第32話:その二人の結末


 ……その男にとって、生きる目的は「戦う事」だけだった。

 自分の思うままに強さを振るい、気に入らない相手や敵を打ち倒す。

 より大きな勢力を得て、更に次の戦いに備える。

 それが全てで、男の人生はそれだけあれば満たされる。

 何も贅沢は言っていないと男は思った。

 生きる事を「生存競争」と呼ぶのなら、戦いこそが生命の本質だと。

 ――男自身が、そこまで哲学的に考えていたかは分からない。

 どうあれ、飽くなき戦いを求める気性と、他人より遥かに優れていた腕力。

 この二つは、容易に男を「真っ当に生きる道」から弾き飛ばした。

 欲望と暴力が渦巻く「裏」の世界。

 そんな社会の闇に落ちる事さえ、男には本望だった。

 社会が説く倫理や道徳は、男にとって雑音ノイズでしかない。

 自分以外の他人なんて、打ち倒す敵か搾取するための餌だ。

 男はそう認識していたし、微塵も疑っていなかった。

 ……或いは、時代が違えば男は「乱戦の英雄」として名を残したかもしれない。

 しかし悲しいかな、安定と秩序を尊ぶ現代でその性ははぐれ者に過ぎた。

 表の世界は息苦しく、男が裏の世界に身を投じたのは必然だった。

 けれど、裏と表は結局切り離せない関係だ。

 如何に「裏」だろうと、社会としての根本的な部分は変わらない。

 暴力が物を言う世界だろうと――いや、だからこそ。

 其処には確実に「秩序ルール」が存在した。

 法に縛られた社会の裏側だからこそ、本当に無法なんてありはしない。

 物事の多くは政治と金で解決される。

 必要とされる暴力は基本脅しのためで、振るうのは本当に最後の最後。

 創作で描かれる「暴力渦巻く裏の世界」に憧れもあった。

 子供時代に創作で描かれた物があると、男は信じていたのだ。

 実際に見せつけられるのは、表よりも尚面倒な無数の仕組みばかり。

 好きに戦い、勝利し、望むものを奪い取る。

 そんな男が夢見る楽園ヴァルハラは、現実には存在しなかった。

 男の落胆と失望は、どれほど深かっただろう。

 どうしようもない現実の壁にブチ当たった、まさにその時に。

 男は、一匹の悪魔と出会った。


「畜生が……!!」


 男――キバガミは血を吐くように叫ぶ。

 戦いが過ぎた後の廃ビルのフロアには、寒々しい空気だけが淀んでいる。

 手持ちの悪魔は全て死んだ。

 資産も奪われ、新たに悪魔と契約する権利も失った。

 苛立たしげな動作で、キバガミは懐から自分のスマートフォンを取り出した。

 取り出して、一瞬動きを止める。

 最早意味のなくなったそれを、力任せに床に叩きつけた。

 もうキバガミという男には何もない。

 その理解が、毒のように脳髄を侵しているようだった。


「……いいや、まだだ」


 呟く。それは夜の底から響くみたいに暗い。

 逆転の目など何処にもない。

 この世の全てをひっくり返しても、ここから勝利する道筋は何処にもなかった。


「まだだ、まだ負けちゃいねぇ……!

 オレは勝つ、オレが勝たなきゃこの世界には何の価値もねぇんだ……!」


 戦いだけが喜び。勝利して奪うことこそが人生。

 敗北の淵に沈み込みながら、それでもキバガミは笑っていた。


「身ぐるみ全部剥がされた? 悪魔との契約が封じられた?

 だったら何だ!! 最初は何もなかった、オレにあったのはこの拳だけだっ!

 そっからここまで這い上がったんだ、また底に落ちただけじゃねぇか!!」


 キバガミの叫びは憤怒と歓喜に満ちていた。

 ただ振り出しに戻っただけ。

 まだ生きているなら、幾らでも這い上がれるのだと。

 自らを鼓舞するために、己の拳を掲げて見せて。


「…………あ?」


 ようやく、気付いた。

 拳が、腕が。

 どろりと融けて崩れて、汚泥となって床に流れ落ちている事に。


「な――なん、だ? なんだよコレはぁッ!?」


 気付いて、やっとキバガミは悲鳴じみた声を上げる。

 変化が起こったのは片腕だけじゃない。

 もう片方の腕も、両方の脚も。

 欠片ほど苦痛もなく、身体が徐々に汚泥へと変わっていく。

 それがどういう現象であるか、当然キバガミは知っているはずだった。


「まさか……いや、だが奴は……!!」

「――もう死んでるはずだ、って?」


 囁く声――ワタシの声に、キバガミは身を震わせた。

 あり得ないと、そう呟いて。


「なんで、テメェが生きてるんだよ! ベール!」

「酷いなぁ、相方に言う言葉がソレ?」


 これまで見た事がないぐらいに狼狽えるキバガミ。

 その様子があまりにもおかしくて、ケラケラと笑ってしまう。

 笑って、それから大きく咳き込んだ。

 悪魔だから血は出ない。

 血は出ないけど、流石に首から胸の辺りまでガッツリ抉り取られてるとね。

 どう考えても致命傷。

 普通、悪魔は物理的に死ぬ事はない。

 ないんだけど、今のワタシは悪魔としての「本質」を食い千切られている。

 人間で言えば心臓が半分以上潰れてるのに等しい。


「生きてはいないんだよなぁ、これから死ぬトコって感じ?

 ホラホラ、ワタシも指先から崩れて来てるよ?」


 お揃いと見せても、キバガミの顔は凍りついたまま。

 さっきの死は、身体を灰に「変換」して誤摩化しただけだった。

 けど今は違う。ワタシも身体の末端から少しずつ消えつつあった。

 ワタシは間もなく死ぬだろう。


「ッ……いや、ンなことはどうだって良いんだよ。オイ、ベール!

 こりゃあ一体どういう事だ!?」

「どういう事も何も、見たまんまだよ。あの少年たちは気付いてたよ?

 ワタシがまだ完全には死んでなくて、だから《領界》も微かに残ってた事にねぇ」


 今度こそ、キバガミは完全に絶句してしまった。

 けれどすぐに我に返った様子で。


「お、っかしいだろ……!

 お前の《領界》の力は分かってる!! オレは嘘なんざ……」

「次は絶対にオレが勝つ――だっけ? ねぇ、本当にそう思ってた?」

「……オイ、まさかそれが嘘だと?」

「そうだよ、だって勝ち筋なんて何処にもないだろ?

 少なくともその時点では負けを認めてた。

 なのに『』なんて言っちゃって。

 自覚もないまま自分に嘘を吐いちゃったねぇ」

「ッ……!!」


 キバガミは状況を完全に理解したようだった。

 顔を引き攣らせ、崩れかけの手足を動かす。

 床に這いつくばって、ワタシからどうにか離れようと。

 無駄だって事、キバガミ自身が一番分かってるだろうにね。


「いやぁ、思い出すねェ。もう五年は前になるんだっけ?

 ワタシとキバガミが初めて会ったのは」

「っ……糞……! 畜生め……!」

「どういう経緯だったかも忘れちゃったけどさ。

 契約者同士ゴチャまぜの殺し合い!

 巻き添えも含めてまぁ死んだこと死んだこと」

「まだ……っ、まだだ……まだ……!」

「あの頃のキバガミは、ワタシの前の契約者の子分だったよね。

 単細胞の脳筋クズ野郎!! だから正直、当時はあんま気にしてなかったし。

 ただ腐ったドブみたいな魂の臭いだけは好みだったんだぁ、昔からね?」

「死ぬかよ、このオレが……こんなところで……!」


 麗しき思い出の数々。

 それが風穴の空いた胸の奥から湧き出してくる。

 もしかしたら、これが人間で言うところの走馬灯なのかな?


「前の契約者も、まぁ悪くはなかったんだけどね?

 そこそこ賢くて、でも面白みは少なかった。

 あのごちゃごちゃの戦いでも、大した事もできずに逃げようとしちゃって」

「糞……クソッタレ……!!」

「そしたらまぁ、捨て駒のつもりで連れてた部下に刺されて死ぬとか!!

 つまらない契約者だったけど、あの最期は笑っちゃったなぁ!」


 思い出して、ついゲラゲラ笑ってしまった。

 その時に刺し殺したのがこの男――キバガミだった。

 いつどこから他の契約者が襲って来るか分からない状況で。

 一応は自分の飼い主であった契約者を殺したんだ。

 どう考えてもヤバいと分かった上で。

 流石に驚くワタシの前で、キバガミは死んだ男の手からスマホをもぎ取った。

 そうしてから、彼は笑いながら言ったんだ。


『悪魔か何だか知らねェが。この間抜けをぶっ殺して、勝ったのはこのオレだ。

 オレと契約しろ。今はそれで従え。

 だがいつか、オレ自身の力でお前らを跪かせてやる』


 ……ホント、痺れるような口説き文句だった。

 魂の腐った臭いを漂わせながら、その両目だけは美しく燃えていた。

 野望と欲望、渇望と狂気でギラギラと輝いていたんだ。

 こんな目をした人間がいるなんて、その瞬間まで想像もしなかった。

 だからワタシも、つい嬉しくなって。


『――良いとも。その契約に基づいて、ワタシは君に従おう。

 けど、もし君がその誓いを違えた時は。

 血肉も魂も全て泥に変えて、その燃える瞳を頂こうか』


 今でも鮮明に思い出せる運命の瞬間。

 ……そうか、あれからもう五年にもなるか。

 あの一瞬からここまで、永遠に続くように思えたけど。


「結局、永遠なんてないんだ。

 そう分かっていても、悲しくてやりきれないなるもんだね?」

「……だから、これで終わりだってか?」

「あぁ。君だって分かってるだろ? 誰も永遠には生きはしないんだよ」


 ずっと足掻き続けていたキバガミ。

 でももう、足掻くための手足が無くなっていた。

 崩壊はやがて全身に回る。

 ワタシの方も、そう遠くない内に。


「ねぇ、キバガミ」

「なんだよ、クソ悪魔」

「ワタシは楽しかったけど、君はどうだい?」


 楽しかった。

 あぁ、間違いなく楽しかった。

 悪魔らしく思うままに暴れて、そして報いの如く野垂れ死ぬ。

 その結末まで含めて、ワタシは愉快で堪らない。

 ではキバガミはどうだろう。

 そう思って、死ぬ前に聞いてみたのだけど。


「……あぁ、


 キバガミの答えは、過去形ではなかった。

 昔っから変わらず魂は腐り果てている。

 そこらの悪魔なら、悪臭が酷すぎて好んで契約すらしないほど。

 ワタシは好みだけど――それ以上に。

 その両眼だけは、まだ。


「今ここがドン底だ、これ以上は落ちる心配もねぇ。

 だったら後は這い上がるだけだろ? なぁオイ、お前はどうだよベール!

 オレは、オレはまだまだ……!」


 末期の言葉は、最後までは続かなかった。

 キバガミは汚泥に変わった。

 ひと欠片の価値もない、腐ったヘドロの山になった。

 悪臭を漂わせるソレにワタシは手を突っ込んだ。

 何か考えがあったワケじゃない。

 指先はすぐに硬いモノを探り当てる。

 泥の内から見つけたのは。


「……アハッ」


 赤い、真っ赤に燃える二つの紅玉ルビー

 それはキバガミの眼球だったものだ。

 ワタシの《領界》は、偽った者の血肉を魂の『価値』に見合う物質に変換する。

 キバガミの魂の大半は腐っていて、相応しい汚泥だけが残った。

 けれど、最後の瞬間までギラギラと輝いていた、その瞳だけは――。


「……いただきます」


 食べるワケじゃない。

 空洞になっているワタシの両眼に、キバガミの瞳を嵌め込む。

 そうして見える景色、世界。

 全てが赤く、赤く赤く燃え上がっていた。

 それはあまりにも美しくて。


「綺麗……アハハ、綺麗、素敵!

 キバガミ、君はこんな風に世界が見えてたのっ?」


 真っ赤な炎がずっと踊り狂ってるような。

 黄昏時を独り占めにしているような。

 燃える。

 燃える。

 魂が、燃えて尽きる。


「嗚呼――君の死に様も、この両眼で見る世界も。

 全部、最高に愛してるぜ。相棒」


 最後に素敵な贈り物を残してくれた男に。

 悪魔なりの愛を口にして、ワタシは踊る事にした。

 灰すら残らないぐらいに燃え尽きるまで。

 たった一人でクルクルと。

 クルクルと。

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