私のおねえちゃんへ

ゴオルド

きつねみたいな妹より

 あれはどれぐらい昔のことだろうか。



 まだ学生だった私が独り暮らししているアパートに遊びに来た姉は、来るなりスーツを脱ぎ、私の貸したズボンをお尻のところまで引き上げて、呼吸を止めた。

「……ふんっ!」

 おっ、いけるか?

「……あ、だめ、無理。これやっぱ入らないわ。悪いんだけどほかのない?」

 姉はウエストのしまらないズボンを見下ろしてため息をついた。

「あとはスカートだね。部屋着だからゆったりしたのがいいよね」

 クロゼットからウエストのゴムが伸びてゆるゆるになってしまったスカートを取り出して、姉に向かって投げた。だがスカートは姉まで届かずぼたっと床に落ちた。砂浜に打ち上げられたクラゲみたいに白い布がだらんと床に広がっている。だらしない感じ。これを着たら何て言うかオシマイって感じ。

 しかし、姉はそのスカートを拾い上げて、ああ、こういうのがいいわと言った。

「そのズボン、去年は穿けてたのに。お姉ちゃん、だいぶ太ったね」

「そうなのよねえ。ストレス太りなのね。やけ食いしちゃって、あれよあれよという間に5キロ増だもん」

「5キロはでかいね」

「ねえ、本当そう。新生児にお米を抱かせたぐらいの重さだもん」

「米を抱かされる新生児かわいそう。普通に米5キロでいいじゃん」

 姉の重さの基準は新生児なのだが、これは母がそうだからだ。母も姉も、3キロ単位で物事をとらえる癖がある。


 ゆるいスカートを履き、ウエスト部分を両手で掴んでびょんびょん伸ばしながら、姉は「おなかすかない?」と言い出した。


「えー、まだお昼には早いよ」

 時計を見ると、針は11時を指している。


 私の言葉を無視して、姉はキッチンをあさり始めた。

「冷蔵庫、ビールと鶏胸肉しか入ってないじゃない。ま~、冷凍室はパンでぎっしり。前回来たときはカニカマと冷やし中華の麺がぎっしりだったわよね。あんたの食生活どうなってんの」

「いいじゃん、別に。学生なんてみんなそんなもんだよ」

 姉は戸棚を開けて中を覗き込む。

「無洗米、ラーメン、うどん、パスタ、カップ麺か。これはたこ焼き粉ミックス? 炭水化物しかないわ。青汁とか買いなさいよ」

「えー」

 姉はインスタントラーメンを二袋取り出したが、「あっ、そうだ!」と両手をぱちんと叩いて、ラーメンを元の場所にしまった。かわりにカップ麺を2個取り出して、ばりばり音を立てて開封して、まな板の上にひっくり返した。きつねうどんのカップ麺は、素っ裸にされた気まずさで、ぎゅっと縮こまっているように見えた。


 姉は鍋を使って手早くきつねうどんを2人前つくると、陶器の器を出してきて盛りつけた。なぜかカップ容器は使いたくないようだ。



「さあ、食べましょ~」


 二人、折り畳みテーブルの前に隣り合って座る。真っ正面に座るのはなんか嫌なので、私たち姉妹はいつも隣に座るのだ。私はあぐらをかいて、姉は横座りだ。


 昼にはまだ早いけど、まあいいか。

 黙ってきつねうどんをすすっていたら、姉がおあげを箸でつまみあげて、

「あんたは昔っからきつねみたいな子だったよ」と言った。

「どういう意味よ」

 苦笑しながらつっこむ。

「あんたが7歳くらいのときかなあ。家でひなまつりのお祝いをしたときのこと、覚えてない?」

 私は首を横に振った。


「そのとき、私があんたのいなり寿司をとって食べちゃったの。もちろんわざとじゃないよ、ついうっかりよ。そうしたらこの世の終わりかってぐらい大泣きする妹を見て、ああ、この子はきつねみたいな子だよって思ったの」

「は? どういう感想? 妹を泣かせて悪いなあとか可哀想とかじゃなくて、きつねみたいだなあって思ったの?」

「うん。おいなりさんへの執着がすごいなって思った」

「お姉ちゃんって本当変わってるよね」

「ねえ、本当そう」

 あっさり同意するんだね、お姉ちゃん。なんだかおかしくなって、一人で笑った。


 身の回りにあるありふれたものから、過去の思い出がよみがえる。それを話して笑い合う相手がいる。それはとても貴重だってことに気づいたのは、私がもっと年をとってからのことで。


「あんたはクッキーをとられても泣かないし、からあげをとられても泣かない子だったんだよ。でも、いなり寿司だけは許せなかったんだねえ」

「私どんだけお姉ちゃんに食べ物をとられてるんだろ」

「ねえ、本当そう」

 ずずっと音を立てて、お出汁を飲んだ。インスタント食品だけど、ちゃんと鰹節の味がして美味しい。

「ねえ、この近くにスーパーあるでしょ」

 姉の話題変更はいつだって唐突だ。

「アップルマートと、新鮮ハラダがあるよ」

「なんとか結構パラダイスっていうスーパーは、どっちなの」

「何それ知らない」

 そんなスーパーあったっけ。

「店内で、ケッコー、イエスッ、イエスッ、パーラダーイスっていう曲が流れてる」

「いや、知らないし、その踊りは何」

 姉は鶏みたいにケエエと一鳴きした後、両腕をウェーブさせながら、ゆらゆら揺れた。

「これ私が勝手に考えた振り付け。それで、そのスーパーの前に、おやきを売る屋台が出てるじゃない」

「だから知らないって」

「そうなのねえ」

 姉は踊りをやめ、お出汁を飲み始めた。姉は音なんか立てずに静かに飲む。カッチカッチと置き時計の秒針の音が静かな室内に響いた。

「いや、だから何なのよ、何の話」

「おやきを売ってるおじさん、バツ2らしいの」

「うん……」

「最初の奥さんとは、衛生意識っていうの、掃除の頻度とか、そういうのが合わなかったんですって」

「うん……」

「そんなことで離婚するとかある?」

「どうだろ。わからん」

 私は今どこの誰のなんの話を聞かされているんだ?

「それでね、おじさんの今の奥さん、女優らしいのよ」

「女優! すごいじゃん」

「そんな売れてないらしいんだけどね。それでオーディションを受けてるんだけど、なかなか受からないらしくて、奥さんのメンタルの調子が大変らしいのよ」

 ふーん、と相づちを打って、ずずっと出汁をすする。ああ、お出汁の中の遠いところに昆布がいて、こっちに手を振っているのに、鰹節が前に出てきて妨害している。

「お姉ちゃんさあ、なんでそんな話をおやきのおじさんとしてるの」

「ねえ、本当そう。気づいたら1時間も身の上話を聞いてたのよ」

 姉はそう言って笑いながら、宙を叩くみたいな仕草をした。ドラマなんかでおばさん役の人が「あらやだわあ」って言うときにお馴染みのジェスチャーだ。こういうジェスチャーって、姉は子供の頃はしていなかったはずだが。いつの間に身についたのだろう。年を取ると自動的に習得するのだろうか。

「それで、おやきは美味しかった? 買ってみたんでしょ?」

「買ったは買ったんだけどね、味は覚えてないわ」

「どうしてえ」

 おじさんの過去より、おやきの感想のほうを教えてほしかったな。

「ケッコー、イエスッ、イエスッ、パーラダーイス~」

 姉が口ずさみながら、またゆらゆらし始めた。

「あのさあ、そのスーパーだけどさ、なんとか結構パラダイスじゃなくて、イチバン新鮮ハラダです~じゃないの。きっと新鮮ハラダだよ。お店の牛乳パック回収ボックスの近くに、焼き鳥の移動販売が出てるのなら見たことあるし」

「へえ。そこってどういう曲なの」

「きょ、曲? えっ、確か、暮らしのイチバン~、ハラダです~」

「いや、全然違うわ。別のお店だわ」

 そうかなあ。



 お出汁を全部飲み干すと、姉は立ち上がった。

「腹ごなしに出かけようよ。ダイエットしないといけないし」

「まあ、いいけど」

 立ち上がった私を目の端で確認しながら、姉は先ほどのカップ麺のカップを両手に持った。どういうこと? と私が表情で尋ねると、

「椎の実を拾いに行くのよ。子供のころよく一緒に拾ったよね。懐かしいでしょ。さあレッツ・シイノミ!」

「はあ……そう……」

「どっちのカップがいい? 選ばせてあげる」

「別にどっちでもいいし、というかどっちでも同じだし」


 姉は笑って、私にきつねうどんのカップを差し出した。






 うちの近くの公園に椎の木が生えていることに、姉は数年前から気づいていたそうだ。いつか秋にうちに来たときに、椎の実を拾いに誘おうと思っていたらしい。


 椎の実拾いにカップ麺の容器はうってつけだった。まず清潔だし。未使用だから姉の唾液がついている心配をしなくていい。落として割る心配もないし、使った後は捨てられる。お椀型なのも、実を入れるのにちょうどよい。



 私たちは公園につくと二手に分れた。何も言わなくてもわかる。各々カンを働かせて椎の実を拾い、どっちが多く拾えたのか比べて喜んだり悔しがったりするのだ。


 私は椎の実拾いに本気になるつもりはなかったのに、いざ公園にきて椎の木を目の前にすると、早く拾いたい、たくさん拾いたいという衝動を抑えることはできなかった。姉より多く拾ってドヤ顔をしたい。


 早速、黒光りする一粒を発見し、容器に投げ入れた。ころんと軽い音がした。

 椎の実は炒ると香ばしくて結構美味しい、と子供のころは思っていた。家に帰るまで待ちきれず、近くの川でさっと洗って生のままかじったりもしていた。今はどうだろうか。椎の実を美味しいと感じるだろうか。子供のころとは味覚も変わっている。私はもっと美味しいものをたくさん知ってしまった。たとえばビールとか松前漬けとか。いなり寿司も今はまあまあ好きかなぐらいの感じだ。

 姉はどうだろう。もともと椎の実はそんなに好きではなかったはずだが。



 気づけば、私は夢中になって椎の実を拾っていた。



 どこかから「あのねー、お姉ちゃんねー」と聞こえてきた。


「んー?」

 ちょっと大きめの声で相づちを返す。


「多分だけど離婚すると思うー」


「そっかあ」


 姉夫婦がうまくいっていないのは知っていた。離婚したがっているのは義兄のほう。二人の間に決定的な何かがあったわけではなさそうだ。でも、日々の生活の中で生まれた小さな齟齬が積み重なって、決定的なものになってしまったのだろう。


「じゃあ、私と一緒に暮らそうよ」

 そう言うと、姉は「嫌よ~」と大声で叫んだ。公園中に響き渡ったのではないかというぐらいの大声だ。

「一緒には住まないよ。たまに遊びにくるぐらいがいいんじゃないの。あんたと24時間365日はしんどいわよ、ずっとしゃべり続けることになるじゃない」

 しんどいなら黙っていればいいのになあ。


「やだやだ、一緒には住まない」

 でも、そう言いながら姉はちょっと嬉しそうだった。


「えー、一緒に住もうよ。それで家賃と食費と光熱費をお姉ちゃんが出してよ。あと家事もやってよ」

「あっ、あんたね、馬鹿言ってんじゃないよ、姉に甘えるにしても、甘え方が度を超してるでしょ」

「冗談だって」

「いや、本気だった、私にはわかる、あんたはあわよくばを狙う子だよ」

 よくわかってらっしゃるわね、お姉さま。




 結局、私たちは一緒には住まなかった。姉の離婚が回避されたのだ。

 やがて姉に子供が生まれて、きつねのような妹はあまり構ってもらえなくなってしまった。ちょっと寂しいけれど、これで良かったのだろう。



 あれから30年経った。

 すっかり胃を悪くした私は、医師から「これはもう治りませんので、騙し騙しやっていくしかないですね」などと希望のないことを言われ、治る見込みはないのに通院しながら、安い賃貸のおんぼろマンションで、ひとりで暮らしている。昔は猫を飼ったり、結婚してみたこともあったが、結局最後はひとりとなった。どこにも波風のたたない、しんとして空気の動かない室内に、私のためだけに花を一輪生けるような生活をしている。

 病院帰りには決まってスーパーに寄り、鶏肉とブロッコリーを買う。あと保存のきく食品が特売のときは、それも買う。買ってきたカップ麺をキッチンの食料棚にしまうとき、ふと、姉の「嫌よ~」という声が聞こえてくる。

 すると、どうしようもなく泣けるときがある。



 人生にはステージがあって、年齢や環境に応じてステージを移っていくけれど、きっとあの椎の実拾いが、私たち姉妹にとって一緒にいられたステージ最後の思い出なのだ。

 あのころ、私は幸せだった。懐かしくて泣きそうになる。今が不幸だと思っているわけではない。私はひとりのほうが性に合っているし、人恋しいときに会える友人もいる。それでも泣けてくるときがある。だって懐かしいという感情は、なぜか涙と微笑みがおまけについてくるものなのだ。年を重ねた人だけが手に入れることができる、優しいおまけ。



 椎の実をフライパンで炒ったときの香り、鮮やかな銀杏の葉、ゆるゆるなスカートを穿いてポーズを決める姉、折り畳みテーブルの真ん中の傷、鍋でつくったカップ麺のおだしの匂い。姉のお箸は塗りが剥げていた。あの後、二人で新鮮ハラダに行き、一緒に耳を澄ませた店のテーマソング(歌詞のない曲だった)。


 幸せな思い出と、身の回りの何気ないものが結びついて一つとなり、宝物となって、すっかりくたびれた身体になってしまった私に、慰めをくれるのだ。



 お線香の香りには何の思い入れもなくて、だから、姉と線香を使って何かを一緒にしておけばよかったなと思う。例えば、線香で姉が喜びそうなこと。何だろう、全然思いつかない。だからこそ線香の思い出が何もないのかもしれないけど、そこを頑張って何かすればよかった。そうすれば、お線香を上げるたびに、故人を偲ぶだけでなく思い出に抱きしめられることができるのになと、今さら思う。

 あ、ちなみに姉は死んでないから。生きてるから。でも、もうお線香で何かをやるようなステージに姉はいない。家族にお線香をあげるのが現実味を増してきた今、憂鬱な未来を思い描くけれど、過去の思い出は増やすことはできなくて、だからこの場所で、違う思い出をつくっていかなきゃいけない。


 そういうわけで、この夏は、ご先祖様のお墓参りにでも行こうかなと思うのだ。お線香の香りを嗅いだら、思い出し笑いをしてしまうようなことをやるために。涙にほんのちょっとでも微笑みを足せるように。


<完>

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