4.砂漠

4.砂漠


 スノウは本能で跳ね起きた。全身に鳥肌が立つ。歯の根が合わない。突然冷水を浴びせられたように頭と体が一気に冷えていく。何か、とてつもなく悪いことが起きてしまったことだけを理解している。考えるより先に体が動いた。足がまっすぐに、イチカの寝室に向かう。

「イチカ!」

 いらえを待たずに飛び込んで、そして立ち尽くした。明かりのない部屋に一人の人物が立っている。豪奢な金色の巻き毛が肩から落ちかかり、額には黄金とルビーのサークレット。彫像のように美しい顔が窓から差し込むわずかな街の灯の中で艶然とたたずんでいた。

 スノウは、彼女を知っている。知識でなく記憶でなく、魂の深い場所で知っている。心臓が、痛い。言葉を失うスノウをゆるりと見やる瞳の色は、暮れ始めの空の色。薔薇色のくちびるが音を紡いだ。

「イァーマ」

 スノウの膝が崩れた。わけもわからず両目に涙がにじむ。喉の奥からその名を振り絞る。

「アッシュ……」

 感情が根底から揺さぶられ、ただただ涙があふれてくる。

「久しいな。今はスノウだったか? 楽しそうで何よりだ」

 女が笑んだ。その顔を覚えている。その声を知っている。あの夕映えを、まぶたの裏に焼き付いた彼女の顔を、思い出す。一緒に海に行った。屋台を歩いて揚げ串や焼き菓子や練り飴を食べた。ああでもこうでもないと二人額を付き合わせて魔術の開発もした。雨宿りをした軒先、見上げた空に虹を見つけてはしゃいだのはいつの夏だっただろう。

 ずっと胸の奥に張り付いたままだった感情のままにスノウは泣き崩れる。それは、歓喜だった。

「会いたかった……ずっと、ずっと会いたかった……」

 あふれた言葉にアスギリオは少し驚いたように見やって、そしてああそうかとつぶやいた。

「お前は若いんだったな。ふふ、そうやって惜しんでくれるのも久しぶりな気がする」

 どこか自嘲めいた響きにスノウは面を上げる。涙にゆがむ視界の向こうにアスギリオをとらえ、やはり彼女がそこにいるのだと思えば脳がしびれるようだった。そして同時に違和感に気がつく。この部屋にあるべきものの姿が、ない。

「イチカは、どこ」

 にっこりと女が笑んだ。大仰な仕草でもって自らの胸に手を当てた。

「ここにいる」

 意味を図りかねてきょとんとしたスノウだったが、次の瞬間に声を上げる。

「イチカの体なの」

「理解が早くて助かるよ」

 少年の顔が青ざめた。それがとてつもなく良くないことなのだと自分の中の誰かが警鐘を鳴らす。それだけはあってはならないことだと、耳の奥がうるさい。それなのに、強烈な思慕が心を塗りつぶして頭が働かない。体が動かない。

「まぁ細かい話は親切なクズミお兄さんが教えてくれるさ」

「待って、イチカを、イチカを……」

 口の中が乾上がってからからだ。何かを言わなければと思うが、何を言えばいいのかわからない。

「返して欲しいか? 私よりもイチカを選ぶか?」

 ひらりとひとひら混じる拗ねた調子にスノウは言葉を失う。

「まぁ、ゆっくり決めろ。私は急いでいないからな」

 歌うように言って、アスギリオは窓を開け放った。片眉をわずか持ち上げてほう、とつぶやく。

「なるほど、これが術石というやつか。確かにこれだけ魔力の循環を単純化して回収できるなら街の灯りにはもってこいだ」

 どうやら術石の街路灯に感心しているらしい。その背中に追いすがるように声を張り上げる。足は張り付いたように動かないままだ。

「待って、いかないで。いかないでアッシュ」

「熱烈だな。だがそうもいかない。お前とはもう少し話してみたいが、じきにクズミが来る」

 美しい顔が笑って、スノウの前に片膝をついた。アスギリオの手がどこかあどけなさを残す頬に触れた。

「またな、スノウ」

 優しい声音が意識をからめとる。いかないでとつむごうとした言葉は立ち消え、指先一つ抗うことができぬままにスノウの意識は突如闇に沈んだ。

「──スノウ。大丈夫か」

 どれほど経ったのか、呼び起こす声がする。それは兄弟の声だった。ゆっくり目を開ければ、赤と黄。名前を呼ぼうとした瞬間、吐き気がせり上がった。思わず口元を押さえる。どうしてか全身が熱を帯びているようだった。

「大丈夫です。大丈夫ですよ」

 レムリィリの手がスノウの胸元を撫でる。そこからぬくもりが広がって、全身を包んでいった。静かに全身の倦怠感が抜けていく。

「二人とも、どうして……」

「何が起きたかはわかってる。説明もする。飛べるか」

 クズミの赤い瞳が痛いほどの真剣さを帯びてスノウを見る。スノウは浅くうなずき、かろうじて立ち上がった。内臓の不快感が少し残っているが、動けないほどではない。

「飛ぶって、どこへ」

「アフタビーイェ」

 どこだっけ、とその名前が示す場所を認識するのに時間がかかった。パンジュとヴィーユールの国だ。なぜそこへと尋ねかけてやめる。答えを受け取る余裕がない。頭が重い。体の中の魔力の流れがおかしくなっているようだった。

「門陣がないから少し時間かかるぞ。つらければ本性に戻ってもいい」

 クズミが早口でそう言い終わるか終わらないかのうちに部屋が青い炎に照らし出される。真円が四つと方角を示す文字が闇に浮かび上がり、魔力の圧が高まっていく。レムリィリがスノウに寄り添う。

「目当ては黒鱗のティーレと紫尾のヴィーユール。月下の砂漠へ、疾く奔れ」

 魔術の精度を上げるための言霊を乗せ、起動する。

 青い炎に包まれた三人がたどり着いたのは遊牧民の幕屋のようだった。室内ではあるが幾重にも絨毯が重ねて敷かれ、さらに毛氈を吊って屋根のようにしつらえてある。ちょうど転移の魔術陣が展開するだけの場所を空けて周囲には紗がつるされ、その向こう側にまだ生活空間があるようだ。

 本調子ではない状態での転移のせいか、スノウの足がもつれて思わず膝をついた。

「スノウ。大丈夫?」

 聞き覚えのある声がして、黒髪の娘が駆け寄ってくる。ゆったりとした長衣を纏い、その背を覆う長い黒髪は結ばれていない。のぞきこんでくる顔に既視感を覚え、スノウはつぶやいた。

「ティーレ……?」

 確かめるように名を呼べば、アルがいない今あの姿でいる理由はもうないのだと、寂しげに笑った。アル、という名前にスノウの胸が痛む。ティーレがスノウを抱き起こそうと体に触れると自分の意思とは無関係に体が跳ねた。

「……ごめん。何か、変なんだ」

「大丈夫よ。自分で立てる?」

「……大丈夫」

 ティーレはスノウを天幕の下に連れて行き、すぐに暖かい茶を用意する。スノウは山のように積まれたクッションに身を沈めた。少し酔ったのかもしれない。

「ヴィーユールとパンジュがすぐに来るわ」

 ティーレの声を聞きながら初めてスノウは大きく息を吸った。空気の匂いが違う。ぼんやりと紗の幕の向こう側を見れば、小さな窓の向こうに遙か地平線を臨めた。波を打つ砂の海だ。月の光に青白く照らし出されている。

「何で、アフタビーイェなの」

 ティーレから茶を受け取り、スノウが尋ねる。

「ここは五門機関との有事協約にまだ調印してないから、多分一番安全なんだ」

 答えたのはクズミだ。クズミは天幕の一隅に置かれた巨大な水盤を凝視している。スノウからは水盤の中身は見えないが、水面がぐるぐると輪を描いているらしいことだけはわかった。

「安全?」

 その言葉の意味が理解できない。さらに尋ねようとしたところへ、部屋の扉が開いた。小さな鈴の音が響き渡る。パンジュとヴィーユールだ。

「無事か? 白の獣」

 パンジュは鳥かごのような形の盆を手にしていた。丸盆から垂直に取っ手が伸びたそれは真鍮製で、棗椰子や胡麻のクッキー、胡桃を練り込んだパイが乗っていた。

「本格的に腹が減っているなら肉も運ばせよう」

 ヴィーユールが食事用の布を広げ、その上に食べ物と茶と、薔薇水を置く。そして気遣わしげにスノウに言った。

「大丈夫?」

 何度目になるかわからない大丈夫を返し、スノウは一同を見る。獣が四人と守人一人。全員が全員、深刻な顔をしている。その表情に漠然と皆は事情を知っているのだとわかった。喉の奥から声を絞り出す。

「ねえ、教えて。どうして、イチカがアッシュになるの」

 スノウの声は縋るような響きを帯びている。金色の巻き毛をした、美しい顔。あれが本物のアスギリオなのだとスノウは魂で理解している。だがその理由がわからなかった。ヴィーユールは不審げに眉をひそめたが、年嵩の三人は渋面を浮かべる。レムリィリとティーレの視線に背を押されるように、クズミが重い口を開いた。

「守人とアスギリオは魂の形が似てる。だから、守人が弱れば入り込んでくる」

 そうしてその体を乗っ取ってしまえるのだ。

「そんなことって、ある……?」

 夢渡りのように魂だけが移動することは不可能ではないとされている。だが人体まるごと自分の体として再構築するなんて荒技にもほどがある。

「魔術の英雄だからな。結構な無茶をしてくる」

「どうして……」

 何のために、と切れ切れにつぶやくスノウを見てクズミは複雑そうに答える。

「五門を開放して自分の体を取り戻すためだ」

「でもそれは……」

「そう、世界が滅ぶ」

 五柱術式とアスギリオを分離することはできないと言ったのはほかならぬクズミだ。

「レム。交代」

 水盤の前をレムリィリに譲り、クズミが皆のほうへ向き直る。長いため息をついた。

「あいつはこれから五門を開放して自分の体を取り戻そうとする。俺たちはそれを止めなきゃならない」

 クズミの指先があぐらをかいた膝を小刻みに打つ。一度目を閉じて、そしてスノウを見た。灰白色の瞳と赤い瞳が向き合う。

「同時に、五門機関がスノウの命を狙うだろう。それも、阻止する」

「俺……?」

 予想していなかった言葉にスノウはクッションに背を預けたままいぶかしげな声を上げた。アスギリオを止めるという話だったはずだ。

「まぁ、そうなるな」

 あぐらをかいて腕を組み、パンジュが深く息を吐き出す。

「アスギリオ本人を止めるのは難しい。相手は魔術の英雄。到底一筋縄ではいかぬだろう。だが体がイチカのものなら、スノウの心臓を止めればイチカの体も止まる」

 働かぬ頭で一理ある、とスノウが思ったときだった。

「それを、本人の前で言う神経が、信じられない」

 紫の獣だった。怒りに体が震え、小鈴がちりちりと空気を揺らす。だがそれを感情の浮かばぬ目で見やりながら、パンジュは淡々と言葉をつむいだ。

「だが五門機関は間違いなくそちらの選択をするつもりでいるぞ。だから、スノウをここに連れてきたのであろ?」

 クズミが浅くうなずいた。他の国家では、五門機関に逆らえないのだ。五門機関所属の魔術師や研究者の恩恵にあずかりたいと考える国は多く、ユルハもまた例外ではない。幸い、アフタビーイェはいまだ国交がない。

「殺すこともできぬ英雄を相手取るよりも獣一人殺すほうがまだ勝算があると踏んでいるのであろうな」

「パンジュ!」

「ヴィー。子供でもあるまい。癇癪を起こしている場合ではないよ」

 砂漠の王子の声は平坦だ。だがその琥珀色の瞳には強い意志を宿している。

「わしらはそういう選択も考慮に入れて行動せねばならぬ。スノウの心臓を止めればイチカの心臓も止まる。宿る体がなくなれば、英雄は封印の向こうに去る。世界は守られる。それは事実だ。そうであろ?」

「それはそうだけど!」

 ヴィーユールが苛立たしげに食いつく。

「兄弟を殺すって言われて怒らないでいられるの」

「己の手で兄弟を殺すものなど掃いて捨てるほどおる。そなたの尺度で乱すな。時間がないのだ」

 どこか酷薄な色を宿した声音言って、男は息をつく。

「五門機関本部で早々にイチカ・ラムダットファン・ローの討伐命令が可決されそうだ。反対意見がないわけではなさそうだが、まぁ明日までもつまい」

 皆が息を呑む。こわばった声で尋ねたのはクズミだった。

「お前さん、どうやってそんな情報を」

 五門機関は世界最高峰の魔術の牙城だ。あの場所から情報を盗み出すことは不可能に近い。するとパンジュがまた芝居がかった調子でため息をつき、両手を広げた。

「わしを誰だと思うておる。魔術師を買収するのに金などいらぬよ」

 その身に煌めく、とりどりの石。肩布を留めるブローチを指さした。繊細な金細工と濃い緑色の石だ。

「これと同等の、純度も密度も最高級の色石だ。これで口を割らぬ魔術師はそもそも五門機関になど興味もなかろう」

 とはいえ、情報が早すぎる。

「……昨日今日の話じゃないだろ。その買収」

「わしが守人になってからずっとだが?」

 クズミが思わず笑った。即座に脳内で金額を計算したらしい。恐ろしい金額になる。

「必要な財は惜しまないのな」

「いつ背中を狙われるかわからんとは思っていたからな」

「うん。そういうところも含めて、俺はお前さんだと思っていたよ」

 その赤い瞳によぎる感情を拾い損ねて、パンジュがわずかに眉根を寄せた。

「前回アッシュが復活したのが、二百年前。俺の守人だった。ゼーレンヴィッツ世界銀行の初代総帥で、お前さんと同じたぐいの人間だったよ」

 頭が回る。才覚があり、人望もある。人の上に立つを当たり前に受け入れ、傲岸不遜でありながら他者のために動き、多くを救って多くに憎まれた。そうして、摩耗した精神の隙間に手を突っ込まれたのだ。

 静かな声が夜に溶けていく。スノウはどこか夢を見ている心地だった。ようやくサイスタでの生活にも慣れてきて、兄弟の存在を知り、仕事も始められたところで突然、命と世界の話が降りかかってきたのだ。平気で二百年前のことが話題にされ、イチカの行方も知れない。しかもそこに自分の命が関わっているという。何が何だかわからなかった。

 ──心臓が痛い。

 そんな気がする。胃袋に砂を詰め込んだような吐き気が収まらず、思考は鈍い。まだ内臓の不快感が完全に抜けたわけでもない。このわけのわからない話の渦中に自分がいることがただただ不愉快だった。

「ちょっと、スノウ大丈夫? 顔色悪いわよ」

 ティーレが慌てた様子でスノウをのぞきこむ。スノウの視界が揺れ始めた。呼吸が浅くなる。熱に浮かされたような状態にどう対処して良いのかわからない。クズミがレムリィリを呼ぶ。

「スノウ。イチカの魔力量はどのくらいですか?」

 ティーレに水盤を預け、レムリィリがスノウのすぐ傍らに座り込む。直接触れぬようにしながら、ゆっくりとスノウの体に手のひらをかざした。

「ほとんど、ないはず……イチカは魔術の才能が、一切ないんだって」

 限界まで上げた魔力圧の中でけろりとしていたのはいつだったか。

 レムリィリの手のひらがスノウの心臓の真上で止まる。そうして光がその場で渦を巻き始めた。

「イチカの体ではアッシュの魔力を受け止めきれないようです。それがスノウのほうに流れ込んできています」

 いくら獣といえど、己のものでない魔力の突然の逆流に悲鳴を上げているらしい。スノウ自身の魔力との反発もあって体の中で半ば暴走している状態だった。

「パンジュ。術石使うよ」

 動いたのはヴィーユールだった。自分の髪飾りについた透明の術石をはずし、スノウの真上に投げる。それは中空にとどまり、スノウの体から光の粒子を吸い上げていった。金色の光を帯びた石はやがてぽとりと落ち、またヴィーユールが別の石を取り出してはスノウの体から魔力を抜いていく。

「量が尋常じゃない。これはちょっとかかるかも」

 次々と自分の装飾品から術石を外しながらヴィーユールは眉をひそめた。そこへ、ティーレが声を上げる。

「動いたわ。ベーメンドーサに向かおうとしてるみたいだけど、速度はとても遅いわよ」

 クズミが立ち上がった。ティーレの肩越しに水盤をのぞき込む。水の上に垂らされた青いインクがいくつも渦を巻き、その下には世界地図が沈められている。ティーレが示したのは金色の彗星。それは確かにユルハからゆっくりと東に向かっているようだった。

「どうするの? イチカを確保して終わり、ってわけじゃないんでしょうこれ」

 捕縛だけでいいならクズミが動いているはずだ。彼は一番の年嵩だけあって魔力の貯蓄量も技術も図抜けているし、五門機関の人間もある程度は動かすだけの力も持っている。過去に守人を乗っ取ったアスギリオに対峙したこともある。にも関わらずまっすぐにアフタビーイェに転移してこうして観測をしているということは、ことはそう単純ではないはずだ。

「アッシュをイチカから引きはがす。それができるのはスノウだけだ」

 朦朧とした意識をかろうじて留め、スノウが顔を上げる。

「イチカの魂を表に引きずり出す。体の主導権を奪い返すんだ」

「どう、やって」

 何かを言いかけてクズミが口を閉ざす。そして思わずと言った様子で顔を歪めた。

「……わからない。俺は、駄目だった」

 クズミの呼びかけに守人は応えなかった。彼の体を殺すことでしかアスギリオを引き剥がせなかったのだ。クズミが自らの手で守人を殺したのは、彼だけだ。アスギリオが笑ったのを覚えている。

 ──引き分け、だな。

 血に濡れた体を抱きながらどうしてと空に向かって慟哭した記憶は、二百年の時を経てなお痛いほどに鮮やかだ。

「正解はない」

 クズミの声は沈痛な響きを帯びている。常に飄々とした雰囲気を持つ男なのにと思って、それだけ切羽詰まった状況なのだといまだ理解できていない自分にスノウは心中で少しだけ笑った。

「つまり俺とイチカで心中するか、イチカ一人を殺すか、っていう二択か」

 スノウの声はかすれている。熱を帯びた瞳は何を見ているのかわからない。沈黙が落ちる。クズミが失敗したというのなら、言葉でアスギリオを引き剥がすのはきっと難しいのだろう。スノウは今までで一番現実感のない話だと思った。クズミがティーレに低く声をかける。黒の獣は小さく異常がないことを告げた。

 ぼんやりと天井を見る。鳥らしい模様を連ねた毛織物が広がっている。身を預けているクッションも粗い織り目なのに手触りは不愉快でなく、薔薇水の香りにふと意識が明瞭になった気がした。こんな場所で自分とイチカの命がどうこう、世界がどうこうという話をしているのがにわかにおかしく思われて、変な笑いがこみ上げてくる。

「あは、ははは……何なんだこれ。ねえ、何なの。これは一体、何なの」

 誰も答えを持ってはいなかった。

「俺はイチカと約束したんだ。俺が居候でイチカが家主で、協力して平穏な日常生活を守る関係になるって。俺はまっとうに人として生きて、イチカの昨日と同じ明日を守るって。なのに、なのにラーズが人質にとられてイプリツェに転勤になって、それだけでわけわかんなかったのに挙げ句にイチカを殺す? 世界を守る? そんなことってある? 何なんだよこれ……!」

 悲痛な声を上げ、少年は両手で顔を覆う。

「俺は獣だ。獣は守人を愛するためにいる。殺すわけがない。苦しめたいわけがない。なのに、なのに……!」

 ──これが守人になるということか。

 イチカはそう言った。黙して己の手のひらを見る男の顔から感情を読み取ることはできず、スノウはかける言葉を見つけられなかった。だが、理解していた。守人にならなければこんなことにはならなかった。スノウが契約しなければイチカの日常は守れた。昨日と同じ明日を望むと言った男から平穏を奪い、友人を奪い、その命の権限すら奪った。

 ──全部俺のせいだ。

 めまいがする。どうして、と頭の中で声がする。

 ──俺は、何を間違えたんだろう。

 噛みしめた奥歯がぎち、と音を立てる。

 ──何もかもだ。

 彼を見いだしたことも、出会ったことも、契約を交わしたことも。自分は何もかもを間違えた。視界が揺れる。

「俺がいなければイチカはこんなことにはならなかった」

 結局のところ、自分が眼前に現れたことがイチカを一番苦しめることだったのだと思い知らされる。しかもそれはもう、取り返しがつかない。胸の奥が痛い。ただ痛い。

「スノウ」

 ヴィーユールがスノウの手に触れた。ぎゅっと握りしめる。そのぬくもりが指先から融けて広がっていくようで、スノウは嗚咽をこぼした。

「楽しかった……楽しかったんだ……」

 イチカと過ごした時間は楽しかった。嘘偽りなくスノウは自由で、イチカの言葉通り獣ではなく人として暮らしていた。確かに自分はここで生きているのだと、形容しがたい実感のようなものさえ覚えた。イチカが与えてくれる言葉は心地よく、彼が肯定してくれる態度に何かが満たされていった。

「俺だけが、楽しかったんだ……!」

 青年はスノウの肩を抱く。華奢な手が何度も背を撫でる。

「ねえ、本当にどうにもならないの」

 紫水晶の双眸が他の獣を見た。

「……アッシュを引き剥がせるかどうかだ。アッシュが自分で離れるか、イチカが体の主導権を取り戻せば殺す理由はなくなる」

「そんなあやふやな話じゃなくて何かないの」

「言っただろう。前回は二百年前、その前に至っては俺も生まれてない。やり方を模索する余裕なんてない」

 とげとげしいヴィーユールの声にクズミもまたかすかな苛立ちを滲ませて応じる。皆が皆、突然の状況に戸惑っているのだとわかる。もちろん五門を守らねばならないことはわかる。だが、それ以外のことが全てもやがかかっているようだった。

「どうしてアッシュはそんなことをするんだろう……」

 スノウは何度目かわからない問いかけを口にして、そして自分でつぶやいた名に衝動的な思慕が顔をのぞかせる。

「せっかく会えたのに……」

 焦がれる響きに、クズミはレムリィリと顔を見合わせた。そしてわずか声の調子を強める。

「五門を守る。確かなのはそれだけだ」

 だができればせめてスノウには死なないで欲しいと言った。スノウが薄く笑う。

「アルが、いないから?」

「……ああ」

 今五門は黒の守人を欠いている。この上白の二人を失えば、五門の安定が崩れる。

「内側から物理でこじ開けられたら困る」

 クズミの言葉にまた違和感を感じながら、その正体を捕まえることができない。眠気が背筋を上ってきていた。

「俺の手に、負えない話だ……」

 消え入りそうな声でそうつぶやいて、スノウの意識は深く深く沈んでいった。レムリィリが小さく首を振り、クズミはそれ以上声をかけるのをやめた。




 起動した術式に遅滞の拘束術式を重ねる。停止の命令式は弾かれた。拘束もあっという間に劣化してぼろぼろと剥がれ落ちていく。イァーマは舌打ちをしてさらに三重に拘束術式を重ね、間断なく魔力を流し続ける。魔術の青い光がバチバチと音を立てて周囲ではじけては散っていった。流星雨のようなそれは場の魔力圧をただただ高めるばかりで、収束へと切り返すことができない。

「いつの間にこんなもの作ったの」

 声を荒げるが、いらえはない。イァーマのすぐ隣にいるアスギリオは口の中で低く制御術式を唱えながら展開しようとする術式を自分の体へと誘導している。彼女の低い声が歌のように低く流れる。青い光が文字の形をなしてアスギリオの体に張り付いていく。それはやがて彼女の体に融けて同化し、アスギリオの体は重ねた文字のおかげで淡く発光するように青みを帯びていた。

 それはのちに五柱術式と名付けられた。世界を構成する五つの因果に干渉し、世界の理を歪める禁術。複雑な概念を内包しながら術式そのものは簡潔で、ただ大量の魔力をのみ必要とした。それは魔術の英雄をもってしても起動にぎりぎり、制御は恐らく不可能という巨大な術式。

 ──生み出したのはアスギリオだった。

 元々は暇つぶしの思いつきだった。戦争の準備にせわしない日常に倦んで、もっと大きな話がしたいと世界そのものの構成式に解析をかけた。とっかかりを見つけるのに多少手間取りはしたが、存外にするすると解析できてしまうことが面白くなってしまったのだ。膨大な量の解析結果を術式の形でまとめ上げるのもアスギリオにとっては格好の息抜きとなり、気づけば前代未聞の大術式を編み上げていた。だが起動にも制御にも尋常でない魔力を必要とし、アスギリオは机上の空論そのものの術式だと笑ったのだ。到底現実的ではないが面白かったと、世間話のつもりでこぼしたそれを、誰かが王宮に持ち込んだ。

「お前がいないときの話だ」

 あらかたの光を体に同化させたアスギリオが低く言った。

「どうせ発動できないと高をくくっていた。わかるだろう? これだけのものを起動できる人間が私以外にいるものか」

 実際どうして発動したのかわからない。仮に生け贄のような強引な手段をとるとして、一人二人の命でまかなえる量ではない。だが、ベーメンドーサの国王は何らかの方法を見いだした。決して負けられない戦であると声高に言っていた王は、五柱術式を起動したのだ。そうして、今がある。

「遅滞術式をもう三重にかけてくれ。お前と話す時間が欲しい」

「……」

「イァーマ」

 鋭く名を呼ばれ、獣は渋面のままに術式をつむぐ。

「どうしてそんなバカの尻拭いをアッシュがしなくちゃいけないんだ」

 アスギリオの魔力を持ってしても起動してしまった五柱術式を停止することはできず、本格的に動き出す寸前の状態で封じるのが精一杯だった。アスギリオの魂で術式の魔力を押さえ込み、イァーマが彼女の体を物理的に封じる。そうすることでしか、滅びを回避することはできなかった。

「ねえやっぱりやめようこんなこと。全て引き受ける必要なんかあるもんか」

「因果律が狂えば最悪世界が滅ぶ。それは、それは駄目だろう……?」

「俺とアッシュには同じことだよ。アッシュが永遠に封じられるならここで世界が滅んで無になるのと何が違うんだ」

 聞いたことのないイァーマの冷たい声は怒りと、確かな憎悪をはらんでいた。

「君はそんなお人好しじゃないだろう」

 アスギリオは答えない。ただイァーマの言葉を噛みしめるように目を閉じて、そうして長い沈黙の果てに首を振った。

「──だめだ」

「なんで!」

 むき出しの感情がアスギリオに向かう。

「作ったのは私だ。私の責任だ。逃げては、駄目だ」

「使ったのはアッシュじゃない!」

「うん、そうだ。私じゃない。でも、私のせいじゃないと目と耳を塞いで何もしないで嵐が過ぎるのを待つのは、きっと違うんだ」

 場違いなほど穏やかな声でアスギリオが笑った。

「なぁイァーマ。飴胡桃はうまかった。海のほとりの、ほら声の大きい親父の茶店。今度孫が生まれるとか言っていただろう。そろそろじゃないか。それから、ああそうだ。林檎を送ると言っていた。あのため池の村から手紙が来ていたんだ」

 いくつもいくつも思い出があふれ出る。イァーマと過ごした時間が楽しかったのだと、満たされていたのだとアスギリオは幸福を口にする。そして同時に、あの楽しい時間の中に確かに人の営みがあったのだと、目を細めた。

「ふふ、ずっとさみしかったんだ。どうして私は一人なんだろうと思っていた」

 確かに人の輪には入れなかった。気づけば敬遠され疎外され、魔術的価値のみを求められた。もういいと拗ねてイァーマを作り出しもした。けれど、それでも愛したものはいた。愛してくれたものはいたのだ。

「この世界を諦められるほどには、絶望していなかったみたいだ」

 へにゃりとまなじりをゆるめて笑った顔が、まぶしかった。

「私はお人好しじゃない。馬鹿な王様に義理立てするつもりもない。でも、それでも」

 ──私は、人を守りたい。

 紫色の双眸にまっすぐな意思があった。透明な笑顔は美しかった。ただただ、美しかった。

「アッシュ……」

 イァーマはくちびるを噛みしめる。

「本当に、本当にそういうところだよ」

 この姿が愛おしいのだ。利用されて傷つけられて他人など知らないと虚勢を張りながらなお寂しいと泣き、誰かを愛そうとする姿が愛おしいのだ。彼女が魔術の英雄ではなくただの人間として必死に生きているのだと、イァーマは知っている。

 拘束術式が剥がれ始めた。ぼろぼろと空気に青い光が散っていく。

 遅滞の術式が切れるのと同時にアスギリオの封印は起動する。イァーマは口早にもう一度拘束術式を重ねる。あとほんの少し、時間が欲しかった。そんな彼の未練をアスギリオは小さく笑って受け止めた。

「ありがとう、イァーマ。お前がいてくれて本当によかった」

 融けるような笑顔でそう言って、けれど堪えきれずに泣き笑いの形にゆがむ。

「ああでも、一人はやっぱりさみしいな」

 きれいにさよならをするつもりだったのにと言って、首を振るアスギリオにイァーマは声を張り上げた。

「知ってるよ。君がさみしがりなことくらい誰よりも俺が知ってるよ」

 術式を編み上げる。青い光がイァーマを取り囲んでいく。

「ずいぶん色々なものを詰め込んでくれたみたいだから、それ全部使わせてもらうよ」

 アスギリオの封印の上にイァーマの魂を縫い付ける。何度でもここで生まれ直し、ずっとそばにあり続ける。むちゃくちゃな術式だが、イァーマはそもそもの存在がむちゃくちゃなのだ。アスギリオが思いつく限りのものを詰め込んで最後に自分の魂まで分け与えて作り上げた獣。彼女を愛するために生まれた命なら、彼女がここにある限り応え続ける。それしか、できることがなかった。

「イァーマ……」

「君がくれた命だ。こうやって使い切るのは、違わないだろう?」

 叫んだ言葉の先で、アスギリオが泣いていた。


 それが、イァーマとしての最後の記憶。




 スノウが目を覚ましたのは明け方近くのことだった。闇に沈む部屋の中ですぐに目は慣れ、頭上を覆う毛氈の精緻な織り柄をぼんやりと追った。黒い山羊の毛に赤と黄と緑で縞模様が織り上げられている。柄が違う。さっきとは別の部屋にいるようだ。そうして隣に人の気配を悟って視線を向けた。

「大丈夫? 余剰魔力はだいぶ抜けたと思うんだけど」

 ヴィーユールだった。その膝の上には金線水晶がいくつも乗っている。紫色の瞳が心配げにこちらを見ている。その色に確かに誰かの面影を見た気がして、スノウは少しだけ胸が苦しくなった。

「アッシュが、泣いてる夢を見たんだ」

「……そっか」

 それ以上ヴィーユールは答えない。構わなかった。この状況の中で心につかえた色々なものがぽろぽろとこぼれていく。

「泣いてるの見たの、初めてだ。一人はさみしいって言ってた」

 それでも逃げるわけにはいかないのだと、世界を諦められないのだと、自らを封じた英雄。この魂の根幹をなす、大切なひと。彼女がさみしいと泣いているのに、こちら側に留まるしかなかったかつての己。その無念を思う。今、同じ場所に自分は立とうとしている。イチカを殺めて自分だけが生き残ってそうして、世界を守る。

「俺は、何を守ろうとしているんだろう……」

 消え入りそうな声。くしゃりとスノウの顔が歪む。ヴィーユールは静かにスノウの手を握った。

「だってそれは、俺の世界じゃない」

 突如降りかかってきた世界という言葉を納得することが出来ない。スノウにとって世界とはイチカと過ごす日常のことだった。二人で朝食をとってイチカを見送り、乗合馬車でアサーディル社までいってラズバスカと仕事をして昼食をとり、午後の仕事が終われば市場に寄ってイチカと夕食を作って食べてその日一日の話をする。それが、世界だ。守るべき日常だ。だが、今自分が求められていることはその世界を手放すことだった。

「イチカを殺してアッシュをもう一度封印して五門を、世界を守る。世界って何。イチカとアッシュを手放して守る世界って、何なんだ」

 そうして守られた世界に、何の意味があるのだろう。

「……俺だけが死んでイチカが助けられるならよかったのに」

 スノウが死ねばイチカも死ぬ。逆はない。それが、あまりにも重くのしかかる。

「俺は、どこで間違えたんだろう。俺たちは、何を間違えたんだろう……」

 答えのない問いかけだけを何度も繰り返して、そうしてスノウは両の手のひらに顔を埋めた。

「わかんない……イチカ……」

 俺はどうすればいい。

「イチカを、しなせたくない……」

 ただそれだけだった。それは望んでいいことなのだろうか。許されるのだろうか。ぐるぐると問いかけがまた頭を巡る。だって世界が、五門が、とスノウの言葉ではない言葉が思考を邪魔する。少年の望みをすり替えていく。自分の中のイチカが遠のく気がした。行かないでと追いすがろうとして、あの日の言葉がひらめく。

 ──お前の望みを言え。

 のらりくらりと契約から逃れようとするスノウに向けられた言葉。人の望みを自分の望みと思い込むなと言って、そしてイチカはスノウに告げたのだ。

 ──自分で考えて自分で決めろ。

 自分の言葉で意思表示をすること。それがイチカがスノウに求めた唯一のことだ。

「そうだよ……考えなきゃ。イチカを死なせない方法を、考えなきゃ……」

 ──俺を殺して次の守人に賭けるという選択もあるだろう。

 体が熱くなる。ぎり、と握りしめた手が音を立てた。

 ──ないよそんな選択。

 確かに自分はそう答えた。その答えに変わりはない。

 そうだ。そんな選択はないと言ったのは誰だ。イチカを守ると言ったのは誰だ。イチカを助けると言ったのは誰だ。今ここでスノウが命を捨てられたらなどと何の意味もない。ここでこうして横たわってどうしようどうしようと泣き言を言ったところでイチカを助けられるわけではない。それどころか流されるままにイチカを殺すことになる。

「それは、だめだ。絶対に、だめだ」

 目を開く。自分はまだ何もしていない。ふと隣の兄弟を見る。

「……ごめんね、ヴィーユール」

 きっとずっと傍にいてくれたのだろう。

「いいよ。いくらでも聞くよ」

 無関係なことではないのだからと、中性的な声音に確かに滲む気遣いがあたたかい。

「お茶、飲まない? ほとりとはいえ砂漠だから、きっと喉渇いてるよ」

 言って、青年が立ち上がった拍子にその膝から術石がこぼれ落ちた。放射状の金線を無数に抱え込んだそれは、ぶつかり合ってわずか青みを帯びた光を放つ。白い指先でそれを拾い集めながらヴィーユールが苦笑した。

「イチカ、本当に魔力ないんだね。これ、混ぜ物なしの純粋なアッシュの魔力だよ。圧がすごい」

 これだけの高濃度の魔力を抱え込んだ術石は珍しいと言った。

「この純度でこの数なら複合術式も余裕で起動できるんじゃないかな。パンジュは売らないだろうけど、国が買い付けにきてもおかしくない」

 半ば独り言のようなその言葉にスノウの中でぱちりと何かが音を立てる。それは逃がしてはならない何かだと本能的に察して、ヴィーユールの言葉を何度も反芻した。国が術石を使って大がかりな複合術式を使う。それは最近の潮流らしい。スノウもイプリツェに行ったら同じことをさせられるだろうとラズバスカが言っていた。ユルハには魔術師が足らず、動かしたくても起動すらできない術式が数多くあると。そうして、思い出す。

 ── これだけのものを起動できる人間が私以外にいるものか。

 瞠目した。呆然とつぶやく。

「術石だ……」

「スノウ?」

 ヴィーユールがいぶかしげに柳眉をひそめるのへ、スノウは口早にたたみかける。

「五柱術式、術石で起動したんだ。今みたいに回路式があったわけじゃないから多分構築式に無理矢理組み込んで割って魔力を流し込んで起動した。だから制御ができなかったし、アッシュにもわからなかったんだ。あの頃にも、術石があったんだ」

 にわかに頭が冴えていく。断片的な記憶がつながる。

「術石、ほら、アッシュが言ってた。俺たちに入れたいろんなもの。存在の核。何かよくわかんない石。高純度の魔力が一番安定するって、アッシュが言ってた。あれも術石だったんだ」

 砂漠の魔術師の遺物、と言っていたはずだ。アッシュが生きたのが何百年前なのかスノウには定かではないが、少なくともあの頃に術石の鉱脈は発見されていなかったし、当然実用化もされていなかった。何らかの偶然で地表に出たものが回り回って流れてきたのだろう。

「待って、術石。俺何か大事な話をしたはず……術石があれば、大容量の術石があれば、いける。起動は俺がすればいいんだから。何が、何がいけるんだっけ……」

「待って、落ち着いてスノウ。何の話をしてるの」

 困惑しきったヴィーユールの声が遠い。頭が追いつかない。逃してはいけない、自分は今それを見つけなければならない。焦燥が背中を焼く。

 ──複合魔術。

 ── これだけ転移術式が広まっている中でわざわざ。

 ──魂の複製。

 ラズバスカと交わした言葉がよみがえる。灰白色の瞳がゆるやかに見開かれていく。

「夢渡り……」

 高純度大容量の術石でもってかりそめの肉体を組み上げ、眠っている相手の魂の複製と意識を落とし込む。それを使えばアッシュに会えるとそう確信したのはつい昨日のことだ。どうやって魂との繋がりを担保するかが問題だと思っていたが、本人の純魔力の結晶なら触媒として申し分ない。十分に機能する。

「これなら五門を開けなくてもアッシュをこっちに顕現できる」

「待ってってば! アッシュを顕現てどういうこと? 僕たちはアッシュを向こう側に戻さなきゃいけないんだよ」

「どうして?」

 きょとんとスノウが尋ねるのへ、ヴィーユールは言葉を失う。

「当たり前だろう?」

「どうして当たり前なの。そもそも俺たちはアッシュの目的も知らないのに」

 納得できない当たり前に否と言った。

「目的は五門開放でしょう?」

「それは手段だよ。五門を開けた先に何かをしようとして、そのために肉体が必要だから五門機関に行こうとしてるんじゃないの」

 なら、肉体を用意してやれば五門を開放する必要がなくなる。

「アッシュの体があればイチカの体は返してもらえる。そうすれば俺はイチカを殺さなくていい」

「スノウ、今とんでもないことを言ってるってわかってる?」

「わからない。全然わからない。今この状況で俺にわかってることなんて何もない」

 感情が先走る。

「でもそれはみんなだって同じだろう? みんな何を守ろうとしてるの。その世界は誰の世界なの」

 ヴィーユールは答えることが出来なかった。スノウの双眸がぎらぎらと光り、有無を言わさぬ圧を放つ。

「俺はイチカを死なせない。絶対にだ」

 その言葉に引きずり出されるようにしてスノウの脳裏にイチカの声が響く。

 ──人一人救えるのなら、賭ける価値はあるだろう。

 初めて会った日、イチカが言った言葉だ。自分に言い訳をして誰かを見殺しにしたくないと、そのために命を賭けると、そう言ってイチカはスノウの命を拾い上げたのだ。

「俺が死んでイチカを救えないのなら、俺はアッシュを生き返らせるよ」

 人一人、救ってみせる。




 スノウの言葉を聞いて獣たちは絶句した。水盤を渡るアスギリオの光跡は海の上だ。

「待て、スノウ。お前それ……」

 クズミが座ったままがりがりと頭をかく。末弟の言葉を処理し切れていない。

「アッシュを顕現させる術式を組む。高純度の魔力結晶はあるんだ。回路式で核を組んでその外側に術式を組んで魂の器を作れば向こう側からアッシュを連れてこられるはずだ」

「そんなむちゃくちゃな術式が成立するものか」

「するよ。俺たちはそうやって存在してるんだから」

 イァーマの核が術石なら、同じことは不可能ではない。

「俺はイチカを死なせない。イチカを取り戻す方法がアッシュを引き剥がすことしかないなら、アッシュの体を作ってアッシュを顕現させる。そうすればイチカは自由だろ?」

「だから待てっての。それでアッシュが五門を開けに行ったらどうする? 止める手段なんかないんだぞ」

「その止める手段にイチカを殺すことを持ち出されるのがどれだけ不愉快かわかってる?」

 間髪入れずにスノウは噛みついた。怒りがこみ上げてくる。

「俺は獣だ。アッシュを愛するために生まれたもの。守人を愛するために生きるもの。それなのにイチカを殺してアッシュを封印しろなんて言われるの、間違ってる。絶対に間違ってる」

 一番大事なものをどちらも手放せなんて言われて是と答えられる性分ではないらしかった。ただただ、怒りだけが燃え上がる。

「五門を開けたら世界が滅ぶ」

「知らないよそんなもの」

 吠える。

「俺はイチカを殺さない。アッシュをないがしろにしない。世界なんか知るもんか。守らなきゃいけないものは、世界じゃない」

 イチカはスノウに向き合ってくれた。魔術の価値などどうでもいいと、ただそこに人格を持って存在する以上は人だろうが獣だろうが変わらないと言って、自分で考えて決めろと、それが人としての当たり前だと言った。そうして当たり前に重ねられた日々がどれほど愛おしい時間だったか。スノウの当たり前の未来はそちらなのだ。その日々を与えてくれたイチカに報いることこそが今の自分がやるべきことだと、そう確信している。自分で考えて決めた、決して譲れないスノウの意思だった。

「イチカは死なせない。絶対に」

「気持ちはわかる。当たり前だ。守人を殺したい獣なんかいやしない。でもな、アッシュが守ろうとした世界を無視するのも違うだろうが。あいつが存在全てを賭けて守ろうとしたんだ。俺たちはそれに殉じると決めたからこうして五人になったんだろ」

 クズミの赤い瞳がスノウを見据える。声を荒げることなく、けれど強いまなざしでもってスノウを見ていた。彼女が守ろうとした当たり前の日常、人の営み。その価値をクズミは知っている。

「アッシュだけを、守人だけを守っても世界が滅んだら意味がないんだよ」

「……そうやってアッシュに向き合わないできたんだろ」

「あァ?」

 低くつむがれた言葉にクズミが剣呑な声を上げる。

「世界なんか俺たちの責任じゃない。それを勝手に背負い込んで目的すり替えて見失ってアッシュをないがしろにして、挙げ句に守人を殺せとかどうかしてる」

「スノウ」

 ゆらりとクズミの輪郭が揺らいだ。双眸に怒りが燃えている。かつて守人を手にかけた男に向ける言葉ではないと頭ではわかっている。わかっているが、それでも黙っていられなかった。

「俺たちが守らなきゃいけないのは世界じゃない。アッシュと守人だ。俺は間違ってない。絶対に」

「いい加減にしろよ。そういう話は全部終わってからにしろ。ぶっつけ本番でできる話でもなけりゃアッシュが受け入れるかもわからない。そんなあやふやな話で引っかき回していい状況じゃない」

「みんながイチカを殺す前提で話をするからだろ! 俺はイチカを死なせない!」

「俺だってリハンを殺したかったわけじゃねえよ!」

 怒号が空気を震わせる。

「なら諦めないで方法を探せばよかっただろ!」

 その瞬間、乾いた音が響いた。スノウの体が毛氈に沈む。

「──いい加減になさい」

 レムリィリだった。容赦なくはっ倒されたスノウに慌ててヴィーユールが駆け寄る。それを横目で見やって、黄の獣はクズミを振り返った。眼前に座り込む。

「あなたもです」

 平手とは思わぬ威力でクズミが吹っ飛ぶ。

「それこそ兄弟喧嘩している場合じゃないでしょう。意見をぶつけ合うのは大切ですけどね」

 クズミが呆然とレムリィリを見上げた。その隣にティーレがしゃがみ込む。

「大丈夫? お兄ちゃん」

「……こういうときだけ兄貴扱いするんじゃねえ」

「スノウって案外大物よねえ。あなたに声荒げさせるのもレムに手を上げさせたのも白の中では初めてじゃない?」

「そもそも俺は獣同士で手を上げた記憶がないぞ」

 だが頭が冷えたと言って、クズミは長い息をついた。ヴィーユールに助け起こされながらスノウもぽかんとレムリィリを見上げていて、少し激情は抜けたようだ。

「悪い、レム」

「謝る相手が違うでしょう。スノウも」

 レムリィリの抑揚のない声に二人は気まずそうに互いを見る。

「……悪かった」

「……ごめんなさい」

「はい。それでは本題に戻りましょう」

 あっさりとそう言って、レムリィリが手を打った。

「二人とも求めていることは同じはずなんです。イチカを殺したくない。世界を滅ぼしたくない。そうでしょう?」

 スノウが否と答える。

「俺は、そこにアッシュがいないのが変だと思う」

 イチカの部屋で会ったアスギリオは言葉を交わせない状態ではなかった。あれは意思と人格を持ったアスギリオ本人だ。ならば彼女の言葉を、願いを、勘定に入れないのはおかしい。

「だってアッシュが自分の意思でイチカから離れて五門にも手を出さない、って言えばこの話は終わりなのに」

 世界の話をする必要などない。

「だから、そうできなかったときに詰みなんだって話だ」

 クズミも譲らない。ぴり、と空気が緊張を帯びかけたときに声を上げたのはヴィーユールだった。

「僕は、スノウが正しいと思う」

 紫色の瞳が年嵩の三人を見渡す。

「ずっと、思ってた。三人とも守人のこと見下してるよね」

 空気が凍り付く。

「僕は確かにパンジュより年上だけど、でもパンジュを子供みたいに思うことはできない。たまたま僕の体が成長しないだけで同じ目線で生きてきた。少なくともそのつもりだ。でも、君たちは違う」

 クズミのやり方は子育てのようだとか、人の中で生きるのはそういうことじゃないとか、親のようなと言えば聞こえはいいが結局同じ場所に立とうとはしていない。

「契約は僕たちの都合だ。パンジュにもイチカにも応じる義理なんかない。守人が僕たちをあわれんでくれたから成立するものだ。なのに、魔力と命の長さでまるで獣の方が守人を守護してるなんて錯覚してる」

 仮に獣が契約に応じてもらえなければ封印は自壊する。全ては守人が受け入れてくれるかどうかにかかっているというのにまるで獣が世界を守っているかのような物言いは傲慢だとヴィーユールは言った。

「だから、世界のためにイチカを殺すとか言えるんでしょう?」

 重苦しい沈黙が落ちた。赤と黄と黒の獣はくちびるを引き結んで返す言葉を見つけられないでいる。

「イチカを殺さない方法を探そうよ。アッシュを納得させる道を探そうよ。イァーマとして、やるべきことをやろうよ」

「ヴィーユール……」

 スノウが呆然と名を呼べば紫の瞳が少し複雑そうにゆがんだ。

「もしパンジュだったら、きっと僕もスノウと同じこと言ってたよ」

 ヴィーユールの言葉にスノウは背筋を伸ばす。胸の奥に灯が灯ったようだった。

「ありがとう、ヴィーユール。パンジュに工房借りられるかな。アッシュと話をするのにたたき台だけでも作って持っていきたい」

 彼女の話を聞く用意があると、願いに応じる意思があると、示さねばならない。

「あるよ。アッシュの魔力結晶も全部持っていこう」

 年下の獣二人が同時に立ち上がる。しゃん、とヴィーユールの裾の鈴が鳴った。

「待って二人とも」

 ティーレだった。止めても無駄だと身構えようとする二人に黒の獣が首を振る。

「私にも手伝わせて。これで漫然としてるのはそれこそ違うでしょ。……正直、今のは堪えたわ」

 ともに生きているつもりだった。ソルレアルと生きて見送ったつもりだった。だがそこに、侮りまではいかずとも自分がソルレアルを庇護するのだという気負いがなかったと言えば嘘になる。

「でも、アッシュが守ろうとした世界を守りたいっていうのも間違ってないわ。アッシュと楽しいことをするために私たちは生まれたんだもの」

 ティーレの言葉にスノウとヴィーユールは浅くうなずいた。

「だからスノウ。最悪の状況だけは考えておいて。それを回避するために全力を尽くすけれど、絶対ではないわ」

 振り返る。

「どう? お兄ちゃん」

「……俺に決定権があるわけじゃない」

 言って、ああもうとクズミが頭を振った。

「こういうの苦手なんだよ。とりあえず、俺は俺の方でやることをやる。アッシュの補足と転移の支度。あと、五門機関の監視。悪いが俺も、五門を守るってのは譲れない。でなきゃ」

 リハンは何のために死んだんだ。

 スノウがはっとしてごめんなさいとつぶやいた。

「今はいい。それ以外に必要なことがあれば言ってくれ」

「私はクズミの手伝いをします。そちらの手が足りなければいつでも声をかけてください」

 わかったと言って三人が出て行く。その背を見送りながら、レムリィリが深く息を吐き出した。

「昔、ドールに怒られたのを思い出しました」

 ──あんたは何様のつもりだい。

 今ここで生きようとする意思を侮るなと、それは侮辱だと殴り合った日を思い出す。

「二百年ぽっちじゃ、成長しませんねえ。むしろ頭が固まってしまったのかしら」

「それ俺に言う?」

「お互い様、ってことですよ。さぁやれることをしましょう」

 言って、レムリィリは水盤の前に腰を下ろし、クズミは部屋の中央に転移の門陣を描き始める。男の魔力が青く光りながら真円を引いていった。




 砂漠の民の朝は早い。日中の気温が高すぎて活動ができないからだ。朝の涼しいうちに様々な仕事を終え、一番暑い日中は昼寝をするのが常だった。ゆえに身支度を調えたパンジュがヴィーユールの部屋を訪れたのも朝の早いうちであった。

 外国の使節や商人を迎えるためもあって大理石作りの巨大な屋敷を構えてはいるが、パンジュは砂漠の幕営のほうを好んでいる。そのため客用の部屋以外は室内に絨毯を敷き詰めて天幕を張り、伝統的なマニハーイーの様式を守っていた。ヴィーユールの部屋は落ち着いた赤と橙の絨毯に幾何学模様の天幕を張ってある。パンジュの妻たちの趣味で吊りランプが多く飾られ、手刺繍が施されたクッションがうず高く積んであった。

「全員そろっているようだな」

 大きな銀製の水盤を囲む人影は五つ。パンジュは目を細める。

「おはよう、パンジュ」

 ヴィーユールの声に応じるように全員が顔を上げた。赤、黄、黒、紫、そして灰白色の瞳がパンジュを見る。

「おはよう。して、状況はどうだ」

 衣装の裾をさばき、パンジュは輪に加わった。

「寄り道をしながらベーメンドーサに近づいているわ。こっちが見てるってわかりきってるとしか思えない動きをしているわよ」

 ティーレがため息をつく。

「どうするかは決まったのか」

 パンジュが腰を下ろすのとほぼ同時に家僕たちが朝食を持って入ってきた。大皿に盛られた羊肉の煮込みや、豆と香辛料を練ったもの。丸い釜で焼き上げる平たいパン、乳酪に揚げ菓子などが所狭しと並べられる。

「あ、飴胡桃」

 スノウが小さく声を上げれば、パンジュが手ずから小皿に取り分けて渡した。ありがとうと言って受け取り、スノウは口に放り込む。この体で食べるのは初めてだが、記憶にある味と感触だった。もちもちする。

「ベーメンドーサでぶつかることになるだろうな。封印に近いが、その分魔術師の数も多いから影響が少なくて済む」

 クズミが水盤を見つめたまま言った。

「後ろから撃たれかねんぞ」

「それは俺たちが引き受ける。どうせイチカを呼び戻せるのはスノウだけだ」

「では、白の獣を殺さず済むということだな」

 パンジュの言葉にいいやとクズミが首を振る。予想外の動きにいぶかしげに眉根を寄せるパンジュに答えたのはヴィーユールだった。

「スノウもイチカも死なせない。アッシュが復活を望むなら、その通りにする」

 男が目を見開く。

「どういうことだ」

「獣の本分に立ち返ることにしたんだ。僕たちはアッシュの望みを叶える」

 その上で、世界を守る交渉をする。

「今まで、順番が違ってた」

 緩慢な仕草でパンジュがヴィーユールを見た。

「それは、おぬしの結論か。ヴィー」

「言い出したのはスノウだ。でも、僕もそうあるべきだと思った。僕たちは世界なんて言葉の前に、アッシュと守人に向き合わなきゃいけないんだ」

 ちら、とヴィーユールがパンジュを見上げる。

「間違ってる?」

「いいや。……いいや。間違ってなどおらぬ。ああよく言うた。本当に、よく言うた」

 パンジュは衝動的に手を伸ばし、ヴィーユールの頭を撫でた。紫の瞳が驚愕に見開かれ、思わず腰を引く。

「え、何。どうしたのパンジュ」

「そう怖い顔をするな。傷つくではないか」

 低く笑ってごまかし、パンジュは表情を引き締めた。

「で、その英雄をどう見つける。水盤では大まかな場所しか探れぬぞ」

「座標はスノウに辿ってもらうしかありません。私たちで軌道修正をすればそう誤差もなく追いつけるでしょう」

「可能か?」

 パンジュがスノウに水を向けてみると、堅い表情ながらスノウはしっかりとうなずいた。ふむ、と何かを考える様子を見せたパンジュがスノウ、と名を呼んだ。

「これを持って行くといい。役に立つだろう」

 自分の指から指輪を抜いて手渡す。淡い緑色の石は術石だ。その指輪ひとつでどれだけの金額になるだろう。躊躇を見せるスノウの手に強引に握らせ、パンジュが笑ってみせる。

「言うたであろ? いくらでも身びいきくらいしてやると」

 状況報告を聞きながら手早く食事を済ませてパンジュは立ち上がった。すでにベーメンドーサの大使が火急の用と言って到着しているという。

「適当にあしらってくる。屋敷内は好きに使うがいい。術石も魔術具も必要なものは持って行け」

 その他にも各国の商館が術石の取引を求めてパンジュを訪れることになっており、パンジュは術石貿易そのものの指揮も執らねばならぬという。彼は彼の日常を守らねばならない。金とものを出すことしかできぬと、珍しく皮肉めいた笑みを浮かべ、退出していった。

「パンジュ、あれで結構気にしてるんだよ」

 ヴィーユールが言った。

「何を?」

 尋ねたのはティーレだ。水盤の前を年嵩の二人に任せ、平たいパンに乳酪をつけて口に運んでいる。

「自分が、イチカの立場にいたかもしれないって」

 ──守人に選ばれたということはつまり、そういうことであろ?

 そう言って、イチカを何とかしてやりたいと言ったのだ。あの気位の高い男が素直に誰かを思いやるのは珍しかった。すぐに自己救済と同じだと言って笑ったが、ヴィーユールはパンジュの本音なのだろうと思う。

「結局守人同士も、兄弟みたいなものだから」

 羊肉に手を出しながらティーレがつぶやいた。

「スノウ。あなた何も食べてないでしょう? おいしいわよ」

 呼ばれてスノウはティーレのすぐ隣に腰を下ろす。スノウよりも年上の姿をとるティーレの姿は新鮮だったが、それでもこれはティーレなのだと思える自分が少し不思議だった。床に直接座って食事をすることに慣れておらず、スノウは戸惑いながらもパンをとる。

「アルのお茶、おいしかったよ」

「そう。良かった。あれね、お気に入りだったの」

 やわらかく笑んで、そしてティーレはゆっくりくちびるを開いた。

「私、アルだと思ったの」

 初めて会ったときのソルレアルを覚えている。目の下に真っ黒に隈を浮かべ、限界まで魔力を絞り出した体はあばらが浮いて折れそうだった。ぜえぜえと喉を鳴らしながら何をしに来たのだと吠えたのだ。

「弱った心の隙間に手を突っ込んでくるって聞いてたから、契約をした瞬間からこの人を殺すんだろうと思ってた」

 そうでなくても、とても一緒に生きていける気などしなかった。

「どうやったらこの人は生きていけるんだろうと思った。私にできることなんか、ないんじゃないかって」

 ティーレは揚げ菓子をつまむ。

「でも、アルは……」

 ソルレアルの絶望をスノウに推し量ることはできない。

「ええ。穏やかに生きてくれた。でもそれは私が何かをしたからじゃなくて、アルが絶望に抗い続けたからよ。苦しくても、つらくても、諦めないでくれたから」

 ティーレの言葉に己の守人を思う。

「……イチカは、諦めたのかな」

「諦めると思う?」

 逆に尋ね返されて、スノウはゆるりと首を振った。

「思わない」

「なら、帰ってくるんじゃない?」

 無責任な言葉だったが、不愉快ではなかった。

 十分に食事を堪能したらしいティーレが立ち上がってレムリィリと交代する。

「すごくおいしかったわ。さすがパンジュ」

「ずいぶん食べましたね」

「守人いないからお腹空くのよ。魔力も足りないったら」

 そんな他愛ないやりとりをして、ティーレが水盤の前に座り込む。そして沈黙を守るクズミを見た。

「今日は無口なのね。お兄ちゃん?」

「……まあな」

 色々と思うことがあると言外に匂わせ、クズミが薄く笑う。

「じゃあ、聞くわね。二百年前の守人どんな人だった? ゼーレンヴィッツ?」

 あっさりとその名前を出したティーレをクズミは嫌そうに見やった。

「いきなりそこ切り込むのかよ」

「だって時間はないわ。見なさいよ。今夜にはベーメンドーサに入るわよ」

 水盤の上を移動する金色の光はすでに海峡を越えて東大陸に入りつつある。クズミがため息をついた。常にすべてを見透かすようなふるまいをするクズミの双眸が揺れる。言葉を選ぶ時間が彼にしてはずいぶんと長い。

「……リハンは、完璧主義で頭が良くて野心家で、人間が嫌いだった」

 クズミの言葉を聞きながら、スノウは無意識にイチカと比較する。イチカと同じ道を辿った、見知らぬ誰かの生を思う。

「いや、好きだったのかな。わからん。人を平気で陥れて利用するくせに自分の財を他人に使うのを惜しまなかった」

 多くの人間に支持され、慕われ、巨大な富を築いた。クズミが手を貸すまでもなく転移魔術を独学で習得し、世界各地に支店を設けて事業を拡大して今の銀行業の基礎を作り上げ、歴史に今なお名を残している。

「それで、パンジュに似てるって?」

「ああ」

 人を無条件に引きつける目や、人を率いる才覚や、どこかうつろな人間関係が似ていると思った。ただ、パンジュはリハンに比べてもう少し、人に近かったようだ。

「パンジュだと思って、結構警戒してたんだけどな」

 クズミが自嘲する。

「でも、パンジュじゃなかった」

 つぶやいたのはスノウだ。スノウはリハンとイチカは似ていないと言った。

「イチカは、多分お金とか名誉とかそんなに興味がなくて、魔術も全然駄目だし、交友関係も狭い。でも、人間が善良であることを信じていて、自分も善良な人間であろうとするような、そんな感じがする。……その人とは、全然似ていないと思う」

「俺もそう思うよ。イチカは安定してると思ったんだけどな」

 またため息をついてクズミが立ち上がる。レムリィリの隣に座り込んで食事を始めた。

「他に、何かないの?」

 ヴィーユールが尋ねる。パンジュが似ている、と言われたことが引っかかっているらしい。

「考えれば考えるほどイチカとは真逆っぽいんだよなぁ」

 言いながらクズミは羊肉をとって、油で炒めた米と一緒に皿に山積みにした。以前いた国の影響で米のほうが好きなのだという。肩から落ちかかる赤い髪を払いのけ、次々に口へ運びながら首をかしげる。

「となると、守人の性格とかじゃないのかしらね」

 ティーレが言った。星の巡りだとか気持ちの浮き沈みだとか、もう少し外側の要因でアスギリオが手を伸ばしているのかもしれない。クズミがため息をつく。物憂げな表情を浮かべたままだ。

「その、リハンという人の前は?」

 ヴィーユールが尋ねるが、クズミはゆっくりと首を振る。

「俺は知らない。俺が生まれる前の紫の守人が依り代になった、という話を聞いただけだ」

 クズミが生まれる前ということは、少なく見積もっても四百年近く前ということだ。お手上げ、とティーレがつぶやく。

「考えても仕方ないわね」

 スノウはその隣に行って水盤をのぞきこむ。アスギリオの固有魔力を捕捉し、反映しているのだろう。サイスタからの移動の軌跡が描かれている。その金色の光跡はベーメンドーサへの最短距離をとるでもなく、気まぐれに進路を変えながらゆっくりと移動しているようだった。

「やっぱり、アッシュは世界を滅ぼしたいわけじゃないんだと思うよ。本当に滅ぼしたいのなら、いくらでもやりようなんてある」

 たとえ自分の体でないとしても、彼女なら大災害を起こすなど造作も無い。

「本人に聞いてみましょ。答えてくれれば、だけど」

「そう、だね」

 金色の光を見つめながらスノウはうなずいた。

「お前さん、もう少し休んでいた方がいい。夕方にはアッシュのところまで一気に飛ぶからな。転移の舵取りは俺たちでやるけど、座標設定は頼む。そこからは、休む暇なんてないだろうから」

 クズミの言葉に浅くうなずいて、スノウは部屋を出た。寝室としてあてがわれている隣室に戻ろうとして、ふと外を見たくなる。砂の侵入を防ぐためか外に向けられた窓は小さく、スノウはほとんど砂漠を目にしていなかった。

 足が大理石の廊下を行く。中庭をぐるりと回る回廊を辿れば、それはそのまま外に向かうようだ。行き違う家僕たちは丁寧にスノウに挨拶をしてくれ、日が高くなる前に戻るよう言った。強すぎる日差しにやけどをしてしまうのだそうだ。人間ではないスノウにはあまり影響を及ぼさないだろうが、素直に礼を言って受け取った。

 椰子の木を植えた庭を抜けて、精緻な彫刻の施された石の門の向こうが砂漠だ。スノウは家僕の一人に渡された大きな布を巻きつける。ヴィーユールやパンジュがしているようにはいかないもので、いささか不格好ではあったが、それなりに満足をして砂の原に一歩を踏み出した。靴が沈み込む。過ぎる風が皮膚の水分を奪っていく。日差しが強い。だが思っていたほどに暑さを感じることはなく、スノウはただぼんやりと砂の原を眺めていた。砂漠に来るのは初めてだと思って、そもそも行ったことのある場所の方が少ないと思い出す。自分の世界は思っていたよりずっとちっぽけだ。

「意外に暑くなかろ」

 人の気配と声が振ってきた。振り返らずともその声の正体を知る。

「空気があまりに乾いていて体が暑さを認識できぬのだ」

 そのままだと立ったまま干からびるぞと砂漠の王子は笑って、家僕に日除けをさしかけるよう言った。斑模様の大きな日除けは縁に金糸の房飾りを連ね、よく見れば術石が縫い付けてある。過ぎる風の熱を奪い涼風にする術式らしい。

「……術石の価値がわからなくなりそう」

 思わずこぼした。あまりにほいほいと与えられるそれが希少品だと忘れてしまう。ふと胸元に手をやり、パンジュにもらった指輪に触れた。スノウの指には余るそれをヴィーユールが首飾りにしてくれたのだ。

「本当にもらっていいの?」

「構わぬ」

 低く笑い、パンジュの琥珀色の瞳がスノウを見る。

「思い煩うことがあるのなら、聞くぞ」

 茶化すことのない言葉にスノウもまた男を見上げた。イチカと同じくらいの高さだ。ずいぶん会っていないような気がするが、まだ一日も経っていない。あまりにも情報量が多すぎて時間感覚が狂っていた。

「世界、って何なんだろうと思って」

 イチカを死なせないと決めた。そこが揺らぐことはない。けれど同時に、自分が知っている世界などあまりにも小さくて、果たして世界を語る資格などあるのかと思うのもまた事実だ。スノウの何十倍を生きるクズミが世界を守ろうと声高に言うのはその差なのかも知れないとも思った。

「世界なぞ概念に過ぎぬ。わしの世界などこの砂漠とマニハーイーの民と、それにちょこっとの外国だけだ」

 髭の偉丈夫は笑った。

「パンジュでも?」

 国を動かす立場にいる人間ならば世界を意識することもあるだろうと漠然と思っていただけに、スノウは不思議そうに男を見上げる。

「ああ。人なぞそんなものだ。どんな大義名分を掲げたところでな」

 一番大切なものを守れるかどうか。それが全てと行って過言ではない。

「世界の中心を守れば畢竟、その外側も守れる。そういうものだ」

 だから、今はイチカを助けることだけを考えろと男は大仰な身振りで言った。

 ──イチカ。

 スノウはその名前を唱える。長身で無愛想で妙なところで堅物の、スノウの守人。スノウの世界の中心に、確かに彼がいる。

「イチカは、死なせない」

 何度目かわからぬ決意を口にする。

「なに、そなたならやれる。英雄も結局は人だ」

 ひどく静かな声でパンジュが言った。スノウはその精悍な横顔を見上げる。パンジュは遠くを見ていた。

「臆するな、白の獣。そなたは間違っていない」

 そこには何か、汲み取りきれぬ強い感情が滲んでいる。スノウにその正体はわからない。答える言葉を見つけられず、スノウは地平線を見やる。なだらかな曲線を描く砂の世界は、自分の知るどの景色よりも美しく思えた。




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