3.糸

3.糸


 週が明けて、今日もいつもの日常が訪れる。イチカは寝起きのぼんやりした頭のまま玄関の新聞を取り、炉に火を入れる。見出しだけをざっと追いながら、無意識のうちに眉をひそめた。

「おはよう、イチカ。朝から怖い顔でどうしたの」

 スノウも起きていたらしい。新聞を読むなら引き受けるという言葉に甘えてイチカは炉の前を退き、朝食の仕度を任せた。矢車草の茶葉を使うように言えばスノウが小さく笑う。

「アルのお土産だね」

「ああ。──しばらく忙しくなるかもしれん。もし俺がいつもの時間に帰ってこなかったら待たなくていい」

「何かあった?」

 浅い鉄の片手鍋に油をしいて卵を割り落としながら灰白色の瞳が尋ねる。

「南西国境での小競り合いが少し大ごとになってきた。サイスタからも人を出す必要があるかもしれん」

 出勤してみなければわからないが、騒ぎはしばらく続くだろう。国境付近の街の人間が隣国に寝返り、民間人による駐留軍への無差別攻撃が頻発している。

「俺やイチカが駆りだされるってこと?」

「いや。それは基本的にはないはずだ。まだそういう交渉段階にすら入っていない」

 いくら何でも会計の人間とただの一般人を戦場へ送る方便は用意できまい。頁を繰りながら答えるイチカにうなずきながら茶のカップを置き、スノウはパンを切る。卵のほかに腸詰を炙ったのと、林檎。

「前から思っていたが手馴れているな」

「こればっかりやってたし、嫌いじゃないしね。それを言うならイチカだって相当まめな方だってラーズが言ってたよ。炉のある部屋って高いんでしょ?」

 ラズバスカは食事は外でと割り切って炉のない部屋に住んでいるという。

「燃費が悪いから自炊した方が安いんだ」

「結構容赦なく食べるもんねえ」

 スノウがまた笑う。無意識にその表情を追いながら、五門機関に赴いたのはよかったかもしれないと思った。どこか険が取れたようになり、よく笑う。ふるまいのぎこちなさが減ったようにも感じられて、兄弟に会うというのはどうやら彼にとっていい方向に働いたようだ。

「今日は遅いのか」

「多分、夕方には帰れるんじゃないかな」

 まだ身分証の発行がないため正式な雇用ではないが、できるだけ早いうちにとのことでスノウはラズバスカの勤め先に出入りするようになっていた。見た目も経歴も能力も異質なスノウを早くなじませてやろうとしているのだろう。ラズバスカらしい、とイチカは思う。

「わかった。戸締りだけちゃんとしてくれ」

「はーい」

 スノウが食べ終わらぬうちにイチカは早々に食事を終え、立ち上がった。

「それと、俺の予定が合わなくても例の会合には行けよ。お前は特にひどいありさまだと言われていたぞ」

 シャツの袖口を止め、椅子の背にかけていた上着を羽織る。段々と上着を着て出勤するのが暑くなってきた。

「自覚はないんだけど、そうらしいね」

「皆、心配しているらしい」

「……俺を?」

 意外そうにスノウが目を丸くしてイチカを見る。浅くうなずけば、やがて嬉しそうに破顔した。

「そっか。みんな、優しいね」

「言葉はきついがな」

 イチカが小さくため息をつく。

「サァラのこと?」

「ああ。なかなか苦手な部類だ。ずいぶんな正義感だった」

 心情としてはかなりサァラに賛成する部分が強いのだが、なにぶんあの物言いである。イチカは肩をすくめ、面倒はごめんこうむると苦笑した。

「義憤で突っ走ってかえって周囲を苛立たせる、ってティーレが言ってた」

「言い得て妙だな。獣まで潔癖でなくてよかった」

 とりあえずクズミは話ができるからと心底苦手な様子を見せる。

「丸くなったんだってよ、サァラ」

「……あれでか」

「うん」

 おおらかだなとつぶやくのを見て、クズミのやり方は子育てのようだと言われていたのを思い出した。

「俺はイチカに育てられてるから逆だな」

「養育はしていないぞ」

「でもほら。まっとうに生きろ、って言ってくれたじゃない」

 それはスノウの中の何かを育てる言葉のように思えた。だがイチカは肩をすくめるばかりだ。

「特別なことは何も言っていない。俺に魔術云々はわからない以上、人として扱うしかないだろう」

「ふふ、俺イチカのそういうとこ好きだよ」

 当たり前に口にされる理想が、心地いい。

「そいつはどうも。──行ってくる」

「いってらっしゃい」

 灰白色の瞳に見送られ、イチカは出勤していった。

 スノウの仕事は順調らしかった。元々魔術の知識はあるし、経験もある。さらに技術的なあれこれを言葉で説明するのも上手い。門外漢のイチカから見てもあまりつまずくような気はしなかった。何より本人が楽しそうだ。仕事として何かを任せてもらえること、他の人間と関係を築くこと、どちらも彼が今まで経験してこなかったことで、新しい世界が開けたようだと笑っていた。ラズバスカ主導で会社の皆と一緒に昼食会もしたようで、連日スノウの話題は尽きることがない。

 良い兆候だと思う。獣と守人の外側の世界は彼に多くを与えるだろう。イチカはこれから一気に忙しくなる。イチカのいない家で一人ぼんやり待っているような時間がないに越したことはない。ふっとイチカはくちびるの端で笑った。

「いいことだ」




「ラムダットファン。監査室だ」

 出勤するなりツヴェンがそう言った。

「面倒なやつだから俺も行く」

 イチカの返事を待つことなく会計監査部部長は上着を手に立ち上がる。慌ててイチカは必要なものを支度して後を追った。二人並んで回廊を歩む。

「俺はなぁ、ラムダットファン。お前のこと買ってんだよ」

「……恐縮です」

 平坦な声音で突然言われてイチカは返答に窮した。背中を丸めたツヴェンはいつものようにイチカに視線をやることもなく、続ける。

「仕事は丁寧だし余計なことは言わねえし感情的でもねえ」

 突然賛辞を並べられて困惑しきったイチカは、はぁとあやふやないらえを返すことしかできなかった。

「だからまぁ、コッチの仕事も任せてきたし長く関わらせるつもりでいたんだけどな」

 それは表に出せない類いの会計書類だ。密偵の活動費やら捕らえた情報提供者の処理やら、人知れず焼き払った家屋の地権代やら。表向きは雑費だとか運営費だとかいう名前をつけて計上される数字の裏側をイチカは担当していた。それは人の命を数字にする作業に他ならず、スノウに思わず最悪の仕事だなどとこぼした記憶がある。だが自分はその仕事を辞するでもなくこうして文句を言いながら日々を送っているのだから、最悪なのは自分の方なのかもしれない。

 ── イチカ自分で言うほど安定志向じゃねえって。

 ラズバスカの言葉を思い出す。確かにそうだ。この仕事を任されるということはツヴェンが言うとおりそれなりに期待されているということだし、いずれ中央に抜擢される道もある。魔術に関する一切を持たぬイチカにとって数少ない出世の手段だ。積極的に出世を望まないが自ら外れるつもりもない。そんな中途半端な場所にいるのだと唐突に気がついてしまって、イチカは苦い顔をした。

 二人がやってきたのは監査棟と呼ばれる建物だ。両開きの扉の片側は封鎖されており、細く開けられた隙間から身を滑り込ませるようにして中へと入る。衛戍の金銭関係の会議や会計監査などが行われる建物で、その機密を維持するため、必要最低限の人間しか出入りを許されない。出入り口は一ヶ所、窓もすべて鉄格子がはめ込まれている。北側の立地と石造りのおかげで建物内は夏とは思えぬほど涼しかった。

 硬質な音を立てて階段を上り、監査室に足を踏み入れる。イチカが先で、ツヴェンが後。当たり前に自分が先に通されたことにちり、と何かが引っかかって振り返れば、ツヴェンが扉の錠を下ろしたところだった。

「……部長?」

「いやほんと、手塩にかけた部下を手放すことになって残念だ」

 変わらぬ平坦な声音だが、じろりをこちらを見上げるまなざしが鋭い。イチカの体に緊張が走った。

「よかったなラムダットファン。栄転だ」

 イプリツェに行け、とツヴェンは言った。

「軍総監魔術局付、正式な辞令は出るんだっけかな。まぁ何でもいい。そういうことだ。──白の守人」

 すっと内臓の奥が冷える心地がする。じわじわと何かが足下を這い上がってくる。

「あの白い坊やが獣か? まぁ俺にはよくわからんが、とりあえず魔術局の連中は大盛り上がりだそうだ。今まで術者不足魔力不足で起動できなかった術式がわんさかあるんだとさ」

 心底興味がなさそうに男はため息をついた。

「んでまぁ、わざわざここまで連れてきたのは特級機密ってこともあるが……自分の意思で行ってもらわにゃならん。中央も五門機関と戦争する気はない」

 上司の言葉が遠い。最悪だ、と思った。

「故郷の親とあの新聞記者、どっちがいい」

「……どっち、とは」

「言わせる気か?」

 ツヴェンの声に感情は乗っていない。けれど視線はイチカをとらえて離さない。人の顔を見て話をしないと語り草になっている男が、まっすぐにイチカを見据えている。

「小指から順番だ。お前が行くと言うまで」

 ぎり、と奥歯を噛みしめた。かつて口にした言葉が耳の奥に響く。

 ── とりあえずの日常を守って生き延びるか、いっそ殺してくれと思いながら生かされるか。

 これは、どちらだ。

「……家を引き払う時間が欲しいのですが」

 声がかすれていた。

「三日だ。普通はそういうのやらねえんだけどな。五門機関の手前、ただの転勤としての体裁は整えてやれる」

 まぁ餞別だとツヴェンが言って、同じ声のまま続ける。

「余計なことは考えるなよ。獣が来た日に逃げなかったお前が悪い」

 イチカは答える言葉を見つけられなかった。ただ黙してツヴェンを見つめる。

「俺としては下策だと思うがな。こんな脅す真似して五門機関に泣きつかれでもしたら元も子もねえ。ただの転勤として首府に出向させてあっちで拘束すりゃ話が早えってのに、エヴェリエ中将閣下も功を焦ったかね」

「……俺を拘束する理由がありますか」

「お前、坊やを人間として育ててるだろ。そういう情の入れ方してるやつに、術式開発用に獣を差し出せって言ったときの面倒さを上も理解してるのさ」

 その言葉にここまでの生活を監視されていたのだと知る。よく考えれば当たり前のことだ。同時に中央がスノウをどう扱おうとしているのかを嫌というほど理解させられて、どうにもならない感情がこみあげてくる。

「ま、話は以上だ。どうする?」

 こつん、とツヴェンが拳で扉を叩いた。




 イチカは何事もなかったように会計監査部の部屋へ戻り、己の席に着いた。お疲れと声をかけてきた同僚にああとうなずいて見せ、そして本来の業務である会計の計算を再開した。ただ淡々と数字を合わせ、記録していく。午後はそうして時が過ぎて、イチカは定時に家路についた。ツヴェンとは一言も言葉を交わさなかった。

 衛戍を出てサイスタの街の方へ足を向け、停留所で乗合馬車を捕まえる。長身を小さくして座席に納め、窓の外を見やった。夏の夕暮れに沈む街はぽつぽつと灯りを灯し始め、川面に橙の光がゆらめく。それを眺めながら、引っ越しの支度をしなければとぼんやり思った。荷物が多い方ではない。スノウもまだ暮らし始めたばかりで男二人、身軽なものだ。首府はサイスタよりも東の平野部にあって、後背に山を負った新しい街だ。徹底した都市計画に基づいて作り上げられた街並みは整然として美しく、機能的で清潔だった。そこに行くという。おそらくは国が用意した住宅をあてがわれて、魔術局への出向という形になるのだろう。

 ──そうして、スノウを差し出す。

 何かがせり上がってきて、イチカは衝動的に口元に手をやった。

 魔術局がスノウに何をやらせようとしているのかはわからない。それがどの程度彼に負担をかけることで、どの程度人道に触れることなのかも知らない。ただ、脳裏にソルレアルの姿が浮かんだ。老爺は若いときに魔術で酷使しすぎて体を壊したと言っていた。魔術とは代償なしに何かを為せる技術ではないのだ。必ず術者に返ってくる。ゆえに術石という新しい技術に世界中が飛びついているのだとラズバスカも言っていた。人間を消費することなく恩恵だけを受けることが出来る夢のような技術なのだと。世界はようやく魔術から人を守ろうとし始めたと。ならば。

 ──スノウはどうなる。

 彼は人ではない。少なくともそういうことになっている。しかもイチカを掌中に収めてしまえば逆らうことなどできはしない。ただそれだけのことが、魔術局の人間を歓喜させている。一級魔術師五人分の魔力を蓄えた異形をどう扱うのか、想像したくもなかった。

 馬車はヘレ川を越え、市街地に入って止まった。ちょうど執政府通りと交差するあたりだ。馬車を降りたイチカは外の空気を大きく吸って、気持ちを落ち着ける。馬車に酔ったわけでもないのに吐き気がしていた。

 ──俺は、間違えたのか。

 遠くに逃げよう、と言ったスノウの言葉に従えばよかったのだろうか。否、そんなことをしたところでラズバスカや親元に人が派遣されて知りもしないイチカの居場所を聞き出すために拷問にかけられたことだろう。

 ──ならばこれが最善なのか。

 是、と到底思うことができない。違う、と心が叫ぶ。けれど正解はわからない。今からでも遠くへ行くべきなのか。スノウの力を使えば可能だとすでに証明されている。クズミもパンジュもいざというときは受け入れると言っていた。その言葉に嘘はないだろう。けれど。

 ──結局スノウを利用するのか。

 彼の力はイチカの力ではない。自分で抗うこともせず、交渉することもせずに、人の力で助かろうというのか。スノウにはまっとうに生きろとうそぶいておきながら。それはあまりにもスノウに対して不実に思えた。

 ──けれど他に、何ができる。

 閉塞感に息が詰まる。

 執政府通りを南に下り、道を渡った。居酒屋の灯りが石畳を照らし、調子のいい客引きの声がする。肉を焼く匂いがただよっていた。ふと視線をやれば今日の夕食をどうしようかと真剣に店を選ぶ人がいて、すでにできあがっている酔っ払いがいて、久方ぶりの友との邂逅に笑う人がいた。どうしてか数歩の距離にあるその光景があまりにも遠くまぶしく感じられて、イチカは心臓が締め付けられる心地がする。同じ地面に立っていながら自分だけが隔絶されている感覚に、何もかもを投げ捨ててそちらへ飛び込みたくなる。イチカは長く長く息を吐き出して首を振り、胸元に手をやった。今はそれどころではないのだ。そのとき、声がした。

 ──さみしいか?

 突然視界が真っ白に灼ける。がくりと膝が崩れる。何かに呑まれそうになる。それが何かはわからない。知らない誰かの歌声。遠のきかけた意識をなけなしの理性でつなぎとめる。何が起こったのか理解できない。耳だけが周囲の音を拾い上げる。馬の悲鳴、男の怒声、腹部への強い衝撃。かすかな浮遊感と全身を貫く痛み。そして、自分を呼ぶ声。

「イチカ──!」

 気づけば男は道の端に座り込んでいた。馬車の道と人の道を分ける敷石の上で呆然と周囲を見上げる。彼の周りには人だかりができかけていた。血相を変えた男がこちらに駆け寄ってくるのと、そのすぐ背後で馬車の馬が興奮したように蹄を鳴らしているのが見える。

「大丈夫かあんたら!」

 御者の言葉に、イチカはようやく腹部の違和感に気がついた。イチカの腹に白い頭が埋まっている。

「スノウ……?」

 思わず名を呼べば、がばっと少年は顔を上げてイチカを怒鳴りつける。

「何をしてるのイチカ! 死にたいの!」

 灰白色の瞳は怒りに燃えているようだった。イチカはぼんやりと何が起きたのかを理解する。

「……すまない。ぼんやりしていた」

「ぼんやりで轢かれないでよ。びっくりしたよ」

 スノウが長いため息を吐き出した。そして立ち上がる。周囲の目がどこか恐ろしげに少年を見ているが、歯牙にもかけずスノウが御者の男に頭を下げた。イチカに代わって謝っているらしい後ろ姿をどこか遠くのことのように思いながら、イチカは何度か手を握ったり開いたりを繰り返す。間違いなく自分の体だ。そんな当たり前のことを確認せずにはいられなかった。

「イチカ、大丈夫? 立てる?」

 どこか具合が悪いのかと戻ってきたスノウが心配げにのぞきこんでくる。

「……ああ。お前、何でここに」

「ちょうど戻ってきたところだよ」

「そうか。順調だったか」

「うん。俺はね」

 イチカは立ち上がる。体はふらつくことなく、しっかりとしていた。自分のことながら何が起きたのか把握できていないが、おそらく馬車の前に飛び出してしまったのだろう。丁寧に御者に謝罪をし、改めて家路についた。御者が突っかかることもなく素直に引き下がったのはイチカの体格と服装のゆえだろう。軍には関わりたくないと思ったのか、ほどなくして見物人も三々五々に散っていった。

「魔術を、使ったのか」

 どうやって自分を助けたのかを問えば、スノウはゆるく首を振った。

「使ってない。咄嗟のことだったから、飛び出して抱えて飛んだだけ」

 イチカがまたたく。長身のイチカをスノウが抱えて道の端まで飛んだのなら、人だかりができるのも納得がいった。非現実的な光景に違いない。

「よく、そんなことができたな」

 スノウを見下ろす。彼は今やイチカの肩に届かないくらいの背丈しかない。

「見てくれと能力が一致するわけじゃないからね。結構力持ちなんだ。それよりイチカは大丈夫? まだ顔色悪いけど何かあった?」

 見上げてくる灰色の双眸から逃げるように視線をそらし、イチカはゆっくり首を振った。彼は人間ではないのだという事実がいやに頭をよぎる。

「いや、特に。少々面倒な案件があっただけだ」

「前言ってた最悪なやつ?」

「……ああ」

 最悪の中でも一番の最悪だ。そうつむぎかけた言葉を飲み込む。

「そっか。でも本当に気をつけてね。今日は俺がいたから良かったけど、乗合馬車とぶつかったら死んじゃうよ」

「……ああ、そうだな」

 彼に告げなければならない話があるのに切り出すことができない。イチカは長いため息をついて、違うことを口にした。

「すまないな。疲れているのかもしれん。今日は早く休む」

「そうするといいよ。あ、そうだ林檎がまだあるよ」

「ウォルター夫人にもらったやつか」

 スノウがうなずいて、甘いものを食べてゆっくり休めばいいと穏やかに笑った。彼はいつの間にか隣人に気に入られたらしい。挨拶をしただけだと言うが、人なつこい質だ。それ以上のやりとりがあったのだろう。

「気に入られたようで、何よりだ」

「多分好奇心だろうけどね。イチカによろしくって」

 二人は家路を急ぐ。何の変哲もない平日の風景。夏の長い夕焼けが影を濃く落とし込む。昨日と同じ景色だ。その中に屈託無く笑うスノウがいて、イチカはそれを眺める。

「ラーズがおすすめって言うパン屋さんで黒パン買ってきたよ。夕飯に食べよう」

 少年が抱えた包みを見せる。今日はラズバスカと資料探しのために本屋を巡り、記事の校正をして、ついでに翻訳の真似事のようなこともしたと嬉しそうだった。

「……そうか。よかったな」

 イチカの声の固さに気づくことなく、スノウは少しはしゃいだ調子で隣を歩いていた。

「お給料が出るようになったらちゃんと家賃払うからね」

 当たり前のようにつむがれた言葉に少々面食らう。

「それは気にしなくていい」

「でも俺、居候なんでしょ? できるだけイチカの負担にならないようにしたいなって」

「……考えておく」

 他に答えようがなかった。彼の世界が確実に広がっていることを確かに喜ぶ自分がいるのに、同時にその無邪気な物言いに神経が逆立つ気がした。決して向けてはいけない言葉を胸の奥に押し戻す。

 ──守人にならなければ。

 昨日と同じ明日を守れたのに。

 転勤の話は、できなかった。




 窓を開け放てば、秋の日差しが色づき始めた山肌を照らしていた。実り豊かな季節の太陽はやわらかな金色を帯びて湖面にきらきらと光を散らす。少し冷え始めた空気を室内に入れながら、少女は振り返った。

「いいお天気よ、アル」

「ああ、山の色が秋になってきたね」

 寝台に上体を起こしたソルレアルが眼を細める。その背にクッションをいくつかあてがって支えにし、ティーレは茶を入れるために台所に向かった。軽い足音が響く。

 ホローグ湖のほとりに建てられた小さな家に二人は暮らしていた。家の周囲の小さな畑が二人で暮らすに足りる程度の実りをつけ、不足はティーレが街へ買い出しに出る。太い木を組み合わせて作られた家には手織りの敷物が何枚も敷かれ、大きく切った窓からは湖とその背後に迫る山々を眺めることができた。短い夏を終え、すでに山は秋の支度を始めている。標高が高く山深いこの場所では夏も秋も一瞬で過ぎる。だからこそ秋は輝くような美しさをたたえていた。

「いい季節だ。本当に」

 噛みしめるように言って、ソルレアルはありがとうとつぶやく。ティーレが視線を上げた。

「ティーレ。君のおかげだ。秋を美しいと思えるようになった」

「私じゃないわ。アルががんばったのよ」

「はは、そんなことはない。そんなことはないんだ……」

 榛色の双眸が己の手を見た。左の手の甲に刻んだ起動紋章。それはソルレアルの体内魔力の生成速度を上げて出力を円滑にするためのものだった。かつてあの戦争の中で魔力を切らすことなく術式を回し続け、己の心の空白を埋めようと吠えながら文字通り命を削って魔術を行使した。その代償に内臓は傷つき、実際の年齢よりも十も老け込んで死期を迎えている。老いた手に紋章だけは褪せることなく残っていて、否応なく己の所業を突きつけられる心地がする。

「僕は君に甘えて、すぐいい方に回ってしまうな」

 男は乾いた声で笑った。

 絶望の秋、と呼ばれた争乱がある。平地にも秋の気配がただよい始めた、晴れた日だった。秋の風に麦の穂がさざめいてそうして、虐殺劇は幕を開けた。あまりにも突然のことに人々は惑い、怯え、散り散りに逃げ回ったが、今思えば不穏は以前から日常に忍び寄っていたのだろう。何年もかけて綿密に下地は整えられていた。

 レニシュチにはレニシュチ人とテトリ人がいる。同じ土地に暮らすまったく別の系統の人々だった。レニシュチ人の方が人口は多かったが、潜在魔力量が多いテトリ人が様々な分野の要職に就いていた。それは必要な能力に応じた当たり前の分担のはずなのに、気づけばレニシュチ人の劣等感を煽り、テトリ人の選民意識を育てていった。数で勝るレニシュチ人を押さえ込むためにテトリ人は魔術権益の独占を図り、レニシュチ人は土地を開拓して経済基盤を作り上げていった。目に見えぬ分断は少しずつ少しずつ亀裂を深め、少しずつ少しずつ分離政策が進んでいった。いつしかソルレアルはレニシュチの集まりに妻と娘を連れて行くことができなくなった。妻がテトリ人だったからだ。逆もまたしかりで、テトリとレニシュチの夫妻は奇異の視線にさらされるようになっていた。兆候は間違いなくあったのだ。それなのに、ソルレアルは黙殺した。

 ──関係ない。

 そう言って。そうしてあの、秋の日。美しく晴れ渡った青い空に黄葉が映えていたことを鮮明に覚えている。誰かが立ち上がれと叫んだ。そうして気づけば人々は手に武器を取り、煽動されて隣人たちを襲った。同じ街で、同じように暮らしてきたテトリ人とレニシュチ人が互いに渾身の憎悪を込めて殺し合いを始めた。そうしてソルレアルは、妻と娘を失ったのだ。

「……実を言うとね、あまり覚えていないんだ」

 何がどうしてそうなったのか、記憶は曖昧だった。ただ妻と娘は鍬で頭を割られ、ソルレアルは傷を負いながらも生き残った。気づけば彼はレニシュチ人の民兵組織の中にいて、テトリ人掃討作戦に参加していた。元々が魔術師だ。やれることはいくらでもあったし、抵抗もなかった。ただ胸の穴を埋めるように術式を回し、もっともっとと望んで起動紋章を刻み、命を数字に変えて屠っていった。

「君にとんでもない汚れ仕事をさせてしまったという後悔はあるのに、罪悪感はないんだ。こんな穏やかな日を迎える資格なんて無いはずなのに」

 ソルレアルは手の甲を撫でる。今はただの刺青と化しているそれはかつて、ティーレにつながっていた。あの日ソルレアルの眼前に降り立った少女は確か、今よりもずっと年嵩の姿をしていたはずだ。濡れたような漆黒の瞳にソルレアルは吠えた。

 ──今更何をしに来た。

 彼女がもっと早く現れていれば、自分は家族を守れたのに。

 ティーレは答えなかった。次々と罵声と怨嗟と後悔を吐き散らす男の言葉をただ聞いていた。そうして男と契約をしたのだ。より多くを殺すために、より多くを奪うために。男は少女の魔力を使うことをためらわなかった。人ならざるものの魔力量を体に流し込んで回し続け、死に急ぐように戦場を駆け抜けた。そうして。

 ──あなたは、さみしいのね。

 ぽつりとつむがれた言葉。淡く笑んだティーレの顔がどうしてか直視できなくて、男はくずおれた。突然涙があふれて、何もかもを手放して泣きじゃくった。言葉にしてしまえばあまりにも簡潔な、けれどどうしても振り払えぬ感情のためにあらゆるものを燃やしたのだと今更に気づかされて、流す涙とともに何かが体の中から抜け落ちていったのを覚えている。

「私に善悪はわからないわ。ただアルが、この場所でそれでも生きようとしていた。ならその道行きをともに行くのが私の役目。あなたと光を探すのが私の生きる理由。それだけ」

 何もかもを捨てて戦場を去った男の傍らに少女の姿だけがあった。二十年、彼女は隣にあり続けている。変わらぬままの姿で。どこか彼の娘に面差しの似たその姿を望んだのは他ならぬソルレアルだった。命をやる代わりに娘を返せと彼女にぶつけるべきでない感情をたたきつけ、決別できぬままここに至ってしまった。男の表情が歪む。

「僕は、きっと君の手を放すべきだった。自分一人で背負うべきものを、自分で向き合うべきものを、どうして……」

「残念、あなたが手を放しても追いかけるだけよ。言ったでしょう。私に善悪はわからないの。人間じゃないんだもの」

 だから、とティーレは困ったように笑った。

「あなたを断罪してあげることもできなかった」

 ソルレアルの手を取ったティーレはレニシュチを転々とした。戦火が迫れば居を移し、成長しないことを疑われれば交わりを断った。度重なる干魃も食糧難も関係なかった。ないのならあるところから持ってくるまでだ。ティーレは惜しげなく己の力を使ってソルレアルを生かした。戦争を生き延び、飢餓をくぐり抜け、彼が望むままに時を止めて生きてきた。けれどその中で、彼の行為に言及したことはなかった。彼が奪った命の数も、傷つけた人の数も、数えることに意味を見いだそうとは思わなかったのだ。

「これで良かったのかわからないのは、私も同じだわ」

 少女が微笑む。二人きりの世界に閉じこもることなく時を止めることなく、彼を人の中に帰すべきだったのかもしれない。そう思ったことは何度もあった。クズミやレムリィリにこぼしたこともある。それでも、彼が今を穏やかに過ごせているという事実を捨てることができなかったのだ。彼女にとって、彼の平穏は何ものにも代えがたく、少なくともこの国は人の温かさを信じられるような状況にはなかった。他の国へ行けばまた違ったのかも知れない。だが彼はレニシュチにいたいと望んだのだ。

「ねえ、アル。私はあなたをもっと広い場所へ連れて行くべきだったのかしら」

 そうすればあなたは。

 ──さみしくなかったかしら。

 彼とともにあることはできる。ともに歩むこともできる。けれど、それだけだった。彼の抱えた根本的な孤独と喪失感をどうすれば癒やせたのか、今なおわからない。

「ふふ、君がいてくれたんだ。寂しくなんかなかったさ」

 ソルレアルが笑う。穏やかに、なだらかな声で。

「君がいてくれた。僕自身が捨てようとしていた僕を、惜しんでくれた。愛してくれた」

 十分すぎると言って老爺は目を閉じた。ありがとうとつむがれる声音が少し照れくさく思われて、ティーレはことさらに明るい声を上げる。

「珍しくしんみりしちゃったわね。もっと楽しい話がいいわ。昨日焼いた林檎のパイでも切りましょうか」

 どのくらい食べられるか尋ねようと面を上げたティーレはわずか息を呑んだ。目を閉じたソルレアルの呼吸が浅い。少女の目には男の魂の輪郭が揺らいで見えた。それはつまり、彼の旅立ちを意味する。静かに立ち上がり、ソルレアルの手を取る。その手の甲に触れる。

「ティーレ」

 かすれた声が名を呼んだ。

「話の途中にすまないね。眠気が強くて、少し眠ろうと、思うんだ……」

「わかったわ。窓、開けておくわね」

 常と同じ調子で答えて、少女はそっと男の頭を胸に抱いた。榛色の瞳の焦点が合わない。男は窓の向こうを見ている。乾いたくちびるが切れ切れにティーレではない誰かの名を呼ぶ。ティーレが会うことのなかった二人だ。

「大好きよ、アル。あなたの道行きにどうか、光がありますように」

 獣の魂は地に留まる。新しい守人を選ぶ。ここから先をともに行くことはできない。ただ見送るだけだ。彼と過ごした二十年を思う。この道行きは彼にとって幸福だっただろうか。そう尋ねかけて、飲み込んだ。少女のくちびるが笑みを引く。心に決めていた一番とびきりの笑顔でもって、男を送り出す。

「──さようなら」

 永の別れであった。

 黒の守人の死を、四人の獣は本能で知る。クズミは出勤したばかりの財団の事務所で、レムリィリは夕飯の支度をしながら、ヴィーユールは砂漠の月光の下で、そしてスノウは夕食後の茶を選びながら、ソルレアルの死を知った。四人はゆっくりと空を仰ぐ。

 ──さようなら。

 涙が一筋、こぼれた。

「……どうした」

 イチカに問われ、スノウが振り向く。頬を涙に濡らしたまま、静かに言った。

「アルが、死んだよ」

 イチカの黒い瞳が見開かれる。

「ソルレアル氏か……?」

 スノウが浅くうなずく。自分たちの魂が元は一つなのだと思い知らされる心地がする。気持ちが落ち着かない。ティーレの悲しみが流れ込んでくる。

「もう長くないって聞いてはいたんだけど」

 早すぎるとつぶやいてスノウは頬の涙をぬぐった。

「他の兄弟の守人までわかるんだね。知らなかったよ、俺」

 どうしていいのかわからず、スノウは棚から矢車草の茶葉を出す。イチカはそれを止めなかった。穏やかな榛色の瞳を思い出す。

 ──僕はもう次は来られるかわからないけれど。

 ただ一度会っただけの人物がこんなにも心の中に強く残っていることに、少なからず驚いた。彼は自分の死期を知っていたのだろうか。レニシュチの内戦を生き延び、獣と二人きりで二十年を生きたという人生は、幸福だっただろうか。守人という生き方を、彼はどう感じていたのだろうか。イチカは柄にもなく彼の人生を思った。

「アルは……幸せだったかな……」

 スノウが同じ言葉をつむいだ。イチカはゆっくりと少年を見る。

「ナナは、……たぶん幸せじゃなかった。アルは、どうかな……。俺たちは、見送ることしかできないから、幸せだったら……いいなぁ……」

 矢車草の茶葉を入れた硝子瓶を持ったまま、スノウの双眸から涙がこぼれていた。イチカは答える言葉を持たない。拳を握って、開く。手慰みにそうしながらただ低く、そうだなと答えた。




 スノウが働く新聞社はアサーディル社といった。明けの明星の別名だ。魔術に特化した記事を取り扱い、編集部だけがサイスタ市街地にある。印刷は下請けの会社に任せざるをえないような小さな新聞社だが、その分新しいことにも果敢に挑むだけの情熱を持っていた。ユルハのみならず外国での魔術研究の動向や政治経済の話題など貪欲に扱っている。スノウの仕事は魔術研究と技術系の記事の内容に間違いが無いか、あるいは言葉回しに誤解を生じる表現がないかを確認することだ。それに加えて新しいことを頼みたいと言われ、今日はそれに集中して取りかかっていた。研究論文の要約だ。ラズバスカに見てもらいながら何度か校正を行ったことで、スノウの言語能力に問題が無いと判断されたらしい。

「それで、どんな感じ?」

 スノウに割り当てられた机にラズバスカがひょっこり顔をのぞかせた。彼はいつもスノウを気にかけてくれ、また他の社員との間に立って早くなじめるよう心を砕いてくれている。

「とりあえず要点を箇条書きにしてるけど、文章の方がいいかな」

「いや、それでいいよ。全体の流れを先に教えてくれた方が助かるから」

 ラズバスカはすぐ隣に椅子を引きずってきてスノウの手から紙束を受け取った。ざっと斜めに内容を確認しながら青年はわずか眉根を寄せる。

「これ、夢渡りの延長ってこと?」

 人の夢に潜り込む、古くからある魔術だ。

「うん。だけど着眼点というか、起点が面白い。今までそういう発想で術式組んだ人いないんじゃないかな」

 術石と従来の魔術を組み合わせた複合魔術で、遠くにいる人間の意識と魂を再構築して通信する技術だという。

「え、可能なの?」

「条件がかなり厳しい。相手が眠っていることが大前提だし、術石の容量も術者の魔力量も相当必要。でもそこ何とかできれば不可能じゃない、って感じ」

 術石にため込んだ魔力を使ってかりそめの肉体を組み上げ、その中に魂の複製と意識を落とし込む。本体の肉体と魂を損なうことなく意思疎通ができ、記憶は共有できる。理論上は。

「……これだけ魔力食うなら転移しちゃった方が早くない?」

「そこなんだよね。これだけ転移術式が広まっている中でわざわざ夢渡りの遠見術式からこれを組み上げてくるってなかなか挑戦的だと思って」

 言ってスノウは茶化すように笑ったが、頭の中では違うことを考えていた。ラズバスカに返された紙面を見る。相手が眠っていること、高純度大容量の術石を必要とすること、魔力量の多い術師が術式起動しなければいけないこと。その条件の全てを自分は、自分たちは満たせる。それはつまり、五門を開放することなくアスギリオの魂をこちら側に再構築できるということだ。

 ──アッシュに、会える。

 スノウはアスギリオとの記憶を全て思い出したわけではない。彼女の顔もどこか曖昧だ。いずれそれは思い出すだろうとクズミたちは言ったが、それでも彼女への強烈な思慕は確かに心の一番深い部分に根を張っていた。イチカとは全く別の位相で彼女を思うと魂が震える心地がする。

「スノウくん、そんなにこれ気に入った?」

 どこか面白がる調子のラズバスカの問いかけに少年はほころぶように笑んだ。

「会いたい人がいるんだ」

 心は完全にはしゃいでいた。スノウには明瞭にその道筋が見える。一度で成功させることは難しいかもしれないが、少なくともこの論文に記された術式を再現できるという自信はあった。それがどの程度の精度で理論を実現できるのかはわからないが、なにがしかの成果は見込めるだろう。そこから調整と改良を加えることはそう難しいことではない。

「転移できないとこ?」

「難しいね」

「そっか……」

 それ以上を問うことなく、ラズバスカは仕事に話を戻した。スノウの出自がレニシュチであることと結びつけて考えたのかも知れない。

「そういや今週イチカひまかな」

 他の原稿の確認を終えたラズバスカにふと尋ねられ、スノウは首をかしげた。

「ちょっと忙しいみたい」

「ああ、月末だから?」

「国境線がもめてるとか言ってたよ」

 ああそうかとつぶやいてラズバスカの表情がわずかに曇る。

「南西国境の掃討作戦が始まるって情報が入ってたな」

 彼はどこから情報を得ているのか、国内外の事情に精通していた。詳しいねと言えば、苦笑めいた表情で肩をすくめて見せる。

「イチカには嫌がられる」

「……心配してた」

 軍に踏み込みすぎていないか、自分を切り売りするような真似をしていないか、口数少なく案じる横顔を覚えている。スノウから見てもわざわざそこまで深入りをする必要はないように思えた。少なくとも仕事は回っている。ためらいがちにそう口にしたスノウへラズバスカは少し難しい顔をしてみせる。

「うーん、何て言うのかな。仕事がどうとかいうことじゃなくて、執着のなれの果てだよ」

「執着?」

「まだ道がある、って思いたいんだ。……元々魔術職目指してたんだよね」

 何でもないように語る表情には確かに自嘲の気配があって、スノウはくちびるを噛みしめた。

「結構がんばったんだけどさぁ、実技がどうにもならなくて。潜在魔力量が何をどうしても基準値に満たないんだ。補助紋章入れようとして施術断られるくらい」

 どんなに底上げしようとしても生まれ持った器を拡張することはできない。実践を伴わない理論魔術の道もなかったわけではないが、性分として向いていなかった。それでも道を求めて魔術道具を作る職人に弟子入りするとか、魔術師業所の事務とか、色々な関わり方を模索した末にたどりついたのがここだったという。

「ここならさ、色々な情報に触れていられるじゃん。まだ見つけてない道があるんじゃないかって思って、色々なこと追いかけてるうちに術石が出てきた」

 ユルハで術石の研究運用は軍部が一手に担っている。市井に出回ることはほとんどなく、大学などの研究機関も基本的に軍の息がかかっている状態だった。畢竟、軍部との繋がりがなければ深入りすることはできない。

「術石なら回路式だからさ、起動の魔力すらいらないだろ? 俺どころかイチカでも魔術が使える」

 幸か不幸か、その回路式を読み取れる程度の知識はあった。必死に手を伸ばせば、触れられる場所にある。そう思ったら引き返せなかった。あと少し、もう少しと手を伸ばし続けてそうして。

「こうなっちゃったってわけ」

 男が笑う。その笑顔がどうしてか痛々しく見えてスノウはぎゅっと拳を握りしめた。

「結構ギリギリなとこにいるって自覚はあるよ。これでも。でもさ……あと少しなんだ。きっと、あと少しで」

 ──手が届く。

 その切実な声。狂おしいまでに焦がれる響き。

「ま、こんな話されても困るよな。ごめんごめん」

 わざわざ明るい調子でつむがれた言葉の向こう側に確かに嫉妬の色を読み取って、スノウは返す言葉を見つけられない。初めて会った日を思い出す。ラズバスカはスノウが手持ち無沙汰に飛ばしていた魔力の光にはしゃぎ、きらきらした眼で術石の未来を語っていた。それをスノウは魔術が好きなんだなと思ったのだ。その向こう側など想像しなかった。

「俺、無神経だったね。……ごめんなさい」

 何が、とは言えなかった。言ってはいけないと思った。ラズバスカがわずか眼を見開いてそうして、手のひらに顔を埋める。肩が震えた。それは喉の奥で笑っているようで、嗚咽をこらえているようで。

「……本当に、君がただの獣だったらイチカを憎めたかもしれないのになぁ」

「ラーズ……?」

 絞り出された言葉に確かな不穏を感じてスノウは眉根を寄せる。

「……知ってるの?」

「うん」

 沈黙が落ちた。そしてラズバスカが尋ねる。

「なんでイチカなの。魔力ないから?」

 ああそうかと納得する。ラズバスカの嫉妬の向かう先は自分ではない。

「イチカがイチカだからだよ。たとえ魔力があってもきっと、俺はイチカを選んでた」

「……そっか」

 ありがとうと青年は小さくつぶやく。

「イチカはさ、いい奴なんだ。もう十年以上の付き合いだけど、俺がどんなにうまくいかなくてもへこんでも黙ってそばにいて一緒に飯食ってさ。そんで最後には俺がやりたいようにやればいい、なんて無責任なこと言うんだぜ」

 それができないから悩み苦しんでいるのだとわかっているだろうにとほんのわずか恨み節を乗せながら、ラズバスカの黒い瞳は憧憬めいた色を滲ませている。ラズバスカの夢を笑わなかったのはイチカだけだった。彼の努力を無駄と断じなかったのは、イチカだけだったのだ。ラズバスカのありようを茶化すことなく嘲弄することなく受け止め、イチカもまた淡々と己のありようを生きていた。それはあまりにも心地が良く、彼とともにある理由などそれが全てだ。己が無才を慰めるための友人などではない。それなのに。

「守人に選ばれたって話聞いたときになんでイチカなんだ、って思った。イチカ魔術嫌いなのに、って」

 切々としたラズバスカの言葉を、スノウはただ聞いていた。

「獣がいれば魔術職につける。それどころか師業所だって開ける。手が、届くんだ。なのになんでそれがイチカのところに、って思ったんだ」

 見知らぬ誰かならこんな気持ちにはならなかった。青年の黒い双眸がスノウの灰白色の瞳を見る。ラズバスカにとっては奇異な色彩だ。だが、それはまごうことなく人のもので、そして真摯に自分の言葉を受け止めようとしていた。

「君は、術石じゃないのにな」

 泣き笑いのようだった。

 ── 俺がお前に望むのは、まっとうな人間として普通に生きることだ。

 イチカはスノウにそう言ったらしい。あまりにイチカらしくて、同時に自分の浅ましさを思い知らされた気がした。ラズバスカの友人は誰かが害されるのを良しとせず、ありのままを尊重する。本人がやりたくないのなら無理強いをすることに意味は無いと、当たり前につむがれる理想論めいた言葉は心地よい。そうしてその言葉に守られたこの少年は、確かに人だった。

 スノウは彼の感情をどう受け止めていいのかわからない。嫉妬と憧憬の狭間で、それでもイチカを憎むことができなかったと語る双眸は痛みをはらみ、言葉をつむぐことはできなかった。ただ彼の感情の根底にあるものは理解したように思う。

「さ、仕事しようぜ」

 つとめて明るく絞り出された声にスノウは静かに答えた。

「俺も、イチカが好きだよ」

「そういう話じゃねえんだなぁ」

 ラズバスカが笑う。

「でも、君とイチカで良かったんだろうって思うよ」

 きっと、と青年は言った。




 イチカと予定を合わせてまた食事に行こうという話をしながらラズバスカとスノウは会社を出た。乗合馬車の停車場までは一緒だ。そうして同時にその姿を見つける。人の道と馬車の道を分ける縁石のところにたたずむ長身。腕組みをして眉間にしわを寄せ、いつになく難しい顔をしていた。

「イチカ?」

「どうしたんだよ。仕事終わり?」

 二人が近づけば低い声が降ってくる。

「スノウ。前に言っていた認識されなくなる結界とやらを張れるか」

「偽装遮断膜? できるけど……」

 なぜと委細を尋ねるより早く、ラズバスカにかけてくれとイチカが口早に言った。ただならぬ気配に圧されてスノウが手を一振りすれば空気が震えてラズバスカを覆い、イチカの目には友人の影が薄くなったように見える。ラズバスカはぱちくりとまたたいて、そして何事か思い当たって真剣な表情で友人を見上げた。イチカ、と名を呼ぶ声にかぶせるようにイチカが口を開く。視線はスノウを見ている。まるでラズバスカがそこにいないように。

「イプリツェに転勤になった。明後日には引っ越しだ」

 その言葉にスノウが瞠目した。

「すまない」

 ラーズ、と名前をつむぐ言葉は音を伴わない。くちびるがそのまま音のない言葉を形作る。

 ──逃げてくれ。

 くしゃりと顔を歪めてラズバスカは乱暴に自分の頭をかいた。

「あちゃー……何、そういうこと?」

 およその状況を察してラズバスカはああともううともつかない音を吐き出す。そして状況がわからぬままのスノウを見た。

「スノウくん、俺いないと思って話した方がいい。多分聞かれてる」

 少年がまたたく。

「そのままイチカと話してる感じにしといてね。軍部は君たちのことを把握してる。守人と獣がサイスタの衛戍にいる、って。それをイプリツェに移して監視下に置く。目的は……まぁ、わかるだろ?」

「どうして……」

 ラズバスカの言葉は理解している。奇しくも彼が先ほど口にしたとおりスノウを術石代わりに魔術にまつわるあれこれをやらせようというのだろう。だがこぼれ出る疑問を抑えきれなかった。

「俺は家を引き払う支度をする。お前にも買い出しを頼みたい。西の市場はわかるか? ラーズの家の近くだ」

 言いながらイチカがメモを手渡す。スノウは半ば呆然としたままそれを受け取って紙面に目を落とした。走り書きの文字で記された日用品の数々。その中から不自然に歪んだ文字を無意識に拾い上げ、よく知る名前を編み上げる。

 ──クズミ。

「頼めるか」

 つとめて平静につむがれた言葉はしかし真剣な響きを帯びており、スノウの体は緊張にこわばった。

「……うん。行ってくる」

 強くうなずいて、偽装遮断膜の強度を上げ、さらにもう一段階認識阻害の術式をつむいだ。それなりの魔術師が本気で看破をかけない限りはラズバスカが認識されることはないはずだ。じきに術者であるスノウ以外には見えも聞こえもしなくなる。

「イチカ。お前のせいじゃないからな」

 ラズバスカが張り上げた声がイチカに届いたのかはわからない。ただ行けと言われてスノウはラズバスカとともに歩き出した。確かな不穏が始まっていた。




 スノウが戻ったのは早かった。メモに記された品を両手に抱え、慣れない場所で少し道に迷ったと言えば誰もが納得するであろう程度の時間だ。

「……どうだった」

 玄関扉を閉め、スノウが右手を振る。家の中におかしな気配がないことを確認してからイチカを見た。

「クズミとサァラが引き受けてくれたよ。ダジューにいる」

 赤の二人は少し驚いてはいたが快くラズバスカを受け入れてくれた。元々が難民支援を行っている財団だ。一人増えるくらい大した話ではないとクズミが笑っていた。

「落ち着いたら連絡するって。クズミのところの受け入れ門陣教えてもらったから、いつでも行けるよ」

「……行けるものならな」

 抑揚のない乾いた声がスノウから言葉を奪う。

 ラズバスカが姿を消したことをすぐに上は把握するだろう。次は故郷の親だ。だがラズバスカと違ってスノウのことやら今の状況やらを知っているわけではないし、説明したところで受け止める余裕があるとも思えない。となるとひたすら従順に上に従って見逃してもらうほかなかった。

「言うのが遅くなって悪かった。明日一日でここを引き払って明後日、イプリツェに行く」

 改めて言葉にしてみれば肺の奥が重くなる心地がする。

「普通なら馬車で二週間だが、軍が動くなら天候次第で十日というところだろう」

 スノウはイチカを見た。

「イチカは、ダジューに行かないの」

 クズミにも同じことを聞かれた。ユルハの置かれている状況を考えればこれから先はきな臭くなるばかりだと言って案じる様子を見せていた。

「……言っただろう。行き当たりばったりに暮らしていけるだけの生活力はないと」

「でもクズミもサァラもいる。もっと遠くならパンジュのところもある。みんな助けてくれるよ」

「俺の知己はラズバスカだけじゃない」

 全員を連れて行くことは不可能だし、イチカを連れ戻すためなら国も軍も何だってするだろう。ラズバスカを逃がしたこともかなりぎりぎりの選択だった。かえって刺激してしまうのではないかとも思ったが、彼は軍部に食い込んでしまっている。スノウのことを知っているのみならず同僚として過ごしもした。イチカにとってもスノウにとっても切り札になると認識されているのは明白で、ユルハに留まって状況が良くなる気はしなかった。ラズバスカの意思を確認する余裕がなかったことは引っかかるが、逃がす以外を思いつけなかった。

 ラズバスカを逃がしたのが自分ではないと証明する手立てはないが、イチカが逃がしたと断じる証拠もないはずだ。転勤までの猶予を与えられるということは、まだ譲歩を引き出す目が残っていると思いたい。

 ふと視線を上げればスノウが不安に染まった顔でこちらを見つめている。安心させるように口元をゆるめてみせた。

「大丈夫だ。何とかやってみせる」

「でも、それはイチカがやりたいことじゃないんでしょう……?」

 スノウにはこれから何が起きるのか想像することは難しい。だがイチカが望んでいないことだけはわかる。それで十分だった。

「ああ、やりたくはないな。だが俺がここでへたな動きをして俺の知る誰かが傷つけられるのはごめんこうむる」

「イチカが傷つけられるかも知れないのに?」

「わかっていて選んだからそれはいい」

 どうにもならないと言って、イチカは力なく笑った。スノウは胸が締め付けられる心地がする。人一人救えるのなら自分の命を預けると言ったイチカだ。今の状況がどれほどの重圧か。スノウは顔を歪め、拳を握りしめる。自分にできることを、イチカを傷つけずにすむ手段を考える。とはいえ、スノウにわかることもできることもそう多くはなかった。

「……やっぱりダジューに行こうよイチカ。闇雲に言ってるつもりはないよ。さっきクズミとも話してきた。五門機関から圧力をかけることもできるって」

 国内に身を置くよりは交渉をするのもやりやすいだろうと言ってみるが、イチカはゆるりと首を振った。

「それは、無理だろうな」

 スノウと出会った日、衛戍の師団長室に現れた五門機関の男たちとエヴェリエ。それが答えだ。

「五門機関は俺たちをどう扱おうと黙認するだろう」

「どうして」

「最初から国を巻き込んでいる。それだけ切羽詰まっていたんだろう」

 五門機関の性質からして守人に国を関与させたくはないだろう。守人の身柄を盾に無茶な要求をされる可能性は高く、それに応じるメリットなどない。実際、サァラとファランドールは国に守人であることを把握されていないと言ったし、ソルレアルに至っては長い隠遁生活で生死不明のまま記録が失したという。守人と獣の存在がどこかおとぎ話めいて伝えられているのも、結局のところどこの誰がそうなのかわからない、という状態によるものだろう。その状態を五門機関は意図的に作り上げている。

「俺とお前が契約しなければ最悪、お前とソルレアル氏が同時に不在になると考えれば多少の無茶はするだろう」

 スノウが新しい守人を選ぶことなく死のうとしていたことは知っていただろうし、ソルレアルの状態も把握していたはずだ。実際守人と獣が欠けることで何が起きるのかイチカには想像もつかないが、少なくとも組織としてその状態を避けたいだろうことはわかる。そのためなら何でもするであろうことも。

「元々味方だとは思っていないが、余計な期待はしない方がいい」

 イチカにできることの範囲で切り抜ける道を考えるしかなかった。

「まぁ、手詰まりだが」

 深く嘆息する。よく考えれば一介の事務員に過ぎないイチカに軍と国の動向を予想する方が無理というものだ。確かにスノウの言う通りに遠い場所へ逃げてしまう方がはるかに楽な手段に思えた。

「でも、でも……」

 スノウが泣き出しそうな顔をしている。イチカは思わず手を伸ばしてくしゃりとその頭を撫でた。スノウの白い髪は指通りが良く、当たり前の少年のそれだった。

「不安にさせて悪かった。まだ何もかもが悪くなると決まったわけでもない。案外好待遇かもしれないし、お前が気負うな」

 少年をなだめる言葉にふと自分の中に何かが顔をのぞかせた気がして、イチカはわずか眉を持ち上げる。

 ──なぜこの場所に留まるのだろう。

 愛国心の類いを持ち合わせているわけではない。それなりに安定した給料がもらえて魔術の素養がなくても構わない職業、を突き詰めた結果の軍属だ。故郷への愛着はそれなりにあるとは思うが、離れて暮らした時間の方が長くなった。親とラズバスカ以外の人間関係もそう深いわけでもない。自分がこの場所に執着する理由が自分でわからなかった。ただ、逃げるという選択だけはしたくないと思った。だって。

 ──手に入れたのに。

 瞠目する。

 眼前の少年を呆然と見る。自分の中のそれに、気づいてしまった。

 それは優越感だった。魔術なんてもので自分を疎外してきた人間たちが喉から手が出るほどに欲しがるそれを、自分が得た。そしてそんな彼をただの居候として、まるで魔術の才などない一人の子供として扱うことで溜飲を下げたかったのだ。彼を手中に収めながら利用しない自分、というねじれきった自己肯定だった。

 魔術の素養の無いイチカはずっと疎外されてきた。日常的な簡易術式の起動すらできない体は職を探すに窮し、一切そういうものを求められない事務の仕事にたどり着くまでにずいぶんと遠回りをした。イプリツェで受けさせられた検査もどこか侮る響きでもって残念ながらそういう体質ですね、と結果を告げた。日々を生きるのにイチカは魔術を必要としない。けれど魔術を必要とする人々はそれを持たないイチカを笑うのだ。他人など関係ないと割り切って生きてきたつもりだったが、それでも確かにイチカの中に劣等感は育ち、それがスノウに出会って芽を出したのだと今更ながらに知る。

「ああそうか……」

 手のひらを見る。今し方触れたスノウの体温が残っていた。紛れもない人の命のそれがゆっくりと空気に融けていく。

「これが、守人になるということか」

 魔術の素養が無く魔術に価値など見いだしていないと思いこんでいただけだった。その実スノウを利用し、彼の存在でもって己の劣等感を解消し、歪んだ自尊心を埋めようとしていた。人ならざる強大な力を得るというのは、こういうことだった。失望がじわじわと足下から這い上がってくる。

 ──守人。

 それは獣に選ばれたもの。英雄アスギリオと似た魂を持つもの。強大な魔力を持った獣を従え、五門の安定を守るもの。あるいは使命感だとか誇らしさとかそういったものを生む存在なのかもしれない。だがイチカはそうではなかった。

「ずいぶんと、勘違いをしていた」

 自分は揺らぐことなく昨日と同じ自分なのだと。

「……愚かなことだ」

 自嘲がこぼれた。

 スノウが緩慢な仕草でイチカを見上げる。その瞳に確かに揺らぐ不安と自責を読み取ってイチカは笑んでみせる。

「荷造りをしておいてくれ。俺も荷物が多い方じゃない。気にせず全部持っていけ」

 いつもの声を出せているだろうか。

「お前だけのせいじゃない。お前が悪いんでもない。場所が変わるだけで今まで通りだ」

「……うん」

 選んだのはイチカだ。選択肢がないなどと口にしながら、それ以外を探そうとしなかった。確かにスノウの存在が引き金ではあってもこの事態を招いたのは己の劣等感に負けたイチカ自身だ。なら自分は最低限この少年の尊厳を守り、新しい日常を守っていくほかない。

 ──ほんとうに?

 ふと声がした気がしてイチカは視線を上げる。だがこの家にはイチカとスノウしかおらず、盗聴やら監視の類いの仕掛けがないことはスノウが確認済みだ。

「とりあえず今日は休め。俺もそうする。明日、また考える」

「……うん。ごめんね、イチカ」

「謝ることじゃない」

 そうして引き上げた自室で、イチカはため息を重ねる。何が正解なのかわからない。結局イプリツェに行って新しい生活を始めるのならスノウとダジューに行くのも変わらないのではないかとか、いっそ今すぐ実家に転移して親を連れ出すべきかとか、答えの出ない言葉だけがぐるぐると脳裏を渦巻いていく。少しでも気を抜くと襲い来る圧迫感と閉塞感に思考が鈍る。

「……俺が守りたかったものは、何なんだ」

 ──昨日と同じ明日。

 朝は一緒に食事をしてイチカが先に出てスノウに戸締まりを任せ、夕方には大抵スノウが先に帰っている。市場でめぼしいものがあれば買ってくるし、執政府通りで落ち合って二人で買い物に行くこともあった。そうして帰宅して大人と子供とで台所に立って食事を作って、スノウの話を聞いて時折自分の話をして。そんな毎日が当たり前になり始めたところだ。ついさっきまでスノウのことは本当にただの同居人だと思っていたし、彼自身の人格は衝突を起こすようなものでもなかった。あるいはイチカに気を遣って我慢をしているのかもしれないが、少なくとも今の段階ではいずれ腹を割って話せるようになるというある種の確信もある。この毎日を重ねていく。それでよかった。──それが、よかった。

 ──わかるぞ。

 また、声がした。その出所を探して視線を上げて、それが自分の中からすることに気がつく。

 ──一緒においしいものを食べて、時々遠出をして海でも行って。

 男のような女のような音程のあやふやな声。心臓が熱を帯びる心象。

 ──楽しいことをたくさんしたかった。していたかった。

 視界が明滅する。夕焼けがまぶたの裏にひらめく。

 ──それだけでよかったのに。

 イチカはうめいた。心臓が、痛い。膝が崩れる。意識が飛びそうになるのをこらえて、奥歯を握りしめる。

 ──なぁイチカ。さみしいだろう。

 この日々を失うのは、怖いだろう。

 どさりと長身が床に落ちる。


「私もだよ」



 



 





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