屋上には狐が住んでる

黄黒真直

赤い狐のような先輩は、今日も屋上で「赤いきつね」を食べている。


面長な顔と細い目は、常に笑っているようにも、眠っているようにも見えた。何も考えていないようなふりをしていて、その実、私のことをよく観察していた。きっと、すべてを見透かされているのだろう。


赤茶色に染めた長い髪は少し傷んでいて、狐の尻尾みたいに広がっている。私はよく、その髪を梳かせてもらっていた。ざらざらした手触りで、注意しないとすぐに櫛が引っかかってしまう。先輩はそのたびに、細い目をさらに細めて笑った。私はその時間が好きだった。


私と先輩が出会ったのは、春だった。


高校生になった私は、「学校の屋上に自由に入れる」と聞いて、お昼休みにそこへ向かった。噂は本当で、新入生たちが何人もお弁当を広げていた。


新しくて綺麗な校舎の高校だ。その屋上で、新しくできた友達や、親しくなった異性の同級生とお昼ご飯を食べる。


まさに絵に描いたような青春の1ページ! 私たち新入生は、胸躍らせて屋上に陣取っていた。


しかしすぐに現実を突きつけられることになる。


屋上は、風が強い。髪やスカートがすぐぐちゃぐちゃになる。海苔もふりかけも飛んでいく。

それに日差しも強い。鉄筋コンクリートの床は初夏の太陽に炙られ、スカート越しにお尻を焼いてくる。


屋上に上級生がほとんどいない理由を悟った新入生たちは、早々に夢を諦め、誰も寄り付かなくなってしまった。


……私を除いて。


私は気付いていたのだ。屋上には一人だけ、上級生がいた。

それが、毎日一人で赤いきつねを啜っていた先輩だった。


私は一目見たときから、先輩に惹かれてしまっていた。

赤茶げた傷んだ髪が、アウトローな雰囲気を醸していたからかもしれない。昼休みがもうすぐ終わるという時間になっても、先輩はいつものんびり赤いきつねを食べていた。高校の規律なんて気にかけないぞと言わんばかりの姿が、私の目を惹きつけていたのだ。


自分で言うのもなんだが、私は良い子だった。先生の言う通りに毎日真面目に勉強して、両親の言う通りに毎日門限を守っていた。飾り気のない眼鏡をかけ、制服は第一ボタンまできちんと留めている。


それが当たり前だと思っていた私にとって、制服を着崩し髪も染めた先輩の姿は、あまりにも衝撃的だった。だから、目を離せなくなってしまったのだ。


「それ、美味しそうですね」


ある日の昼休み、私はついに、勇気を出して先輩に声をかけた。

先輩は私を見上げると、細い目でじっと私を見たあと微笑んだ。


「ああ、美味しいよ。なにしろ神の料理だからね」

「え、神?」

「狐は神の使いなんだ。きつねうどんは、その狐へ捧げられた料理なんだよ」


なんだか変なことを言う人だなぁ、と私は思った。


「変なことを言う人だなって思ったでしょ?」

「えっ、あのその」


言葉に詰まる私を、先輩は笑いながら見ていた。人をからかうのが好きな人だった。


「まあ座りなよ」


と先輩が熱い鉄筋コンクリートの床を勧めたので、私は隣に体育座りした。先輩はあぐらをかいたまま赤いきつねを置くと、私をじろじろと観察した。


「君は、新入生?」

「はい」

「真面目そうだね。なに、不良っぽい先輩を更生しに来たの?」

「そ、そういうわけじゃ」

「へえ、じゃあなんの用?」


なんの用。

声をかけたはいいものの、何を話すか考えていなかったことに、私は気が付いた。しかし先輩に目を奪われたなどと言えるはずもなく、私は堂々と嘘をついた。


「いえ、やっぱり先輩を更生しに来ました。お昼休みはいつも、ここでギリギリまで赤いきつねを食べてますよね。次の授業に遅刻してるんじゃないですか!?」


私の詰問に、しかし先輩は答えなかった。


「へぇー。いつも私のこと見てたのか」

「うぐっ」


私はどきりとしてしまった。


「ギリギリまでここにいる私を見てたんなら、きみも一緒に遅刻してるんじゃないか?」

「い、一年の教室は四階にあるから間に合うんです!」

「ほー、なるほど。じゃあ私の教室も四階にあるってことにしてくれ」

「じゃあってなんですか!」


こんなに調子を狂わされる相手は初めてだった。私は見た目からして良い子なので、誰かにいじられたという経験がない。そういう人は私に近付いてこないからだ。しかし今回、私は自分からそういう人に近付いてしまった。

それでも私は、不快ではなかった。誰かとこんな風に、他愛のない会話をしてみたかったから。


こうして私と先輩は出会い、毎日お昼休みを一緒に過ごした。

先輩は、多少の雨でも屋上で赤いきつねを食べていた。


「よくこんな雨の中で赤いきつねを食べられますね。スープに雨が入ってしまわないんですか?」


すると先輩は私の目を見た。


「きみが傘で守ってくれるからな」

「うぐっ」


私はどきりとしてしまった。


「別に先輩のために差してるわけじゃありませんっ」

「ああ、こら、傘をどかさないでくれ、スープに雨が入っちゃうだろ」

「いいんですっ、私が来るまでそうやって食べてたでしょ」

「その通りだ。でも本当にいいのか? 東京の雨には空気中の汚染物質がたくさん溶け込んでいる。それが入ったスープを飲んだら、私は病気になってしまうかもしれない。君が傘を差してさえくれれば、私は病気にならずに済むんだ。きみは私が病気になってもいいのか?」


無茶苦茶な理屈だったけれど、私は逆らえなかった。天性の良い子の部分が、先輩を守らねばと主張する。


「わ、わかりました」

「ありがとう。でももうちょっと寄ってくれ……そうだ、それでいい。ありがとう」


私は先輩と肩を寄せ合う形で、隣にしゃがんだ。先輩は小さい箱を床に置いて座っていた。


「その箱なんですか?」

「これ? ミニ賽銭箱だよ」


よく見ると、後ろに「賽銭箱」と書いてあった。


「なっ、なんて罰当たりな!」

「別に良いだろう、ただの箱だぞ」

「よくありませんよ! だいたい、どっから持ってきたんですかそれ!」

「ここにあった」

「学校の屋上に賽銭箱があるはずないでしょう!」

「いや、そんなことはない。ほら、よくビルの屋上に稲荷神社があるだろう? あれの前に置いてあるんだ」

「だとしても罰当たりなことには……それに、この屋上に稲荷神社なんてありません!」


屋上にあるのは給水塔くらいのものだった。


「昔はあったんだよ。かつてここには稲荷神社があり、そこにこの学校が建ったんだ」

「はぁ」


先輩は急に、不機嫌そうな悲しそうな表情をした。私は少しだけ話題をずらした。


「……だいたい、なんで毎日赤いきつねなんですか? もっと雨の中でも食べやすいものにすれば良いのに」

「前にも言ったけど、きつねうどんは狐に捧げられたうどんなんだ。だから食べてる」

「先輩は狐なんですか」

「どう思う?」


先輩は私の目をじっと見た。小さい傘の中、至近距離で見つめられ、私はどきどきしてしまった。

細い目と赤茶げた髪、そして人をからかって楽しむ姿。どれを取っても、先輩は狐に似ていた。稲荷神社の話で不機嫌になったのは、そこがかつて先輩が住んでいた社だったから……?


「ってそんなことあるわけないじゃないですか」

「そりゃそうだ」


先輩は笑った。機嫌は直ったみたいだった。


それから数日後。

先輩が毎日赤いきつねを食べる一方で、私は毎日お母さんの作るお弁当を食べていた。だけど今日は、お母さんが寝坊したので、私は通学途中のコンビニでお昼ご飯を買うことになった。


いくら私でも、コンビニくらいは行ったことがある。お弁当がたくさん売られていることも知っている。だけど、これらがどのくらい鮮度を保つのかがわからなかった。

なにしろ肉とか魚とかが入ったお弁当だ。いま買って、お昼まで傷まないのだろうか。

悩みながら店内を歩いていると、別のものが目に飛び込んできた。


赤いきつねと緑のたぬきだ。

こういうものなら長期保存が可能なはずだ。お昼まで傷むことはないだろう。

先輩と同じ赤いきつねはなんか恥ずかしかったので、私は緑のたぬきを買った。お湯を入れて三分で食べられるらしい。すごい食べ物だと思った。


お昼休みになり、私は緑のたぬきを持って屋上へ向かった。

そこには既に先輩がいて、赤いきつねを美味しそうに食べている。


「今日は遅かったね。学校中歩き回ってから来たのかい?」


その通りだった。私は未開封の緑のたぬきを、先輩に突き出した。


「先輩。この学校には、お湯を入れられる場所がありません。先輩はいつも、どこでお湯を入れているんですか?」


私はつい、詰問するような声音になってしまった。

先輩はそんな私を見上げると、隣に座るよう促した。


「それ、貸してごらん。うん、そしたらちょっとだけ、目を瞑ってて」

「どうしてですか?」

「いいから」


言われた通り、目を瞑る。私の横で、ぺりぺりと糊を剥がすような音がした。そして、水が注がれる音も。


「はい、いいよ、目を開けて」


目を開けると、緑のたぬきの蓋がお箸で押さえられていた。そして蓋の隙間からは、なんと湯気が出ていた。

蓋を触ってみると、熱い。お湯が注がれている!


「えっ、どうやって」

「さあ」


先輩は魔法瓶の類を持っていない。屋上には火はおろか、蛇口すらない。いったいどこから……。


「……やっぱり先輩は、狐なんじゃないですか?」

「へぇ。どうして?」

「お天気雨のことを、狐の嫁入りと言います。つまり狐は、雨を降らせられるんです。それから狐火という言葉もあります。狐は、何もないところで火を起こせるんです。それを組み合わせれば、お湯くらいどこでも作れるんじゃないですか?」


私は真剣に言った。やっぱり先輩は、かつてここにあった神社の狐で、住処を奪われてしまったんじゃないか。それが悲しくて、毎日ここに化けて出ているんじゃないか。だとしたら、私がなんとかして、先輩のお家をもう一度……。


「狐が人になるわけないだろう」


「先輩が言い出したんじゃないですかーーーーっ!!」


叫ぶ私の隣で、赤いきつねと緑のたぬきが湯気を立てていた。

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