10・椎名圭一郎(しいな けいいちろう)

 自分が見ている現実が信じられなかった。

 目の前に立っているのは、サラだ。春日のために用意され、何年もロッカーで眠っていたツナギを着込んだ、サラだ。

 だが、なぜサラが『自分は春日だ』などと言う? 

 そもそも、どうして完璧なセキュリティーを誇る研究室に入ってこられる?

 だが、間違えようはない。ほんの10メートル先に立っているのだから……。

 サラはニヤリと笑ったまま、黙っている。

 思わず口を突いた。

「どうやって入った……?」

 サラは笑みを深める。

「最初に聞くのはそれかよ。わたしは自分が春日だって言ってるんだよ。春日になら、言うべきことが他にあるんじゃないのか?」

 ああ……そうなんだ。

 私は唐突に理解した。

 春日は私の策略で全てを失った。すでに死んでいる。だから薬師寺に憑依して、復讐しにきた。今度はサラに乗り移って、オカルト部に逃げ込んだ私を待ち構えていた。

 いや、春日は最初からサラの体を乗っ取っていたのかもしれない。薬師寺を恐れて右往左往する私たちを、横に立ってあざ笑っていたのかも……。

 だったら、私に抱かれたのも〝春日〟だったのか……?

 まさか……。

 だが、あまりにも簡単に体を許したではないか……。

 だとしても、一体、なんのために……?

 考えたって、分からないよな……。

 相手は幽霊だもんな……。

 セキュリティーをどれほど厳しくしたところで、無意味なんだろうな……。

 電磁シールドまで無力なんだからな……。

 私は、ここで復讐される……多分、生きてはここを出られない……。

 なぜか、一瞬で諦めがついてしまった。これ以上逃げ込む場所などないんだから。

 諦めるしかないじゃないか……。

「私を……殺しに来たのか……?」

 サラはゆっくりと私に近づいてきた。笑みは消え、瞳に冷たさが滲み出す。

 恐ろしい……だが、動けない。体を支えようと手を突いたデスクから、手のひらを引き剥がせない。サラの斬りつけるような視線に魅入られて体がこわばり、一歩も退くことができない……。

「殺す? とんでもない」

 は? どういうことだ……?

「じゃあ、どうする気なんだ……?」

「殺すわけないだろう? そんなに簡単に、楽にしてやるものですか。お前は家族も地位も全て失い、腐り果てた外道として世界から罵られ、踏みにじられ、生まれてきたことを後悔し続けなさい」

 諦めたつもりだった。それでもなお、背筋に寒気が走った。

 私は一体、何をされるんだ……?

 サラは、私の数歩前まで近づいた。思わず、腰が引ける。

 と、サラは急にポケットからスマホを取り出した。画面が私に見えるようにペンスタンドに立てかける。

 私は、いまさらどうでもいいことを口走っていた。

「なんで……そんな機器が持ち込めたんだ……?」

 オカルト部の厳格なセキュリティールールを破って電子機器などを持ち込むことは不可能だ。情報を盗み出せるようなストレージを持っていたら、エアロックは絶対に開かない。

 絶対に……。

 サラは、平然と言ってのけた。

「ミス・マープルにお願いしたのよ。他に方法なんてあるわけないじゃない」

 なぜミス・マープルのことまで知っている⁉

 そうか……春日だものな……知ってて当然だよな……。

 サラは、スマホで動画を再生する。

 見ろ……ということだ。

 私はギブスで固められたように硬直した首を精一杯回して、小さな画面を凝視した。

 画面は暗い。だが、ランタンの灯りで照らされた室内であることは分かる。何が写っているかも見分けられる。

 そこには、大前の怯えきった姿があった。おそらくサラは、手術衣の胸ポケットにスマホを入れて、録画しながら大前に話を促したのだろう。

 大前は、サラが仲間だと信じている様子で、自分がCIAのスパイになったことを白状していた。命令を受けて滝沢君を殺したことだけではなく、私の命令で春日一家を惨殺したことまで告白していた。

 追求しているのはサラの声だ。

 私は言った。

「家族まで殺すとは思わなかったんだ……」

 サラが聞き取れないほどの小声でつぶやく。

「黙って聞けよ……」

 背筋がさらに冷えていく。まるで冷凍窒素に浸されたかのように、急激に……。

 と、不意に画面が激しく揺れる。大前と向き合っていたサラが立ち上がったようだ。そして、大前の喉元に叩き込まれる右手の手刀が映し出される。大前は息を詰まらせて前のめりに崩れそうになったが、サラの左手が顎を持ち上げる。恐怖に見開かれた大前の目が、はっきりと映し出される。再び右手が画面に現れた。何かを握っている。それを左目に突き刺し、さらに手のひらで押し込んでいく……。その手には、いつの間にか使い捨て手袋がはめられているようだ。

 全ては一瞬の出来事で、大前は声ひとつあげられない。

 なんなんだ、この手際の良さは……? まるで、何ヶ月も稽古を重ねて、息を合わせた芝居のようではないか……。

 画面から大前が消える。そして、部屋の中を見回すように回転する。回転したのはサラの体だ。多分、大前の頭をがっちりと抱え込んでいる。そして、首の骨を捻じ切ったのだ。

 それもまた一瞬の出来事だった。

 これは、芝居なんかじゃない……。かすかに聞こえたのは、首の骨が砕かれた瞬間の鈍い音だ……。

 おそらく大前は、何をされたのか全く分からないうちに命を失っている。そんな映像は、乱造されるアクション映画などには溢れている。暗殺のプロ、という役柄だ。

 だがこれは、フィクションの演出ではない。大前は、現実に存在する〝暗殺者〟の手で屠られたのだ。

 いや、春日が憑依したサラによって……。

 スマホから目を離せないまま、私の頭の中には様々な疑問が渦巻いた。

 本来のサラが、そんな荒事に長けた技能を持っているのだろうか? サラはもともと、そんな人間だったのか……?

 サラにもまたCIAの息がかかっていることは、動画の会話から理解できた。だが、暗殺者だとは到底信じられない。脳科学者としての知識やスキルは間違いなく本物だったからだ。

 それもまた、薬師寺の人格に由来するものなのだろうか。爆弾使いのテロリスト、虚言症の詐欺師……そのどちらかがともに憑依した可能性もある。人格の変化が肉体の変化を促すことは証明できた。ならば、サラの肉体が憑依によって強靭な体力と機敏性を発揮することもないとはいえない……。

 頭の中では冷静な分析が勝手に進んでいた。だが、スマホの映像には吐き気を覚えていた。

 サラは、ぐったり倒れ込んだ大前の骨を無言で砕き始めた。素早く、無駄なく、躊躇なく……。手の指、腕や肩の関節、膝や大腿骨の付け根……ぐるぐると一瞬も止まることなく動きながら、大前の体を折り畳んでいく。なのに今度は音もなく、まるで急に音声が途切れたかのように静かだ。

 どこをどうすれば関節を外して人体を扱いやすくできるか、とことん習熟している。これは、並みの医師では到底追いつけない知識量だ。どれだけの経験を重ねれば、身に付けられるスキルなのだろうか……。

 サラはなぜ、人をこれほど非情に扱えるのだろうか……?

 サラはいったん玄関に行ってクローゼットを開く。リビングに戻ると丸まった大前の死体を持ち上げ、再び入口へ向かう。大の大人の体重を、息も乱さずに持ち上げている。

 まるで〝気〟の応用に習熟した武術家のように……。

 クローゼットの中に死体を押し込むと、その後に切れ味の悪そうなナイフのようなもので死体の各所を突き刺し始めた……。

 そして尻を突き出させるように体を固定すると、ズボンの上から肛門や性器を切りつけ始めた。最後に太い注射器のようなものを取り出して、肛門に突き立てる。まるでレイプする様に激しく前後に動かすと、最後にピストンを押し込んでそれを抜いた。

 私はなんの意識もなく、言葉を出していた。

「なぜ……ここまで酷いことを……」

「黙ってろって言ったはずだ……」

 吐き気が込み上げた。

 画面の中のサラはクローゼットを閉じ、部屋の中を片付け始める。暗い画面に写った範囲では、血痕や家具の破壊は見当たらない。仮に痕跡が残っていても、停電中の深夜ならそれにすぐ気付くのは難しいかもしれない。殺害の証拠は、夜が開けて警察が到着してから発見されるのだろう。

 それを計算しながら一連の動作を行っていたのなら、サラはまさに厳しい訓練を積み重ねたプロの暗殺者だ。これほど特殊な技術が、単に憑依だけで身につくとも思えない。

 手術衣を着替えた様子もない。死体を切り刻みながらも、返り血を浴びないスキルまで備えているようだ……。

 彼女が何者なのか、ますます分からなくなってくる……。

 そもそもそれほど息が上がっているような感じはなかったが、画面の動きは一層安定してきていた。ナイフや注射器をパソコンバッグに詰め込んだサラが、ドアに近づく。そして、平然と言った。

『詳しいお話をありがとうございました。これで疑問が解けました』

 外にいる保安部員に聞かせるために違いない。

 大前の声が応える。

『質問にはなんでも答えますよ』

 なんだと⁉ 大前がしゃべっている⁉

 仕掛けはすぐに分かった。ICレコーダーのようなものを用意していたんだろう。

 だが、いつの間にこの音声を切り出していたんだ……?

『では、他にも疑問がありましたら、また』

 サラは平然とドアを引いて、廊下に出て行った。

 録画は、そこで終わった。

 サラはスマホをポケットに入れ、再び笑みを浮かべた。

「さあ、質問タイムよ。なんでも答えてあげる」

 私の頭の中は真っ白になっていた。

「私をこれからどうする気だ……?」

「もう、何もしないわよ」

「は?」

 大前を、そしておそらく南も惨殺し、滝沢の死体を損壊しておいて……それなのに私には何もしないと?

 理解できない……。

「ケツに注射器突っ込んだの、見えたでしょう? なぜあんな汚らしいことをしたと思うの?」

「なぜって……? なぜなんだ?」

「注射器に中に入っていたのは、あんたの精液だよ」

 最初、サラが何を言っているのか理解できなかった。

 せいえき? なんのことだ……?

 そして、唐突に意味が分かった。言葉の意味も、それがもたらす結果も……。

 私はサラと性交し、精液が入ったままのコンドームを部屋に残してきたのだ。その精液を大前の肛門に注入したということは……私が大前を殺し、犯した証拠になってしまう。

 まさか……。

 サラが冷たい笑みを浮かべる。

「分かったみたいだね。なんでわざわざ死体のケツを傷つけたのか」

「滝沢や南にも……?」

「当然だろう? 滝沢の穴にも南のケツにも、お前の精液を残してきた。わたしがあんたに抱かれたのは、その精液を採取するため。しかもあの時、大量の抜け毛も手に入れた。思いっきりかきむしってやったからね」

 寒い……ここはなんて寒いんだ……。

「あ、あれは……そのために……」

「なかなかの演技力だったでしょう? だから、3つの死体とも、傷口のどこかしらにあんたの髪の毛が入り込んでいる。しかも、大前の脳に突き刺さっているのはお前の指紋や皮脂がこびり付いたペンだ」

 そういうことだったのだ……。

「私が殺したことに……?」

「他に考えようはないでしょう? 今は停電中で、警察もまだ着いていない。遺体の鑑識作業は遅れる。遅れるけど、この証拠は必ず発見される。日本の警察は優秀らしいから。あんたは、男女見境なく患者やスタッフの死体で性欲を満たす異常者になるのよ」

「そんなことは……誰も信じない……」

「どうかな? 信じたくなくても、証拠があっちこっちに残ってるんだから」

「なぜ私がそんなことをする必要がある⁉」

「わたしの知った事じゃないわよ。追求されるのはあんた。説明するのもあんた。命がけで考えることね。狂ってるって言い訳は効かないかもしれないから」

「お前がやったことだと主張する……」

「お好きにどうぞ。幽霊が乗り移った女が、あれほどの力技で連続殺人? それこそ、誰が信じるの? 普段異常者を相手にしている医師が一時的におかしくなることなんて、珍しくもない。薬師寺の異常性に翻弄された末に、限界を超えてしまった――って解釈が一番馴染むかな。正気を主張すれば、責任能力ありで死刑。だったら、狂った性犯罪者を演じた方が長生きできるんじゃないか? 薬師寺に操られたって言い訳したって構わない。どっちにしたって、この研究所の4階に閉じ込められるだけだから。幽霊を証明する方法なんて、まだ存在していないんだし」

 そしてサラはツナギのジッパーを開け始めた。

「何を……?」

 その下は全裸だ。

「あんたに襲われるんだよ」

 そして、私のテーブルのペンスタンドからカッターナイフを引き抜いて自分の肩を浅く切りつける。

「まさか……」

 傷口から滲み出す血のりを指につけて、私に迫ってきた。

「何を⁉」

 だが足がすくんで動けない。

 サラは私の右手首を掴み、無理やりカッターを握らせてきた。その上から手を覆って、力を入れてくる。

 私の指紋をつける気だ!

 だがそれ以上は、何もされなかった。

 サラは硬直した私の体を払いのけた。

「どけ」

 私の手にまで血を付けられた!

 そう気付いた時にはサラはカッターを奪い取り、すでに入り口に近づいていた。掌紋センサーに手をかざして、エアロックに入っていく……。

 そして背を向けたまま、つぶやく。

「廊下に出て掌紋センサーを壊せば、自動的にドアがロックされる。停電から回復して誰かが異常に気づくまで、あんたはここから出られない。わたしはすぐに田中を呼んで、『抵抗したら所長はオカルト部に逃げ込んだ』と訴える。それであんたは、地位も権力も名声も家族も、人生の全てを失う。失ったまま、凶暴性を宿した狂人として生かされ続ける。終わりだよ」

 私は閉じる扉を呆然と見守ることしかできなかった。


        ✳︎ 


 サラはオカルト部を出ると階段ホールに走って、思い切り叫んだ。

「助けて!」

 一度椎名に握らせたカッターは、エアロックの床に投げ捨てていた。着替えも終え、ライトブルーのツナギはきちんと畳んでロッカーに残している。

 1階を警備していた保安部員がサラの叫びに気付く。早足で階段を降り、LEDライトの光を向けた。

「誰ですか⁉」

「助けて! 所長に襲われたの!」

 保安部員が足を早める。ライトの光に、手術衣が乱れて血が付いたサラの素肌が浮かび上がる。

「大丈夫ですか⁉ 怪我は⁉」

「傷は浅いわ。それより、所長を捕まえて!」

「どこに⁉」

「奥に逃げて、オカルト部に……また出てくると怖いから、センサーを壊した……」

「分かりました。あなたは上へ。そっちにもスタッフがいますから!」

 そして保安部員が廊下の奥へ向かう。

 サラは1階へ上がる。近づいて来る別の保安部員に言う。

「わたしは平気! 下で所長を捕まえて!」

 保安部員はうなずいて階下へ向かう。

 サラはポケットから技術者用の関数電卓を抜き出すと、つぶやいた。

「ショウタイムね。電波が届くといいけど」

 そしてさらに階段を上がりながら関数電卓を操作する。早足に2階の廊下に出ると、%キーの次に03を押す。

 薬師寺の個室ドアに割り振った番号だ。

 同時に、かすかな爆発音が響く。ドアを爆破した音だ。薬師寺は打ち合わせ通りに、ドアから離れた場所で身を守っているはずだ。

 3階の保安部員たちはすぐに駆けつけるだろう。その前に状況を整えておく手はずだった。

 サラが2階に上がると同時に、薬師寺がデータ解析室のドアから廊下に姿を現す。小走りにサラに近づいて目を見合わせると、その腕を掴み、さも楽しそうに笑った。

「時間通り、か?」

「迫真の演技、期待してますよ」

 同時に階段から数人が廊下に飛び出す。

 サラが恐怖を演じながら、彼らに向かって叫ぶ。

「来ないで! 怒らせると危ない!」

 薬師寺が吠える。

「動くな! 女を殺すぞ!」

 廊下に現れた男の中には、龍ヶ崎がいた。慌てた様子で立ち止まり、叫ぶ。

「サラ先生! なぜそこに⁉」

 2人の姿を、龍ヶ崎のライトが暗闇に浮き上がらせた。

 サラは薬師寺から逃げようともがきながら、不安そうな声を演出する。

「分からない……気付いたら、こんな格好でここに……なんでこんなことに……?」

 薬師寺が笑う。

「私がこの女に憑依したんだ」

 竜ヶ崎がうめく。

「そんなことまでできるのか……」

「私の能力の全てを解明したなどと自惚れるな」

「お前は一体、誰なんだ……?」

「私は薬師寺柾、そして、春日翔太だ」

「やはり潜んでいたのか……」

「だがこれで復讐は終えた。春日は消えるだろう。私がここに止まる理由も、もうない。だから、行かせろ」

「それはできない!」

「ならば、止めてみるがいい」

 薬師寺が天井を仰ぎ、眉間にしわを寄せる。

 とたんにサラが体を折って叫ぶ。

「痛い! やめて!」

 薬師寺が龍ヶ崎たちに命じる。

「これがサイコキネシスだ! もっと下がれ! 下がらないと、この女の脳みそを圧し潰すぞ!」

 龍ヶ崎が指を開いて両手を掲げながら、退く。手放したライトが手首に回した紐でぶら下がり、揺れながら床を照らす。

「分かった、下がる。だから、やめてくれ」

 薬師寺は笑った。

「素直でよろしい」

 サラが正常に戻る。だが、大きく肩で息をする演技は続けている。

「もう……やめて……助けて……」

「警察次第だ。お前らは私を散々辱めた。今度は私の番だ」そしてサラの体を自分の背後に押しやって、竜ヶ崎に命じる。「私を止められるなんて思うなよ。少しぐらい離れても、この女の頭は潰せるんだからな」

 龍ヶ崎がうめく。

「念力か……。やめるんだ……彼女は傷つけるな……」

 サラは薬師寺の背中に隠れるようにして関数電卓を出した。そして、薬師寺にだけ聞こえるようにささやく。

「階段踊り場……」

 薬師寺は声を上げた。

「だったら、やめてやろう。この女は傷つけない。私から離れなければ、だがな。その代わり、お前たちがリスクを負え」そう言って薬師寺は、龍ヶ崎の背後の階段に向かって腕を振り上げ、指差す。「そこだ!」

 サラが関数電卓を操作する。

 薬師寺の指が示す先、3階へ向かう踊り場で大きな爆発が起こった。廊下が揺らぐ。壁の一部が剥がれ、階段にモルタルの破片が散乱する。

 3階以上を分断する方策だった。薬師寺が自由に爆発が起こせると信じ込めば、階上から応援の保安部員を呼ぶ危険は冒せないだろう。

 不意の爆発に身をすくめた男たちは、4人。

 龍ヶ崎と田中、そして2人の保安部員だ。皆、恐怖に顔を歪めている。

 埃と硝煙が充満する中、1階から椎名を追った2人が上がってくる。

 薬師寺が命じる。

「そこの2人! 龍ヶ崎のところに行け!」

 2人は不安そうに龍ヶ崎を見る。

 田中の指示も同じだ。

「こっちに来い! 絶対に抵抗するな!」

 2人は薬師寺を恐る恐る観察し、退きながら龍ヶ崎に近づいていく。

「何が起きたんですか……?」

「サラ先生が人質になった」

「でも、武器なんか持ってないじゃないですか……」

「あるんだ。薬師寺は危険だ。刺激するな。絶対に、だ」

 もう1人が言う。

「所長がオカルト部に身を隠したようです」

 龍ヶ崎にはその理由が分かったようだ。

「くそ……幽霊から逃げたのか……」

 彼らの会話を断ち切るように、薬師寺が命じる。

「お前たち、そこから絶対に動くな。私はこれから車でここを出る。人質としてサラを連れていく。後を追うんじゃないぞ。追ってくれば、私にははっきりと見える。お前たちが何を企もうが、全てお見通しだ。邪魔立てすれば、サラを殺す。お前たちには、それを防ぐことはできない。ほら、もっと下がれ!」

 龍ヶ崎たちはひとかたまりになって廊下の奥へと後退して行った。

 薬師寺は、サラの手首を引きながら階段へ進んでいく。

 サラはか弱い抵抗を見せながら、龍ヶ崎と近づいた瞬間につぶやいた。

「おかしなことはしないで……わたし、死にたくない……」

 薬師寺はさらにサラの腕を引っ張る。

「黙れ! 大人しくついてこい!」

 2人が階段を降りていく。

 龍ヶ崎たちが彼らを追ってくる気配はなかった。

 サラたちは1階に降りて無人のエントランスに出ると、柱の陰に隠してあったパソコンバッグを回収する。その中には、サラが〝椎名の殺人〟を偽装した小道具がぎっしり詰まっている。

 2人はエントランスを出ると、目の前の駐車場のサラの車に乗り込んだ。ガソリンはほぼ満タンにしてある。運転席に座ったサラは、関数電卓を操作しながら言った。

「これが止め」

 最後のキーを押すと、エントランスで大爆発が起きる。爆発は全て、サラがあらかじめ仕掛けておいたプラスティック爆薬が起こしたものだった。

 サラは車を出す。炎を吹き出す研究所のエントランスがバックミラーで見えなくなると、言った。

「さすが大作家さんね。たったあれだけの情報でここまで完璧な演技をしてくださるなんて」

 薬師寺も爽快そうな笑顔を見せていた。

「いやいや、君には到底追いつけないだろうね。これがオスカー並みってやつか? なかなか楽しい余興だった。で、君は一体、何者なんだね?」

「それ、ぜひ知っていただきたいんですけど……知っちゃうと、かなりの重荷になるかもしれませんよ? 人生を左右する大きな選択を迫られますから」

 薬師寺がシートを倒して深々と身を委ねる。

「ワクワクするね。私は常に、エキサイティングな環境を求めてきた。迷ったら面白そうな方へ、だ。それが創作の原点でもある。だからこそ、今回の幽閉にも積極的に従った。新たな体験は、どんな些細なことでも役に立つからね。さて、君は私にどんな世界を見せてくれるのかな?」

 ヘッドライトの先に、森の中の峠道が浮かび上がっていた。

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