第34話:夢を見る


 ……深夜。

 星々も眠ってしまいそうな、深い夜の底。

 街外れにあるその病院もまた、静かな眠りの中に沈んでいた。

 起きて動いているのは、当直医などの僅かな人間だけ。

 少なくとも、病室を埋める患者の大半は夢に身を浸している。

 見る夢の善し悪しは誰にも分からない。

 或いは、夢見ている本人にも判断できないかもしれない。


「…………」


 人の見る夢。それの善し悪しなど、他人には理解できない。

 ましてやそれが、悪魔なら。

 病室の一つ。そこで眠っているのは一人の男だった。

 大量の管に繋がれたその姿は、酷く痛々しい。

 単なる死体の方がまだマシかもしれないほどに。

 除く手足は枯れ枝のように細く、肌からは血色は失せている。

 死体の方がマシ、というよりも。

 死体のようにしか見えない、と言った方が正解かもしれない。

 髪は燃え尽きた灰の如く真っ白に染まり。

 生気の失せた皮膚は、乾き切った荒野のようにひび割れている。

 呼吸は自力では最早不可能で、繋がれた機械が代行している状態だ。

 生きている――というよりは、死んでいないだけの惨状で。

 この男がまだ五十に届かないと聞いたら、どれだけの人間が信じるだろう。

 重い病に冒された、余命幾ばくもない老人。

 そうとしか言いようのない有り様で、男は静かに眠っている。

 恐らくは、もう二度と目覚める事のない眠りに。


「…………」


 そんな死を待つだけの男の傍らに、一人佇む影があった。

 電灯は点いておらず、明かりは窓から差す月の光だけ。

 その淡い輝きに照らされた黒い少女の姿。

 病院の面会時間はとっくに過ぎている。

 こんな時間に見舞いの客がいる道理もない。

 けれど、彼女はそこにいた。

 人間ではなく、悪魔である少女。

 扉も壁も人の目も、「理」の外にある彼女の障害ではなかった。

 男が横たわっているベッド。

 少女はその傍らに立って、男の顔を見つめていた。

 ……五年、たったの五年。

 自らを苛烈な炎に変えて燃やし尽くした男の末路がそこにあった。


「……穏やかな顔をして」


 呟く声を聞く者は誰もいない。

 徒人に彼女の声は聞こえず、かつて契約者だった男な覚めない眠りの中。

 孤独な月に語りかけるように少女は続ける。


「貴方が残してくれたモノのおかげで、カナデは上手くやってるよ。

 勿論、彼自身の頑張りがあっての事だけど」


 聞こえてないのは承知の上で、少女――ミサキは近況を語った。

 最近また、《魔宴》で大勢の契約者たちを一網打尽にした事。

 若い聖堂騎士の娘がカナデの家を拠点として使い始めた事。

 大変腹立たしいが、おかげで少しカナデの傍を離れる時間が作れた事。

 一通りの事を、ゆっくりと語り聞かせて。


「……貴方は覚えているかな、誠司。五年前のあの日のことを」


 答えはない。けれど、それは聞くまでもない事だと。

 ミサキは誰よりも良く知っていた。

 五年前。大勢の契約者たちが引き起こした地獄の渦中。

 そこで捧げられた、二つの祈り。

 未だ蠢く影でしかなかった悪魔が、その祈りを喰らった時。

 その瞬間に、ミサキは生まれた。

 様々な偶然が重なった末に起こった奇跡イレギュラー

 けれど、それは決してミサキ自身にとって喜ばしい事ではなかった。


「貴方はあの時に願った。

 何を犠牲にしてでも、この悪魔どもを殺す力が欲しいと」


 憎むべき相手を焼き殺さんとする、炎の如き祈り。

 それと同じ時に。


「死に瀕した『彼女』は願った。

 自分の全てを捧げて良いから、大切な人を守って欲しいと」


 自己の犠牲を厭わない尊き祈り。

 それは一点の曇りもない愛の証明だった。

 炎と愛。それがどれほど激しく、そして尊いモノだとしても。

 祈りだけではなんの力もない。

 現実に生命をすり潰す災禍の前では、何の意味もないはずだった。

 ――幸か、不幸か。

 まだ生まれたばかりの、本来なら感情の残滓を食べるのが関の山な。

 最下級の悪魔が、あるスマートフォンの中に蠢いていた。

 契約も何もしていないアメーバ並みの下等さ。

 その最下級悪魔が二つの祈りを喰らった。

 或いは、逆に悪魔が祈りの内に取り込まれたか。

 どちらにせよ、それはテウルギアと呼ばれる召喚式アプリの仕様外。

 本来なら紛れ込むはずもないバグ


「……あの時から、もう五年。長いようで短かったね」


 追憶に想いを馳せながら、少女は微笑む。

 偶然と運命の末に得た悪魔の力。

 戦う覚悟を決めたとしても、清澄誠司は凡人に過ぎなかった。

 凡人が修羅道に落ち、闇に潜んだ悪鬼羅刹どもを葬り去るために。

 どれだけの地獄を越えて来たのか。

 ミサキは、共に歩んだ彼女は全て覚えていた。

 ……不可能を成し遂げた代償。

 それがこの末路だとしても。

 彼は後悔はしなかったし、ミサキも同じ気持ちだった。


『俺が駄目になった後は、予め取り決めた通りに』


 自身の限界を悟った時。

 誠司は先ずミサキにその言葉を伝えた。

 その時点で、もう幽鬼にも等しい契約者の様を見て。

 ミサキの心は彼女が思うほどには揺れなかった。

 悲しくないわけではない。

 五年という月日を歩んだ以上の思いは、間違いなくミサキの中にはあった。

 ――けど、誠司の方はどうだったかな。

 追憶の中でも少女は苦い笑みを浮かべていた。

 男は必要がなければ悪魔と言葉を交わす事はなかった。

 テウルギアの音声を切り、その姿を診ようともしない。

 断絶した、悪魔との戦いでのみ繋がった関係。

 そうする理由をミサキは知っていた。

 知っていたから、それについて何も言う事はなかった。


『本当に良いんだね?』

『今更お前がそれを聞くのか?』


 笑う表情は酷く弱々しく。

 そういえば、彼が笑ったのも五年ぶりどはないかと。

 憤怒に固まってしまったはずの男の顔を、ミサキはじっと見ていた。

 誠司は少女の方は向かずに、何処か遠い場所を眺めている。

 その目に写るのは、もう過ぎ去ってしまった幸福か。


『選ぶのは、カナデ自身であるべきだ。

 それについては変わらない。ただそれ以外に関しては、全てお前に任せる』

『分かった。アカウント譲渡に関して説明は必要?』

『そのぐらいは問題ない』


 やや面倒な操作や手続きも、滞りなく。

 互いに何も言わないまま。

 別離の時が近い事だけは、どちらも理解していた。


『……すまなかった』

『なんだい? 急に』

『全て俺の責任だ。お前が罪に思うことは何もない』

『……誠司』

『カナデを頼む。あの子がもし、戦う道を選んだとしても。

 俺のような、先のない修羅道には落としてくれるな』


 それだけが、何もかもを燃やし尽くした男な抱いた最後の祈り。

 悪魔である少女は、それに対して暫し沈黙して。


『……勿論だ。カナデは、私にとっても大切な子だ。

 絶対に、貴方のようにはさせない』

『そうか』

『大体、誠司以外にあんな無茶が物理的にできるものかよ。

 ここまで付き合った私が言うんだから間違いないよ。

 反省してるのなら、これからはもう少し自分を労って……』


 アレコレと言ったところで、気が付く。

 誠司の耳にはもう、何も届いていない事に。

 それは本当に、眠りについたような穏やかな顔だった。


「……あのまま、死ぬかと思ったけどね。

 予め私に命令していたから、別に死にたいわけではなかったのかな?」


 追憶は終わり、病室の中。

 自分が倒れた場合は、然るべき場所に連絡を。

 そう命令を受けていたミサキは、その通りに実行した。

 誠司は死なずに済んだが、その眠りは決して覚めることはない。

 ミサキは黙ってベッドに近付く。少し手を伸ばせば届く距離。

 少女は黒い手袋を身に着けてはいなかった。

 《異戒律》である牙を剥き出しにした右手を。

 ゆっくりと、ミサキは眠る男の首へと伸ばした。

 ――テウルギアの悪魔は、契約の不履行に対して魂の対価を求める権利がある。

 アカウントの譲渡により契約自体は継続している。

 しかし誠司自身が契約半ばで倒れてしまった事も事実。

 故にミサキが望むなら、その牙は眠る男の魂を奪うことができる。


「……介錯してやろうか、と言ったら。貴方はどんな顔をするかな」


 放って置いても遠からず死ぬだろう男。

 あと数ミリで、その首に指が掛かる。


「大人しく受け入れそうだな。それは正直、あんまり気分が良くない」


 少女は寂しげに笑いながら、伸ばした手を引いた。

 慣れない事をするなよ、馬鹿が――なんて。

 そんな聞こえないはずの声が聞こえた気がして。


「私はもう行くよ。多分、二度は来ない。

 ……いや、カナデが来るなら分からないけどね」


 彼なりに整理がついたら、見舞いに来る可能性はある。

 苦笑混じりにそう言って、ミサキは踵を返す。

 もう振り向かない事を、言葉にはせずその背中で語って。


「…………」


 閉ざされた扉。

 理の外にある悪魔ならば、触れることなく潜り抜けられる。

 その直前に、少女は一度だけ足を止めた。


「……おやすみ。良い夢を、お父さん」


 答えはない。

 眠り続ける男は眠ったまま。

 後には誰の姿もない。

 床に残された微かな水の跡も、朝には消えてしまうだろう。

 誰にも気付かれる事のないままに……。

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契約召喚テウルギア ー少年と少女の悪魔戦争― 駄天使 @Aiwaz15

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