殺したはずの妻が家にいる――。
青水
殺したはずの妻が家にいる――。
いつからだろう、妻が憎くなったのは――?
いつの間にか胸の内に湧いた憎悪は次第に大きくなっていき、やがて私の肉体すべてを蝕んだ。私の肉体を染め切った憎悪は、最終的に抑え切れられなくなり、火山の噴火のように爆発した。
正気に戻ったときには、妻は物言わぬ死体となっていた。
「はあ……はあ……」
荒く呼吸を繰り返す。手に持った包丁がするりと地面に落ちた。
山の中。私以外に人はいない。すぐ近くには乗ってきた車。
どうして、山になんて来たのだったか……? ああ、そうだ。思い出した。山で星を見よう、と妻を誘ったのだった。つまり、これは突発的な犯行のようでいて、その実、計画的な犯行だったのだ。
私は狂気に包まれていたのか、それとも狂気に包まれていると思い込んだだけなのか――いずれにせよ、現実は変わらずそこにある。
死んだ妻を静かに見下ろす。
まだ生きているみたいに見えた。しかし、目を瞑って仰向けに倒れているのだから、死んでいるのだろう。妻に触れて、死を確認する勇気はない。こんなにも血が出ているのだから、死なないはずがない。
やってしまった、と遅れてパニック状態に陥る。
穴を掘って妻の死体を埋めてしまおうと思ったが、スコップなどの穴を掘れるアイテムを持ってきてない。私はなんと愚かなのだろう!
もういい。早くここから立ち去ろう。小細工をしようとバレるときはバレるし、バレないときはバレない。そういうものだ。逃げよう。逃げよう。早く、ここから逃げよう。怖い怖い、逃げなければ!
車に乗り込もうとしたところで、めまいがした。殺人を犯してしまったのだ。捕まったら、私の人生は終了だ。ドアに手をついて、地面に向かって嘔吐する。胃の中のものすべてを吐き出すと、気分が幾らかすっきりした。
すっきりした、はずなのだが……。
私の記憶は――意識は、そこで途切れた。
◇
はっと気づいたときには、私は家の中にいた。見回して確認するまでもない。自宅である。混乱しつつも同時にほっとした。帰宅するまでの記憶はない。だが、こうして無事に帰ってこれたのだから、きっと大したアクシデントはなかったのだろう。
私はソファーに仰向けになっていた。そのままの状態でポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかける。相手は不倫相手の美香である。
美香は会社の後輩で、彼女と深い仲になって、もう一年以上の月日が経っている。新入社員の彼女を先輩である私がマンツーマンで指導し、それがきっかけで仲良くなったのだ。当然、彼女は私が結婚していることを知っている。知っていて、私と関係を持ったのだ。
魔性の女だ、と私は思った。遊びのつもりだったはずが、あっという間に溺れてしまい、のぼせ上がってしまった。しかし、それは美香も同様のようで、彼女は私に妻と別れるように催促してきた。
そう、美香に催促されたから妻に離婚を切り出して――しかし、妻は離婚してくれなかった。腹が立った。憎悪がわいた。
今、こうして冷静に考えてみると、いかに私が身勝手でどうしようもない逆恨みをしていたかよくわかる。しかし、当時は冷静ではなかった。燃え上がるような熱情的な不倫をしていたのだ。
……当時?
いや、今もではないか。私は一体、何を言っているんだ……?
『おかけになった電話番号は――』
美香には繋がらなかった。
電話が繋がったとして、私は彼女に何を話そうとしたのだろうか? 妻を殺してきた、と罪の告白でもするつもりだったのか? 罪を告白して、それで……どうする?
わからない。
私は深くため息をついて、スマートフォンを机に投げた。スマートフォンはガラスの机を滑ってカーペットに落ちた。
「これから、どうするか……」
上体を起こすと、私はもう一度ため息をついた。
突発的なのか、計画的なのか――よくわからないが、妻を殺してしまった。どう考えても杜撰な犯行だし、今になって考えてみると、犯行が露呈しないわけがない。
警察はすぐに妻の死体を見つけ出し、夫である私が怪しいと睨んで捜査を開始する。逮捕まっしぐらだ。
とりあえず、温かいコーヒーでも飲もう。コーヒーを飲みながら、これからのことをよく考えよう。自首するか、逃亡するか、今まで通り日常生活を送るか――。
「由実、コーヒー作ってくれ」
そう言ってから、私は苦笑いする。
由実――妻は、お前が殺したんだろう? 包丁で突き刺して。深く深く突き刺して。残酷に殺して、山の中にその死体を放置したのだ。
返事など、返ってくるはずがない。
それなのに。それなのに――。
「はいはい。わかったわよ」
背後から、妻の返事が聞こえた。
◇
「……え?」
幻聴だ。罪の意識に耐えかねて、私の脳がありもしない妻の声を作り出しているのだ。そうだ。そうに決まっている。なぜなら、妻はもう死んだのだから――。私がこの手で、確かに殺した。
それは――確かか?
お前は妻を包丁で刺した。しかし、妻の死を確認してはいない。どうして、妻が死んだと断定したんだ?
いや、確かに確認はしてない。だがしかし、私は妻のことを深く刺したのだ。あれは致命傷だった。たとえあのとき死んでなくても、すぐに死んだのは間違いない。自ら家に帰れるわけがない。そんなこと、不可能だ!
「あなた、どうしたの? なんだか、とっても具合が悪そう。顔が真っ青じゃない」
私の顔を、妻が覗き込んでくる。
幻聴だけではない。幻覚も……?
私はおそるおそる妻の顔に手を近づける。それが幻覚ならば、私の手は妻をすり抜けるはずだ。幻覚には実体がないのだから。
だがしかし――。
「そん、な……」
私の手は妻の柔らかな頬に触れてしまった。温かい――生きている。
妻の体を子細に観察してみるが、刺し傷や血はまったくなかった。妻の白いセーターは、真っ白なままだった。
混乱する。何が、どうなっている……? 私は長い長い夢を見ていたというのか……? それは、しかしきわめてリアルな夢であった。それが、夢の中での出来事だったとはとても思えない。私の右手は覚えている。妻の腹を深く深く突き刺したあの感触を、私は確かに覚えている。間違いなく、あれは現実の出来事だ。
「どういうことだ……これは一体、どういうことなんだ……?」
うわごとのように呟く私を見て、妻はくすくすと笑った。
「悪い夢でも見た? コーヒーでも飲んで落ち着きなよ」
そう言うと、妻はコーヒーを作るためにキッチンへと向かった。
私はカーペットに落ちたスマートフォンを拾い上げると、もう一度不倫相手の美香へと電話をかけた。しかし、結果は変わらず。
『おかけになった電話番号は――』
諦めて電話を切る。
そこで気づいたのだが、このスマートフォン、どうやらネットに繋がっていないようだ。Wi-Fiも繋がっていない。機内モードにしていただろうか、と確認してみるがそういうわけでもない。
はて、と首を傾げる。
「ねえ、あなた。一体、誰に電話かけてたの?」
キッチンのほうから、妻が尋ねてくる。
「いや、会社の上司に……」
「上司? 後輩じゃなくて?」
笑顔で問いかけてくる妻に、私は底知れぬ恐怖を感じた。それは、笑顔であって笑顔でない。裏に潜むどす黒い感情を巧妙に隠すための繕った笑顔である。
ぽたり、と冷や汗が一滴、ソファーに落ちる。
「どうして、後輩だと思うんだ?」
「だって、あなた……後輩ちゃんと不倫してたでしょう?」
心臓が口から飛び出しそうになるほど驚いた。
妻は知っていたのか――私が不倫していることを。それだけではない。彼女は私がどこの誰と不倫しているのかまで把握している――。
「名前は確か――美香ちゃん」
「あ……ああ……」
「電話しても無駄よ。美香ちゃんには繋がらないわ」
「なぜ、そんなふうに断言できる……? まさか、お前……美香を殺したのか?」
「私が、あなたの、不倫相手を、殺した?」
妻は異常なほど口角を吊り上げ、ゆっくりと言葉を区切りながら言った。悪魔が憑りついていそうだ。くすくすとおかしそうに笑いながら、私のもとへ近づいてくる。
「そんなわけ、ないでしょう?」
「だ、だよな――」
「あなたこそ、どうして私を殺したの?」
キスできそうなほど顔を近づけ、妻は能面のような無表情で尋ねてきた。
ひっ、と思わず小さく悲鳴をあげる。
「ねえ、どうして? どうして、私を殺したの? 私が邪魔だった? 私が憎かった? 離婚に応じてくれなかったから、だから殺したの?」
「う、うわあああああっ!」
私は叫び声をあげると、這うようにして逃げ出した。
リビングを抜けて廊下を走り、靴も履かずに家を飛び出す。道路に出たところで、ようやく違和感に気がついた。
「人がいない……どういうことだ……?」
「ようやく気がついたのね」
振り返ると、妻が笑顔で立っていた。
「ここはね、死後の世界なのよ」
「……死後?」
「つまり、あなたは死んだのよ」
「死んだ? 私が? どうして……?」
突如として明かされた衝撃の事実。混乱する私に、妻は妻はぞっとするほどの笑みを浮かべたまま言い放つ。
「私が殺したから」
◇
「その表情……どうやら、あなたは覚えてないようね」
呆然と立ち尽くす私の手を引いて家に連れ帰ると、妻は淹れたてのコーヒーを飲みながら、教師のように優しく説明してくれた。
私が妻を刺したとき、辛うじてではあるが、彼女はまだ生きていた。私が落とした包丁を握ると、なんとか立ち上がり、背を向け嘔吐している私に向かって、渾身の力でもって突撃した。背中をざっくりと刺された私はいともあっさりと死んだのだった。なるほど、だから嘔吐した後ブラックアウトしたのか。
私を殺した後、妻もすぐに息絶え――我々は死後の世界へと旅立った。
そう、ここは死後の世界だから、ネットが繋がらないし、生者である美香に電話をかけることも叶わない。しかし、コーヒーは飲める。不思議な話だ。
「ねえ、あなた。私はあなたに殺されたけれど、不思議なことに、私は今でもあなたのことを愛しているわ」
「……」
「愛しているから、あなたにも一緒に死んでもらった。そして、こうして死後の余生を送ってる。この余生がいつまで続くのかはわからないけれど、私は今とても幸せよ。あなたはどう? 幸せ? それとも、私のこと今も恨んでる?」
「私は……私は……」
答えられなかった。
うなだれ沈黙を続ける私を見ても、妻は穏やかな表情を保っている。
「まあいいわ。この余生が終わるまでに、あなたをもう一度、私に惚れさせてやるんだから」
妻は学生時代の頃のような、あどけない笑みを浮かべてみせた。
そのとき、私の頬を一筋の涙が伝った。
「……え?」
その涙の意味を、私はただひたすらに考え続けた――。
殺したはずの妻が家にいる――。 青水 @Aomizu
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