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 氷でもまとっているかのごとくにきらめく長い銀髪、深い黄金色の瞳。飾り気のないげっぱくのローブに身を包んだ彼はこの屋敷に暮らすもうひとりの悪魔、ニニからすると居候としか呼びようのない存在だ。

 名をベルフェゴールという。


「……なんだ、そいつは」


 ベルフェゴールの視線は、ニニの胸元にくったりと身を預けた灰白色のカーバンクルに向けられている。


「月光草の群生地で拾った。フェンリルに追いかけられていてな」

「またよけいな契約を結んだってわけか」

「……よけいではない」


 ベルフェゴールが思いきり顔をしかめるのが見えたので、ニニはそうっと移動して主人ムシューのマントの陰に隠れようとする。


「よけいだろ。そこのクソガキと同じだ」


 ダンタリオンは使い魔を診療室へ隠してしまおうとでもするかのように、彼女の背中を強く押した。


「クソガキじゃない。ニニだ。僕はこれから治療がある。話ならあとで頼む」


 ベルフェゴールは不満げに双眸そうぼうすがめた。ダンタリオンはそんな彼を相手にせず、診療室へと足を踏み入れる。静かに扉を閉めたのは、居候に対するせめてもの気遣いだろう。


「テオを診察台へ」


 天井の高い診療室の中央に、大型の患畜も載せられる広い診察台がしつらえられている。その上に小さなカーバンクルを横たえると、不安になるほどに頼りなく弱々しく見えた。

 テオはまぶたを震わせたものの、その瞳を見せてくれることはない。青緑の宝石も心ななしかその輝きをくしているようだ。


「大丈夫。テオの額の石はアレキサンドライトといって、光源によって色を変える。いま赤紫に見えているのは、室内にいるからだよ」


 丁寧に教えてくれたあと、ダンタリオンは、本当に珍しいな、とひとことつぶやいた。


「なにがですか?」

「カーバンクルの額にはルビーやサファイアが嵌まっていることが多い。アレキサンドライトとはなかなかに希少価値がある」


 そうなのか、とニニはさしたる関心を抱かなかった。生まれてこのかた宝石など見たことがなかったし、これからもテオのそれ以外目にする機会もなさそうだったからだ。珍し かろうがそうでなかろうが、どうだっていい。

 ニニがそう答えると、ダンタリオンは苦く笑った。


「……魔界にも人間界にもたちの悪い蒐集家コレクターがいる。ニニはテオの飼い主だ。気をつけてやらないといけない、という意味だよ」

「それって、テオがさらわれて宝石を取られちゃうかもしれないっていうことですか?」


 ダンタリオンは唇を軽く歪める仕草だけでニニの言葉を肯定した。


「わたしが、飼い主?」

「さっき名前をつけてやっただろう」

「でも、契約したのは主人ムシューですよ」


 契約の文言にはニニの名前も織りこんでおいたんだよ、となんでもないことのように悪魔は言った。


「テオを飼うことを決めたのはおまえだろう 責任は果たさないとね」


 契約の重みを理由に一度はテオを見捨てようとしたくせに、勝手にわたしを当事者にするとはどういう了見なの、とも思ったが、ダンタリオンの言うことに間違いはないような気がした。なにより、もとからテオを放り出す気などないニニには、あるじの言葉を拒む理由がない。


 診療室の壁一面には大小さまざまなたくさんのひきだしが作りつけられている。ダンタリオンはそのうちのいくつかを開けたり閉めたりして、必要な薬草や瓶に入った液体などを取り出していた。

 日頃のニニは診療室へ入れてもらえない。まだ駆け出しの使い魔である彼女は魔獣医の仕事の役には立たないし、ここを訪れる悪魔たちのなかにはさきほどのベルフェゴールのように、元人間であるニニを快く思わない者も少なくないからだ。


 ニニはきょろきょろと落ち着きなくあたりを見まわす。部屋の真ん中に置かれた診察台、抽斗の合間に隠されるように設えられた作業台、部屋の隅には崩れるか崩れないか絶妙な均衡で積み重ねられたたくさんのおけたらい。半円を描く窓際には、居間に置かれているものよりも多少は見栄えのする布張りの長椅子ソファが一脚とひとりがけの椅子が二脚、それらとそろいの意匠が施された洋卓テーブルが置かれていた。

 テオが小さく鳴いた。ダンタリオンに与えられた薬で目が覚めたらしい。ニニは慌てて診察台に視線を戻し、獣の頭をなでようとする。


「ニニ、テオを仰向けにしてしっかり身体からだを押さえて」


 あるじの言葉を受けて、ニニは手早くコートを脱いだ。ときねずいろのシャツと山鳩色やまばといろのズボン姿はまるで少年のようだが、彼女はいまのこの服装をとても気に入っている。シャツもズボンもどちらも麻のように丈夫ながら、やわらかい綿のように肌触りがよく、なにより清潔だ。邪魔くさいボンネットをかぶる必要のないことも、とてもうれしい。

 ダンタリオンの指示に従って、てのひらと腕を使って小さな獣の身体を保定する。


「そう、上手だね、ニニ」

「家畜の世話はネリとわたしの仕事だったんです」


 テオはとてもおとなしいから、泥の中を暴れまわる鶏を捕まえておくよりよほど簡単です、とニニは答えた。


「蹴ったりつついたり飛びかかったりしないもの」

「……大変そうだな」


 それでも弟や妹の世話に比べればたいしたことはなかった、とは口にしなかった。

 雨に濡れようと、雪に凍えようと、家鴨あひるや鶏や豚や羊の相手をしているほうが、気まぐれにしかこどもの世話をしない継母ままははの仕切る家の中にいるよりはずっとましだった。まともな食事や衣服や寝床を、幼い弟と妹のぶんまで確保することは、ニニたちにとってとても大変なことだったのだ。

 でも、そんなことはもうどうでもいい。もし、この先うまくネリを見つけ出し、人間の世界に戻ることができたら、あんな家には帰らないつもりだ。大きな街に出ればニニにもできる仕事があるだろう。どうにかして働き口を見つけ、給金をもらって暮らすのだ。ネリとふたりならどうにかなる。大姉おおねえさんたちだって力を貸してくれるかもしれない。


 ダンタリオンは節の目立つ指先で、丁寧にテオのけがの具合を確かめている。脚の付け根の傷がとくにひどいようだった。


「少し縫ったほうがよさそうだな」

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