12

「縫う? どこをですか?」


 ニニはびっくりして思わず尋ねた。


「テオの脚だよ。そのままにしておいても傷は塞がるけど、縫ったほうが早く治る」


 答えながらダンタリオンはまたもやいくつかの抽斗を開けたり閉めたりして、針と糸、そして小さな洋灯ランプを持ってきた。

 指先を軽くはじいて洋灯ランプに火を灯し、糸を通した針の先をあぶる。傷口の周囲になにやら爽やかな匂いのする液体を塗りつけたあと、ダンタリオンは針をつまんで、カーバンクルの裂けた皮膚を縫いはじめた。


「……魔術は使わないんですね」


 すぐ目の前で細かく往復する針先を見つめながらニニは言う。


「大型獣なら迷わず使うけどね。このカーバンクルはまだ小さすぎて、他者の魔力が負担になる。弱った身体をさらに痛めつけることになるから、縫ったほうがいいんだ」


 掌をただひらひらさせるだけで空中からお菓子や果実水を取り出したり、籠いっぱいに月光草を摘み取ったり、なんならその身を転移させることさえできる悪魔の力を、ニニは純粋に称賛し、万能だとさえ思っていた。けれど、どうやらそうでもないらしい。

 ニニがそう言うとダンタリオンは優しげに笑った。


「どんなものにも使い方がある。ほら、もう終わった。離してかまわないよ」


 ニニはそうっとカーバンクルの身体を解放した。テオは傷をかばうようにその場でくるりと丸くなった。


蝙蝠こうもりたちに言って毛布を持ってきてもらおう。この籠に寝床を作ってやるんだ」


 ニニは差し出された籠を持ち、窓際の長椅子ソファに置いた。すぐに一匹の蝙蝠がやってきて、キイキイと鳴くので、主人ムシューの言葉のとおりに毛布を頼む。

 蝙蝠が戻ってくるのを待つあいだ、ニニは少し離れたところからあるじが診療室を片づける様子をぼんやりと眺めていた。


 ダンタリオンは魔力を使って離れたところにある抽斗からボロ布を取り出したり、盥に水を注いだりする一方、みずからの手で診察台を拭き清めたり、手術に使った針やはさみを洗ったりしていた。無駄のない動きは整然としていて、その姿はどこか美しくさえある。

 ああしていると、主人ムシューはだれの手も必要としていないように見える、とニニは思った。蝙蝠たちやわたしのような使い魔などいなくても、なんの不足も不自由もなく暮らしていけるのだろう。

 なのに、どうして彼は蝙蝠たちを屋敷に置き、わたしに、使い魔にならないか、と持ちかけてきたのか。

 尋ねれば彼はきっとこう答える。


  ――便利だから。

  ――精気エネルギーが欲しいから。


 うそではないだろう。でも、本当でもない。たぶん。


 主人ムシューがわたしに本心を明かしてくれるときはくるのかしら、とニニは思った。そして、同時に、それほどまでに長い時間をここで過ごすつもりになっているらしい自分に、少しだけあきれる。魔界はわたしの居場所なんかじゃないっていうのに。


 キイキイ、という鳴き声とともに、ばさり、と毛布が降ってきた。

 ニニははっとわれに返り、急いで毛布を籠に詰める。診察台に歩み寄り、慎重な手つきでテオの身体を持ち上げた。

 灰白色のカーバンクルの身体を毛布でくるんでやりながら、ニニは口を開いた。


主人ムシュー、さっきの話ですけど ……」

「さっきの話? どの話?」

主人ムシューの瞳の色の話です」


 ああ、あれか、とダンタリオンは顔をしかめた。片づけをあらかた終えて、診察台に寄りかかるようにしてなんとなくくつろいでいたはずが、いつもどおりの背中を伸ばした姿勢に戻ってしまっている。この話題を歓迎していないことは明らかだった。

 だが、ニニはめげない。


「右と左で色が違うのが、本当なんですよね?」


 ダンタリオンは返事をしなかった。


「なんで、色を変えてるんですか?」

「……意味はないと言ったよね」


 ニニは身体を丸めたテオがやすむ籠を持って立ち上がった。そして、まっすぐに己のあるじたる悪魔を見つめる。


「わたし、怖がったりしないですよ。主人ムシューが悪魔だっていうこと、ちゃんとわかってるつもりです」


 ダンタリオンは表情を変えることも言葉を発することもなく、ただニニを見つめる。

 ニニはしばらくのあいだひるむことなく彼を見つめ返していたが、やがて気まずさから少しずつうつむいていく。どうしよう、と彼女は思った。主人ムシューを怒らせてしまったかしら。いますぐに謝ったほうがいいの? それとも、このまま診療室を出ていったほうがいい?

 どうしたらよいか判断がつかず、ズボンの太腿ふとももあたりをぎゅっと握り、唇をみ締めたそのときだ。


「いいかげん昼食にするぞ、ダンタリオン!」


 遠慮のない声量で呼ばわる声に続き、扉を派手に開ける音が診療室に響き渡った。声の主はこの屋敷のもうひとりの住人、さきほどのベルフェゴールである。


「せっかく支度を調えたっていうのに、おまえたちが全然出てこないせいで蝙蝠どもがばたばたばたばたうるさくてかなわん。ここに閉じこもるのはやめろ!」


 蝙蝠たちは主人ムシューの許しがないかぎり、診療室に立ち入ることができない。さきほど、テオのための毛布を届けてくれた一匹が室内まで飛んでくることができたのは、言いつけられた品を持ってきたからだ。


「……ベルフェゴール」


 ダンタリオンがため息をつくも、図々ずうずうしい居候はまるでこたえた様子がない。


「俺は腹が減った。今日は黄金麦こがねむぎを使ったパンペルデュらしい。あれは美味うまい。冷めないうちに食うぞ」


 ベルフェゴールの声はよく通る。

 おかげでテオの目が覚めてしまった。小さな鳴き声をあげて耳を立て、大きな目を見開いている。その瞳はなんとも鮮やかな緋色ひいろをしていた。

 ニニは手を伸ばし、少しでも落ち着くようにとテオの頭をなでてやる。卵と牛乳、蜂蜜をたっぷり使ったパンペルデュにはもちろん心が躍る。だが、それにしてもなんという迷惑な大声だ。


「パンペルデュはおまえも好きだろう、ダンタリオン。早く食おう」


 ニニたちのあいだに漂っていたぎこちない気配を察していないはずがないだろうに、空気を読まないベルフェゴールは、しつこくダンタリオンを食堂へと誘う。

 ダンタリオンはしばし瞑目めいもくし、やがて、小さなため息をついた。

 顔を上げ、険のない眼差しでニニを見つめる。


「だ、そうだよ、ニニ。おいで、昼食にしよう。おまえもおなかいただろう。パンペルデュは熱々のうちに食べなくちゃね」


 今日は朝からよく働いたから、と主人ムシューは使い魔をねぎらってくれる。笑みの含まれたその眼差しは、 ――ひわもえに若草。

 ニニは大きく目を見張った。


「はい。いただきます」


 主人ムシューの瞳についてのよけいな言葉をみこんだニニは、テオが身を横たえる籠をしっかりと抱きかかえ、彼のそばに急ぐ。その頬にはとし相応の朗らかな笑みが浮かんでいた。







★この続きは12月15日発売の富士見L文庫

『魔獣医とわたし 灰の世界に緑の言ノ葉』でお楽しみください!★

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魔獣医とわたし 灰の世界に緑の言ノ葉 三角くるみ/富士見L文庫 @lbunko

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