第6話 また会えることを知っている
田舎のコンビニの前にある無意味に大きな駐車場を渡り歩く。暑い。つらい。汗がぽたりぽたりと黒いアスファルトに落ちる。学校へ行くと嘘をついて家を出たから、着なれない学生服の白いYシャツが不快だった。上のボタンを外して手で仰ぐ。
小さな虫の死骸がついたガラスの扉を手前に引く。刺し障りのない音といっしよに冷たい風が体に吹き込む。中に入るとレジの前でやたら大きな外人の男が、何かを店員に訴えていた。鋲が多めの黒い革ジャンにウエーブがかかった金色の長い髪。ミラーサングラスに無精髭といういかにもな格好をしている。こんな田舎には不釣り合いを通り越して異次元だ。自分の父親ぐらいに見える店員は言葉がわからないらしく、わっつ?とか、適当な英語を返していた。
関わらないほうがいいかな……。
僕はそれを遠巻きに見ながら目的のものをカゴに入れていく。田舎のコンビニにはだいたい何でも揃っている。僕みたいなのがこんなのを買っても誰も何も言わない。アイスのショーケースの前でふと足が止まる。これからアイス? おかしくない? ……まあ、どうでもいいか。ソーダ味の棒アイスをひとつカゴへと入れた。
レジの前ではまだ男の外人が店員と通じない会話を続けていた。
「Haista vittu!!
Miksi et ymmärrä, mistä puhun?
En ole ryöstäjä.
Palaan mieluummin maalle ja hieron äitini persettä kuin ryöstän tällaisen pikkukaupan.
Pyydät minua vain etsimään puhelimesi, koska sinulla ei ole sitä.
Miksi olet niin peloissasi?
Olet niin epäkohtelias. Kuole! Kuole miljoona kertaa!!」
「そ、そーりー。あいきゃんとすぴーくいんぐりっしゅ……。困ったな、警察呼ぶか……」
身振り手振りを大げさに振るっている外人の後ろに並ぶ。いつまでも言い合いをしている。カゴの中のアイスが汗をかき出す。
……僕はいつでも思い通りにならない。暗い物がよぎる。どうしようもなくなって、僕はだめもとでその外人へ声をかける。
「めいあいへるぷゆー?」
何かお手伝いしますか? 学校に行けてた頃の授業で習って、かすかに記憶に残ってたフレーズを言う。発音もめちゃくちゃだろう。それでも何か通じたらしく、彼は僕にすがりつくように言う。
「Voitteko auttaa minua? Sinun on autettava minua.
He kohtelevat minua kuin varasta.
Vaikka olenkin sinua isompi, se ei tarkoita, että olen varas.
Kerro tälle myyjälle. Etsin vain puhelintani.」
話している言葉がわからない。少なくても英語ではないのだろう。聞いたことがない。国がわかればきっと……。
「あーゆーふろむかんとりぃ?」
「Finland. Tulin tänne eilen.」
フィンランドという言葉だけ聞き取れた。話しているのはフィンランド語なのかな。
「じゃすともーめんと、ぷりーず」
ポケットからスマホを取り出す。翻訳ソフトを探してタッチする。フィンランド語に設定を合わせる。
なんでこんなことしてるんだろう……。これから僕はしなくちゃいけないことが……。少し冷や汗が出る。
「ぷりーず、すぴーく」
準備できたスマホを外人の男へとかざす。意味が分かったらしく、ゆっくりと話し出した。
「Pudotin puhelimeni tänne.
Haluaisin etsiä sitä, mutta myyjä ei anna minun etsiä.」
(スマホをここで落としたんだ。探したいんだけど店員がそれをさせてくれないんだ)
やっと意味が分かった。おどおどしている店員へと声をかける。
「この人、ここでスマホを落としたらしいんです。探したいそうなんですけど、もう届けられていたりします?」
「あ、ちょっと待って。これかな?」
店員がテーブルの下から黒いスマホを取り出す。
「Löysin sen!」
外人の男が叫ぶ。きっとそれなのだろう。おずおずと店員が差し出すと、外人の男はそれを受け取り、似合わないおじぎをする。嬉しそうに外へと出ていく。
「良かったですね」
「ああ、助かったよ」
僕も少し助かった。会計を済ます。何も言われない。袋に入れてもらって外に出る。暑い日差しに炙られたとき、ふいに腕をつかまれた。
「Olen odottanut sinua. Haluan kiittää teitä.」
わからない。僕はまたスマホかざして「りぴーと」と言う。彼が機械に聞き取らせやすいようにゆっくりと話す。
「Olen odottanut sinua. Haluan kiittää teitä.」
(待ってた。お礼がしたい)
そんなことをしてもらっては困る。僕にはこれから……。
断ることを言いかけようとしたとき、サングラスの間から汗が滴り落ちるのを見て、言葉を出せなくなった。
……じっと待ってたのかな。こんなにゴツくていかつい人なのに。
なんだかかわいい生き物のように思えた。
「どうしたらいいんですか?」
(Mitä voin tehdä?)
「Ota taksi. Mennään jonnekin.」
(タクシーを捕まえてくれ。どこか行こう)
僕はスマホからタクシー会社に電話する。田舎だから電話するしかない。ここには10分ほどで車が来るという。配車を頼んで電話を切ると、僕は店の前にある縁石に腰かけた。
「うぇいと。せっだうん」
通じたようで、どっかりとその人は腰かける。黒い革ジャンがとても暑そうに見える。僕は袋からアイスを取り出して、彼に差し出す。
「どうぞ」
「Kiitti」
熊みたいな男が棒アイスにガリガリとかぶりついている。ときたま遠くを見つめながら、無言でむしゃりと食べている。
「Vittu!」
最後の一口というところで、アイスが棒から落ちてしまった。なんだかちょっと面白くて笑ってしまった。彼は僕を見て、なに笑ってんだという顔をしながら笑いかけてくれた。
やってきたタクシーに乗り込むと、彼はどこかに電話をかけだした。運転手さんが「どちらへ」と言うけれど、僕は困ってしまった。スマホで文字を入れ「どこ行くの?」というのをフィンランド語に翻訳して見せる。
「Delicious. Restaurant」
簡単な英語の単語だけ言って、また電話に戻る。意訳して運転手さんに伝える。
「なんかおいしいものを食べたいらしいんですが……。何かあります?」
「そうだな……。外人さんが好きそうな和食だったら藤代屋とか、蕎麦だったら信田庵とかかな。まあジャスコというわけにもな……」
同級生の家の店、同級生が行くとこ、そういうところは避けたかった。
彼を見る。僕の目を見てうなづかれる。お前が決めろ、ということなんだろう。
「すみません、運転手さん。国道に出て、赤い看板の……」
一回だけ家族で行ったチェーン店のような焼き肉屋さんで、僕たちはガツガツと肉を食べた。カルビだのハラミだのロースだの。肉しか焼かない徹底ぶり。彼は、わりと気に入ってくれたようで、たまに鼻歌を交えながら肉をひっくり返している。
少し落ち着いたところで、僕はスマホの翻訳機能を使いながら、彼と会話してみることにした。
「なんで日本のこんな田舎に?」
(Miksi asutte Japanin maaseudulla?)
「Olen täällä työasioissa.」
(仕事で来てる)
「何の仕事?」
(Mitä sinä teet?)
「Olet opiskelija, etkö olekin? Mitä koulullesi tapahtui?」
(お前学生だろう? 学校はどうした?)
「学校はサボった」
(Lintsasin koulusta.)
それを聞いて、彼は大きな口を開けて笑い出した。
嘘はついていない。ずっとサボってて今日もサボっただけだ。コンビニで買ったものをそっと隅へと追いやる。
彼は僕を見ながら楽しそうに言う。
「Minullakin oli tapana lintsata koulusta.
Eric Harris ja Dylan Klebold olivat sankareitani.
Mutta aseen sijasta otin kitaran.
Siitä lähtien olen tappanut ihmisiä, jotka ovat ärsyttäneet minua lauluilla.
Se oli verilöyly.」
(俺もよく学校をサボった。
エリック・ハリスとディラン・クレボルドは俺のヒーローだった。
だが、俺は銃の代わりにギターを握った。
それからはムカつく奴らを歌で殺してきた。
みんな血祭りさ)
彼が陽気に笑う。僕もつられて笑ってしまった。
ギタリスト? ボーカル? 有名な人なんだろうか。よくわからない。
でも、僕にも彼にもいい思い出ができた。そう思ってた。
たらふく食べてお腹がはちきれそうになりながら、お会計をする。「ごちそうさま」と言いかけたとき、彼がまた困ってしまっていた。カードで払えないようだ。結構な額になったし……と心配したが、スマホ越しに会話すると「マネージャーのせいだ。奴にカードを止められた」と彼は言う。
僕はひとつだけため息をつく。
「お金は僕が出します」
折り畳みの財布を開いて言われた金額を店の人に渡す。彼は何か言いたそうにこっちを見ていた。
仲間が車で迎えに来るらしい。拾ってもらいやすい大きな交差点のところまで彼と一緒に歩いていくことにした。
夕陽に照らされながら、国道沿いの道を歩いていく。歩道にはひび割れた隙間からいろんな草木がたくましく育っていた。道の向こうの田んぼでは、伸び盛りの稲が風にはらはらと揺れて、青い匂いを運んでいる。
「Haluaisin puhua kanssasi lisää.」
彼がそうつぶやく。僕には意味がわからない。そのままあいまいに彼へと笑いかける。
交差点の前に大きな黒いバンが止まっていた。扉がスライドすると、彼と似たような感じの大男たちが、車からはじけだされるように外に出てきた。みんな親しげに彼に話しかける。大げさな身振り手振りを加えて話し出す。
僕はそれを寂しそうに見つめる。「ぐっばい」とだけ彼に言い、手を振った。
「Sinäkin tulet mukaan.
Annan sinulle sen sijaan rahat, jotka maksoit minulle.」
そう言われると彼に腕を引っ張られ、車の中へ引き込まれる。意味が分からず「なぜ? わっつ?」と聞くが、彼はいいから乗れという様子でいた。仕方なく車のシートに収まると、両側から彼の仲間たちも乗り込んで、みっちりとした車内の中、ドライブすることになった。
車はさびれた商店街の一角にある音楽店の前で止まった。店には入らずその横のドアを開けて、地下へとみんなで下りていく。そこは小さな部屋だった。ドラム、ギター、キーボード、たくさんの楽器が置かれていた。彼が「Rehearsal」とだけ言う。みんな適当な感じで楽器の前に立ち、好き勝手に音を鳴らし始めた。
彼がサングラスを取って僕に手渡す。少しつぶらな瞳でウィンクされる。このままサングラスを持っとけ、ということなのかな。
彼がギターを手に取る。ギターの端に刺さってたピックを右手につまみ、すこし抱えるようにしてギターをひとなでする。
ギュイィィィィィィィィィィーーーン。
部屋が震えた。
体も震えた。
みんな震えた。
「すご……」
初めて聞くギターの生音。
僕は一音で圧倒された。
開けっ放しだった扉からおじさんが入ってくる。オレンジ色のエプロンには楽器店の名前が書かれていた。僕の横に立つと呆けたように彼らを見ていた。
「すごいな……。ほんとに来てくれたんだ」
「知ってるんですか?」
「ああ。君も聞けばわかるよ」
彼が手を挙げる。それを見て仲間たちが止まる。いまにも飛びかかりそうな空気に一瞬で染まる。
目をつぶり、彼がギターをさっとなでる。
雨に濡れながら遠くを見つめているようなメロディが静かに滑るように流れていく。せつなげで、はかない旋律が僕を満たしていく。
それから彼が声を上げ、歌い出す。
ああ……。
彼の声を聴いて言葉ともため息ともつかないものを口からもらす。僕を揺さぶる。訴えかけるような、締めつけられるようなその声で、僕の心は彼に持っていかれる。
それを引き戻すようにドラムとベースが疾走を始める。キーボードが、強い音色を叩きつける。
もっと激しく。もっと高く。
彼らの曲が僕を飛び上がらせる。
「すごいだろ」
「はい……」
「しっかり聴いとけ。メロディックなメタルでは世界最高峰だ。彼らはもう日本に来ない。解散の話も出てる。一生もんだぞ、これ」
ふっとギターの音だけが響き出した。そのフレーズは僕も聞いたことがあった。何年も前に流行った曲。そのときはCMとかテレビで飽きるほど聞いていたものだけど、最近は誰も話題にしない。昔、有名だったバンド。みんなそう思ってる。でも、それは僕の目の前で生きている。
10曲は演奏しただろうか。彼が肩で息をしながら、つらそうにマイクスタンドを抱えている。汗だくの彼へ椅子にかかっていたタオルを渡してあげる。彼が口を指で示して何か言いたそうにしていた。あわてて僕はスマホをかざす。
「Se on parasta liikuntaa, mitä voit tehdä kehollesi.」
(どんなエクササイズよりもこいつがいちばん効く)
息も途切れ途切れにそう言う。
「Haluan puhua kanssasi lisää. Haittaako sinua?」
(もっと君と話がしたいんだ。いいかい?)
僕はぶんぶんとうなづいた。僕も話したかった。もっといろんなことを……。このすごい人にもっと……。
「Olen pahoillani.
En voi tehdä sitä enää.
Se johtuu iästäni.
Menen hotelliin lepäämään.」
彼は後ろにいる仲間たちにそう言うと、彼らは苦笑いした。
ベースの人が腰を前後に振る。
みんながどっと笑う。
それがどういう意味なのか、言葉はわからなくても理解できた。
彼は手を広げて大げさに言う。
「Mitä?
Hän saattaa näyttää naiselta, mutta hän on mies.
En ole kiinnostunut miehistä.
Sitä paitsi olen käyttänyt lantiotani jo liikaa.」
そう彼が言うとみんながまた笑う。僕は訳が分からなくて彼を見る。彼はまた僕にウィンクして「Stay. Wait.」と単語だけ言う。
僕の隣にいたおじさんは、壁を背に座り込んでいて「すげーすげー」とつぶやくだけの機械みたくなってた。
リハーサルを終えた彼についていく。僕も家の外に出ていなかったから「ふたりで話せる店」というものがわからず、結局彼に任せた。
町はずれの小さなホテル。彼がそこに泊っているらしいと身振りからわかった。
この田舎の町にはバーらしいものがそこしかない。そこでゆっくり飲みながら語りたい、スマホ越しにそんな話をした。
彼といっしょにバーのに入ろうとしたときに、店の人に呼び止められた。
「すみません、お客様。こちらの方は未成年ですよね……。申し訳ないのですが……」
彼が僕を見る。スマホでフィンランド語に翻訳して彼に見せたら、大げさに肩をすくめた。
「Go room. Are you OK?」
僕はとまどいながら「しゅあ……」とだけつぶやいた。
少し狭いホテルの部屋。彼がベッドに腰かけて、缶ビールをぷしゅっとあける。グビグビっと飲むと、ぷはーと息を吐き、窓辺の椅子に座っている僕のほうをじっと見る。
ただ少し話したかっただけなのに、なんでこうなったのかわからなかった。僕にはこれからやることがあるし……。適当にしてホテルを出よう、そう思ったときだった。
「You suicide?」
僕がコンビニで買ったものを入れてた袋を指さす。
「Talk. More talk.」
彼が立ち上がり袋の中身をベットの上にぶちまける。
ロープ。包丁。洗剤。そして小さな小瓶の農薬。
僕はそれをただ眺めていた。
彼が口元を指さす。
「話したいことなんか……」
「No. Teidän on puhuttava siitä. Talk. Please Talk」
彼が僕のスマホをポケットの中から取り出すと、僕に差し出す。仕方なしに翻訳アプリを立ち上げる。互いにそれをやりとりしながら、もどかしく会話をしていく。
「いつからバレていたんですか?」
(Kuinka kauan he ovat tienneet?)
「Koska olin lähikaupassa.」
(コンビニにいたときから。)
「それで僕を引っ張りまわしたんですか?」
(Ja silloin sinä aloit raahata minua ympäriinsä?)
「Kyllä, aivan oikein. Monet ystäväni ovat kiivenneet taivaaseen johtavia portaita yksin. En voi antaa sen tapahtua.」
(そうだ。俺の友達は何人も天国への階段を勝手に登っていきやがった。俺はそれを許さない)
「僕は許されなくてもいいんです」
(Minulle ei tarvitse antaa anteeksi.)
「Kerro minulle, miksi haluat kuolla. Minä murskaan sinut.」
(死にたい理由を教えてくれ。俺がぶっ潰す)
「あなたにはわからない」
(Ette ymmärrä.)
「Et ymmärrä, ellen kerro sinulle.」
(話さなきゃわからないだろ)
彼がじっと僕を見ている。僕が抱えているものを許さないように真剣に見つめている。
ふぅ……。
強く息を吐く。僕はあきらめた。スマホをかざして翻訳し、それを見せる。
「女の子と見られるうちに死にたいんです」
(Haluan kuolla, kun minua pidetään vielä tyttönä.)
「Mikä tuo on?」
(なんだそれは?)
「あと1年もしたら、体がごつくなって、顔には髭が生え、声も低くなる。
僕にはそれが耐えられない。日々怪物になってくのが怖くてたまらない。
だから僕は死ぬんです。そんな傷が自分に残らないうちに」
(Vuoden päästä minulla on iso vartalo, parta kasvoilla ja matala ääni.
En kestä sitä. Pelkään, että minusta on tulossa hirviö päivä päivältä.
Siksi aion kuolla. Ennen kuin minulla on yhtään arpia jäljellä.)
「Jatka.」
(続けろ。)
「女の子たちとよく遊んでました。僕にはそこが居心地がよかった。
髪を結いあったりぬいぐるみで遊んだり。
でも、ある日、そこから外されました。僕は愕然としました。体のことはわかってました。それでもそこから引きはがされるのはつらかったんです。
誰かが好きだから女の子になりたいとか、そういうのじゃなくて、僕はただ普通の女の子として生きたかった。
でも、もうすぐ僕は男だと思い知らされる」
(Minulla oli tapana leikkiä tyttöjen kanssa. Tunsin oloni siellä kotoisaksi.
Sidoimme toistemme hiukset ja leikimme pehmoleluilla.
Mutta eräänä päivänä minut erotettiin ryhmästä. Olin järkyttynyt. Tiesin kehostani. Tiesin kehostani, mutta minun oli silti vaikea irrottautua siitä.
En halunnut olla tyttö, koska pidin jostakusta tai mitään, halusin vain olla normaali tyttö.
Mutta pian minua muistutettaisiin siitä, että olin mies.)
「Aiot siis kuolla?」
(だから死ぬのか?)
「ええ。もう決めたことです」
(Kyllä. Olen jo päättänyt.)
彼はあごに手をやり、しばらく考え込んでいた。
もうこれ以上話しても仕方がないと思い、僕はベットの上のものを袋に詰めていく。
「さようなら。あなたは良い人生を」
(Näkemiin. Sinulla on hyvä elämä.)
そう表示されたスマホを最後に見せ、僕は立ち去ろうとする。
「Wait」
彼のよく響く声が僕を引き留める。
「You loved?」
英語で質問される。愛されたこと? そんなのはない……。こんな僕を愛してくれる人なんか……。化け物の僕なんか……。
長い言葉をつむいでそれを言うのはつらかった。僕はただ一言「No」とだけ言い返した。
「Teen sinut onnelliseksi. Teen sinut niin onnelliseksi, että unohdat halunneesi kuolla.」
そう言うと彼は僕を引っ張り横に座らせる。顎に手を添えられて唇を奪われる。彼の無精髭がちくちくとくすぐったい。
びっくりしたけれど、僕はそのままにしていた。彼にとっては興味本位とか憐れんで抱いてるとかそんな感じなのだろう。死のうとしていた体だ。使ってくれてありがとうという気持ちが強かった。
僕が嫌がらないのを見て彼がそっと舌を入れてくる。少しくすぐったい。ぴちゃぴちゃとする水の音が頭をいっぱいにする。
「んっ……」
僕の中の女の子が声を出す。それは自分でもびっくりしたぐらい女のそれだった。
「En osaa pidellä miestä. No, tämä on nainen. Tämä reaktio, tämä ääni. Hän on söpö.」
キスの合間にそうつぶやきながら、彼が片手で僕のシャツのボタンをひとつずつ開けていく。胸に手がそっと触れる。やさしく慈しむように胸や乳首を愛撫される。
「んくっ……、あっ……、んっ……」
「Anna kuulla kauniimpi äänesi.」
だんだん頭の中が白くなって何も考えられなくなっていく。恥ずかしくなってきて僕は彼にしがみつく。
彼の手が下のほうへ線を描くように降りていくと、僕の体は跳ねるように反応してしまう。
そして、それが彼の手に触れる。
「ごめんなさい……。こんなのがあってごめんなさい……。気持ち悪くてごめんなさい……」
僕は唇を離しながら何度も彼に謝る。涙声になっている僕を彼はただ抱きしめる。
「En välitä. Ummm, It’s nothing.」
気にしない、って言ってくれたのかな。英語にして話してくれる。
僕は彼の胸に頭をうずめて、絞り出すように言った。
「……僕を女の子にしてください」
「Okei.」
彼はそういうと僕のYシャツをバンザイするようにして脱がした。首筋を彼が吸い舌を這わせる。吐息が僕の口から漏れ出すと「Kawaii」と彼は言う。それからぎゅっと抱きしめてくれた。
言葉がわからなくても彼の気持ちは伝わった。この人は僕を愛してくれている。愛そうとしてくれる。たいせつに。壊れないように。僕は目を閉じ、そのまま彼に身をゆだねた。
まだ寝ている僕の頭に彼の鼻歌が聞こえる。目を覚ますと、白い部屋に太陽の光が明るく反射していた。素肌に白いブランケットがさらりと触る。
そっか……。
昨日は疲れ果てて落ちるように寝てしまった。
彼がいない。手で隣を探る。どこ……。不安に駆られる。
「Huomenta! My Sweety~」
ガウン姿の彼がカップを2つ持って部屋の奥から出てくる。
ほんとに外国の人って恋人に「すぅいーてぃー」って言うんだ。僕は妙に感心してしまった。
彼が持ってたカップのひとつを手渡してくれる。両手で握りしめるようにしてカップを持つ。暖かい。コーヒーの香りで目が覚めていく。一口すすりながら苦みの中で昨日のことを思い出す。……うーん。恥ずかしくなって僕が下を向いたら、彼が僕の肩にやさしく手を回す。
「Annan sinulle jotain piristävää.」
彼がベットから跳ね起きる。すぐに持ってきたそれは「関係者」と日本語で大きく書かれたパスだった。
「Tonight. Concert. OK?」
今晩のコンサートに来いと言われているのかな。でも、このパスもらったら彼が会場に入れなくなるかも……。つたない英語を続ける。
「ゆあーぱす、おーけー?」
「OK, I lost my pass.」
そう言うと彼はいたずらっ子のように笑ってた。
お昼はルームサービスを取り、ふたりでベッドに入りながら食べた。彼がパセリを食べて苦そうな顔をおおげさにする。僕はそのおかしな顔に少し笑うと、彼も笑う。言葉が伝わらなくても、僕たちは笑いあえた。
食べ終わったらあちこちにキスをしたり、少しふざけてた。少し吐息をもらすと彼は「Söpöä」とか「Olette tyttö.」と言って唇を重ねてきた。
時間が来たらしい。彼が服を着替え始める。黒い革ジャンに袖を通すとドアへと向かう。僕は後ろについていき、「しーゆーれたー」と声をかける。ドアの前で彼が振り向き口元を指さす。スマホ?と思って取りに行こうとしたら、彼が僕の腕を引く。ああ、キスがしたかったのか、と理解したのは、舌がこすれ合う感触の中だった。
パスに書かれた会場は、田舎でもかなり大きなホールだった。周辺の町でも大きな催しはそこを使うような。
日暮れの中、バスに乗ってそのホールの前に着くと、もう人が外にあふれていた。入口に並ぶ人、グッズを買い求める人、みんな彼のファン。彼と同じような黒い革ジャンや、彼の写真がプリントされたTシャツを着たり。みんな楽しそうだった。みんなわくわくしていた。
急に心細くなった。
ここに僕は居ていいのか……。
大勢の人が彼を愛しているその中に、僕みたいなよくわからない者がいてもいいのか迷いだした。
目の前がぐるぐると回り出す。夕闇が僕の心に影を差す。
僕は彼からもらったパスをぎゅっと握り締めた。
暗いホテルの部屋で、僕はベットに腰かけ、ただそこに座っていた。
部屋の扉がふいに開き、明かりが灯る。
彼が陽気に帰ってきた。少し顔が赤い。お酒の匂いがする。「Olen tappanut kaikki yleisössä olevat!」と叫びながら僕の横にどっかりと座ると、「どうだった?」的な表情をされる。握りしめていたスマホに文章をつづり翻訳してそれを見せる。
「見ることはできなかったよ」
(En pystynyt näkemään sitä.)
それを彼に見せた後、スマホに入力を続ける。
「ごめんなさい。そのまま立ち去ることもできなくて、またここに戻ってきちゃった。何やってんだろうね、僕は……。もういなくなるから……」
彼は僕からスマホを取り上げる。それから笑い飛ばす。
「Harmi, etten voinut tappaa sinua. Tapan sinut koska tahansa.」
そう言うと彼は笑ったまま僕を抱きしめる。強く押し付けられた彼の無精ひげがちくちくと頬に刺さる。「痛いよ」と言う僕に構わず唇を重ねる。
コンコン。
コンコン。コンコン。
扉がノックされる。かなりしつこく。
彼は僕を手放し、立ち上がるとうんざりした様子でドアを開ける。
彼を押しのけてスーツ姿の女が部屋の中に入る。僕をちらりと見るなり、彼に激しい口調で怒りだした。
「Hi, Niko. Wath's happen? なんで、あなたはいつもそんなに手癖が悪いの? そういうのはお国に帰ってからにしてちょうだい。ここでは面倒を起こさないで欲しいんだけど。Don't cause trouble. Did you understand?」
彼が言い返さずうなだれるのを見ると、彼女は僕の腕をつかんで立たせる。
「この男はね、めっちゃ遊んでるの。すぐ女を口説いては、3時間後には別の女とベットにいるような男よ。バンドやるような奴はみんな最低の屑ばかり。やんなるわ。こんなことまでマネジメントしたくないのに」
彼女が僕をまじまじと見る。
「あ。でも、男の子は初めてだったかな」
僕は目をそらす。
「はい、これ。受け取りなさい。誰にも話しちゃだめよ。話したらこの封筒の金額より、何十倍も君に請求するから」
厚みのある封筒を差し出される。
僕はそれをつかむ。
どうしていいのかわからず、不安なまま彼に振り向く。
「They grabbed their guns.
I grabbed my guitar.
What are you gonna grab?」
フィンランド語じゃなかった。彼は僕にわかるように慣れない英語で話してくれた。
僕がつかむもの……。
……そんなの、決まってる。
金を投げつけた。
ひっぱたくように女の顔へと。
女が手でそれを防いで撥ね退ける。封筒からたくさんの一万円札があふれだし部屋を舞う。
僕は彼にしがみつく。
誰にも引き離されないように。
手を離したらもう二度とつかめないそれを強く強くつかむ。
やがて嗚咽を漏らしながら駄々っ子のように泣き出した。
彼はそんな僕を抱きしめながらやさしく頭をなでる。
「You fear no more.
I know we'll meet again.」
それが別れの言葉だと僕にはわかった。
真夏の暑い陽射しをガラス越しに感じながら、彼と出会ったときの日を思い出していた。
いまは空港の出発ロビーにいる。いろんな国のいろんな人々が渦巻き、会話の声や搭乗を知らせるアナウンスで騒がしい。
待っていた電話が鳴りだす。一言でも聞き漏らさないようにスマホを耳にぴったりくっつけて話し始める。
「Moi.
Tuletko hakemaan minut Japanista?
Voi ei!
Teidän on odotettava minua Helsingissä.
Älkää hätääntykö, tulen sinne.
Odota minua siellä.
Soitan sinulle heti, kun pääsen Vantaan lentokentälle.
Jaahas.
Joo joo.
Rakastan sinua.」
電話を切る。
ぷふ……。
抑えていても笑みが自然とこぼれてしまう。
あと10時間か……。
飛行機の出発案内表示を見上げる。もうすぐ搭乗だ。
スマホをしまうと、僕は殻を脱ぐように旅立った。
男の娘短編! 冬寂ましろ @toujakumasiro
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