37話 萌芽と夏夜

 我ながらひどい目にあった一日だと修道院の壁を登りながら振り返る。

 夜風にさらされ冷えた石の温度が掌に伝わって心地がいい。開け放たれていた窓からそのまま部屋の中へ入る。寝台脇の木椅子に腰かけていた部屋の主はいつも通りの冷静な赤と紫のオッドアイだけを俺に向ける。


「確かに何か食べるにはちょうどいい時間ですが、あなたにしてはずいぶんと遅かったですね。トラブルでもあったんですか」

「そんなところだ……」


『Brique noire de la troisième ruelle!』


 帝国の人間とのチェイスの中、シルトパットの発した言葉通り、俺はそこへたどり着いた。建っていた黒レンガの家は鍵がかかっておらず、家具一つないがらんどう。ここに身を隠していろと言うことなのだろうか、でもあいつがそんな指示を出すのかと考え、うろついていると、中央のレンガの付近だけ足音が違うことに気がついた。

 取り外すと地下への穴が掘られていて、進んだ先にはオスクリタ川に続く隠し運河が流れていた。

 そこからひたすらひたすら泳いで……対岸にあがって……ずぶ濡れなのをどうにかしつつ、だいぶ大外回りで戻り、現在に至る……

 問題なのはシルトパットに接触できたものの……重要な情報のやりとりが全くできなかったことだ。あいつのことは何もかも帝国に知られてしまっているらしいから、今後は合わない方が良い。

 なんだが……今、あいつの計画通りに話を聞かなかったことを本当に後悔している。

 送られてきた手紙についてだ。

 確認したところ、あの日ディディエを攫ったかもしれない貴族達の情報が事細かに書いてあったものなんだが……


『ゴーネリアンクラレンスジェジー派主力貴族 当主が死去。長男に変わる。加えてレギアグラナータ派と緊張状態故、早急に潜入したものの収穫無し。今後もマーク。追記 本件には一切関係が無いことを確認』


だの


『純正ロワ派主力貴族 現在は中立の模様。マークしているが本件に関わっている可能性は低い。追記 レギアグラナータ派になるもやはり関係なし』


だのと書かれている。この文字の意味を正しく理解するには、明らかに俺の苦手な政治の知識が必要不可欠……でなければ、シルトパットがディディエを探す際に何を指標にしていたのかわからない。俺が今後どう動くべきかも定まらない。

 しかし、現状……理解の糸口が全くないわけではない。レギアグラナータと言う言葉はどこかで聞き覚えがある……確か、キャンディッドが口にしていた気がするが……


「まぁいい。とりあえず約束の物を持ってきた。考えるのは腹を満たしてからにする」


 修道院の裏の森で服を乾かすついでに塩漬け肉と卵に火を入れてきた。鉄製のフライパンにミスマッチな片手鍋の蓋をのせたものを革袋の中に入れて運んできたから、当然のことだが、すっかり冷めている。

 それでも、最近の薄味に舌が慣れてしまっていた俺にとってはこの上なくおいしいものに感じられるのだ。油分も自分好みの塩味も懐かしいような、でも、当たり前のような。


「悪い。ちょっと塩っぽいか?」


 あいつにそう聞いたが、杞憂だったらしい。いつもは姿勢を崩さずベールの下に一定の速度でスプーンを運んでいるのに、今は長い髪を結って、一口、また一口と食べる量が増えていっている。

 心なしか顔が緩んでいる。昼間はかなり弱っていたように見えたんだが、大丈夫そうだな。


「油は少ない部位を選んだが、明日になって胃が荒れるのも困るし、これも飲んでおけ」


 フライパンと同じく革袋に詰めていた水筒を取り出し、寝台脇に置いてあったコップに注いで渡す。

 夏の夜に似つかわしい爽やかな香りが一気に広がった。


「ミントティー……ですか」


 受け取りはした。けれど、コップを両手で包んだまま動きが止まる。


「苦手か?」


 微動だにしないまま首だけを左右に振る。


「じゃあ、ちょっとくらいは飲んでおけ。さっさと治したいならな」

「随分と手厚い対応ですね」

「ブルート兵の前は薬屋だったからな。病人には親切にもなる」

「そういうところ……」


 急に何かを思い出したようにミントティーを一気に飲み込む。

 あいつの何度目かのらしくない行動に俺はただただ困惑する。今日はこんなことばかりだな。


「おい……どうしたお前」

「……そういうところが……殺しの一つもできない理由ですねとついつい言ってしまいそうになりまして」


 ……あぁ、そうだ。俺はあの日と同じ経路でこいつの部屋にやってきたんだった。しかも今日は殺しが目的ではなく、人目を避けてまで、標的ターゲットの看病に来たわけだが。


「そんな気遣いができるとは知らなかった。ところで全て言ってるから意味無いんだが」

「失礼しました。なるべく早く忘れてください。それで、腹を満たしたわけですが、あなたが何かを考える、というのに私も必要なんですよね」

「2割増しの早口でごまかされた気がしないでもないが、まぁそうだな。そんだけ元気ならさっさと本題に入れる。お前レギアグラナータっていつだったか言ってなかったか」

「レギアグラナータはレギア公グラナータのことだと思います。あなたも会ったことがありますよ。偽の青石をつけている現王のことです」


 いつだったかゴッシェにKEの手紙を出したとき、キャンディッドが言っていたんだ。確か現王で跡継ぎ問題を抱えてる、名君とは言えない初老のおっさん……だったか。

 つまり『レギアグラナータ派』とは現王の派閥。手紙の書き方から見て、貴族たちの政治上の立場をシルトパットはかなり気にしていたらしい。初めにスフェーンも言っていた。内乱によって齎されたのが民の犠牲と貴族の分断だと。

 待てよ……今度の太聖会について、ガミガミコリンはなんて言ってた……?


『今年は太聖会の年だ!加えてグラナータ・レ・アヴィーレギア様治世十年の節目の年……盛大な祈りの会を開くことが春先から決定していただろう!』


 十年前……スフェーンは確か


『十年前、当時亡くなった王の息子二人……つまり王子達が、戴冠式の前日、式典準備のために滞在していたドラート塔から姿を消した』


 そうだ。最期の内乱によってレギア公は王になったんだ。俺はそれを間接的に知っていたじゃないか。

 あの日。ディディエが居なくなった日。シルトパットと初めて会った日。


『この頃の国境は危ないよ。遠路はるばる来たのに突っ返されて、気が立ってるおじさんたちが跋扈しているからね』

『ラピスで戴冠式が延期になったんだ』


 最期の内乱による貴族の分断。大きく動いた政治情勢……派閥争いのためにディディエは何者かに連れ去られたと考えたらどうなる。

 ディディエは普通の女の子だ。派閥争いに巻き込まれる理由など何一つない。だが、ニジェルの黒髪の薬屋と間違えられたのだとしたら、俺に何をさせたかったのか。


 懐からもう一度手紙を取り出す。


『ゴーネリアンクラレンスジェジー派主力貴族 当主が死去。長男に変わる。加えてレギアグラナータ派と緊張状態故、早急に潜入したものの収穫無し。今後もマーク。追記 本件には一切関係が無いことを確認』


 理解できない文章のはずだった。だが、俺に何をさせたかったのかという考えと照らし合わせると、ある場所が浮かび上がって見えてくる。

 当主の死。その理由が病や老衰ではないとしたら。薬屋である俺に毒薬を作らせたかったのだとしたら。ニジェルの黒髪の薬屋は派閥争いにおいて有用な駒となるかもしれない。

 次に調べた貴族も、その次に調べた貴族も、誰かが亡くなった家であることに加えて緊張状態だと記されている。

 これがシルトパットの標ならば……やはり、ディディエは今もどこかで生きている可能性が高い。

 胸の内に湧き出た感情は一抹の期待と安堵だけではない。同時に俺は苦しさを覚えた。

  有用な駒である限り貴族たちはディディエを生かしておくだろう。だが、毒薬を作れと言われたらディディエはどうする。キャンディッドを殺しに来た俺と同じ気持ちでいるんじゃないか。

 やはりそうだ。迷ってる暇なんてない。

 シルトパットの情報を使ってさらに候補を絞り、探し出す。しかも良いタイミングで最適なイベントが転がっているじゃないか。


『そうなるかもしれないのが今回の太聖会だよ』


 あの言葉の真の意味はまだわからないが、政治情勢が再び大きく動こうとしているのはわかる。帝国の人間が現れるほどにな。


「クラレンスジェジーとロワは誰を指すんだ」

「ロワは恐らく私の父とされているロワ4世のことでしょうが、クラレンスジェジーの方は詳しくわかりません。クラレンス公なる者がいたことはわかるのですが」

「だったら、現王家……いや、この国の王家や貴族についての情報が欲しい。なるべく早くな。適所に心当たりはないか」

「ただ一つあります。私もあなたにそのことで協力してもらおうと考えていました」

「何をだ」

「明日……亡くなった兄たちを思い出したいからという理由でドラート塔の書庫に入ることを承知させました。行くのは昼間ですが、私の目の性質上、夜でなければ本を見ることができません。

ですので、魔法によって鍵を複製した後、秘密裏に侵入します。

あなたには侵入の手助けと一度だけでいいので、私の手に鍵を握らせてほしいのです」

「侵入するのはいつだ」

「明日の夜。そのまま……警備が手薄になるとコリンたちが話しているのを聞きました。明日を逃せば二度と立ち入ることができないでしょう」

「わかった。相応の用意をしておく」


 空になったフライパンやらを手早く革袋にしまい込んで、腰のベルトに吊り下げる。そのまま背を向けて窓枠に足をかけたとき、思わず口をついて出た。


「どうしてだ」


 正直、驚いていた。あいつが自らリスクの高い行動を選び取ったということに。


「知る必要がありますか。あなたの邪魔にはなっていないはずですよ」


 予想はしていたが、答える気はないらしい。こうなった場合の頑固さはよく知っている。ヒュドラに追いかけられた時も来るなって言ったのについてきたしな。


「考えていることが顔に出過ぎですよ。ブルート兵だとは思えないですね」

「うるさい。一生これで食って行く気はないからいいんだよ」


 それにお前だって人のこと言えないだろ、と言うのはなんとなくやめておいた。身代わりのキャンディッドじゃない、こいつの中に息づいているとのやり取りは悪くないと思っている。


「なぁ」


 また口をついて出た。足をかけたままの体勢なのに。特に何も考えていないのに。


「その顔は初めて見ます。何を考えているんですか」

「なんだろうな。いや……そうだ。お前、あのじいさんに会ったか」

「オルフェオさんのことですか。お会いしてはいません。足音が聞こえたので表の戸が開く前に立ち去りました。何か気になりますか」


 あの後じいさんとビアンカはどうなったんだろう。今、どんな顔してすごしているんだろう。ディディエのことを考えたからか無性に知りたくなる。


「お前よく言うだろ。どんな姿でもいいのかって。もし、あの時ビアンカみたいにすべてを終わらせようとしたら……は、ちょっと違うか?

もしも、俺の探してる子が、生きるために誰かの何かを奪ってしまったとしたら」


 夢を見ていた。霧の中を我武者羅に走る夢を。

 こんな俺でも君は会ってくれるのか。

 こんなに汚くなってしまった俺を、君は受け入れてくれるのか。


 同じ気持ちでいるのだとしたら、俺は夢の中の君と同じ行動をとる。


「俺はやっぱり会いに行きたいと思うし、ビアンカにかけた言葉をそのまま送りたいと思ったよ」


 ふと冷静になって顔をそらす。こいつにとっては何の脈絡もない上、とりとめのないことを語り聞かせてしまったことがなんだか今更恥ずかしくなってきた。


「すまん、覚えてないよな。本当は何も考えてなかった。こう長々話して、コリンが来たらまずいからな。換気だけはしとけよ。とりあえず帰る」


 言い逃げしたら、いつも以上に早く壁を下り、地面に着地して空を仰ぐ。深呼吸をしても、星を見ながら歩いても、体の妙な浮遊感が離れてくれない。

当たり前か。ディディエのことをどう思ってるのかなんて誰にも言ったことが無いのに、うっかりこぼしてしまったから……


あぁぁぁぁぁ!もういい切り替えろ!やることがあるだろ明日は!


 侵入経路の確認、諸々の情報収集、やるべきことを指折り数えていると、どうしてかさっき自分が考えたことに間違いがあると気がつく。

 あいつが自らリスクの高い行動を選び取ったことはこれまでにも何度かあった。俺相手の契約も、ヒュドラの誘導も、ビアンカとのことも。

 あの時アウィンが来なかったら、あいつはビアンカと一人で決着をつける気だった。俺を階段から突き落としてまでだ。


『あなたは誰かの命を奪うことができないでしょう。だから…………』


 あの時あいつは、いつもの無表情じゃなかった。昔、母さんが拗ねた俺を宥めている時と同じ表情をしていた。あれは、あいつのの表情?あれはあいつのの言葉?

 どうしていつも俺を庇うように動く。雇い主の義理か。魔女の同胞意識か。

 投げかけることのない問いが浮かんで浮かんでしょうがない。


 理由は当にわかっている。俺はあいつを殺したくないんだ。


 明日書庫に入れば、王族や貴族の情報が手に入る。勿論、あいつを身代わりにした本物の姫の情報もだ。

 ずっと考えていた。胸の中に居座り続ける不快な物を取り除きつつ、全てを手に入れる方法を。

 ディディエを探しつつ、本物の姫も探しだすことができたら。十字架のタトゥーを刻んだあの呪いを解かせることができたとしたら、あいつはキャンディッドから解放されるかもしれない。

 そうしたら俺はあいつを殺さずに済むんじゃないか。






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 正直者のブルート兵は、いつもならば気づけた背後からの視線も今日に限っては反応することができなかった。

 星を見ながら足早に歩くエスティー・ベルナーの後姿を見ていた者が二人いた。

 一人は塔の上から。開け放たれた窓から少し身を乗り出して、夜闇に吞まれたはずの小さな彼の姿をしっかりと捉えていた。

 そうしてもう一人は塔の上のその人をも視界に捉えて、ただ愕然としていた。長い髪が夜風に弄ばれている。肌身離さずつけているベールのついた帽子をかぶっていないからだ。

 帽子をかぶらずに、彼を見ているのか。

 彼女がどんな表情でそうしているのかはここからでは見えない。しかし、明らかに、何かが壊れてしまう感覚がした。


「姫さま……」


 乾いた唇からその呟きだけが零れ落ちる。ディープバイオレットの瞳は目の前の現実から逃げられずに、ただ不安そうに揺れていた。

 



 








 





 



 

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