マルボロ MILD AS MAY
この街の真ん中にはタワーが聳えている。
大きな一本の煙草を象ったタワーだ。住んでいるのはこの街を牛耳る資産家たちで、何不自由なく暮らしていると聞く。そして、てっぺんの部分からは絶えず大量の煙が噴き出している。それは神々しくもあり、冒涜的でもあった。
弟は「世界は前からこうではなかった」と言った。
その言葉が少しだけ俺に刺さるとすれば、このタワーの煙の件についてだ。こういうビルの上から煙が上がるというのは普通のことだったろうか? 普通だった気もするし、煙突の間違いではないかという気もする。その辺は判然としない。
ただ、その煙が一番質がいいということだけは、誰の目にもはっきりしていた。だから、誰も文句をつけない。副流煙は最高の恩寵であり、それを街に無償で恵んでくれる彼らは、誰にとっても救世主に違いなかったのだ。
『ところで……あんた一体誰なんだ?』
昨日の会話のあと、弟が最後に言った台詞だ。レイは元々頭が良かった。頭がいいやつほど、袋小路に入るとなかなか抜け出せない。彼らは時に理詰めで考えすぎて、自らの首を絞めてしまうのだ。
「やあ! 今朝も早いね、ニコラス」
家にいたくないのもあって早起きして、遊園地に出勤して、昨日と同じようにブラシで掃いていると、ピーター氏が話しかけてきた。
「おはよう御座います」
「ああ、おはよう」
「一つお伺いしてもいいですか」
「何だい?」
「今って何年ですか」
ピーター氏の笑顔が固まる。アニメの調子が悪い時みたいに。一瞬の間の後、彼はまたぬるぬる動き出した。そして豪快に笑う。
「今日も気をつけて働いてくれたまえ!」
はい、と返事をする。する他になかった。
シアターは今日も朝から大入満員だった。
「やあおはよう。アニメ作りたくなった?」
「遠慮しとくよ、オリバー」
「なんだよ、ニコラスならいつでも歓迎なのに」
「なあ、一つ聞いてもいいかな」
「いいよ。何?」
「あんたは先の戦争で何人殺したんだ?」
オリバーは紙の束とペンをこちらに差し出した。傷だらけの無骨な指をした彼は、にこにこと笑って、それ以上何も言わなかった。
観覧車はまだ修理中だった。
でもそんなこと知るか。俺は構わず乗り込んだ。煙草を口に咥えたまま、窓の割れたゴンドラに腰掛ける。ライトの代わりに新しい蝋燭を灯して、何本か床に置いた。壁には落書きがしてあった。『科学を信じぬ野蛮人共に死を』。『知性なき獣は森へ帰れ』。掠れかけた文字の脇に、それを隠すように新しめのインクでべったりと『ねえ、最近肺が苦しくない?』と書いてある。その問いに答える言葉は、どこにもない。
観覧車がゆっくりと回り出す。
てっぺんに登るまで、靴底についた灰で床に絵を描いた。丸と文字。魔法使いの描くような魔法陣。俺は絵が上手い。だから正円もフリーハンドで綺麗に描ける。どんなに大きなそれだって。
はるか眼下で、ピーター氏の叫ぶ声がした。
でもここからじゃ何もかもゴミの粒みたいに小さいし、煙で何も見えやしない。だから呑気に煙草を吸った。サボったとて誰にも見つからない。それから紙の束を取り出した。今さっき描いた傑作だ。
霧深い森を駆ける瀕死の兄弟。
戦争のあと、徐々におかしくなった国から逃げるため、暗い森を走っていた。でも途中で、弟が足を滑らせた。兄は弟を庇って、岩に頭を打ちつけた。そして二度と動かなかった。彼は兄の魂に尋ねた。もしお前の体を半分貸してくれたなら、弟の命は助けてやろう。
「止めろ! 止めろ! 誰か止めろ——」
彼はやって来る。無慈悲なくらい、約束通りに。汚され、穢され、嘲笑われ、貶められた、あの痛ましい姿のままで。俺にはわからない。だが彼にはちゃんとわかっている。真っ黒な穢れをいかにして
ニコチンの味がする。
舌に走る電気刺激と、肺に至る淀んだ熱。細胞の焼ける鈍い音。こういう時、決まって脳内に音楽が鳴る。防衛機制なのか、単に被虐的な喜びなのか。わからない。脳が溶けて、肺が焦げて、半分きりの俺には、もう何一つわからない。でもそれさえ、別にもう、どうだっていい。
「Komm, lieber May, und mache Die Bäume wieder grün,」
(来て、大好きな五月よ、木々をまた緑にしてね)
息を吐いた唇から、菫色の煙と、知らない歌がこぼれる。まるで神様が作ったような、優しい調べだった。
「und lass mir an dem Bache die kleinen Veilchen blühn!」
(そしてぼくに見せて 小川のほとりに小さなスミレが咲くのを)
歌っているうちに、涙が伝った。煙が染みたのか、歌の旋律があまりにも美しいからなのか。手首の上で水滴を拭いながら、フィルターを再び口に含む。破壊はまだ続いていた。きっとまだ始まったばかりなのだ。彼は全てを知っている。これまで起こったことも、そしてこれから起こることも。古い時代の地層の下に葬られた、在りし日の王は。
「Wie möchte ich doch so gerne ein Veilchen wieder Sehn, 」
(なんてうれしいこと またスミレを見られるのなら)
ガタガタと揺れ、蝋燭の火が踊るように動く。
俺は吸い殻を携帯灰皿に押しつけながら、潤む目を瞬かせ、新しいマルボロに火を点けた。今度は息を吸い込むと同時に、青空の彼方から、高らかな歌の続きが聞こえた。
「ach,lieber Mai,wie gerne einmal spazieren gehn!」
(ああ、大好きな五月よ、とても嬉しいよ もう一度外に出られて!)
そのとたん五本全ての指が痺れ、俺の身体は、魔法陣の傍らに倒れ込んだ。もうぴくりとも動かない。誰かが俺を掃いてくれるんだろうか。それは一体いつになるのだろう。できれば遅い方がいい。そうしたら今落とした煙草が、下らない街ごと燃やし尽くして、そのうちどこかよそからやって来た誰かが俺の灰を掬って、どこかに撒いてくれる。このどうしようもない不毛の国から逃れるには、きっとそれしかなかったのだ。初めから。五月に吹く風のように懐かしい、あの頃から。
マルボロと遊園地 名取 @sweepblack3
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