十年雪の約束
真田宗治
十年雪の約束
彼女は寒い教室で一人、携帯端末を握りしめていた。
放課後の教室には、もう他に人影はなかった。あまりにも寒すぎるから、皆、帰ってしまったのだ。それでも彼女は震えながら待ち続けた。
来る筈のない友達を。
学校で、僕の席は彼女の隣の隣だ。でも、あまり話したことはなかった。僕が臆病だったからだ。正直、僕は彼女が好きだった。地味だけど素直で優しい人だと思ったから。
あの時、彼女は僕のことをどう思っていたのだろう。
淋しそうな背中を見かけた時、僕は声をかけることが出来なかった。
ふと、彼女が振り返り、目が合ってしまった。
「
彼女は少し恥ずかしそうに言う。
僕は仕方なく、教室に入った。
「待ち合わせ?」
「うん。みんな、そろそろ来る頃だと思うけど」
と、彼女は自嘲気味に顔を赤らめる。
暫しの沈黙の後、僕は口を開いた。
「帰ったよ。みんな」
「え? うそだ」
「嘘じゃない」
僕等は言い合って、また少し黙った。
帰り道、通りかかったファストフード店には、見慣れた生徒達の姿があった。彼女の友人達だった。否、友達面をしている奴等。そう言ったほうが正しいだろう。
「馬鹿だね。私」
彼女は寒空の下、ファストフード店の大窓に張り付いて言う。
彼女の携帯端末が鳴る。
(もう少し待っててね~)
そんなメッセージが来ていた。送ったのは勿論、店内の連中だ。奴らは暖かい店内で、下品に笑い合っていた。
僕は頭に来て、店に入ろうとした。その服の裾を、彼女は引っ張った。
「やめて……」
「でも」
「お願い。やめて」
僕等は二人でとぼとぼ歩いた。
「何処か遠くに行きたい」
彼女は橋の欄干に凭れ、ポツリと呟いた。それは酷く小さくて、淋しい背中だった。
「遠くって?」
「誰も私のこと知らない所。もう、こんな世界、居たくない」
僕も、橋の欄干に凭れ掛かかる。
肩を並べると、彼女の身長は、僕より頭一つ分、小さかった。
「僕も……」
「じゃあ、連れて行って」
「え?」
「どこかに。連れて逃げて」
すっと、彼女は手を伸ばす。
僕はその手を掴んだ。とても華奢で、冷たい手だった。
宵闇が迫る中、僕は彼女の手を引いて駆け出した。まるで、何かから逃げ出すみたいに。
その夜中、僕等はとある山を登っていた。僕はザックを背負い、防寒着を着込んでいた。彼女も大きなリュックサックを背負い、防寒着で着ぶくれていた。
きゃあ、と彼女が足を滑らせる。咄嗟に、僕はその腕を掴む。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう」
そう言って、彼女は微笑を浮かべる。それはあんまり可愛らしくて、僕は思わず顔を背けてしまう。
やがて、僕らは山頂へと辿りついた。
山頂に、人の気配はなかった。そこは街に近く、低い山だ。遭難する事はまずあり得ないだろう。でも、僕等が逃げ込むには充分な場所だった。
「見て。星だよ。星があんなに出てる」
ふいに、彼女が夜空を指差した。
僕は空を見上げて呼吸を止めた。こんなに沢山の星が出ているのを、初めて目の当たりにしたのだ。夜空には、一二月の星座が一面に広がっていた。
僕らは暫く言葉もなく、星を眺めた。まるで、時間が止まったみたいに世界は静かだった。
山頂の真ん中辺りには、適度に開けた場所があった。そこで僕等はテントを張り、焚火をした。幸い、僕にはキャンプの経験があったので、火の扱いに困ることはなかった。
テントのある場所からは、遠くに街の明かりが見えた。あんなに下らない連中がいる場所なのに、街の灯は色とりどりに煌めいており、悲しい程に美しかった。
火にかけた
「どっちがいい?」
彼女が言う。
「じゃあ、緑の方」
彼女は、緑のたぬきをくれた。
僕等はお湯を注ぎ、肩を並べてカップ麺を食べた。彼女は赤いきつねを啜りながら、少し泣いた。僕は声をかける事もなく、ただ、彼女が泣き止むのを待った。
「ねえ」
彼女が涙を拭いながら、ポツリと口を開く。
「何?」
「東君って、部活入ってたっけ?」
「うん。語学部」
「へえ。じゃあ、いつか外国に住むの?」
「ううん。僕は和食じゃないと食事した気にならないから。外国に住むのは無理かな」
「そう。じゃあ、将来は何になるの?」
「……何か、物語を書く人。かな」
僕は少し照れて言う。彼女は微笑を浮かべていたが、それは寧ろ淋しく見えた。
「君は? 十年後はどうしてる」
僕は問う。
「わかんない。十年後なんて。でも、その頃にはきっと忘れちゃうよね。私のことなんて。みんな変わっちゃうから」
なんて、彼女はふにゃりと笑う。
「……僕は変わらないよ。十年後も、君を覚えてると思う」
「嘘だ。十年したら、なんでも変わっちゃうよ。変わらない物なんてない」
「そう? でも、赤いきつねとか、緑のたぬきは十年後も同じだと思うよ」
「……そうかもね。そうだと良いね」
やけに寂しげな横顔に、僕は言うべき言葉を探す。
「君は、十年後も僕のこと、覚えてる?」
思い切って聞いてみた。
彼女は、ふいに顔を背け、彼方に目をやった。そして長い沈黙の後、やっと口を開く。
「忘れるよ。きっと」
彼女はちょっぴり意地悪な顔をした。
その夜、僕等は交代で眠った。寝袋が一つしかなかったからだ。
「起きて。ねえ、起きて」
早朝、僕は彼女に揺り起こされた。
眠い目を擦ってテントから這い出すと、辺りは真っ白だった。
「雪だよ。白い白い、真っ白な雪だよ!」
と、彼女は雪玉を作って投げる。雪玉は、僕に命中する。
「わあ! 冷たいだろ」
僕は途端に目が覚めた。
反撃に、僕も雪玉を作って投げる。彼女はきゃあ、きゃあと声を上げ、逃げ回る。
僕等は雪の降る中ではしゃぎ、笑い合い、転げまわった。
ふいに、ピタリと彼女が足を止めた。
彼女は携帯端末を取り出した。何か、メッセージが来たらしい。
「えい」
彼女は、携帯端末を遠くに投げ捨てた。それは雪に埋もれて見当たらなくなる。
急に、彼女が笑い出す。僕も大声で笑った。
「あはははは! ばあか、ばああああか!」
彼女が思いきり叫ぶ。
「馬あああ鹿!」
僕も街へと叫んだ。
白い息が、雪雲のかかる空へと吸い込まれていった。
僕等はひとしきりはしゃぎ合った後、遊び疲れて火に当たった。そして、テントを片付けて、山を下りた。
帰り道、僕等は一言も喋らなかった。
「約束、覚えてる?」
別れ際、彼女はやっと口を開いた。
「え?」
「忘れちゃ駄目だよ。私も、忘れないから」
「うん」
そうして、僕等は指切りをして別れた。
僕等は再び学校生活に戻り、淡々とした毎日を送った。彼女は、何事もなかったかのようにあの連中の輪に戻り、それからも仲良しを演じていた。僕と彼女は結局、男女交際するには至らなかった。僕は彼女を一度も抱きしめなかったし、口づけの一つもしなかった。だけど実際に口づけを交わすよりも確かな物が、僕等の間にはあった気がする。
やがて、僕等は高校を卒業して、別々の道を歩き始めた。
気が付けば、今年もまた、雪が降っている。あれから十年も経ったのに、僕は未だに職業作家にはなれていない。だけど、約束は覚えている。僕はそれを証明する。これから、君のことを書くよ。
キーボードを叩いていると、キッチンから、ピイーッと、音がした。僕は慌てて火を止める。
お湯が沸いたのだ。
僕は緑のたぬきにお湯を注ぎ、窓の外を見やる。
あれから十年。君は何を見ているのだろう。もし、君の街にもそれが降っているなら、窓の外を見て欲しい。
雪だよ。白い白い、真っ白な雪だよ。
アラームが、三分間の経過を知らせる。
僕は黙々と緑のたぬきを啜る。
変わっていても、忘れていても良い。
唯々、君が幸せでありますように。
おしまい。
十年雪の約束 真田宗治 @bokusatukun
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