9・大前誠(おおまえ まこと)
「薬師寺氏の暴走、抑える方法があるかもしれません。大前先生にも検討していただきたくて」
その言葉は、僕にとっては何物にも代えがたい福音だ。いや、今この研究所にいる誰にとっても、だろう。だが、サラは力なく肩を落としている。自分から薬師寺から逃れる手段を提案しに来たというのに……。
サラは、ドアに鍵をかけると振り返った。リビングからのかすかなランタンの明かりでさえ、その表情は伺えた。ひどく怯えている。両手で持った黒いパソコンバッグのようなものを、すがりつくように抱きしめている。
怯えるのは当然だろう。ついに死人まで出てしまったんだから。だが、解決策があるのではないのか……?
リビングに戻った僕は、戸惑いながらも反射的に社交辞令を口に出していた。
「怖いですよね……」
サラは僕の前に座るなり、意外な質問をして来た。
「大前先生……あなた、CIAのエイジェントですよね?」
いきなりなんだよ⁉
薬師寺から逃げ切る策があるんじゃないのか⁉
いや、それよりなんで僕がスパイだって考える⁉
そもそも、なぜ研究所にCIAのスパイが潜んでいるとを確信しているんだ⁉
ちくしょう……薬師寺を抑えられるってのは、部屋に入る口実だったのかよ……。
とぼけるしかない。
「は? 急になんですか? なぜそんなことを?」
サラは身を乗り出して声を落とした。
「わたし、CIAからこの研究所の管理職に協力者を作ったって聞いているんです。それが誰かは教えてもらえませんでしたけど。変に意識すると、他のスタッフに気づかれるかもしれないからって……」
つまり、彼女自身がCIAの手先だと白状しているわけだ。だが、そこを追求すれば、僕がアメリカに魂を売っていることを認めることになりかねない。
「なんの言いがかりですか……? でも、この研究所にはスパイがいる、と? しかもあなた自身がCIAなんですか?」
サラは一瞬、困ったような顔を見せた。
「え、違うんですか? 間違いないと思ったんだけど……」
「なぜ僕がスパイだと?」
「だって、所長の椎名先生がスパイなら、CIAが欲しがっているオカルト部の機密は筒抜でしょう? わざわざCIAがわたしなんかに声をかけてくるはずがないし。でも、あまり下っ端の人間を取り込んだって機密には近づきようがないし。だったらきっと、椎名先生に近い大前先生じゃないかって……」
「あなた自身がスパイだということは認めるんですね?」
「スパイっていっても、臨時雇いみたいなものです。医師なのは本当ですし、日本育ちのわたしを派遣すると決定したのはAPAです。CIAがコンタクトして来たのは決定の後で、なんでも構わないから見聞きしたことを報告してほしい、椎名先生に近づいてなるべく秘密を探ってほしいって依頼されただけですから……」
それは、最初から想定していたことだ。特にオカルト部を統括している椎名は、アメリカの情報機関が介入してくることを確信していた。
だから僕は自分の立場が明るみに出ることを恐れて、なるべくサラを遠ざけるようにしていたんだが……。
しかし、今となってはそれも無意味だ。現状の危険は、薬師寺の能力だ。彼の中に春日が入り込み、自分と家族を破滅させた人間に復讐しているなら、なんとしても逃げなければならない。あるいは、危機の元凶を排除しなければならない。
サラがその助けになるのなら、事実を打ち明けても構わないのだが……。
「サラ先生は、オカルト部についてCIAからどんな説明を受けたんですか?」
この質問なら、自分の正体を明かさずにサラが〝使える〟かどうか判別できるかもしれない。
僕は、僕自身がCIAのどんな部局から指示を受けているのか、正確には知らない。そんなあやふやな話に耳を貸したのは、共犯者であったはずの椎名が頑なにオカルト部への入室許可を拒むからだ。この研究所の核心に関与できないことに腹を立てていただけだ。
春日の排除で犯した危険は僕の方が大きかったのに、その果実のほとんどは椎名が独占した。逆転を狙って悶々としていた時期に、アメリカ大使館員を通じてCIAのリクルートを受けたのだ。
椎名は共犯者だから、下手に追い落とせば僕自身の犯罪的行為も暴かれる。だがCIAの力を利用すれば、椎名を密かに〝消去〟してもらえるかもしれない。後釜は、当然僕以外にいない。オカルト部まで牛耳れれば、CIAとのコネクションを通じてはるかに大きな利益も得られる。
そう計算した結果だ。
たとえ計算通りにならなくても、提示された報酬は魅力だった。そして報酬は、約束通りに定期的に支払われてきた。
だが、春日の亡霊に命を狙われているなら、そんな計算や報酬など無意味だ。どんなに金を積まれたところで、命を失えば終わりだ。
生き抜くことが最優先に決まっているだろう?
サラは、この研究所にCIAがエイジェントを潜入させていることを明確に知らされている。僕はサラがCIA要員だと疑ってはいたが、はっきりと知らされていたわけではない。サラが、より上位の部署からリクルートされた可能性は高い。
それなら利用価値もある。協力すれば、アメリカに保護を求めることも可能かもしれない。
サラは答えた。
「なんでも、世界最先端の超能力研究を進めているらしいって。それが完成すると、民生でも軍事でも日本が巨大な革新的パワーを得てしまう。他国は大日本帝国の復活に怯えることになる、って。アメリカの本心は、今でも第二次大戦の復讐をされることが怖いみたいです。でもそれって、原爆まで落としたアメリカの責任でしょう?」
そんなことはどうでもいい。
だがそこまで知らされたということは、サラがかなりの権限がある部署の管理下にあるということだ。
「それであっさり引き受けたんですか?」
「わたし、日本人ですけど、国籍はもうアメリカに変えてありますし。国の機関から頼み込まれれば断るわけにはいかないですよね。断ると、あとあと面倒なことになりかねないし。学会からだって追い出されちゃうかもしれない。そもそもわたしの関心は薬師寺氏の脳の構造にあるんで、政治的なことなんてどうでもよかったんです。スパイになってくれって頼まれたからって、アクションスターじゃないからできることなんてそうないし。それがここまで超能力がらみのことになってしまって、もう、何がなんだか……」
「CIAの誰にリクルートされたんですか?」
「誰? 名刺は渡されましたけど、どこかの投資ファンドの部長だとか……」
相手は身分を偽装しているだろうから、サラの話を確認する役には立ちそうもない。
「CIAだというのは確かですか? それを装った、他国の情報機関とか、あり得ませんか?」
だとすれば、僕がCIAの手先だと知らなくて当然だ。CIAが研究所に協力者を潜ませていることぐらい常識だから、当てずっぽうで語ったところで外れるわけがない。
「それ、一応疑ったんです。そしたらなんだか嬉しそうに、そこまで気付く注意力があれば安心ですって言って、軍人さんにも会わせてもらいました。時々テレビで見かける方で、基地の中まで入って3人で打ち合わせを――」
「基地に⁉ どこの?」
「キャンプ・ペンドルトン……レゴランド・カリフォルニアの近くです」
ペンドルトンは海兵隊基地のはずだ。観光客が入れる場所もあると聞いたが……。
「基地の中って、どこまで?」
「軍人さん――その方の個人オフィスです」
「階級は?」
「さあ、そこまでは……わたし、軍事には疎くて……」
だがこれは、本物だろうな……。個人オフィスが持てるなら、階級は相当上だ。
「CIAの担当者は、自分がどんな部門の所属だか言っていましたか?」
「IMFとかいって、軍人さんと2人で笑い合っていました」
「IMF? 国際通貨基金――じゃないですよね?」
「わたしも聞いてみたんです。CIAが金融関係のこともするんですか、って。投資ファンドの人だったし。そしたら『インポッシブル・ミッション・フォースの方だ』って。それって、フィクションのスパイ映画ですよね。トム・クルーズの。なんでも、CIAの中でもヘンテコな仕事ばかり押し付けられる部門なんで、仲間内から冗談でそう言われてるそうです。正式名称じゃないけど、いつの間にか他の名前で呼ぶ人がいなくなったということです。存在を知ってるのは上層部だけだって言ってましたけど」
あまりにふざけた話だ。ふざけすぎていて、逆に信憑性が高い。ジョーク好きなアメリカ人ならやりそうなことだ。他国の機関がCIAを偽装しようとしているなら、それほどバカバカしい設定を作るはずがない。
『超科学部門』がオカルト部と呼ばれるのと同じだろう。
好都合でもある。IMFという名称が本当に上層部しか知らない〝スラング〟なら、簡単に身分を確認できるかもしれない。
「それを証明できますか?」
「電話、してみますか?」
「できるんですか⁉」
「っていうか、そこまで聞くっていうことは、大前先生もCIAなんですよね。でしたら、あなたの連絡先に確認してみてください。窓際なら、多分携帯も使えるでしょうから」
詰まれた。
サラの話を確認しようとして、逆に自分がCIAに取り込まれていたことを白状したようなものだ。
だが仕方ない。他の部署の工作には関知していない可能性は高いが、せめてIMFが実在するかどうかは確認すべきだろう。
「しばらく待ってもらえますか?」
「もちろんです」
サラをリビングで待たせて、僕は寝室の窓際へ行った。携帯で連絡を取ることは基本的に禁止されていたが、こんな状況ではやむを得ない。緊急時連絡先をコールした。古い友人に偽装した番号だ。
いつも使っているこのスマホは、CIAから〝プレゼント〟されたものだ。見かけは普通と同じだが、特殊な秘匿回線を使用でき、盗聴防止機能も付いているという。
相手も研究所での異常事態を知っていたようだ。何回か取次があってから、片言の日本語を話す担当者が出た。多分、向こうも盗聴防止の手順を踏んでいる。
『事件対応、ご苦労さまです』
「アメリカからのオブザーバーがCIAの依頼を受けていると言っているのですが、確認できますか? できれば、協力して事態を切り抜けたいんですが」
『サラ・ドーハムですか? 連絡は受けていませんが……』
「なんでも、インポッシブル・ミッション・フォースからの依頼だ、とか――」
『IMF! それ、知っているの幹部だけ。IMFのこと、他に何か言っていましたか?』
ということはこの担当者も、幹部クラスの1人だったわけだ。多分、日本でのスパイ活動の責任者なのだろう。
「正式名称ではないけど、皆がふざけているうちに定着してしまったとか」
『その人、信用していいです。こちらでもIMFに確認を取りますが、力、合わせてください』
「了解しました」
そしていきなり、電話を切られた。長話は無用だということだろう。
僕も、結論を出している。
リビングに戻って言った。
「僕がCIAに力を貸していたことは認めます。質問にはなんでも答えますよ。しかしあなたがこうして身分を明かすのは危険なんじゃありませんか? IMFにとがめられませんか?」
「もう、そんなことに構っていられません。スパイを職業にしているわけじゃないんですから」
それは、同じ気持ちだ。
「で、何をしたいのですか?」
「まず、現状を確認したいんです。大変な事件に巻き込まれて、不安なんです」
「僕も、ですけどね」
「薬師寺氏のサイコキネシス、実在するということで間違いありませんか」
「確実です」
「やはり、あなたの腕の傷も?」
もはや、隠し事は不要だろう。
「ああ……これは別です。傷そのものは、僕が自分でつけました」
「え? どうして⁉」
「CIAからの指示です。薬師寺がサイコキネシス能力を持っていると見せかけて、なんとかオカルト部に入り込め、と」
「はい? ……でも、どうやってカマイタチに見せかけたんですか?」
「あらかじめ腕をカミソリで切りました。そこをサージカルテープで塞いで、その端に長い紐をつけました。袖の中を通した紐を強く引っ張ると、テープがめくれながら剥がれて出血する仕掛けです。みんなの注意は薬師寺に集中している。しかも、いきなりの出血で驚いて、紐とかテープには気づかないでしょう。実際に気づかれませんでしたしね。簡単な手品ですよ。ひどく痛かったですけど」
サラは、心底驚いたようなため息を漏らした。
「そうなんですか……。だけど、自分で超能力を偽装したのに、今はその実在を信じているんですか?」
「その後が問題でした。部屋に戻ると、家族写真の私の腕、そして妻と娘の首の部分のガラスにヒビが入っていました。どうやら、僕がつまらない手品で真の超能力を愚弄したことに腹を立てたみたいです。家族を殺すと宣言された気分です。しかもほら、誰かの人格に『写真は気に入ったか』とか脅されたじゃないですか」
「ああ、あれですね……。誰だったか、やっぱり分からないままですか?」
「答えが出る前に、この騒ぎですから。まだ知らない人格が隠れているかもしれないし。余計に怖いんです」
「じゃあ、火災の予言とかは?」
「それには関知していません。予言能力か透視を使い、しかも離れた場所で爆発を起こせる力を持っているとしか思えません」
「ナースの死に関しては?」
来た。この質問は、当然されるだろうと思っていた。だが正直に答えれば、僕の未来を決定づける分岐点になってしまう。
「答えたら、全面的に協力してもらえますか?」
「そのつもりですけど」
「IMFは僕に身の安全を保障してくれるでしょうか?」
「私からお願いしてみますが、それでは不充分ですか?」
決断すべき時だ。この返事次第では、娘と離別することになるかもしれない。妻とはすでにすれ違ったままだから、娘だけが気がかりなのだ。
だからといって、このままでは亡霊に呪い殺されかねない。しかも、一家もろとも……。
「分かりました。IMFに僕の身の安全を守ることを頼んでくださいね」
「はい」
「滝沢君を殺したのは、僕です」
「え? あなたがあんな無残な殺し方をしたんですか⁉」
「とんでもない。ちょっと麻酔薬を打って気を失わせて、呼吸を塞いだだけです。あれほど猟奇的なことはできません……」
「でも、殺したんですよね?」
「それは認めます。どうしても、と命令されたので……」
「CIAからですか?」
「もちろん。滝沢君は自分がCIAのエイジェントだと思い込んでいたようですが、実は中国の情報機関に騙されてオカルト部を探らされていたそうです。椎名にも近づこうと躍起になっていました。衰退する一方の中国は、超能力研究の実績を奪って軍事力を立て直そうと躍起になっていたようです。CIAは僕に、それを防げと命令してきたんです。今なら薬師寺の能力に見せかけられる、って……」
「でも、彼女が殺されたことが分かったら、あなただって疑われるんじゃないですか? 警察だって来てるんだし……」
「だから今まで、実行できなかったんです。CIAから何度も催促されていたんですけど、断ってきたのに……。薬師寺の能力のせいで、人殺しまで強要されてしまったんです……」
「だったら、なぜ死体があんな無残な姿に?」
サラには、殺人を犯したことを責める気はないようだ。僕が感じていた以上にドライな女らしい。
「それが僕にも分からないんです。だから、怖いんです。ですが、誰かが滝沢君の死体を損壊したのは確実です。やったのは薬師寺以外に考えられない……奴が僕を追い詰めるために……」
「だからあんなにうろたえたんですね」
「見苦しいところをお見せしましたが……」
「ですが、そもそもあなたはなぜそんなに薬師寺を恐れるんですか?」
すぐには答えられなかった。目を伏せるしかない。
「僕を恨んでいるのは、春日ですよ」
「初代所長、でしたよね。でも、とっくに亡くなっているんじゃないんですか……?」
「状況から見れば、確実に死んでいます。でも死体は確認されていません」
「でも、なぜ恨まれているんですか?」
いったん嘘をつくと、それを隠すために際限なく嘘が必要になるという。それは、真実を語る時も同じだ。もはや、事の発端まで遡らなければ命を守れなくなってしまった。
「春日の一家が惨殺された責任は、僕と椎名にあるからです」
察しのいいサラも、そこまでは考えが及んでいなかったようだ。
「まさか……」
「だから、これほど怯えているんです。あの椎名でさえ、実はまだ春日が生きているんではないかと恐れて、対応策を用意していると言っていました」
「はい? 対応策って……仮に春日さんが生きているとして、この研究所を襲うとでも?」
もはや、隠し事は意味をなさない。毒くわば皿まで、だ。
「万が一――いや、億が一、襲われた時ための準備です。春日が復讐を企てるなら、オカルト部の破壊を目論むはずです。そうしなければ、椎名に盗まれた業績を奪い返せませんから。ほら、オカルト部の認証システムは異常なぐらい厳重でしょう? そこから春日のアクセス許可を消去してしまえば、春日の侵入は防げます。でも椎名は、あえてそれを消さずにいるんです」
「え? なぜです?」
「春日が侵入すれば必ず記録に残るからです。椎名が所長になってから、研究データは1週間ごとに自衛隊と共有する決まりにしましたから、たとえ量子コンピューターを破壊されても成果は残ります。しかも春日の生存を確認できますから、確実な対処も可能になるということです」
「そのために国家機密を危険に晒しているんですか……?」
「億が一、という前提があるから犯せるリスクですがね」
「それ、CIAにも知らせているんですか?」
「もちろん。隠し事は不利になりますし、教えたところで僕には関係ありませんから。自衛隊だって、そう簡単に情報は盗まれないでしょう? もし盗まれたなら、それは自衛隊の責任です」
「なるほど……でも、あなた方はそこまでしてまだ春日さんを恐れていると?」
「春日は死んでますよ。でも、霊魂の復讐までは予測していませんでしたから」
「霊魂ですって?」
「薬師寺の中に、春日の霊魂が潜んでいます……」
「第6の人格?」
「もしくは、誰かの人格の中に身を潜めて……」
「そういうことですか……」
「薬師寺が念動力を駆使できるなら、各人格の知識だって活かせるでしょう。爆破、ハッキング、予知、あるいは透視やテレポーテーションだって可能かもしれない。バカバカしいとは思いつつも、考えないわけにいかないんです……」
「さすがに、テレポーテーションまでは……だってそれなら、いつでも逃げ出せるじゃないですか」
「薬師寺の、いや、春日の狙いが復讐なら、逃げるわけないじゃないですか。願いを叶えるまでは……。僕は、あいつが浮かべた薄笑いが怖くて仕方ないんです……」
「ですが、どうしてあなたはそれほど春日さんに恨まれているんですか? 責任って、なんなんですか? 幽霊が存在するとして、の話ですが」
僕は、念を押さずにはいられなかった。
「IMFに守ってもらえますよね?」
「もちろん」
「あなたはどうですか?」
「どう?」
「秘密を守ってもらえますか?」
「それも当然です。今の私はアメリカ人ですし、IMFの依頼まで受けてしまいました。何より、薬師寺氏の能力解明以外には関心がありません。この件が終わればアメリカに帰りますから日本の法律はどうでもいいし、倫理的なことをあげつらうほど青くもありません。あなたにとって都合が悪いことは、忘れられますよ」
僕は思わずため息を漏らしてしまった。
「懺悔みたいになりますけどね……春日の一家を殺した南は、僕と春日の担当患者だったんです。当然、凶暴性は知っていました。すでに何人もの女性を惨殺して措置入院していた男ですから。なのに、椎名の口車に乗って脱出の手助けをしてしまったんです。椎名は春日を殺そうと企んで、準備を整えていました。麻酔薬やら春日の家の間取り図やらまで用意して、南を操ったんです。で、結果がこれ……。椎名は研究所のトップの座を奪い取り、僕はこのザマです」
「あなたは何を得たんですか?」
「得るはずだったのは、この研究所の中心部への参加……オカルト部の研究に加わることでした。オカルト部でどんなことが調べられているにせよ、この研究所を作った目的がそこにありますから。しかもそれは本来、春日が作り上げた成果です。僕は多分、春日に嫉妬していたんでしょう。若いくせに途方もないアイデアを次々に生み出して現実化してしまう才能が羨ましかったんです。だから、椎名の言葉に動かされてしまった……。その気持ちは、椎名も同じだったと思います。春日の突出したアイデアに便乗しながらも、その才能に嫉妬していた。はるかかなたを疾走する若い才能を見せつけられて、絶望感に襲われたんでしょう。科学者としての能力で競える相手ではないことは、最初から分かっていたんです。だから、犯罪まで犯して足を引っ張るしかなかった……。惨めなものです。僕と同じ惨めな感情に苛まれていると分かったから、いつの間にか僕まで同調してしまったんでしょう。今から考えると、バカなことをしたもんです。結局椎名は、僕をオカルト部に迎え入れようとはしませんでしたから」
「春日さんは業績も地位も、家族まで奪われたということですか……」
「恨まれて当然ですよね」
「後悔しているんですか?」
「勝手ですけどね。椎名に騙されたから悔やんでるって、そんなの騙された方が悪いに決まってるじゃないですか……。春日君には本当にひどいことをしてしまいました……」
「でも今は、CIAに情報を売っているんですよね?」
「やってしまったことは取り返しがつきません。自分が愚かな悪党だということも認めざるを得ません。でも、生きていたい。だから接近してきたCIAの話を受け入れたんです。仮に日本の法律に裁かれるような事態になったら、アメリカへの脱出をサポートしてもらえるように……」
「自分勝手だと思いませんでした?」
「反論はできません。でも僕は、そんな人間なんです。そんな人間なんだと、痛いほど思い知りました。だから、幽霊が怖くて仕方ないんです」
「ほんと、自分勝手ですよね……」
その、刺すような口調に驚いて目を上げた。
サラが僕を睨みつけていた。
その時僕は、大きな可能性を見過ごしていたことに気づいた。
春日の霊魂は、薬師寺以外の肉体にも憑依できるかもしれないのだ……。
✳︎
ドアの前の廊下には、保安部員が立っていた。サラを案内してきた男だ。ドア越しに、サラの声が聞こえる。
『詳しいお話をありがとうございました。これで疑問が解けました』
大前が応える。
『質問にはなんでも答えますよ』
『では、他にも疑問がありましたら、また』
そしてドアが引かれた。サラが出てきて、ドアの脇に立って待っていた保安部員に声をかける。
「無理を聞いてくださって、ありがとう。部屋を出ちゃいけないって言われてたのに」
闇の中でも保安部員がやや引きつった笑みを浮かべていることは分かった。本来はするべきではないと承知しているのだ。
「お1人では不安でしょうからね。しかも、アメリカからのお客様ですから」
「おかげさまで、大前先生に相談したかったことは済みました。ちょっと急ぐことだったので……」
「部屋には戻れますか?」
サラはわずかに笑った。
「小学生じゃありませんからね。だってわたしの部屋、この廊下を曲がったすぐ先ですよ……でも、正直、かなり怖いですよね……。真っ暗だし……」
「学者さんでも、やっぱり怖いですか?」
「そりゃそうですよ、女だし。それに大前先生が、幽霊が徘徊してるみたいなこと言うから……。あれ? でもお1人ですか? さっきは別の人も警備していたのに……?」
「上で何か起きたみたいですね。呼び出されていきました。私はここで待機です」
「何か、って……?」
「内容はまだ知らされていません」
「まさか、また誰か殺されたんじゃ……」
「怖いことを言わないでください。私たちだって、相当参っているんですから」
「でも、大前先生もそれを心配していて……。どうしよう、1人じゃ部屋に戻れないかも……」
保安部員が肩をすくめる。
「送りますよ」
「ここを離れていいんですか?」
「もともと、サラ先生の区画が持ち場でしたから。今は人員が上に集中していますから、その後は廊下を巡回します」
そして保安部員に付き添われて、サラは自室へ戻って行った。
10分ほど経ってから、LEDライトを持った椎名が大前の部屋の前に現れた。
サラをエスコートしてから巡回を終えた保安部員が通りかかり、ライトの明かりで椎名の顔を確認する。
「所長、お疲れ様です」
椎名の顔は、まさに疲れ果てているように見える。
「ああ、君こそご苦労。1人なのか?」
「今夜はみんな、忙しいので」
「仕方あるまいな。大前君は部屋を出ていないだろうね?」
「私が知る限り、出ていません。今は巡回中なので、しばらく部屋の前を離れていましたけど。ただ、その前にサラ先生が大前先生を尋ねていました」
「サラが?」
「なんでも、大前先生にどうしても相談しておきたいことがあるということで……」
椎名の表情に緊張が走る。
「話は聞こえたか?」
「まさか。ドアを閉めていましたし、リビングまで入れば声は届きません」
「それはそうだな」
椎名は大前の部屋のドアに近付いてドアのレバーに手をかけた。
その瞬間だった。大前の部屋の中で小さな爆発音が起こり、ドアが大きく揺らいだ。
椎名はレバーから手が離せないまま身をすくめる。ドアが吹き飛ぶほどの爆発ではなかったが、爆発には違いない。
保安部員は椎名の体を薙ぎ払うように押しのけ、レバーに手をかける。同時に叫んだ。
「大前先生! 大丈夫ですか⁉」
返事はない。保安部員は必死にドアレバーを押し下げようとする。が、屈強な保安部員の力でも回らない。そのままドアを押し込もうとしても、ピクリとも動かない。
椎名がドアを叩く。
「大前君! 返事をしろ!」
「ドアが歪んで外れないようです」保安部員が再び叫ぶ。「先生! ご無事なら返事を!」
それでも反応はなかった。
椎名は命じた。
「君は新垣君を連れてこい。ドアをこじ開けられる道具を用意しろ」
「はい! では、所長はここにいてください」
「分かってる」そして、その場を去ろうとする保安部員を呼び止める。「君が大前君の姿を最後に確認したのはいつだ?」
「サラ先生が出ていかれる時です。中で挨拶をしていました」
「ならば、中にいるのは確かだな」
「おそらく!」
保安部員がスマホを試しながら階段へ向かっていく。
椎名の心配は大前の身の安全だけではなかった。むしろなんらかの方法を使って、3階の居室から逃げ出しているのではないかと疑っていたのだ。それほど、春日の復讐への恐怖が強まっていた。
恐れを感じているのは大前も同じはずだ。プレッシャーに負け、警察が到着する前に姿を消そうと企てたなら……。
大前が警察に捕らえられれば、全てを話してしまうかもしれない。それは、春日の亡霊に等しい恐怖だ。
椎名は激しくドアを揺さぶった。やはり微動だにしない。爆発で歪んだドアが枠に食い込んでしまったようだ。
そこに保安部員が新垣を連れて戻った。新垣は、大きなバールを持っている。
椎名が尋ねる。
「龍ヶ崎君たちは?」
「まだ4階です。警察庁からいろいろ証拠保全を命じられているようです。ドアが開いたら降りてくるそうです」
「分かった」
「所長、場所を空けていただけますか」
新垣はドアの隙間になんとかバールの先端をねじ込んで、こじ開けようとする。部下がレバーを押し下げながらサポートした。その間も、保安部員は冷静な口調で新垣に状況を説明する。
そうして数分後、ようやくドアが動き始め、さらに数分後には外れた蝶番ごと部屋の中に倒れた。
新垣はドアを踏んで中に飛び込む。
だが、部屋は空だった。
後に続いた椎名が、リビングの窓を調べる。閉まって、鍵もかかっている。寝室も同様だった。
椎名はつぶやいた。
「いったいどこへ……」そして気づいた。「まさか!」
寝室を飛び出して、入り口に向かう。
新垣はすでにその可能性に気づいていた。外れた玄関ドアをどけてクローゼットを開き、呆然と中を見下ろしていた。
椎名が走り寄る。
他の2人と同じだった。
全身の骨を砕かれ、折りたたまれた、血まみれの死体。かすかに排泄物の臭気が漂っている――いや、全く同じとはいえない。彼らに顔を向けた死体の左目には、深々とボールペンが突き刺されている。先端は、脳を貫いているはずだ。
新垣が部下に命じた。
「サラ先生を連れてきてくれ」
部下が去ると、椎名に言う。
「所長はここにいてください。携帯が通じるかどうか、試します」そう言った新垣は窓際に進み、スマホを取り出す。「あ、田中さんですか? 龍ヶ崎さんもそこに? ドアが開きました。また、死体が出ました。大前先生の部屋です」
新垣が入口に戻る前に、椎名は廊下に出ようとしていた。
「所長! どこへ⁉」
椎名が振り返る。
「薬師寺のところだ! また奴の仕業かもしれない!」
「危険です! ここにいてください!」
「私は所長だぞ! 危険だからこそ行くんだ!」
椎名は廊下の暗がりに姿を消した。だが新垣は、死体を残して現場を離れるわけにはいかなかった。
龍ヶ崎たちはすぐに駆けつけた。その後に続いて、サラを探しに行った部下が戻る。
「サラ先生は気分が悪くて医務室に行ったそうです。書き置きがありました。これから探しに行きます」
「1人で行かせたのか⁉」
「保安部員がエスコートしたそうです」
そう報告した保安部員は、すぐに踵を返した。
「彼女には充分注意しろ! 気を許すな!」
保安部員が足を止めて振り返る。
「サラ先生が犯人だ、と?」
「可能性は否定できない。彼女が次の被害者になる恐れもある。どちらの場合にも備えろ」
「分かりました」
そして保安部員は走り去った。
向き直った龍ヶ崎がクローゼットの死体に手を添える。
「まだ暖かいな……」
田中が背後でつぶやいた。
「いったい、この研究所はどうなってるんだ……?」
「警部補は、今まで退屈を持て余していたんでしょう?」
「死人など見たくない」
「まったくです。世の中、ちょうどうまく、なんていかないもんですよね……」
その頃、大前の部屋を後にした椎名は、息を荒くして階段を駆け下りていた。
2階を警備していた保安部員がLEDライトで照らして見上げる。
「所長! 何があったんですか⁉」
椎名は階上を指差す。
「大前君が殺された! 君もサポートに行ってくれ!」
保安部員は驚いて階段を駆け上がる。すれ違いざまに尋ねる。
「所長はどちらに⁉」
「オカルト部だ! 研究所の心臓部を破壊されたらまずい!」
保安部員は足を止めた。
「破壊って……何が起きてるんですか……?」
椎名はそれには答えずに、さらに階下へ向かっていく。
無視された保安部員は、小さく肩をすくめて階段を登った。
椎名は地下まで一気に階段を駆け下り、オカルト部の前に立った。
入口の上には正式名称の『超科学部門』のネームプレートが掲げられている。しかしその横には、手書きの丸文字で『オカルト部』と記された、黄ばんだ紙がテープで止められていた。すでに誰が貼り付けたたのかも分からなくなっているジョークだが、剥がそうとする者もいない。
オカルト部は研究所の実質的な中心でありながら、一般のスタッフにとっては揶揄の対象でしかなかったのだ。そしてそれは、椎名自身が最も望んだ偽装でもある。
『超科学部門』は、それほど目立つことを避けたい部署だった。外部から遮断して完璧なスタンドアローンを確保した環境は、そのためにこそ作られたのだ。
椎名の狙いは、その部署に逃げ込むことにあった。そこにしか春日の怨念から逃げられる可能性はない。
大前の死はその確信を揺るぎないものにした。
そもそも椎名が大前に立てこもりの計画を告げたのは、全面的に協力させるためだった。無論、最初から共にオカルト部に入ろうとは考えてはいない。大前を利用して立てこもりの環境を整えさせ、自分だけが入る腹づもりだった。
それならば、備蓄の食料も空気も充分に使える。余分な人間を招き入れて薬師寺から逃れる時間を短縮する必要はない。
そもそも、限定されたスタッフ以外にはDNAロックを解除できないのだから。しかも、量子コンピュータの演算能力と各種高感度センサーに支えられたAI生体認証システムは、たとえ荷物の箱に隠れたところで突破できない。椎名が話した計画は、単に大前を踏み台にして自分が助かるためのフェイクにすぎなかった。
廊下に面した掌紋センサーに手を当てる。ドアはすぐに開いた。
ここまではオカルト部内の大型バッテリーから電力が供給されている。中に入るとすぐにドアが閉まる。同時に照明が点灯し、椎名はその眩しさに目を細めた。
この時点でセンサーは、人間が1人しか入っていないことを確認している。ここには一回1人ずつしか入室できない規定になっているのだ。高解像度カメラによる顔認証や網膜データ照合、赤外線照射と電磁パターン解析によって、中の人物の特定も即座に完了している。掌紋センサーの登録データとの齟齬があれば、自動的にドアがロックされて警報が鳴る。停電時は館内への警報はキャンセルされるにしても、ドアだけは確実に固定されるのだ。
ほぼ同時に奥のドア、エアロックの手前側が開く。その中に、DNAセンサーが設置されている。高感度のDNAチップと量子コンピュータの演算力を組み合わせることで完成した試作品だ。オカルト部で実用試験を続けながら問題点を洗い出し、さらに感度とスピードを高めるためのデータを採取しているのだ。現在は数100の指標を照合するのにおよそ2分を要する。製品化への目標は、それを20秒程度に短縮することだ。
中に入ると椎名は全裸になった。壁の一面は脱衣所のようなロッカーになっていて、各スタッフの着替えが用意されている。椎名は脱いだ衣類と靴をロッカーに入れた。裸のまま、両腕を広げて足を開く。
エアロックが閉じて天井から空気を抜き、同時に足元からオカルト部内部の空気が注入される。細菌や化学物質の侵入を極力少なくするためだ。エアロックは単なる呼び名ではなく、宇宙ステーションにも設置できる精度を持った機能がある。
椎名はDNAロック横のケースから『検体採取スティック』を抜き出す。両端がない綿棒のようなものだ。その一端で口の中の粘膜を数回こすり、DNAロックの穴に落とし込む。
操作はこれで終了だ。DNA解析の間にロッカーに用意されているライトブルーのツナギと履物に着替える。
一連の動作はカメラで解析され、操作に乱れや欺瞞がないことが検証される。DNA解析の過程は、前面のインジケーターに表示される。解析を終えた指標が増えるごとに、液晶画面に黄色く表示された数値が増えていくのだ。それが50を超えた時点で声がする。
『お名前と生年月日をお知らせください』
椎名はやや息を荒くしたまま答える。
「椎名圭一郎。1968年11月10日生まれ」
『呼吸数、鼓動が早めのようです。声にストレスがあります。何かご心配がありますか?』
「家庭の事情だ。さっき妻が怪我をしたという連絡が入った。救急車で運ばれたそうだ」
『それでも入室を希望しますか?』
「ああ。トイレに行こうとして階段を踏み外したらしいが、容態は大したことがないそうだ。息子も付いているので、帰るまでもない。なので、作業に復帰する」
『深夜の作業が必要な理由をお知らせください』
「叩き起こされて、突然使えそうなアイデアが浮かんだ。すぐに検証して記録しておきたい。粗忽な妻でも、たまには役に立つことがあるようだな」
『了解しました。あと10秒、お待ちください。奥様には「お大事に」とお伝えください』
オカルト部のAIは、研究所内とは一切リンクしていない。高度なスタンドアローン環境を実現するためだ。だから当然、停電や殺人の連鎖も知りようがない。椎名の言葉は、疑いなく受け入れられた。
生体データを解析するAIとの会話は本人確認の最終項目だが、同時に待ち時間の苛立ちを和らげる効果もあった。これはオカルト部の実用試験の中で生み出されたアイデアだった。そうして出来上がったのが仮想人格の〝ミス・マープル〟だ。
『すべての認証を終えました。どうぞ、入室してください』
ここまで入室を厳格にチェックするのは、内部に監視カメラを設置していないからでもある。どれほど厳重にセキュリティーを固めても、その上を行くハッカーが現れる可能性はゼロにはできない。万一部内にカメラを置けば、それをハッキングされて研究内容を盗まれる危険は残る。ミス・マープルとの〝意思疎通〟にはマイクは不可欠だが、必ずしも研究室内の映像をトレースする必要はない。リスクをゼロに近づけるには、そもそも〝眼〟を持たなければいいのだ。だから部内には一切のカメラ類はなく、当然電子機器やストレージの持ち込みは厳格に禁止されている。
オカルト部に通じるドアが開く。明るい研究室に入ると同時に、背後でドアが閉まった。
と、椎名は異常に気づいた。今、オカルト部に入れる権限を持った人物は、椎名以外は全員4階での待機を命じられている。保安部員に見張られている。だから、中は無人のはずだった。
無人なら、研究室の照明は消える。椎名が入ると同時に点灯されるのが正常なのだ。
なのに、照明は最初から点灯していた。
すでに誰かが入っている……。
椎名は、言った。自分の声がひどく震えていることにも気付かずに……。
「誰か……いるのか……?」
足も、震えていた。
オカルト部の面積の半分近くを占める量子コンピュータの陰から、人影が現れた。
椎名は思わずつぶやいた。
「なぜ君が……?」
「わたしが春日翔太だからだ」
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