第33話:悪魔と踊った後の夜


 ……最初の夜から、今日まで。

 幾つの夜を越えただろう。

 暗い空を見上げながら、俺は細く息を漏らした。

 吐息は微かに白く。

 冬の訪れを告げているようだった。


「――ため息は幸せが逃げてしまうよ?」


 囁く声。笑みを含んだ息が頬に触れる。

 くすぐったくて、少しだけ気恥ずかしい。


「良くないのは分かってるけど、ついね」

「一仕事終えたばかりだから、気持ちは分かるよ」


 そう言って、黒い少女――ミサキは俺の傍らに佇んで。

 それから細い指先で、辺りに広がる光景を示す。

 死屍累々……いや、死人は出ていないけど。

 俺の垂らした釣り針に引っ掛かった、近隣で潜伏中の悪魔契約者テウルギストたち。

 破壊され尽くした裏路地の戦場跡。

 十人以上の人間が、そこに散らばるみたいに倒れ伏している。

 悪魔の姿は、何処にも見当たらない。


「予想通り、歯応えのある奴は二、三匹いたけど。

 それ以外は雑魚ばかりだったね」


 余裕の態度を見せるミサキ。

 とはいえ、激しい乱戦で彼女も大分ボロボロだった。

 その姿を見て、本当によく戦ってくれたと感謝の念はある。

 けれど、特に心配はしていなかった。

 ミサキは強い。

 このぐらいではビクともしないと、そう理解しているから。


「――どこを見てるのかな、カナデ?」

「う、ウン??」


 いつの間にやら、ミサキの顔が近い。

 ……悪魔は、契約者がそう命じない限りは物理的に干渉する手段が殆どない。

 だから、いちいち命令をするのも手間だと。

 俺はミサキに対して、「俺に触る分には許可はいらない」と。

 そう命令を出していた。

 だから彼女のあり得ざる指先は、俺の頬をそっとなぞる。

 皮膚に感じる熱。

 心臓の鼓動が早まった気がした。


「別に、カナデなら幾らでも構わないけど。

 それでもやっぱり、女の子の身体をあまりジロジロ見るのはね?

 正直感心はしないかなぁ」

「い、いや、別にそんなつもりは……!」

「今の右目は、悪魔である私のことも良く見えるみたいだしね」


 それこそ、悪魔みたいな意地の悪い笑みを浮かべながら。

 ミサキの指先は、頬から俺の右目近くに触れた。

 キバガミとの戦いの後。

 俺は手に入れたキバガミ個人の資産を使って、マモンのショップで治療を受けた。

 かなり高額だったけど、無事に失った眼を再生する事は出来た。

 ただ、その時に。


『宝飾品が結構ありますし、サービスしておきましたので』


 と、ショップの主であるマモンは満面の笑みで語っていた。

 そのサービスというのが、右目ならテウルギア無しで悪魔を視認できる機能だ。

 ……実際のところ、施術したばかりの時は本当に困った。

 何せ右と左で見える世界が違うのだ。

 片眼だけ度の入った眼鏡をかけてるようで、常に気分が良くなかった。

 今はその状態に慣れたので、いきなり吐いたりはしないけど。


「――私が見えてるかな?」


 そうなってから、ミサキはそれまで以上にぐいぐい来るようになった。

 戦闘で制服があちこち傷んだ状態でも構わずにだ。

 嫌ではない。

 当然嫌ではないけど、その、かなり困る。

 抵抗も出来ず、微妙に顔だけ逸していると……。


「さっきから何やってるの、貴方たち」


 その声は救い手か、或いは地獄の使者か。

 倒れた連中を蹴飛ばさぬよう、軽く跨ぎながら近付いてくる少女が一人。

 クラスメイトで、友人で、仲間というか協力者というか。

 今夜も共に戦ってくれたソフィアが、呆れ顔で俺たちを見ていた。

 制止の意図を含んだ声に、ミサキは小さく舌打ちする。


「別にそっちには関係ないだろう? カナデは私の契約者なんだから」

「関係あるって言えば大いにあるでしょう。

 それ以前に、仮にも聖職の身で悪魔の誘惑現場とか身過ごせますか」

「裏稼業のヤクザ商売が随分お綺麗なことをおっしゃいますねぇ」

「二人とも、どうか落ち着いてください」


 いつもの事と言えばいつもの事だけど。

 この二人はちょっとしたきっかけですぐ導火線が火を吹くから困る。

 バチバチ鳴り出しそうな空気に割り込むが、どれだけ効果があるだろうか。

 と、背後にまた別の気配が。


「ハハハ、まったく愛されてるなぁ少年」

「お、オロバス?」


 ソフィアの契約悪魔、オロバスは何故か後ろから俺の事を羽交い締めにして来た。

 戯れ程度の力加減だから、苦しくはない。

 苦しくはないけど、いくらなんでもこの距離はちょっと。

 あとまた空気がひび割れた気がする……!


「コラ、オロバス。何を勝手に実体化してるの」

「一先ず片付いて、付近の偵察も完了したからね。お仕事終わりで問題ないさ」

「それより、カナデから離れて。いい加減に私もキレそうなんだけど」

「ホントに落ち着いて……!」


 この状況になると、大抵オロバスも横からちょっかいをかけてくる。

 俺に何かしら悪戯して、ミサキとソフィアを煽る。

 恐らく、オロバス自身はちょっとしたお遊びなんだろうけど。

 毎度爆心地にされる身にもなって欲しい。

 今もちょっとした緊張状態が生じつつある。


「……不毛ね」


 疲れた顔でため息を一つ。

 そう言ったのはソフィアだった。


「雑魚ばかりだったとはいえね。

 十人以上の悪魔使いと殴り合いなんてどうかしてるわ。

 大分消耗してるし、さっさと戻って休みましょう?」

「あぁ、俺もそれが良いと思う」


 どうやら怒りが呆れに変わった様子。

 ソフィアの発言に同意しながら、俺は心底ホッとした。

 対するミサキはというと。


「おや、キバガミの時はこのぐらい平気だったろ?

 カナデの家で食っちゃ寝し過ぎて身体がだらしなくなったんじゃ……」

「おう、今のは宣戦布告と受け取ったわよクソ悪魔」

「こら、ミサキ」


 流石に今の暴言はよろしくない。

 確かに、あの一件以来ソフィアさんは俺の家を拠点代わりにしている。

 学校に潜入する上で住居の確保が出来ず、ずっとホテルとかを利用してたらしい。

 理由について聞いても言葉を濁されるが、何となく察しはつく。

 普段使いのホテルも、決して上等な場所ではなさそうだし。

 俺としてはソフィアには大きな貸しがある。

 部屋はあるから、使って貰うのは全然構わなかった。


「だって、カナデ……」

「だってじゃないよ。ソフィアのおかげで助かってるのは事実なんだ。

 俺はその恩を返せれば良いと思って部屋を貸してるんだから。

 それについて悪く言うのはダメだ」

「……はい」


 見るからにしゅんとされると地味に胸が痛む。

 とはいえ、流石に今のは一線越えかけていたから注意しないと。

 ソフィアは呆れ半分、感心半分ぐらいで俺を見て。


「まぁ随分とご主人様っぷりが板についてきたわね?」

「ソフィアも、あまりからかわない」

「冗談よ、悪かったわ。あとミサキも、ついカッとなったけど気にしてないわ」

「……私も、調子に乗って言い過ぎた」


 一先ず、謝罪も反省も互いに済ませられたかな。

 ほっと胸を撫で下ろしたところで、オロバスと軽く目があった。

 その、嫌な感じに笑うのは止めて頂きたい。

 一体何を言うつもりなのか。


「少年はアレだ、顔に似合わず意外とタラシ――」

「ソフィアさんお願いします」

「オロバス、黙りなさい」

「ンぐっ」


 ソフィアの命令で無事にオロバスの口は封じられた。

 まったく、本当に勘弁して欲しい。


「馬鹿話はこれぐらいで、いい加減に離れましょう。

 幾ら人払いをしてると言っても限度はあるから」

「了解。一応、離れたら通報ぐらいはしておこうか」

「それはお好きにどうぞ」


 倒れ伏した契約者たち。

 殆どはソフィアが物理的に殴り倒しただけなので、当然息はある。

 悪魔に関してはミサキが残さず喰い殺した。

 契約相手が死ねば、テウルギアの契約で命を落とす事もない。

 後は警察にでも絞られて、懲りてくれる事を祈るばかりだ。


「……カナデ?」

「うん?」


 軽く腕を引かれる感覚。

 そちらを見れば、すぐ傍にミサキが立っていた。

 さっきまでと比べると、何だか意気消沈しているような。


「ミサキ?」

「……その、怒ってない?」


 ……ミサキは強く、そして美しい悪魔だ。

 人間から、世の理からもズレている化外の美。

 それに触れる危険を知りながらも、手を伸ばさずにはいられない。

 そんな彼女が見せる、年相応の少女めいた顔。

 或いはそれすら、人を惑わす魔性の一面なのかもしれない。


「……大丈夫、もう怒ってないから」

「本当に?」

「本当だよ」


 笑って応えると、彼女も月のように微笑んだ。

 夜に君臨する無慈悲な女王。

 見せた笑顔は、果たして本当に素顔なのか。

 分からない。

 分からないけど――それでも、月の表情は美しい。

 そこにはいないはずの彼女。

 空に浮かぶ月に手を伸ばしても、決して届かない。

 だけど俺の手は、ちゃんとミサキの頬に触れた。

 その熱を確かめて、自然と安堵の息が零れていた。


「くすぐったいよ」

「ごめん、嫌だった?」

「まさか。君と触れ合う事は、私にとって喜びだよ」


 微笑む彼女と共に、俺は夜の下を歩く。

 短い夜の宴は終わった。

 朝に辿り着くまでの、僅かな時間。

 あと何回、同じように越えて行けるだろうか。

 明日より先の事は、この夜空よりも暗く見通すことはできない。

 ただ一つ、言えることは。


「……私の顔に、何かついてる?」

「いいや、そんな事はないよ」


 流石にじっと見過ぎてしまったか。

 普段の大胆さは鳴りを潜めて、ミサキはほんのり恥じらいを見せる。

 そんな彼女に笑いかけて、それから俺は空を見上げた。

 夜の天蓋に、月は白々と輝いている。


「――ただ。今夜も、月が綺麗だな、ってね」

「……あぁ。確かに、とても綺麗な月だ」


 二人で月を眺めて、先を行くソフィアたちに続く。

 本当に、今夜の月は綺麗だった。

 だからきっと、次の夜の月も。

 悪魔と踊る夜闇の宴では、月は必ず美しい。

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