メビウス GRAB THE WAVE



 そんな暗示も、家に帰る頃には吹き飛んでしまっていた。まるで換気扇をつけたまま寝た夜のように。

 玄関を開けた途端、げんなりした。

 突き当たりのリビングで、母がしくしく泣いているのが見えたからだ。


……」


 うっ、うっ、うっ……。


 息を押し殺して泣く、もう若くない母の声。ここは自分の家の中なのだから、思い切り泣いてしまえばいいのに、と俺は思った。この壁の厚さじゃ、どのみち同居人には丸聞こえだ。それでもなんとか聞かせまいとする無意味な心遣いが、弟をいっそう苦しめるだけだということに——全くの自己満足にしかなっていないということに、彼女は一体いつ気付くのだろう。


「吸い込んで、吐くだけじゃない。ただの呼吸なのに。みんなやってることなのに。何が難しいっていうのよお……」


 つけっぱなしのテレビからはコマーシャルが流れてきた。「まだ生の空気を吸ってるの?」と、街ゆく娘たちが笑いながら、画面のこちら側に問いかける。どこから見ても健康優良児たる若々しい彼女たちの問いに答えるならば、それはイエスだった。俺の弟は生の空気を吸っている。随分前から部屋に引きこもり、空気機にしがみついて、母の言うところの「生き恥」というものを晒し続けている。



 弟の部屋のドアの前に立つと、いつも物々しい感じがして、つくづくうんざりする。



 コンコンとジョークみたいにノックすると、ドアの向こうで人が動く気配がして、さらに気が滅入る。べつに懺悔室じゃないんだから、こちら側に出てきてから喋ればいい。それなのに弟のレイモンドは、いつだって、薄いドア越しにしか言葉を語らない。


「おかえり、兄さん」

「おう。ただいま、弟よ。今日も外には出なかったのか?」


 乾いた虫みたいな笑いが聞こえた。

「出るわけないでしょ」

「なんでさ」

「だって街中、煙だらけだ。霧の都も形なしってくらいに。車はどうやって走ってるんだ? 前もろくに見えないだろ、こんなんじゃ」

「全ては慣れだ、弟よ。世界は慣れと惰性と妥協によって成り立っているのだ。ドライバーたちは今日も事故一つ起こさず、器用にたくましく生きてるよ。概ね勘頼りでな」

「狂ってるよ」

 そう、狂っている。でも世界とは大体そのようなものだ。世界が正気であるならば、戦争も虐殺も起こりはしない。


「ねえ、どうしてわからないの。喫煙は肺がんのリスクを高めるってことが。どう考えても異常だよ。危険なのに誰も気に留めてない。みんななぜわからないんだ……」


 始まった。弟お得意の長台詞である。

「なあ、レイ。ちょっと落ち着こうぜ。国のホームページを見てみたか? がん患者の数はほとんどゼロだ。誰も不健康になんてなっちゃいない」

「それこそ陰謀だよ。だってそうじゃなかったら、一体何だっていうのさ? ニコチンなんだよ、兄さん。れっきとした科学的事実だ。おかしいんだよ。この喫煙率じゃ、身近で一人二人は肺がんか依存症患者がいなきゃ変だ」

「考えすぎだよ」

 それから俺はいつものように、今日の街の様子を話して聞かせた。観覧車が止まったこと。がまた一つなくなったこと。近所の店に新しいフレーバーが入荷したこと。可愛い女の子を見かけたこと。


 ひとしきり話したあと、ドアの向こうから、憔悴しきったレイの声が聞こえてきた。


「なあ……兄さんだってわかってるはずだろ? 世の中、元々こうだったわけじゃないってこと。だんだんおかしくなった。じわじわインクが染み込むみたいに、知らない間に、正しい科学が何かに侵された。元々街にあったのは禁煙室じゃなく、喫煙室だったはずだ」

「それはお前の妄想だよ」

「ああ、やめてくれ! どうして兄さんまであいつらと同じことを言うんだ? 僕は間違ってなんかない。外になんか出られない。きっと5分と経たずに発作を起こして死んでしまう……」

「考えすぎるのは体に毒だぞ」

 俺が諭すと、レイは軽蔑の笑い声をあげた。

「毒? あはは! 街中の副流煙に比べたら何でもないね。なんでわからないの? 兄さん、あれはただのニコチンとタールと青酸塩の塊だ。吸って良いことなんて、掛け値無しにひとつもないんだよ」

「極端な考え方は良くない。良いことだって、たくさんあるぞ」

「へえ。たとえば?」

「前向きになれるし、仲間もできる。現にみんなは元気に街に出て働いたり、遊んだりしてるだろ」

「そんなの結果論じゃないか」

「じゃあ永遠にもしもの話をするか?」


 静寂が降りた。いつもこうだ。


「やってられないね」


 俺が煙草に火をつけようとすると、ドア越しでも響くような声で「やめろ!」と叫ばれた。母の泣き声がいっそう大きくなる。俺は構わず煙草に火をつけ、弟曰く有害らしい煙を、肺いっぱいに吸い込んだ。そして吐き出すと、向こう側で空気汚染機がごうごうと音を立てた。弟はその機械のそばで、一人震えているのだろう。


 身の回り全てが毒に満たされていると思いながら生きていくというのが、どれほど辛いことなのか、俺には想像もつかなかった。


 確か精神分析だか何だかの本を読んだ母が、いつかこんなことを言っていた。レイはおそらく発達段階で然るべきイベントをこなさなかったから、心の成長が歪になってしまったのだと。つまり子供の時に経験すべきことを経験しないで大人になったせいで、煙草恐怖症になったのだと。別に原因なんてどうだって構わないが、その説が正しいとすれば、もう取り返しがつかないということじゃないかと俺は思った。一度波に乗れなかったイルカは、群れに適応できずに虐められて死ぬ。そういうことじゃないかと。

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