38話 合理的な裏切り
エスティーが修道院の森で焚火をしていたのと同時刻、黄昏時のオスクリタ川のほとりに灰のローブを目深にかぶった者がやってきた。
足音を立てずに人気のない桟橋を歩き、どこかの釣り人が放っておいたのだろう古びた木箱に腰かける。
街が暮れなずむ。
対岸の様子はもうはっきりとは見えない。
家族なのか仕事仲間なのかわからない、複数人の集まりがゆったりとした足取りで川岸から離れていく。
灰のローブの者と帰路に就く人々、両者の間に横たわる飲み込まれそうなほど黒い川はそのせせらぎの
海の方角から風が吹く。
そして、固く冷たい何かが右肩に押し当てられたことに気づき、その人は妖しい微笑を浮かべた。
「
柄にあしらわれた銀の装飾がシャラリと音を立て、固く冷たい何かが灰のローブを薄く裂く。動脈の上にピタリと当てられた10センチほどのダガーナイフは確かな殺気を纏ってそこにあった。
「私も聞きましたよ。いいコンサートでしたね。そして、流石は彼の弟子と言ったところでしょうか。実に素敵な挨拶です。お元気そうで何よりですよ」
ローブの中から聞こえたのは睦言でも紡いでいるかのような甘やかな男の低音。
「貴様こそ息災らしいな……先生を裏切っておいて」
冷酷な声のその人は爛々と光るアッシュグリーンの瞳の中に怒気と殺気とから成る激情を押し込めていた。世に二つとない端正な顔がダガーナイフの刀身に映り込む。
男とスフェーンは一時、静寂の中に沈んでいた。命のやりとりをする際の特有の雰囲気だけがあたりを満たして、段々と世界が暗くなっていく。
彫刻のように形の整った唇が息を吸って音をこぼす。その瞬間、静寂は突如として破られた。
……どこか間抜けな木の軋む音によって。
キコキコキコキコ……
聞いただけでわかる下手な漕ぎ方で、船頭はようやく長い長い航海の目的地へとたどり着く。
「うっひぇ~疲れた~……ボートなんて生まれて初めて漕ぎましたよ~。もうすでに変な所が筋肉痛っすけど、おやぶ~ん夕飯、
立ち上がる直前の中腰のまま男は固まる。黒のジレが肩からずり落ちた。そのまま危うく小脇に抱えたバゲットまで落っことして、川に食べさせてしまうところであった。
「あ、え、お取込み中っすか!?うわすんません!!あの、目ぇ瞑っとくんで!!なるべくその……静かで痛くなさそうな
あたふたしつつ閉じた瞳の上にさらに手を置く。それでは音が直接入ってきてしまうということに気がついたのは、一呼吸おいてからのことだった。
「黒レンガのおんぼろボートですね。ここまで1キロほどでしょうか。ずぶの素人に漕がせる距離ではないと思いますが」
「泳ぐよりマシだろ」
「そうですね。泳ぎだとしたら横幅300メートル程度まで短くなりますが、白日の下でそんなことをしたら目立って目立って仕方ない。それ以前にパンは運べませんし。
個人としては、人目につかずオスクリタ川を泳ぎ切るなんて芸当ができる人、いたらお会いしたいですがね」
(同時刻、エスティーは盛大にくしゃみをしたという)
いいことを思いついたと言わんばかりに、甘やかな声音の男は嬉々として提案する。
「毒殺とかどうでしょう」
「貴様が毒如きで死ぬ人間だったら、俺は今ダガーを突き付けていない。俺の質問にさっさと答えろ。なぜ先生を裏切った……返答次第では、殺すぞ。ゴッシェ」
灰のローブの男、
「それが一番合理的だからですよ。あなたは誰より私を理解できるはずです」
彼はボートの上の男へ徐に顔を向ける。
「そこの賑やかな従僕さん。質問です。あなたはブルート兵の情報を握ってくるように誰かに仕向けられましたね」
「誰か……っつーか、そうっすね。行きつけの飯屋でよくわかんねぇおっさんに獅子の情報は金になるぞー特に諜報機関のメンバーの情報は飛びぬけて金になるーって言われて、
そう。ボートの上の男は、少し前にウェルナリスの酒場でブルート兵の情報を手に入れようとし、スフェーンに捕まえられたルイ・サドラーと言う男だった。
「狼の革靴を履いている洒落男の情報屋ルーベン……腕はいいと聞いておりましたが、想像以上です。短い期間で5幹部の内、4人の情報を少しですが手に入れた。ここまで情報を集めた人はあなたが初めてですよ」
「え?そうっすか~?」
「図に乗るな。悪趣味なお世辞だ」
親分の命令に元気よく返事をし、きりっとした表情を取り繕うも、口の端がひくひくと持ち上がっている。しばらく調子に乗っているだろう。三日たったら自慢話にしているかもしれない。
「さて、答え合わせの時間です。金をちらつかせ、あなたを動かしたのはきっと帝国の人間でしょう。彼らはどうしても会いたい人がいるんですよ。それについてもきっとご存じでしょう?」
「え……もしかしなくても」
これ以上は言うまでもない。二人はスフェーンに顔を向けた。
ルイにとっては昨日のことのように思われる、生きた心地がしなかったほどのあの衝撃。雲の裂け目から降り注ぐ月光が照らし出した双頭の鷲の徽章。
「
先ほどとは違う種類の苛立ちを隠せずに、スフェーンはニヒルな笑みを浮かべ言葉を投げつけた。
「つまりなんだ?俺のために裏切ったと言いたいわけか」
「えぇ。だって、個人主義者のあなたが釣りをしなければならないほど、ここリンディンは帝国の人間で溢れかえっていたのでしょう?
その状況を打開する一手として、シルトパットはうってつけでした。情報が知られ、百人弱の帝国の陰が一斉に襲い掛かってきたとしても、捕まる人ではないからです。
しかし諦めてその強者をフリーにしておく……というのも危険極まりない。故に、帝国の陰たちは捕まえられないとわかっていても彼を追いかけ、常に注意を払わねばならなくなった。結果、都に散らばっていた陰たちは大半が一部エリアに集中することになり、あなたは動きやすくなった。
違いますか?」
「あぁそうだな。ついでにお前も動きやすくなったわけだ。色々とな?
本当はそっちが主たる理由だろ」
「おや、久しぶりですね。あなたのその鋭利な眼差し。実に素敵で高揚してしまいます」
「相変わらず話の通じねぇ蛇野郎だな。俺の協力者がいなくなったことについてはどう落とし前つける気だ?得意の屁理屈で教えてくれよ」
「勿論です。そのお言葉をお待ちしておりました。あなたが気に入る
二、三瞬きした後、深いため息を吐く。そうしてすっかり殺気を失ったダガーはまたシャラリと涼やかな音を伴い、持ち主の懐へと収められた。
「とりあえず、話を聞いてやる」
「恐縮です。そもそも私はあなたの任務の答えとなる者を知っていた、はずでした。つい最近までね」
「どういう意味だ」
「エリザベス・ヴルュハーズィが修道騎士によって逮捕されたことはご存じですか?」
「あぁ。あの腐りきった一族がようやく掃除されたらしいとな。エメラダと先生が一枚噛んでる」
「なぜエメラダはあの場所へ行ったのでしょうかね」
「人が消える災いに見舞われている村への祈りをささげる、だったか。地方巡業みたいなものだろ」
「ここ10年ほどそんなことは一度もありませんでしたよ。姫が修道女になって初めて王都から出たんです」
ゴッシェの言わんとしたことをやり取りの中で察したらしい。修道院の方角に目を向け、眉間にしわを寄せる。
「……あの姫がエメラダを利用したと見てるわけか」
「えぇそうです。そう仮定すれば、現状のおかしさを理解できるでしょう?」
「あ、あの~……俺、なんも知らないんすけど。教えてもらってもいいですか……?」
緑の瞳が恐る恐る発言したルイを捉え、そういえばそうだな、とでも呟きそうな無表情を浮かべる。ローブの下でゴッシェも同じような顔をしているのだろうということはその場の雰囲気でなんとなくわかった。
やはりルイには不思議でならない。先ほどからこの人達は殺すだの何だのと物騒な言葉を交わしあっているはずなのに、心底呼吸がぴったりと合っているのだ。
――これが獅子同士の普通の距離感なのか……?それともこの人等がこうなだけ……?
八の字眉で考え込む彼のことを、ゴッシェは灰のローブの闇の中からじっくりと観察し終えて、また含みのある微笑をこぼす。
「なかなか出来た従僕ですね。あなたに対する負の感情を一滴も持ち合わせていないようですよ」
「え?そりゃあ最初は怖かったっすけど、飯はくれるし?金もくれるし?まともな場所で眠れるし?裏切る理由がないっすね~!!一生親分の腰巾着で構わないっす」
先ほどからスフェーンはイライラしていた。男の風上にも置けないことを能天気に言い放っている自分の駒にではない。親分親分と言う度に、ローブの中で笑いを堪えている紳士然としたこの男にだ。
なんだか非常に気に食わない気持ちは舌打ちに込めて吐き出してしまい、話の流れを強引に戻す。
「俺はブルート公からラピスと帝国の繋がりを断つことを命じられている」
「繋がりって言っても、歴史の面から見て、お互い完全に敵国同士っすよね?あ、でも、リンディンは帝国の人間で溢れかえっていたってさっき言ってましたし、そーなると……水面下でこっそり繋がってるってわけですか」
「えぇ。繋がっているのは確か。ですが、それが誰なのか未だわかっていません。現王は帝国とゴーネルを真っ向から拒否する姿勢をとっていますし、そこらの貴族のことなど、もう調べがついている。
ですが、一人だけ、私には心当たりがあるのです」
「誰なんすか……?」
「キャンディッド・ロワ・サンティエ。最後の内乱の生き残りの姫君です」
「その人が帝国と繋がってるとしたら、地方巡業的なことも…………ゴンザレス?的な人が逮捕されたとかいうことも、なんかおかしいことなんです?」
「エリザベスだ。ゴンザレスだと男になるだろうが」
「あっ確かに……!!」
――確かにじゃねぇよ!!
再び緊張感が失われたこの場の空気をリセットするように、めいっぱいかぶりを振るので、金の髪がいつになく乱れてしまう。
「あのヴルュハーズィの女の名前がゴンザレスだろうがなんだろうがそんなことはどうでもいいんだ……!
問題は、帝国の仕掛けた罠を帝国と繋がってるはずの姫が取り除いたってことにあるんだよ」
「ゴンザベスの詳しいことはわかんないっすけど、何が起こったかはなんとなく。それは確かにおかしいっすね……?そういや、確か姫のもとに潜入してるエメラダさん?がいたんでしたよね」
急にゴッシェがスフェーンを見遣る。
「エメラダのことだけ教えていたわけですか。微笑ましくもあり、羨ましくもありますね。私のことも誰かに話して構いませんが」
「一生無い。諦めろ」
両手で頭を鷲掴みにして向けられた顔を力づくで逸らす。
「その人が獅子だってバレてません?知られたうえでこき使われてるかもってことですか?」
「私はそう仮定していますね。エメラダを手中に収め、帝国を裏切るような真似をした姫。彼女の行動の謎の裏には我々の与り知らぬ誰かが存在しているのかもしれません」
「少し飛躍した説だが、ありえない話だというわけでもない。問題はこれを受けて帝国がどう出てくるのかだ……早く動かないと手遅れになるかもしれない」
「どういうことっすか……?」
「Les carottes sont cuites……その時が近いのですよ」
「え急にニンジンの話っすか……?」
ここにいる時間はもう無いのか「本日はここまでにしましょう」というと、ゴッシェは首を傾げているルイと入れ替わりでボートに乗りこむ。ローブの中から取り出したランタンに火を灯すため、マッチを擦りながら、今宵結ばれた協力者に素敵な提案を差し出す。
「あなたは当然、姫の情報が必要になるわけですよね。私の権限で明日だけ警備を緩めることになっています。深夜、ドラート塔にお越しください」
「ラピスの公文書が保存されてあるロワの書庫、だったか。そこ以外にも行きたいところがある」
「どちらへ」
「最後の内乱の部屋だ」
船首へ吊るしたランタンの橙が揺らめく。久方ぶりに確かな予感がした。再び胸の内に湧く高揚感に抗うことなどできるはずもなく、微笑は崩れ、一際整った三日月が浮かぶ。
「理由は……≪直感≫ですか」
「わかってるなら聞くな。そのニヤつきもやめろ」
「失礼いたしました。ですがどうかお許しを。私は昔からあなたのそれが堪らなく好きなんですよ」
また変なこと言いだしたなと面倒そうに明後日の方向を見遣り、スフェーンは踵返して去っていった。慌ててルイが追いかける。
「鋭利で美しい素敵なあなた。また明日会いましょう」
ため息まで甘やかな別れの挨拶はせせらぎの音に解けて、黒い川の上に灯った橙はゆっくりと遠ざかっていった。
身代わり姫と宝石の騎士 宿理漣緒 @syasya212
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