3分で完成する美味についての幸福論

aoiaoi

3分で完成する美味についての幸福論

 重い手応えを感じながら、差し込んだ鍵をガチャリと回す。

 意を決してひんやりと冷たい玄関のノブを掴んだ。

 誰もいない他人の部屋へ入るのは、なんとも言えない罪悪感だ。

 しかし、自分は随分前からこいつの部屋の合鍵を持っている。いつ来ようがお咎めなしなはずである。


 この部屋の持ち主は、現在出張中だ。1週間の期間の隣国への出張。あいつは近所のスーパーにでもいくような顔で出かけていった。

 互いに、海外出張はしばしば入る。あいつも自分も、食事や風呂と同じ何ということもないルーティーンのひとつのようにその仕事をこなしてきた。


 それが、なぜだろう。

 今回のたった1週間のあいつの不在期間が、たまらなく寒い。

 どうしようもなく、あの煙草臭い温もりが欲しかった。

 予定では、あいつは明日——日曜の夜にこっちへ戻ってくる。

 12月半ばの土曜の夕方。あと1日が耐えきれずに、気付けば普段ほぼ使うことのない合鍵を握りしめて玄関を出ていた。

 持ち主のいない部屋へ行っても、何がどう変わるわけでもないのに。


 暗く冷えた部屋へ足を踏み入れる。窓から微かに入る夕暮れの光に、見慣れたはずの室内がとてつもなく寂しく浮かび上がる。

 賃貸マンションの6階にあるこの部屋は、夜景がなかなか美しい。けれど、今日の街の光はなんだか人を嘲笑うように冷酷だ。

 部屋の照明のスイッチを入れると、いきなり雑然とした室内の様子があっけらかんと照らし出され、思わず吹き出した。

「マジで整理整頓できないやつ」

 ソファに脱ぎ捨てたルームウェア、ローテーブルに散らかった雑誌。灰皿の中に数本もみ消された吸い殻。キッチンの上にべこっと凹んだビールの空き缶。

 そこここに残っているあいつの匂いを探して、すうっと息を吸い込んだ。


 あいつの部屋にいるだけで、あいつといる気がする。

 こういう錯覚を起こしている自分は、微妙に情緒不安定気味だろうか。

 いつもなら無意識に片付けを始めてしまう自分を、もう一人の自分が不意に制止した。

 こいつの気配が残った部屋を、自分の部屋同然に無表情に片付けて、一体何が面白い?


 着ていたコートを脱ぎ、空いていたハンガーにかけて壁際のフックに吊るす。

 ふと肌寒さを感じ、テーブルの上のエアコンのリモコンをオンにする。

 12月の夕暮れの冷気の鋭さに、黒のタートルネックの首部分をぐいと顎まで持ち上げながらソファにぼすっと座った。


 せっかくここにきたんなら、あいつのように過ごそうか。

 そんな奇妙なことを思いついた。


 あいつは、いつもなんだか楽しそうだ。幼馴染だから、あいつのことは誰よりも知っている。

 長身、爽やかイケメン、スポーツ万能。女子にモテないわけがない。自分とこういう関係になるまでは、可愛い女子をひっきりなしに取っ替え引っ替えしていた正真正銘のチャラ男だった。今はその浮気癖もピタリと治まっているが。

 何に対してもアバウトで、テキトーで、感情のままに生きていて。常に煙草が手放せず、酒を飲みながら肺の奥深くまで紫煙を吸い込んでは恍惚としている。


 それに引き比べ、自分自身のことを思ってみれば。

「恋」など——まともにしたことがなかった。あいつと向き合うまでは。

 あいつとだから何とかこうして過ごせているものの、他の人間との恋愛などただ恐ろしくストレスフルな苦難としか思えない。何気ないたった一言が相手を傷つけて、その相手の泣き顔で自分もズタズタに傷ついて。痛くて苦しくて、ひたすら血が流れて。次々に相手を替えて恋を楽しんできたあいつの神経ははっきり言って理解不能だ。

 タバコをあれだけ旨そうに吸い込むあいつの心理も全くの謎である。肺がベットリ黒くなるじゃないか!という不安感で、自分ならただの一本すら喫いきれない。

 酒の締めに脂っこいラーメンを汁まで余さず飲むあの癖も。今まで強めのアルコールを散々体内に流し込んでおいて、今度はがっつり塩分&ギラギラの脂質か!?と頭を抱えたくなる。


 あいつと俺は、どこもかしこも正反対だ。

 そして、そういうあいつのアバウトっぷりが正解だとは思えない。

 けれど、あいつは楽しそうだ。

 俺には選べないたくさんの事を、あいつは平気な顔で選び取り、屈託なく楽しんでいる。たくさんの喜びを味わってる。

 俺の選択は間違っていないはずなのに、あいつの方が幸せそうなのは、なぜだ?


 なんとなく、部屋の中を見回す。

 ふと、キッチンのダイニングテーブルの上に、色鮮やかな緑のカップ麺がひとつ置いてあるのが目に止まった。

 同時に、ぐうと腹が鳴る。

 外は寒いし、ひとりだし。あの容器を見てしまったら尚更、熱々の天ぷらそばを思い切り啜りたくなった。普段はカップ麺などはほとんど食べないのだが。

 テーブルへ歩み寄ってみると、商品の蓋の上面に何やらメモ書きした付箋がついている。


『緑のたぬきアレンジ版!

 材料:本品、ネギと生卵。

 ネギを適当に刻んでおく。天ぷらを麺の上に置き、室温に戻した生卵をその横に割り入れ、空いたスペースにスープ粉末を入れて熱湯を注ぐ。その際、生卵の上からも静かに湯をかける。3分経ったら蓋を剥がし、刻みネギと付属の七味を乗せる。超美味』


 アバウトで楽しげなあいつの字だ。腹の虫がますます騒ぐ。

 即座に冷蔵庫へ走る。幸い生卵もネギもある。これを試さずにいられようか? あいつには申し訳ないが食材を拝借することにしよう。

 生卵はぬるま湯に浸し、常温にまで温める。鍋に湯を沸かし、フィルムを剥がして指示通り麺の上に材料を並べて湯を注いだ。スマホのタイマーで3分をセットし、待ち時間にネギを刻む。

 タイマーが鳴り、心を踊らせつつ蓋を開ける。香りの良い湯気が顔の前にふわりと立ち上った。落とした卵の裾が熱で白くなり、食欲を刺激する。

 程よく蒸された小えび天ぷらの上に刻みネギと七味を乗せれば、もはや豪華な一品だ。

 テーブルに散らかった雑誌を大雑把に片付け、熱々の緑の器をどんと据えて床に胡座をかいた。食器棚の引き出しに何膳かストックされた割り箸を借り、ぱきりと二つに割る。

「いただきます」

 早速、箸で卵の黄身の表面を破る。中からとろりと流れ出した鮮やかな黄色を、蕎麦とネギ、天ぷらにざっくり絡ませ、一気に啜った。

「うまっ。

 マジでうまっ!!」

 思わず大声が出る。

 出汁のきいたつゆの香ばしさと、さっくり感の残った天ぷらのジワッとした旨味。ネギの新鮮な香り。そこに卵のまろやかさが加わって渾然一体となり、口の中がまさに幸せで一杯になる。

 夢中で箸を動かしているうちに、ふと喉の渇きを覚えた。

 冷蔵庫にビールもあったぞ、そう言えば。

 程よく冷えた缶ビールのプルタブはプシュッといい音を立てた。熱さと旨さでテンションの上がった身体にこの喉越しは最高だ。


「……3分で、この旨さが手に入るって」


 ふと、そんな言葉が口をついて出た。


 両親はなかなかにしつけが厳しく、できるだけ手間暇をかけた料理を食べなさい、と幼い頃から言われ続けてきた。そのせいだろうか。ファストフードやインスタント食品、カップ麺などは、「避けるべきもの」という意識がいつしか自分の中に出来上がっていた。

 親の言いたいことはよくわかるし、正論だ。

 けれど——

「手軽で美味しい」という幸せを味わうことは、そんなに悪いことだろうか?

 理屈抜きに楽しいこと、美味しいこと。手を抜いてラクをする事。難しく考えずにそれらを単純に楽しむことは、いけないことだろうか。


 先の先まで慎重に考え、不安要素は徹底的に排除し、安全安心を踏み外さない自分。

 確かに正しい選択なのかもしれない。

 けれど、それは果たして楽しいだろうか?

 踏み外すのが怖い。窮地に立つのが怖い。そんな恐怖心に追い立てられ、結局俺は大切なことを忘れてるんじゃないか——「楽しむ」ということを。

 時間は有限だ。であれば、人生ってもっと貪欲に楽しまなきゃ損なんじゃないか。

 気づけば目の前の器は空っぽになり、俺はビールを大きく呷って飲み干した。


「ご馳走様」

 何とも幸せなひとときだった。

 ゴロンとそのまま仰向けに床の上に転がった。「食べてすぐ寝ちゃ行儀が悪いわよ!」という母の声が耳に蘇り、ふっと笑った。

 少し酔いの回った脳に、あいつの屈託無い笑顔がまた浮かんだ。




「——あきら

 名を呼ばれて、ふと目を開けた。

 すぐ上に、あの笑顔がある。


「……あ、え?」

「1日スケジュールが繰り上がってさ。飛行機の便を早めて帰ってきた。部屋の鍵開いてるし、入ってきてみたらお前がテーブルの上とっ散らかして寝っこけてるし。びっくりした」

 なんてことだ、人の家で食って飲んで爆睡とは。俺はもそりと起き上がる。

「あー……悪い。お前んとこのいろいろ借りた。というか、なんかもう勝手に食って飲んだ」

「はは、お前にしちゃ珍しいな。緑のたぬきアレンジ版、旨かったろ?」

「ん。旨かった。あの旨さ、ハマりそうだ」


「——晶、まんまと俺の罠にかかったな」

 コートを脱いだあいつがニヤリと笑って俺を見る。

「は?」

「あの付箋、お前宛だからさ。

 こんなふうにお前が部屋にひょこっとくる事もあるかもしれないと思って、出張前にテーブルに出しとくようにしてたんだ、緑のたぬき。流石のお前もこれ見たら食いたくなるんじゃないかなーと。

 あの旨さに目覚めたら、もう引き返せないぞ。これからは緑のたぬきで一緒に夕飯ってのも、たまにはアリだろ?」

「ん、アリだな」

「おー、めっちゃ素直」

「——むしろ、もっといろいろ教えてほしくなった。お前の知ってる楽しいこととか、美味しいものとかをさ。

 ガキみたいな笑顔を、俺ももっとたくさんしてみたい。お前みたいに」


 あいつは一瞬意外そうな顔をしてから、嬉しそうに微笑んだ。

「……そっか。

 眠かったら、寝とけよ。明日どうせ休みだろ? たまには床にごろ寝もいいもんだ」

「ああ、そうしようかな」

 俺は、ソファからあいつのルームウェアを引きずり下ろすと、自分の腹の上にバサリと乗せて再びふわりと目を閉じた。


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