5. ロボットの俺と彼女と赤いきつね

店の奥が自宅だ。彼女が読んでいた本から顔をあげ、いつものように微笑んだ。

 遅かったね。忙しかったの?

 あっと言う間に俺の心は雪崩を起こす。掴みかかりそうになりながら、俺は必死に自分を抑えた。

 あの人に連絡したの?

 尋ねたいのを懸命に耐えて、俺は小さく、忙しくはないよ、少しぼうっとしていたから、と答えた。

 今日は遅くなったし、赤いきつねにしない?おなかすいちゃった。久しぶりだし。

 彼女が甘えるように言う。俺は充電もできるが物を食べても燃料として利用できる。一緒に食事をすることは人と生きるには大切なことだ。

 買い置いていた赤いきつねのカップを渡すと、彼女は蓋を半分めくって付属の小袋を取り出した。振り入れるスープの粉はやはり少ない。

 お湯の量を確かめて、彼女にいいよと声をかけると、彼女は慎重に好みの量の湯を注いだ。いつものように指定の線より随分下だ。

 あの人に連絡したの?

 彼女は警戒心が強い。昨日の今日では連絡しないかもしれない。明日か。明後日か。あの男がこの町にいるのは今週だけだ。あの男が帰ってから連絡したら、彼女はこの町を出て知らない町まで行けるだろうか。

 でも、赤いきつねはどこにでもあるから大丈夫だよ。

 俺の言葉に彼女はえっ、と少し不思議そうな顔をしてから、でも東と西では味が違うらしいよ、と得意そうに言った。

 あの人は西の人なの?君はそんな遠くに行くの。

 俺は黙って頷き、自分の分の赤いきつねにお湯を入れた。

 明日は彼女の好きなオムライスでも作ろうか。彼女が行ってしまうまで、少しでも好きなものを食べさせたい。彼女の喜ぶ顔が見たい。だが彼女がそれを楽しみにしてしまって彼に夕食を誘われた時断ってしまったら本末転倒だから、言わないでおかないと。

 赤いきつねのカップを挟んで、ふたりで向かい合う。幸せだ。彼女がいる。温かいカップを挟んで、同じ時間を過ごしている。言葉なんていらない。

 いや、本当は彼女の声が聞きたい。話をしてほしい。名前を呼んでほしい。俺に優しい言葉をかけてほしい。

 それから、手を繋いで、抱きしめて、キスをしてほしい。

 心は貪欲だ。いつも先を求めてしまう。だから俺は幸せから目を逸らし、彼女をなるべく見ないで、赤いきつねだけを見つめた。俺が赤いきつねに求める幸せは、彼女に求めてしまうものより多くない。

 あの人に連絡したの。

 いつものように話を続けない俺に、彼女の言葉が途切れた。静けさは意識した途端耐えられなくなる。でも俺から何か言おうとすると、質問がこぼれてしまう。問い詰めて、この時間を壊してしまう。

 大きな瞳が俺を気遣う風に見つめてくるので、俺は時計を見た。お湯を入れた時間を覚えていない。

 時計の秒針が時を刻む。彼女との時間がこうして目に見えて過ぎていって、明日がきたらあの男がまた訪れて、彼女と新しい時間を刻む。時を重ねれば彼女の警戒心も解けるだろう。明日でなければ明後日、手を触れて、生きた声で言葉を交わせばいい。そこからはきっと感触が言葉を補い、心を繋いでくれるだろう。

 あの人のこと、好きになれそうかい。

 彼女が顔をあげた。俺は思わず出た小さな呟きを、しかし意識して繰り返した。

 君はあの人を好きになれそうか。

 彼女はすぐには答えなかった。俺の真意をはかりかねているようだった。

 出てしまった言葉は消せない。でもこれでいい。俺はやっと彼女に言った。

 君は人と生きるべきだと思う。

 俺とじゃない。

 柔らかな時間は壊れてしまった。俺が壊した。やっとできた。自分でも驚くほど突然に、自然に。

 彼じゃなくてもいい。誰か他の人を探してほしい。君が愛せる誰かを見つけてほしい。俺のことはもう愛してくれなくていい。

 あなたが人でなくなったから?

 彼女の声が震える。

 私がそうしてしまったから、あなたは私を遠ざけるの?

 俺は答えられなかった。そんなことは考えたことがなかった。これからも考えない。彼女がどうしたからではなくて、今俺がロボットだから。彼女に負担を与えないように説明することが難しい。

 今すぐでなくていい。ただ今までのように、俺しかいないと思わないでほしい。人はたくさんいるんだ。俺よりいい人もたくさんいる。きっと君が好きになれる人がいる。

 私はあなたがいいの。

 それを考え直してほしい。

 私はあなたが。

 考え直してくれ。どうか、お願いだから。

 俺は重ねて言い、これ以上の話を打ち切るために食べよう、と短く言って赤いきつねの蓋を開けた。

 俺の赤いきつねは見たことがない程ふやけて、カップいっぱいになっていた。そして窮屈そうな油揚げの上には銀の小袋が乗っていた。

 ああ、スープの粉忘れたんだ。

 おかしくなって俺は少し笑った。粉を改めて入れて、お湯を注ぎ足す。先に入れた分は麺に吸われてほとんどなくなってしまっていたから。

 お湯は少ししか入らなかった。仕方なく俺は麺をすする。ものすごくふやけている、だがまあこれはこれで食べられる。彼女はこれが好きなのか。

 君も食べないと、もうふにゃふにゃだよ。

 あの時あなたを失ったら、私はどうなるかわからなかった。だから、どんな形でもいいからあなたに戻ってほしかった。あなたが苦しむかもしれないと考える余裕もなく、私は私の思いだけであなたを勝手に振り回した。

 俺は箸を止めた。彼女は青ざめた顔で囁くように、ひどく暗い目で俺を見据えて続けた。

 あなたがどんなに苦しいか、私にはわからない。わかってあげられない。私はあなたを愛しているという思いしかない。あなたのためじゃない、私がそれだけなの。あなたが辛くても、私はあなたを愛している。それであなたが悩んでも、苦しんでも、私はやめなかった。

 他にたくさん人がいることをあなたは教えてくれた。その姿になって、あなたが私にそのことを教えたがってるのはよくわかった。でも私はあなたがいい。他にどれだけ人がいてもいなくても、私はあなたがいい。あなたがどんなに望んでも、苦しんでも、私は変わらない。

 俺は彼女を見た。ぞっとするような気持ちで。

 あの人を見た時、君は興味を持ったのかと思ったのに。

 ええ、懐かしかった。あなたに似ていたね。あなたの手を思い出した。

 彼ならまた君を抱きしめてくれるかもしれない。

 私はあなたに抱きしめてほしい。

 俺の手があんなに好きだったじゃないか。俺はもう。

 私はあなたがあなたならどんな姿でも構わない。

 俺は金属と電気だ。俺が何なのか俺にはわからない。俺が前の俺と何が同じなのか、どうして君が俺を俺だと思ってこだわるのか、わからない。

 俺を抱きしめるのと、ラジオを抱きしめるのと、何が違うんだろう。俺は君が好きな歌のひとつも歌えない分、ラジオにすら劣るんだ。人の体だったらせめて君を温められたのに。俺の心なんて電気がそうさせているだけの、電流が強まれば荒れて途切れれば乱れて、ただ反応で動くだけのものだ。そこから出た言葉なんて、君を何も満たさない。

 俺は言ってしまって、目を伏せた。こんなこと、泣き言のようなことを彼女に言ってしまっても、悲しませるだけなのに。でも、止まらなかった。

 彼女がふと立ち上がり、俺の隣に座った。俺は動けなかった。弱音をはいてしまった恥ずかしさと、優しさへの期待に体が固まった。

 抱きしめてほしい。その柔らかい腕で、この硬い金属を。

 全身で願った。口には出せないまま。

 彼女はわかってくれる。俺は知っている。だからその願いは気が遠くなるほど長い一瞬ののち、程なく叶う。

 あなたはあなたよ。私がそうだと思うから。

 彼女が俺の願う言葉を語る。手が俺を包み、頬が優しく触れる。俺の心が泣き出しそうだ。

 彼女はそのまま夢のように続けた。

 あなたが金属と電気の反応で動いているなら、私も有機物の反応で動いているのよ。何も違わない。金属が冷たくて悲しいなら、私が温める。私は冷えても大丈夫なのよ。あなたはいつも私を思って、気遣ってくれるから。私が寒がったら暖かくする方法を考えてくれる。

 あなたはいつもそうなのよ。あなたと私をつないでいるのは、あなたの体の温もりだけじゃない。言葉だけでもない。あなたの心はいつも私をあたたかくしてくれる。だからあなたがいいの。

 俺には心があるのだろうか。俺の心は彼女のものと同じところにあるのだろうか。

 でも彼女は俺の心をわかってくれた。俺の心は伝わっていた。

 俺は小さく尋ねた。

 俺も君を温められるのかな。

 もちろんよ。だから言って。お願い。


 愛しているよ。


 彼女が泣いている。きっと俺の代わりだ。だから俺には涙は必要ないのだ。

 

 そのあと食べた赤いきつねは、冷め切ってふやけすぎてさすがにひどい味だった。ふたりで笑いながら、何とか食べた。あんなにひどい幸せな味は、きっと一生忘れないだろう。

 あの男はきっちり1週間顔を出して、帰って行った。帰り際に、家族写真を見せられた。彼女は楽しそうに見ていたが俺は何だか腹が立った。連絡先は彼女が赤いきつねの日の翌日にきっちり返していた。だから腹は立ったが許す。彼の子供たちは兄の子供に少し似ていた。後で彼女に写真を見せよう。

 毒のカプセルはまだ彼女の中にあり、どうしていいのかわからない。しかし俺と彼女は変わっていける。手を繋ぎ合いながら、心を繋ぎながら、時を重ねればきっといい方法が見つかるだろう。だから、俺はせいぜい長生きしよう。


 次に食べる赤いきつねは、きっとそれぞれの好みのおいしい味だ。

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ロボットの俺と彼女と赤いきつね 澁澤 初飴 @azbora

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