いま、あなたに逢いたい
和泉鷹央
第1話 かなの場合
◇ 羊の手 ◇
別名、シープハンド。
十五歳から十八歳の間に左手に黒い羊のような痣が浮かび上がる奇病とそれに犯された者たちの総称。
西出かな、十六歳。
高校二年生。
朝早くに起きて勉強し、夜は二十一時近くまで塾で専用テキストを解く毎日の中で、唯一の救いはバーチャルリアリティーRPGゲームの中で彼と語り合うこと。
そんなことをして冬場の肌寒さを感じ、布団から出たくないとぼやきながらベッドから這い出た。
さあ日課の塾から与えられた課題をこなそうと教科書を開いたその時。
ふと、何気なく視線をやるとその先には何かがある。
「え?」
薄っすらと左手の甲に何かが浮かび上がってきた。
「何よーこれ……?」
まさか、噂の。
友人たち会話からもSNSで上がっているニュースからも見聞きして、今では日本中の誰もが知っているそいつ。
黒い羊の頭のような痣。
それが、かなの左手の甲に浮かび上がっていた。
初めはなにかの単なる痣だろうと片付けようとした。
スポーツや事故で硬いものにぶつければ浅黒く痣になることはよくあることだ。かなは部活には参加していなかったが、週に数回、スポーツジムに通っていた。一昨日、手首をぶつけたからひょっとしたらその時の傷が、いまになって出てきたのかもしれない。
多分、そうだよ。
あんな病気にわたしがなる訳がない。
とりあえずそう決めつけることにした。
その日は手首を痛めたからと偽って、指先がないサポーターをつけて登校した。
かなが使うのは市営バスとJR。
家の近所のバス停から市営バスに乗り、近隣のJRの駅から数駅を経由して高校前の駅で降りる。
進学に熱心な両親は中高一貫のこの学園を選んで通わせていた。学びに適した静かな環境を提供する。それが学園のモットーだ。
表面だけのつきあいができていれば、三年間をやり過ごしきれればそれでいいのだ。
学則で決められた通りにスマホを専用のロッカーに入れて、ダイヤル式の錠を閉じる。下校時に持ちかえる決まりだ。
クラスにはいつも平和な日常が漂っている。
見かけ倒し、平和という名前の幻想を演じている同級生たち。
これはゲームなのだ。リアルな平和な日常を演じ切る、脱落者を追い詰める単なるゲーム。そして、かなはその駒の一つに過ぎないことを充分過ぎるほどに理解していた。
「おはよう、かなー。どしたん、その手?」
隣の席の、川岸あいが話しかけてきた。
あくまで見せかけの挨拶。適当な会話をすれば授業が始まる。
「おはよう、あい。ああ、これ? 一昨日のジムでぶつけちゃって」
「へーそうなんだ。てっきり、あれかと思っちゃった」
言われて心がどきりとした。
あいは悪戯好きだ。
笑いながら言うことではない言葉も、さらりと言うことがある。
「そんなわけないじゃん。あれ、だったら来れないって」
「そりゃそうだよね。あれだったら、かな、あと数日だもんね。そんな訳ないよねーあはは」
あと、数日。
そう、あと数日なのだ。
もしこの痣が本物なら。
あと数日で……。
そんなことを考えた途端、視界の中にあるすべてがまるで作りもののように見えた。
まるで毎晩、彼と会っている仮想空間の中にいるようだ。
彼に会いたい。
「かな? どしたん?」
「ううん、なんでもないよ」
顔色悪いよ?
そう、あいが言いかけた時に、教師が教室に入ってきた。
そこで会話は中断された。
昼休み、放課後となるべく人を避けるようにして問題集を解いた。
下校時に、スマホを回収して電源を入れると彼からSNSのメッセージが届いていた。
(今夜どうする? 俺、ちょっと無理かもしれん。明日からテストだ)
そう、昨夜その話題で盛り上がったのだ。
彼は六歳年上の、近い県の大学生、らしい。
就職活動と卒業の論文と期末試験で大変だとぼやいていた。
その全てが本当かどうかわからない。
SNSを通じて貰った画像も本人のものだと思うが、本当かどうかわからない。
毎晩語る言葉は、思考を自動で音声に変えて喋るシステムが作りだす人工の声だ。
彼のことは、家族のこと、飼っている犬のこと、実家から大学に通っていて、就職先は県内にもう決まっているから春から一人暮らしをすること。その程度のことしか知らなかった。
大学がどこで、何を学んでいて、何が好きで、どんな女の子がタイプなのか。
そういうことはお互いに話あってさらけ出していた。
ただ、かながしまったと最初に後悔したのはゲーム内での設定年齢を二十歳にしていたのに、彼と知り合って半年ほどたった時にポロリと受験の話をしてしまったことだ。
「え? JKなん? ほんとうに?」
彼から疑問の声が上がったのを覚えている。
成人した自分がまさか女子高生とこんな深夜に、ゲームの仮想世界で会話しているなんて彼には信じられなかっただろう。
なんとなくムキになり、嘘だろ、信じないを連発する彼に通信アプリのアドレスを教えて画像を送ってしまった。
あの時は軽いノリでやったことだけど、いまは後悔してる節もある。
もし彼が本当は大学生じゃなくて、四十代のおじさんだったらどうしよう?
もし、リアルで会おうと言われたら?
アプリの通話で声を聞きたいと言われたら?
もっと他にも画像が欲しいとお願いされたら?
危険しかないことをしてしまったかもしれないと、かなは反省している。
それでも不思議なことに、彼は自分の自撮り画像と趣味のバスケに関する画像を数枚くれただけで、それ以上は何も望んでこない。
向こうも、かなのことが女子高生だと、未成年だと分かった時点で引いたのかもしれない。
かなのプリクラ画像を見て彼は一言、
「可愛いな。美人さんやん」
それだけメッセージをくれただけだった。
それから数か月、毎晩どうする?
ゲームで会うか?
それだけのやりとりをして、ある意味、仮想世界で息抜きをする仲になっていた。
彼がくれた自撮り画像は趣味の愛車の中で撮られたもので、中古だけどアルバイトを頑張ってお金を貯めて購入したんだ、と彼は誇らしげに語っていた。
「ふうん、普通だね」
容姿についてはあまり言及しなかった。
子犬のような屈託のないどうだ、俺の愛車、いいだろ?
みたいな感じに撮られたその笑顔は、本当はとても好きな笑顔だった。
彼と同じ高校で、同級生だったらこの味気ない世界も変わるかもしれないのに。そう思いながらこの数か月をある意味、共に過ごしてきた仲間だった。
(いいよ、私も来週からテストだから。 またお互い終わってからしよ?)
そう、メッセージを返した。
そして、帰りの電車内でインターネットを開いた。
検索エンジンで『羊の手、痣』と検索をかける。
ウィキペディアを見ると、
『羊の手。別名シープハンド。十六歳から十八歳の男女にだけ浮き出る奇病の名前。痣が黒くなると――』
そこから先は恐くて読めなかった。
いや、もう知っていたからだ。だからその先は必要なかった。
電車を降りて、塾に行く。女子のトイレで個室の鍵をかけ、座り込んで左手の甲にできた痣を見る。
「やっぱりそうなんだ。羊の手、なんだ……はは」
軽い笑い声がどこからか出て来た。
諦めの声だった。
朝方は薄く黒い印象だったそれは、全体的に浅黒く、痣というには不気味な印象を与えた。
時間はあと数日。
助かった症例の報告は、世界中探してもまだないと言われている。
「そっか! そっかあっ……」
自分の全てが否定され物事が闇の中にうずもれていくような気がしてかなは声を出さずに泣いた。
もうどうしようもない。仕方ない。
誰にも言えない、こんなこと。
その日は、月のモノが来て体調が悪いからと塾を休んだ。
その夜は恐くて眠れなかった。朝方になって、彼から何かメッセージがないかとスマホの画面を開いたが何もなかった。
ゲームの画面を開いてもオンラインの表示は消えていた。
「本当に忙しいんだね……」
昨夜のあれから、何かをしたいと思う気力はかなの中から消えてしまっていた。彼に会いたい、でもこの事は言えない。
そうだ、家族。
それに学校……。
朝になって登校時間だと気づいた。
でも行きたくなかった。いや、行けなかった。
どこにも行きたくない。部屋から出たら何もかもが終わってしまうような気がして動けなかった。
居間にいた母親に、熱があるから学校を休みたい、生理痛が酷いと言うと、学業優先な母親は休ませてくれた。早く回復することだけを彼女に望んでいた。
「かな、その左手どうしたの?」
体調不良で休みたいと言って二日目。
母親がそれ、に気づいた。
「ああ、これ。ジムでぶつけちゃって。湿布貼ってれば大丈夫って言われたから」
「そう、気をつけないとだめよ。来年は受験なんだから」
それだけ言うと、母親は仕事に向かった。
かなの両親は共働きだ。
両親との会話は、あまり多くない家庭だった。
三日目。
土曜日。
彼からの連絡はない。
塾にだけ行くことにした。
あまり休むと、逆に怪しまれる。
四日目。
日曜日。
塾に行く。
殆ど眠れてない。
サポーターは外した。あまり長くつけていると怪しまれる。
コンシーラをぶあつく塗って何とか誤魔化す。
五日目。
週末を挟んでということもあり、翌週からテストだとわかっていたから登校する。もう休めない。
土日を利用して部屋の片づけをした。
残したいもの、見られたくないものに分けて、パソコンの中にあったデータは全部消した。
自分の知られたくない物を、誰にも見られたくなかったから。
昨日の夜、彼にメッセージを残した。
(ごめん、今夜会いたい)
(悪い今夜は歓迎会なんだ)
就職先の研修を兼ねての歓迎会らしい。
(そっか、わかった)
何となくイラっとして素っ気ない返事を返した。
(おい、かな。なんかあったんか?)
(別に。なんでもない。歓迎会楽しんでね)
バーカ。とクマがあっかんべーをしているスタンプを送りつけた。
これでいい。
彼に甘えてはいけないのだ。
私たちは仮想世界の知り合いなんだから。
リアルで迷惑をかけてはいけない。
昼休み。もう時間がない。
そう、左手は告げていた。
痣が黒くなり、一度赤くなってまた黒く戻ったその日。
シープハンドにかかった者は……。
かなの痣は昨夜赤くなり、今朝、黒く変わっていた。
「もう……だめなんだ。もう、もう……!」
片手にそっと荷物から持ち出した財布を持って。
そのままスマホを回収して学園を抜けだした。
彼に会いたい。
住んでいる街の名前は知っていた。
嘘かもしれない。住んでいないかもしれない。
だが、かなの足はそこに向いていた。
朝、用意していた私服を入れたバッグを駅のロッカーに預けていた。
もしかしたらこうするかもしれない。そう思って用意していた服をトイレで着替え靴を履き替えた。
「お願い、もう少しだけ。もう少しだけ待って……お願いだから!」
左手に懇願するように言う。何度も涙が溢れて止まらなかった。
途中、彼にメッセージを送った。
(いまそっちの駅に行ってる。会いたい)
まだ大学の講義中なのか返事がなかった。
駄目かもしれない。
間に合わないかも。
一時間近く電車に揺られて、ようやく彼のいる街についた。
どこに行けばいいだろう?
大学だろうか?
地図アプリで検索すると駅から歩いて十数分の距離のところにある川沿いの大学だった。
間に合わないかもしれない。
そう思うと、走り出してしまっていた。
その途中、彼からメッセージが届いた。
思わず、通話ボタンを押した。
数回のコールの後に彼が出た。
初めて聞く彼の声。
心配して、優しく響く、暖かい心に届く声。
いまどこ、と言われたから河に近いとこ。橋にがあるよ、そう伝えた。
走りながらだから息が途切れて、彼もいますぐに行くと言ってくれた。
夕暮れの、沈みかけていく太陽の光の端から、彼が大急ぎで走ってくるのが見えた。良かった、間に合った。
「かな? かな、なんか?」
「うん、そうだよ。私だよっ……」
走り過ぎて、足がもつれた。
彼に抱きかかえられて、来てよかった。
そう思えた。
最後の時に、ただ彼だけに会いたかった。
そっか。私、この人のことが好きだったんだ。
「ねえ、きよはる。ありがとう、大好き……ありがとう」
彼の腕の中でかなの全身が薄くなり、徐々にその輪郭を失っていく。
「ありがとう、ね?」
最後の言葉を残して、かなの肉体が消えた。
「どういうことだよ、なんでー……?」
きよはる、そう呼ばれた彼の脳裏にある病名が思い浮かんだ。
シープハンド。
それにかかった者は、数日後、消滅する。
「かな、なんでだっ!」
腕の中に残った彼女の温もりと衣服を抱きしめて、彼は静かに泣いた。
沈みゆく太陽がかなをあの世に送り出すともしびにように地平線に静かに沈んでいく。
西出かな。十六歳。
最後に小さな愛を知り、大好きな人のぬくもりに包まれて死を迎えた。
いま、あなたに逢いたい 和泉鷹央 @merouitadori
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