて欲しいというのは本心のつもりだ。俺の日常にはお前がいる。昨日と同じ明日にお前がいないのならそれは同じ明日ではない」

 漆黒がスノウをひたと見た。

「だから望んでもいいか。俺はお前と生きていきたいと望んでもいいか」

 灰白色の双眸が見開かれていく。体が熱を帯びるようだ。告げられた言葉の意味を理解している。何もかもが、胸中にわだかまっていた表現しようのないものの全てが霧散していくようだった。へにゃりとスノウの表情が泣き笑いにほどける。

 見上げた黒い瞳に自分が映っている。初めて会ったときはもっと自分の身長が高くてこんなにイチカの顔は遠くなかった。だがあのときよりもイチカの言葉が届く心地がする。それはイチカも同じだろうかと願ってしまった。

「俺は、望んでもいいのかな」

「何を」

 イチカの声は素っ気ない。いつも通りだ。彼は淡々とした声でいつも問う。

 ──お前はどうしたい。

 スノウは一度息を吸って吐いて、胸を張る。

「俺は、イチカと生きていきたいんだ」

 見据えた先にある長身。にこりともせずにイチカは答えた。

「始めからそう言え」

 スノウはくちびるを噛みしめる。こみ上げる感情を押し戻しながら、無理矢理に笑った。

「これでも、いっぱい考えたんだよ」

 イチカを死なせないと決めて必死にできることを探して重ねてアスギリオと対峙してそうしてその先。イチカを帰すべき場所へ帰さねばと思ったのだ。

「そうだろうな。だからそうなる。お前は物事を考えるときの主語が大きすぎるんだ」

 主語が大きいくせその勘定に自分が入っていない。ゆえに話がこじれる。

「俺がしたいのは俺とお前の話だ」

 スノウが獣であることも自分が守人であることも事実で、そこについて回る様々に蓋をすることはできない。彼が人ではないこと、彼が隣にいることの意味を受け止めながらそれでも、イチカはスノウに一人の人間として対峙したかった。イチカらしからぬ強いまなざしにスノウは口を開く。

「……俺、イチカといるの楽しいんだ。すごく、楽しいんだ。だから、ずっとこんな日が続けばいいって思ってた」

「なら、続ける努力をするしかない。俺とお前で、平穏な日常を守る。それだけだ」

 スノウは拳で目頭を強引にぬぐってにじみ始めた涙を誤魔化す。ただただ胸が熱かった。

「うん。うん……! 俺にはそれが一番大事だ」

 世界なんかよりもずっとと、嗚咽を飲み込みながら声を張る姿にイチカのくちびるがわずかゆるんだ。

「熱烈だな」

 ふと体が軽くなっている気がした。倦怠感は変わらないが、つかえがとれたような心地だ。そうしてようやく、いつもの自分が戻ってくる。

「話は終わりだ。帰るぞスノウ。腹が減った」

 それはまるで市場の買い出しから帰るような物言いで。

「あ、待ってイチカ。一度みんなのところに戻らないと」

 ベーメンドーサ軍と五門機関の魔術師の相手をしているはずだと言われ、イチカは盛大に顔をしかめた。

「だからどうしてそう話が大きくなるんだ」

「あはは、こればっかは仕方ないよ。終わらせて、早く帰ろう」

 苦笑するスノウの足下に青い光が走って正円を描く。スノウはイチカの手をとった。

「鯖の塩焼きをパンに挟むとおいしいんだって。玉葱も一緒に」

「ああ、いいな」

 日常の片鱗に表情がゆるむ。そうして現実を思い出してうんざりとため息をこぼした。

「もう腹をくくるしかないな」

「イチカ?」

「戦うか、スノウ」

 ──守るべき日常のために。

 灰白色をわずか見開いて、そうしてスノウは破顔した。

「絶対負けないよ」

「当たり前だ」

 やる以上は必ず勝つと抑揚に乏しい声がつむぐ。少年の楽しげな笑い声を残して二人の姿は青い光の向こうへと消え、夜の終わりが残された。


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