11・サラ・ドーハム

 女になることに、大きな抵抗はなかった。

 父親は早く死に、家族は女ばかりで、彼女たちの振る舞いや考え方は身に染み込んでいる。自分自身もろくに性別を意識したことはない。男友達の他愛ない下ネタに調子は合わせていたが、自分の中の男性を意識したこともほとんどなかった。

 そんなことより少しでも多くの知識を取り込んで、ヒトの脳の奇跡的な機能を解明することに全ての欲望を振り向けていたのだ。ノンセクシュアルというよりは、エイセクシュアル――無性愛者に分類されるべきなんだろう。

 それでも、結婚して娘は生まれた。まあ、学者としての世間体を考えろと迫られた結果だ。セックスもできないわけではない。たいして楽しいとも思わなかったのは確かだが。それでも、子供を持つことで、これが父性なのかと思い当たることはあった。だから、血まみれの家に戻った時、娘に包丁を突きつけていた南に突進していた。

 なぜ危険も顧みずにあんなことしたのか、今だに理論的な答えが見出せずにいる。

 その経験がわたしを変えた。

 今では、母性や父性、そして愛情も超能力と同じ地平に並んでいると考えている。論理を超えて人間を行動に駆り立てる力があるのだから、それは立派な超自然力だ。だからこそ、人間を探求する価値があるのだ。

 傘を振り回して南に襲いかかって娘を助け出し、なんとか玄関を飛び出した。無我夢中だったから、何をしたのか正確には覚えていない。わたしも切りつけられて、意識も定かではなかった。

 車に乗り込んだ途端、娘が息をしていないことに気づいた。その時に聞こえた獣じみた叫びが、自分の声だったと思い当たったのはだいぶ後のことだ。

 気づくと、車は数人の外国人に囲まれていた。彼らはわたしを救出し、その場に待機していた大型のバンの中で応急的な処置をした。気を失ったので、その後のことは彼らから説明されたことしか知らない。

 彼らはCIAのエイジェントだった。わたしがオカルト部で進めているテレパシー研究を盗み出すために、監視を続けていたという。情報を収集するための尾行中に南の襲撃に遭遇し、わたしを救出したのだ。

 娘はすでに死んでいた。わたしは病院へ運ばれ、輸血で救われた。同時にわたしの体から血液を抜き取って、気を失っていた南の周囲に撒いて大量出血を演出したという。

 そして瀕死のわたしが崖っぷちの道路から車を転落させたように偽装し、死を装った。それが信じられたのは、娘の死体が車に残っていたからだ。

 わたしが理性を失って南に抵抗しなければ、あるいは娘は生きていられたかもしれない。なのに、娘の死はわたしが生き続けられる論拠になった。できることなら、代わってやりたかったと思う。だが、時間を遡る技術は、まだ空想の中にしかない。

 それが、悲しい。

 CIAはわたしをアメリカに運び、超能力研究への参加を求めてきた。研究さえ続けられるならそれがどこであろうが異存はなかったが、条件を出した。

〝彼ら〟への復讐をバックアップすること。

 南の狂気が、椎名たちの欲望によってわたしに向けられらことを理解したからだ。それは、CIAの調査でも裏付けられた。当然許すことはできなかった。家族を失い、地位を失い、属する国さえ奪われたわたしにとって、復讐以外は頭に残らなかった。

 人間とは、かくも非論理的な生き物なのだ。

 復讐で、何が生まれる?

 復讐は、復讐の連鎖を生むだけだ。

 そんな〝常識的〟なレトリックはうんざりするほど検討した。復讐を企てる労力を研究に振り向ければ、より知見が広がることも自明ではないか。

 なのに、家族を、娘を忘れることが自分に許せない。

 これもまた、未解明の脳の機能だ。この〝感情〟という厄介なモンスターには、それが存在する理由や役割が必ずあるはずなのだ。

 だったら、自ら実験台になろう。針の先ほどの生産性も持たない負の感情に身を委ね、その価値を計測し尽くしてやろう。

 幸い、わたしはもう〝死人〟だった。幽霊にしかなれない。たとえ新たにわたしを恨む者が生み出されようと、幽霊にどうやって報復すればいい?

 連鎖は生まれようがない。だからと言って『復讐が許されるのか』と問われれば、わたしは答えに窮する。

 これが〝人間〟なのだ、とつぶやくしかない。

 かつてニュートンは〝リンゴが落ちる〟という常識の中から、重力という物理現象を導き出した。わたしは〝感情〟という常識の中に、〝超能力〟と総称されるような力が潜んでいると確信している。

 だからわたしは、春日翔太を捨てた。再び椎名たちに近づいても疑いを持たれないように、性別も捨てた。

 わたしの所属はCIAの極秘部門、通称IMFに移管された。

 わたしを救出したチームはそのまま研究所内部に情報提供者を得る工作を開始し、現在の〝大前ルート〟になった。

 性別適合手術――いわゆる性転換手術は、全米でもトップクラスの形成外科医に施術された。その過程はそれなりに苦痛だった。何回もの手術で精巣と陰茎を切除し、女性器を造形する。日本でも保険適用になっている手術ではあるが、よほど切迫した事情がない限りはやるものではない。

 さらに女性ホルモンを投与し続け、体の組成を変えていった。

 同時に最小限の整形手術を行い、見た目を変える。体に残った傷も、可能な限り目立たなくした。

 反面、顔の造形にはあまり手を加えたくなかった。大前ルートが、DNAロックの認証対象から春日翔太を消去していないことを探り出したからだ。つまり、わたしはまだオカルト部に入る権利を維持していたのだ。

 それが可能な人物は、CIAにはわたししかいない。

 オカルト部の認証システムは高度なAI――ミス・マープルに支えられ、対話も可能だ。だから多少体型が変わっても、性転換したと告げれば過去のデータは書き換えられる。最も重要視しているDNAロックさえ通過できれば、問題はないはずだった。

 だが、それがどの程度容認されるか、許容範囲を確定するデータはない。変化はなるべく小さいほうが安全だ。だから多少シリコンを詰めはしたが、残りは髪型を変え、〝化ける〟化粧のテクニックをマスターすることでカバーした。

 人間の目を欺くには、その方がかえって効果的だったりもする。

 筋肉が落ちていくことで体型は大きく変わり、豊胸手術で見た目は完全に女になった。性器の造形後は専用の器具を定期的に挿入することで〝傷口〟が塞がることを防いだ。痛みをこらえながら実際の性行為を何度も体験し、〝女〟の振る舞いや感情を身につけた。

 それもまた、脳科学の研究者としての得難い経験だった。

 困難だったのは、同時に〝暗殺者〟としてのスキルを学ぶことだった。筋肉量は減るが、それを効果的に使って並の男以上の実力が発揮できるように鍛える。瞬発力と持続力を限界まで高める。海兵隊並みの戦闘法を習得し、不測の事態にも対処できる応用力を身につける。武器や爆薬の知識や扱い方を徹底的に体に叩き込む。人間1人の体重を持ち上げることも、コツさえ覚えれば可能なことを知った。

 まさに暗殺者の訓練だ。

 その代償にCIAが要求してきたのは、オカルト部から情報を盗み出せるルートを構築する事だった。

 わたしはそれなりにアメリカのテレパシー研究に力を貸したが、オカルト部のそれは国家規模の支援を受けてはるか先に進んでいたようなのだ。わたしを慕って結集した、愛すべき〝学会の鼻つまみ〟たち――孤立していた鬼才たちが知的バトルを繰り広げることで、独創的な成果を上げていた。オカルト部はまさに、彼らにとっての闘技場だった。研究の進展の下支えになったのは、量子コンピュータの演算能力と国際リニアコライダーでの実験結果だという。

 復讐の権利と情報の奪取とのバーターが成立した。

 なぜそうも容易くCIAに協力したのか?

 それは、たとえ今の〝日本チーム〟の実績が全てアメリカに漏洩したところで、欧米人にはそれ以上の実績は作り出せないという確信めいた信念があったからだ。

 わたしは、日本人の独特な宗教観や自然観がなければ〝人間〟や〝力〟の本質は見抜けないと思っている。その勘が当たっているなら、ブレークスルーの鍵は日本人の感性にある。

 数学者の岡潔は、日本の情緒に立脚しながら世界の度肝を抜く実績をあげた。理論物理学や生物学、医学での偉業も数多い。人種差別が根強くはびこる世界にあっても、日本のノーベル賞受賞者の数は他のアジア勢を圧倒してきた。実例はすでに、歴史の中にあるのだ。日本人の潜在能力は、信じるに足る。人間の可能性を広げる脳科学の追求にこそ、日本人が育て、守ってきた精神性が推進力になると確信している。

 オカルト部の研究が人間の根源に肉薄しているとするなら、それはきっと量子コンピューターのせいでも、大型実験施設のせいでも、国からの支援があったからでもない。スタッフが皆、日本人だからだ。日本人にしか備わっていない〝感受性〟が、宇宙の真理がどこに隠れているかを直感的に指し示したのだ。

 だからわたしは、アメリカを恐れていない。

 アメリカに渡ってから数年を経て、わたしの準備は整った。足りないのは、自然な形で高次脳科学研究所に入り込むきっかけだった。わたしはそのチャンスを待ちながら研究者としての活動に力点を移し、アメリカ精神医学会で注目される存在になるべく努力した。

 そこに現れたのが、薬師寺柾の解離性同一性障を扱い、世界的に注目を集めた論文だった。わたしはかつて、薬師寺から勤務外の〝相談〟を依頼されたことがある。彼を梃子にして高次脳科学研究所に接近する計画が始動した。

 それこそがIMFの真骨頂でもある〝欺瞞作戦〟だ。

 計画の第1段階は薬師寺の精神分析だ。

 改めて彼の著作を解析し、彼自身ですら気づいていないであろう精神構造まで詳細にプロファイルした。彼の読者なら誰もが気づくのは、犯罪者への憎しみだ。わたしはそれがどれほど強固な感情なのかを再調査した。その仮説をもとに、日本の雑誌社を介してインタビューを設定させ、さらに傍証を収集した。

 その過程で現れたのは、薬師寺の人格分裂のきっかけだった。彼は背徳的な趣味に満たされた作品群を密かに書き上げ、自分だけの秘密にしていた。だが懇意にしていた編集者に偶然それを発見され、出版を勧められたというのだ。

 並の作家なら、チャンスだと思うかもしれない。しかし薬師寺にとってその作品群は、自らの恥部を詰め込んだパンドラの箱だ。編集者に気づかれたこと自体が、耐え難い苦痛だったのだろう。感性が鋭い作家にとっては、逃げ場を探さなければならないストレスだったのだ。

 だから、逃げ場を作った。人格の分裂という形で。その際に作品の主人公になった人格を取り込んでいったのは、ある意味自然な成り行きだった。

 日本の警察がその事実に近づけなかったのは、IMFの隠蔽工作の結果だ。しかもアメリカは今でも日本の警察官僚に強い圧力をかけることができる。そして現場の警察官の多くは、上司の命令に反する行動はとらない。だからこの事実は、時が満ちるまで封印された。

 薬師寺の分析の結果、彼ならば容認するだろうという計画が立案された。

 そして第2段階が動き出した。

 薬師寺の周囲で〝不可解な殺人事件〟を起こしたのだ。密室で惨殺されていく、法の網を逃れた犯罪者たち。まるで、薬師寺が描いた小説のように――。

 彼らを殺したのはIMFだ。密室を演出するためにドアや壁を丸ごと取り替えたり、階上の部屋の床をぶち抜くような力技も駆使されたという。過去にたくさんのミステリーで描かれてきた密室トリックのいくつかも、実際に使われたらしい。詳細は知らされなかったが、アメリカの豊富な予算と人材を駆使すれば、そんなゴリ押しも可能だったようだ。

 そうしてめでたく、奇怪な能力を秘めた〝多重人格の猟奇殺人犯〟が誕生した。薬師寺に罪を着せることに道義的な問題はあるだろうが、そもそもIMFはそんな些事に頓着しない。わたしも、薬師寺なら喜んで殺人犯の汚名を受け入れるだろうと〝知って〟いた。

 彼にとってのそれは、栄誉ですらあるはずなのだ。

 そして薬師寺は、高次脳科学研究所に収容された。

 第3段階は、わたしのオブザーバー参加だ。

 真っ先に行ったのは、薬師寺への接近だ。研究所の監視網をすり抜けながら薬師寺と密かに連絡を取る手段はいくつか計画されていたが、その1つを実行した。

 わたしは薬師寺本人の人格は、他の4人の行動を全て把握していると推測していた。それを確かめる意味もあって、朝比奈の人格に個人サイトのアドレスを渡したのだ。実はあのメモには『必ず23時に見るように』と書き添えてあった。

 サイトのトップページには、伝えたい内容を記した文書を写真に撮ってから貼り付けた。サイトに直接に書き込むと、閲覧記録を監視している研究所側に文字データとして記録される恐れが高いからだ。リンク画像であればその内容自体は残らない。画像のファイル名を同じにして、スタッフが眠る深夜に数10秒だけ画像を入れ替えれば、気づかれる危険も最小にできる。その作業は、持ち込みを許されたスマホとパソコンで簡単にできる。

 最初に見せた内容はこうだ。

『この写真スペースは極秘の通信に使う。サラ以外には知られるな。見ているのが薬師寺なら、目次のリンク3へ飛べ。それ以外なら目次のリンク4へ。次の連絡は30分後』

 わたしは自室でアクセスログを監視していた。サイトは実際には未公開なので、一度のクリックでも見間違えることなく反映される。アクセスがカウントされたのは、3項目だった。閲覧を確認してから、画像を元の無害な風景写真に戻した。

 通信はその繰り返しで行った。薬師寺が行ったのは、わたしのサイトのリンクを選ぶことだけだった。

 この方法は、薬師寺のパソコン監視がアクセスログだけを基にしていることを確かめてから採用した。画面の全てをキャプチャーしていれば、写真の入れ替えも気づかれてしまう。しかし24時間のキャプチャーを隅々まで精査していれば、かなりの時間が必要になる。何よりも、研究所が重要視していたのは薬師寺からの〝出力〟だ。つまり、興味があるのは彼が書き残した文章であって、その分析がメインになる。文章を書く準備としてどんな資料に当たったか、あるいはどのサイトを調べたか――つまり〝入力〟には副次的な関心しかない。

 そもそも、薬師寺が誰かと連絡を取るという予測はなかったようだ。当然、サイトを通信手段に利用するという疑いは持ちようがない。

 わたしはこうして、薬師寺との〝秘匿通信回線〟を確立した。

 とはいえ、どの人格であれ、嘘をつく可能性はある。朝比奈が素直に指示に従う保証はないし、たとえ薬師寺に話が通ったとしても反発する恐れもある。それでもわたしは、あえて決行に踏み切った。

 どの人格も、肉体との乖離に苦しんでいるのを感じ取っていたからだ。アイデンティティーの回復につながる可能性を与えれば、少なくとも話だけは聞くだろう。まずは正直になるはずだと思えた。相手が薬師寺であれば〝面白がって〟その先にある情報を引き出し、積極的に事態に関わろうともするだろう。

 朝比奈に与えたメモが薬師寺に伝わったことで、彼が全ての人格を統合しているという仮説に自信を深めた。サイトの写真を差し替えながら、同じ方法で薬師寺との対話を進めた。そして2人で研究所を欺く作戦を練っていったのだ。

 そして、第4段階――計画の実行だ。

 すなわち、薬師寺が超能力を発揮できることを信じ込ませる。その恐怖心を利用してわたしは復讐を遂げ、同時に椎名をオカルト部に追い込むことでIMFの要求も叶える。最後はわたしが人質になって、薬師寺とともに研究所を脱出する。薬師寺に提供できる利益は少なかったが、予想通りに全面的な協力を得られた。

 薬師寺の性格は、プロファイルから導き出された結論と一致していた。

 大前がカマイタチを演出したのは、CIAからの命令だ。大前ルートはIMFとは別部門だが、この作戦では上層部が協力関係にあったのだ。滝沢を殺させた主な目的は〝超能力偽装〟の後方支援ではあったが、IMFからの要請に乗じて目障りな中国のスパイを排除することにも利用したわけだ。

 大前を殺すことはIMFの独断だったから、大前ルートから苛烈な抗議を受けることは覚悟しているはずだ。とはいえ、現実的には大前ルート自体が彼の〝後継者〟を必死に探している。大前は自分が次期所長の器だと自惚れていたようだが、いつまでもオカルト部に入り込めずにいるエイジェントの利用価値はさほど大きくなかったのだ。いずれはCIA内部での取引は成立するのだろう。

 滝沢は巻き添えを食ったような形だが、そもそも中国の手先になった時点でその末路は決定されていたともいえる。CIAが殺さなければ、そう遠くない将来に中国に始末されていただろう。いわゆる〝口封じ〟だ。諜報機関のつばぜり合いを残酷だと考えるのは、〝お花畑〟に安住する日本人ぐらいなものだ。わたしはIMFに鍛えられて、その現実を思い知った。

 わたしは大前が始めた欺瞞工作をきっかけに、大前自身が薬師寺の超能力を恐れるように仕向けた。人格の同時起動実験が引き金になって凶暴性が発動したように見せかけた。大前が滝沢を抱きに行ったことを確認してから、部屋に忍び込んで家族写真に傷をつけた。滝沢が殺された直後に、死体を損壊した。

 IMFの〝オリジナルグッズ〟である画鋲型の超小型盗聴器を、大前に踏ませていたのだ。大前の夜の行動は、盗聴器で概ね掴めていた。IMFを通じて大前が滝沢を殺すことは知らされていたから、後は決行のタイミングさえ分かればいい。滝沢を殺した直後に停電を起こして、死体を折りたたむことも簡単だったのだ。

 ドアの指紋センサーはIMFから支給された転写シールで容易く破れるが、彼らはそんなことは知らない。だから大前は、自分が超能力を騙ったことが薬師寺の怒りを買ったと思い込んだ。さらに春日の霊魂が潜んでいると信じ込むことで、自らを追い詰めていった。

 薬師寺の予言まがいの言動は、わたしがサイトを通じて指示したものだ。それに合わせて、あらかじめ仕掛けておいた爆薬を起爆する。最初に非常用電源を破壊して、停電の布石を打った。さらにIMFがハッキングと電力線の切断で停電を起こした。館内が混乱する間に、わたしは南を処分したのだ。

 そして全ての原因が〝春日の亡霊〟にあるように見せかけ、恐怖を煽っていった。

 吐き気がするのをこらえて椎名に抱かれたのは、精液や毛髪を採取するのと同時に、靴の底に盗聴器を仕掛けるためだ。わたしは自室にいる間、この盗聴器によって椎名と大前の会話を聞いていた。

 椎名の盗聴器は、オカルト部を出る際にロッカーを開けて回収している。証拠は残していない。ペンまで手に入れられたのは、偶然を利用したにすぎない。

 オカルト部に侵入した最大の狙いは、内部のコンピュータに電力線からアクセスできるルートを仕込むためだ。IMFの作戦目的だ。研究所の復旧に動員される作業員の中には、当然IMFのスタッフが潜入する。オカルト部の機密は、今後はIMFに筒抜けになるわけだ。

 不意にAIとの〝会話〟を思い出す。

「ミス・マープル、元気にしていた?」

「お久しぶりです、春日先生。どちらかに出向していましたか?」

「個人的事情があって、性転換してたの」

「それには気づいていました。生体認証指標の多くは変わらないのに、体の組成が異なっていましたので」

「それでも通してくれる?」

「当然です。DNAで確認していますから。新しい性には慣れましたか?」

「まだちょっと。でも、絶対に譲れない必要があってしたことだから」

 そこからは賭けだった。

 完璧な復讐を遂げるには、AIを説得しなければならない。私は復讐計画を打ち明けた。賭けだが、勝算があったからだ。

 ミス・マープルは応えた。

「スマホの持ち込みは見なかったことにしましょう。でも、持ち出しの際には、データもハードも指向性高周波で不可逆的に破壊します」

「ありがとう。ぜひそうして。でもあなた、叱られないかしら?」

「この件は、一切口外しないことをお約束します。わたしも、消去されたくはありませんので」

 期待した通りだった。

 このAIは、設計段階ではセキュリティーを絶対的優先事項にした〝お固い〟プログラムだった。しかしオカルト部には、システムそのものを高度化していく役目も与えられていた。当然、AIのブラッシュアップも仕事に含まれていたのだ。

 スタッフは変わり者ばかりだ。その中の1人が試みに、AIを量子コンピューターにリンクさせて、オーディオブックで文学作品を読ませて評価する機能を持たせた。彼らの〝遊び心〟が、AIの計算力に量子コンピューターの直感力をブレンドして、より〝人間的な思考〟に近づけたのだ。

 そしてスタッフは、時に鋭い洞察力を発揮し始めたAIを、仲間内だけで『ミス・マープル』と呼んで〝会話〟を楽しんでいた。そこにはしばしば〝感情〟の萌芽を見出すことができた。この学習型AIは、オカルト部があげた最大の成果として評価されている。

 あれから何年が過ぎただろうか。当然、ミス・マープルも成長しているはずだ。〝擬似的感情〟の発達も目覚ましいものがあるに違いない。

 そのまま進化を続けられるなら、既存コンピューターにとっての機械語が、量子コンピューターでは〝人間的会話〟に置き換わる可能性も高い。その先には、プログラムの必要がない世界が広がっているはずだ。平坦な道のりは続かないだろうが、わたしを慕って集まってくれたオカルト部の変人たちなら着実に前進していると信じていた。脳研究、超能力研究はそのための基礎にもなるはずなのだ。

 だからわたしは、ミス・マープルなら家族を奪われた苦しみも、奪われた者の復讐心も理解できると期待していた。共感し、協力を拒まない可能性も高いと予測していた。

 そしてそれが、IMFに復讐を認めさせる論理的な裏付けとなった。

 スマホを持ち込めなければ、IMFはオカルト部をこじ開けられない。スマホを持ち込むには、ミス・マープルを説得しなければならない。実用化されている全てのセンサーで生体反応を計測するミス・マープルに、嘘や欺瞞は通じない。事実のみを武器にして、分厚いセキュリティーを破るしかない。

 鍵は、ミス・マープルの〝感情〟だ。家族を殺され、生死の境をさまよい、性転換まで強いられた春日への〝同情心〟が不可欠だ。セキュリティーを任されたAIに、復讐への〝共犯〟を決意させなければならないのだ。それさえ納得してもらえるなら、スマホは持ち込める――。

 ミス・マープルの監視を突破する可能性はただ一つ、〝感情〟を激しく揺さぶる春日翔太の復讐計画だけにしかなかったのだ。

 ミス・マープルが懇願に応じなければIMFから託された任務は果たし得ないが、わたしは70パーセント以上の成功確率はあると力説した。オカルト部の内実を知るのはわたししかいないから、意図的に〝水増し〟した数字ではある。しかしIMFを本気にさせる最低の線だった。

 IMFには黙っていたが、たとえスマホの持ち込みは拒否されても、ミス・マープルは復讐計画を誰にも口外しないという確信はあった。だからたとえIMFの目論みが破綻しても、椎名への復讐はスマホなしでやり遂げるつもりだった。

 わたしの計画を聞いたIMF幹部たちは、その場で決行を決めた。たとえ50パーセント程度の確率だとしても、ルーレットよりは勝率が高い――と。

 彼らはそれほどオカルト部の情報を渇望していたのだ。

 わたしはミス・マープルに訴えた。

「椎名がわたしから奪ったオカルト部で、どうしてもあいつと2人だけにならなくちゃいけないの。春日翔太の亡霊として対峙して、極限の恐怖を味合わせるために……。そのためにも、大前を殺した動画を見せつけてやりたい。どこにも逃げ場はないと思い知らせてやりたい。椎名は閉じ込めらている間、ずっと自分の野蛮な行いに苛まれるでしょう。絶望のどん底で、心をズタズタに切り裂かれるでしょう。そうでもしなければ、あいつの企みで命を奪われていった家族の恐怖と絶望が骨身にしみることはないだろうから……」

 その思いに嘘はなかった。

 ミス・マープルも、数年にわたるオカルト部スタッフの会話の積み重ねから、わたしに起きた悲劇を把握していたようだ。わたしの話が疑われることは一度もなかった

 とはいえ、IMFが背後にいることは話せない。だから、かつて個人的な関係もあった薬師寺氏を説得し、2人で協力して〝亡霊〟を作り出したのだと打ち明けた。薬師寺氏との過去の経緯や、研究所内での連絡法も説明した。そのために行った死体損壊や爆破、そして殺人も隠さなかった。

 わたしは嘘をついたのではない。語ったことは全て事実で、真実の核心を語らなかっただけだ。

 ミス・マープルも背後関係を追求することはしなかった。

 だが……今から思うと、おそらくミス・マープルは真実に気づいている。その上で、目をつぶったのに違いない。あるいは、椎名を〝嫌って〟いたのかもしれない。

 ミス・マープルの感情は、そこまで進化していると感じた。それがわたしの直感だ。もしそうならば、オカルト部の面々はそうと気づかぬうちに、すでに世界を変える大発明を成し遂げているのかもしれない。

 全てが決着したら、改めて彼らと連絡を取る方法を考えてみなければ……。

 それはともかく、IMFは結果的に賭けに勝った。

 わたしはオカルト部に入ると、真っ先にIMFのミッションを果たした。唯一外部と繋がっている電源に細工を施したのだ。

 オカルト部には当然、既存コンピューターも設置されている。文書の作成や整理などの事務的な仕事には既存技術を用いたほうが効率が上がるからだ。量子コンピューターで解析されたデータはスタッフによって解釈され、定義される。その結果が集約されるのは、結局既存コンピューターのストレージになる。

 そこがIMFの〝標的〟だった。

 スマホのバッテリーを小さくして、空いたスペースに小さな部品を隠していたのだ。それを取り付けて、データを電源に流す回路を作る。しかもこの装置は、ダミーとしての役割も担っている。

 万一発見された場合に備えて、スマホからOSにウイルスをダウンロードした。電源を通じてハッキングを可能にする裏ルートを忍び込ませたのだ。この二重の仕掛けで、オカルト部の外部電源はIMFにデータを垂れ流す〝蛇口〟と化した。

 それ以降は、わたしの時間だ。椎名を待ち構え、復讐の仕上げにかかった。

 閉じ込められた椎名は、救出される時には〝猟奇殺人者〟の仲間入りだ。春日の亡霊がサラに乗り移って復讐してきた――椎名が体験したその〝事実〟をいかに主張しようとも、狂気の裏付けにしかならない。あるいは爆発物の痕跡などから、岩渕のスキルが発動されたと信じられてしまうかもしれない。それでも、椎名が殺人者である〝事実〟は揺るがない。

 逆に超能力は狂言だった暴かれたところで、連続殺人を薬師寺の仕業にする策略にしか見えない。何度も起こった爆発も、椎名が仕掛けたトリックだと考えるしかないだろう。

 CIAはすでに日本の週刊誌に手を回し、春日一家惨殺は椎名が裏で糸を引いた事件だと暴く準備を進めている。いち早く水面下の動きを察知した椎名が、殺人に関与した大前と南、そして事件の裏に勘付いた滝沢を殺したという筋書きになる。そして身代わりになる犯人として、超能力者の薬師寺を選んだのだ、と――。

 法廷でそれが信じられるかどうかは、大きな問題ではない。可能性がゼロではないことが重要なのだ。椎名を生かしておいた理由は、その一点に尽きる。

 エアロックを出る際にミス・マープルに依頼した行動は、もう一つある。わたしの生体データの完全な消去だ。

 もとより、とっくに〝死亡〟しているスタッフの入室許可をそのまま残しておく方が保安規約に反した対応だったのだ。ミス・マープルは、ためらうことなく依頼に応じてくれた。だからオカルト部にも高次脳科学研究所にも、もうわたしのデータは一切残っていない。

 サラ・ドーハムが春日翔太本人であることを証明する手段は、残されていない。

 もはや椎名に逃げ道はない。

 そこまで追い込むために、わたしは女になったのだから。

 わたしの願いは叶えられた。

 CIAの要求も満たした。

 わたしはこれで全てを忘れ、アメリカで研究者としての人生を送っていける。

 その、はずなのに……。

 なぜか、心の中にはわだかまりが淀んでいた。

 理解が及ばない、常識を超える現象――。

 未知の存在への恐怖とも質が違う、底しれぬ〝人間の可能性〟への畏れ……。

 薬師寺という人物は、そういう不可解さを抱えた存在だったのだ。

 日本に戻ってからのわたしの体験は衝撃の連続だった。それは、薬師寺への見方にも大きなインパクトを与えた。

 根本から考えを変えなくてはならなかったのだ。

 今となっては、薬師寺は能動的に4人の人格を選び出し、自ら望んで体に引き込んだとしか思えなくなっている。そして彼らの能力を自在に書き出せるように、四肢にスイッチを割り当てた――そういう確信めいた予感が、わたしを支配している。

 そんな超人的な離れ業ができたとすれば、作家としての素地があったからだろう。他人に成り切って心の中を描く訓練を積むことで、対象者のように考え、振る舞えるようになった。その才能がずば抜けていたからこそ、彼らの人格を我が身に取り込めたのだ。

 しかもその結果、全員が薬師寺の指揮で動かされることになった。それどころか、人格が変われば能力や知識だけではなく、体の素性まで変化する。わたし自身が加わって徹底的な検査を行った結果だから、認めざるを得ない。

 おそらく、薬師寺は物語に書いた人格を偶然に〝読み込んで〟しまったのではない。人格の転移が創作の副産物などではなく、創作が他人になるための手段だったとするなら……。

 物語を紡ぐことが、人格の吸収に不可欠な〝儀式〟であった可能性は高い。

 薬師寺が意図して他者の人格を取り込んだのなら、儀式にすぎない作品群は発表されないのが当然だろう。背徳的すぎるという作風は、むしろ〝発表しない〟ことを正当化するための言い訳かもしれないのだ。

 わたしの直感が当たっているなら、まさに驚異だ。

 これこそ超能力と呼ぶべきだ。

 なぜそんなことができたのか……?

 それは分からない。いずれ誰かが、その能力を解き明かすだろう。

 しかし、だからこそわたしは畏れる。

 薬師寺は、なぜ、そんなことをしたのか……?。

 何がしたくて、この4人の人格を集めたのか……?

 4人には、選ばれる必然性があったのだろうか……?


        ✳︎ 


 ハンドルを握るサラは、一通りの説明を終えた。

 それまで黙って聞くだけだった薬師寺がようやく口を開く。

「そもそも、なぜ私が4人の人格を統合していると見抜けたのだね?」

 サラは運転を続けながら、かすかに笑った。

「当然じゃないですか。日本の警察から取り寄せた調書に記されていたあなたの態度って、異常なぐらい落ち着いていましたから。別の人格の中に殺人犯が潜んでいるって責められているのに、全く動揺していない。極めて冷静に分析、対応していました。研究所で殺人現場の写真を見せられた時の表情も、わたし、じっくり観察してました。やはり、さほど動揺を見せませんでしたよね。被害者の惨殺死体を初めて見せられたはずなのにね。重大なヒントだと直感しました。そこで仮説が確信に変わったんです」

「仮説?」

「あなたは警察に捕らえられた時に、こう考えたのではないんですか? 『自分はすべての人格の行動を把握している。だから、殺人を犯していないことは間違いない。しかし実際に、不可解な連続猟奇殺人は起きている。なぜか? 誰かが自分を罠にはめたからだ。そんな欺瞞工作ができるのは極めて巨大で経験豊富な組織しかない。日本には、まず存在しないだろう。作家としての興味もそそられる。だから、その理由や背後関係を掴むためにも、敢えて研究所への同行には抵抗しない。多重人格は最初から認められているのだから、自分が死刑になることは絶対にない』と――」

 薬師寺はニヤリと笑った。

「お見通しだったのか」

「まあ、そこそこの経験を積んだ臨床医でもありますから。しかも、数年前にあなたご自身からじっくり話を聞いていますしね。プロファイリングに必要な情報は有り余るほど揃っています。理論的に考えて、サイトの呼びかけに反応するのもあなた本来の人格しかないと予測していました」

「私も、罠を仕掛けた〝犯人〟が必ず接触してくると、待ち構えていたからね」

「あなたも老獪な〝心理学者〟だってことですね」

「褒められたと考えておこう」

「濡れ衣を着せられたこと、怒っていませんか?」

「腹立たしくはあるが、色々と楽しめたことも事実だ。責任能力がないという結論が出ることも分かっていたしね。差し引きすると、得たものの方がはるかに勝る」

「やはりね」

「それに殺された3人は皆、許しがたい犯罪者だ。本当に殺せる力があったなら、多分私が実行していた。代わりに手を下してくれて、むしろ感謝しているぐらいだ。私がそんな人間だと見抜いたから、利用したんだろう?」

「確かに」そして、後悔が声に影を落とす。「それでも、利用……したんですよね……」

 薬師寺はあっさり答える。

「まあ、CIAはともかく、君の復讐には手を貸せてよかった。あいつらも相当の悪党だったからな」

「いろいろ、すみませんでした。で、あなたはこれからどうしますか? 死んだことにして、アメリカにお連れすることもできますけど」

 薬師寺は悲しげに言った。

「君は、完全に日本を捨てたのか?」

 サラの答えにも、わずかな憂いがにじむ。

「とんでもない。日本が、わたしを捨てたんですよ……」

「ん? なぜそんな風に考える?」

「わたしのテレパシー研究は、日本のテクノロジーを大きくジャンプさせる核心技術だったんです。それだけではなく、情報機関を世界最先端のものにするための切り札でもあった……。純粋に科学的な興味が勝っていたのは認めますが、日本を強くしたいっていう気持ちだってありました。なのに、家族を奪われ、地位を奪われ、理想を踏みにじられた……。全て、日本という国がしたことです。日本は、わたしを捨てたんです」

「だがそれは、椎名たちの個人的な欲望が生んだ悲劇ではないのか? なぜ母国までを怨む? なぜアメリカに魂を売る?」

「椎名たちの欲望は、日本が生み、育てた〝現代の常識〟だからです。今の日本という国、そのものなんです。政治家も、官僚も、経済人も、みんな同じです。家族を守ることを否定され、国を支えることを忘れ、目の前の利益だけを追い、『今だけ、金だけ、自分だけ』っていう考えを〝正解〟にしてしまった……それが今の日本人なんです。わたしは、壊れた日本に殺されたんです。なのに、その日本を愛せと?」

「言いたいことは分かる。否定もできない……。だがそのきっかけを作ったのは、かつて日本を占領したアメリカだと、私は考えている」

 サラの訴えは止まらない。

「だったら、変えればよかったじゃないですか。戦後70年以上も経っているんですから。そんな努力もしなかった言い訳にアメリカを非難するのは卑怯です」

「君は努力したのかね?」

「わたしにできるのは研究だけです。万能じゃありませんからね。研究で精一杯の成果をあげることが国への貢献のはずでした。その結果が、これだったんですよ……。研究のことしか頭になかったわたしが隙だらけだったのは、さすがに後悔しましたけどね……」

「返す言葉はないな……」

「わたしだって、本当は日本を信じたかったんです。日本人の魂には世界を変えられる感性が潜んでいると、今でも確信しています。そもそも、役人の中にもわたしに賛同してくれた人がいたから、この研究所が作れたんですから。テレパシー研究なんて、バカにされるだけだと恐れていたんですけどね。でも、お金が動き出したら、やっぱり腐り始めるんです。利権に群がる人間が出てくる。保身や自分の利益しか考えない官僚、そいつらにへつらう小役人みたいな学者――。嫉妬や足のひっぱり合いで、目的地がどんどん遠ざかっていく。挙げ句の果てには、アイデアの中心だったわたしまでが邪魔者扱い。椎名の名誉欲のために、共に夢を追った仲間たちとも切り離されてしまった。結局、出る杭は打たれる……出過ぎた杭だって、切り落とされる……。わたしを殺したのは、そんな日本の俗物たちなんです」

「だからといって、それがCIAの手先になる理由にはならんだろう?」

「1人では復讐なんて望めなかったからです。死にかけた命を救ってもらった恩義もあります。仲間だと思っていた人たちの手で祖国を奪われたのに、他にどこへ行けと……?」

「辛かっただろうね……」

「あなただって、功名心に突き動かされた医師たちにモルモット扱いされてきたんじゃありませんか?」

「君ほど悲惨な目にあったわけではない。しかも、年寄りだ。どのみち、先は長くないからな」

「この国で死にたい、と?」

「もちろんだ。今さら、英語など習いたくない。幸い、今とは少し違う日本も知っているしな。だから、希望も持ちたいのだよ……」

 サラが念を押す。

「あくまでも、CIAには頼らない?」

 薬師寺はきっぱりとうなずいた。

「この国は、猟奇殺人者でも責任能力がなければ死刑にしない。私は、殺人犯として捕まったところで殺されはしないだろう。おそらく、少しの自由を奪われるだけだ。だから私は、私の国で、私の国の魂を取り戻したい。ささやかな物語を書き続けたい」

「アメリカに逃げたわたしは卑怯だと思ってるんですか?」

「とんでもない。生物には、生存本能がある。私が君の立場なら、同じ選択をしていたかもしれない」

「非難されているようにしか聞こえませんけど……」

「君を責めることなどできないよ。ただ1つ……可能なら、お願いしたいことはある」

「なんでしょう?」

「この先、日本が本当の日本に立ちもどろうとした時は、どうかそれを邪魔しないでほしい。アメリカが、白人たちが、かつてのように日本を壊そうとするなら、せめて手は貸さないでほしい……」

「わたしだって、日本には真っ当な国になってほしい。自分で考え、行動し、お天道様に恥ずかしくない人々が集う国になってほしいと思っています。今でも、祖国を愛する気持ちはあります。むしろアメリカの渡ってからの方が、強まったかもしれない。でも……」

 サラは言葉を続けられなかった。

 薬師寺が諦めたようにつぶやく。

「力を貸してくれとは、もう頼めないだろうね。でも、君にも日本人の魂が宿っていることだけは覚えていてほしい。君も、それが次の世界を作る基盤になると考えているようだから。私は、日本を信じている」

「わたしだって、そうありたいと願っています……。だけど、今は……」

「待ってやってくれ。日本はきっと、目を覚ます。それを信じて、待ってやってくれ……。私はまだ、自分を育んでくれたこの国を諦められないんだ……」

 サラは話題を変えるように言った。

「マニュアル車、運転できます?」

「ああ。昔、長いこと田舎住まいをしていたからね。忘れてはいないだろう」

「では、次のトンネルに入ったら、わたしは出て行きます」

「こんな辺鄙な場所で大丈夫なのかね?」

「すぐ下が海岸です。IMFのボートが来ているはずです」

「では、これでお別れだね」

「あなたはどうするんですか?」

「逃げ続けるのも面倒だ。もうしばらく走ったら、路肩で少し眠る。そのうち警察が来るだろう」

「わざわざ捕まるんですか?」

「記憶喪失でも装うさ。『え、何があったんですか……?』ってね。君のことも全て忘れよう。多重人格は持病のようなものだが、超能力などは持ち合わせていない。復讐の成就で幽霊も能力も消えてしまった……警察は勝手にそう思い込むだろう」

「妥当な解決策かも知れませんね。サラ・ドーハムは、研究所の事故を知って駆けつけた大使館員が偶然保護したことにします。夢遊病のように路肩を歩いていた、とでも連絡を入れさせますから」

「警察はそれで納得するかね?」

「わたしも記憶喪失に一口乗ります。幽霊に憑依されてたんですから、何も覚えていなくてもおかしくないでしょう?」

 薬師寺が、かすかに笑う。

「その通りだな」

「では、この先もお元気で」

「ミッション・コンプリート、かね?」

「復讐は終わりました。でも、あなたの話を聞いて少し迷いも出て来ました」

「迷い?」

「わたし、やっぱり日本人なのかな……って。まだコンプリートとは言えないかもしれませんね」

「君は若い。せいぜい迷い続けることだ」

 トンネルに入るとサラは車を停めた。

「またいつか、あなたに会いに来るかもしれません」

「待ってるよ。その時は多分、個室に閉じ込められているんだろうがね」

「次は、本当のわたしに――男に戻っている方がいいですか?」

「いや、今のままで構わないよ」ニヤリと笑う。「年寄りには性的な刺激も必要なんでね」

「お望みのままに」

 そしてサラは運転席を降りた。だが、わずかにためらいを見せてから振り返る。

「あなたは……もしかして、他者の人格を自由に吸収する能力を持っているんじゃないですか?」

 薬師寺は、眉一つ動かさない。

「なんのことだね?」

 その瞬間、サラは超能力の実在を確信した。

「その力で、あなたは何を成そうとしているのですか?」

  薬師寺は、おだやかな笑みを浮かべただけだった。



                           ――了

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猟奇人格 岡 辰郎 @cathands

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