西崎紗枝様
真槻梓
西崎紗枝様
拝啓
気温が下がりつつある折、いかがお過ごしでしょうか。
お腹の中の命に最大限の配慮を配って頂けましたら幸いです。
私がこのように手紙をしたためましたのは他でもありません。私と彼の関係性に起因する、貴女と彼の関係性を思ってのことでございます。
傍目から見れば、喜びこそあれ、僻事などが存在するように思われませんでしょうが、こと私の目から拝見いたしますに、そう一概に幸のみとは言い尽くせない、何か薄暗い闇が存在するように思われてならないのです。
ここまで読みまして、賢明な【あなた】ならば、この私の忠言そのものが僻事として捉えられてしまい、この手紙の真意が届かぬままになってしまいかねないので、些か奇を衒った様を以って綴らせていただきます。
さて、まだ手袋をおろさずとも済んだ秋の口、私が貴女と出会った「あの時」の事でございます。
覚えていらっしゃるでしょうか。「あの時」私は電車を飛び降り、約束に間に合うようにと急ぐその流れで、未処理の切符を落としてしまったのです。
心の急いていた私は果たしてそれに気付かず、そこを去るところでした。
そこに偶々通りかかった貴女が、その親切心からそれを拾い上げて渡してくださるまでは。
衆目には貴女の容姿はそこまで美麗というわけではないのでしょうが、その外見を差し引いても有り余るほどの魅力を私は貴女から感じ取ったのです。明治や大正、事によっては昭和時代にまで続く、いわゆる嫁入り教育を施されていたと言っても差し支えないような貴女の有様に、溜息すら漏れたものです。
そのような思慮深い様子を美徳と捉える輩は現時代にも存在し、その内の一人が私の旧友であった彼であった訳であります。
私と彼とは同学の士でございました。
このように遊びのある文章を好む私と、先人に定石を重ねる如くの文章を好む彼とは油と水、猿と犬、フグとタイと形容するような仲になっても驚くに値しなかったのでありましょうが、人生とは怪奇なもの、私と彼とは互いをある種の師と敬するかのような関係となった次第でございます。
文学の趣味は異なれども、酒の趣味にタバコの趣味、人の趣味までもが軌を一としたものですから、運命とまで思ったのは私のみではなかったでしょう。
しかしそこで、「あの時」とそれに始まる一連の茶番が幕を上げたわえであります。
ここで多くを語るは野暮というものでございます故簡単に記しますと、片や貴女との夢を夜の枕に添え、片や貴女とささやかな情を結び、その様子に片方が恨みを募らせ、片方を誹り、結果の有様。事の仔細は【あなた】も存じ上げているかと思います。
この点に関して私は多くを語らないつもりでございます。それをすることの意義が感じられないというのが正直な感想であるから。
ともかく、彼が貴女との交際を初め、私は蚊帳の外へと放り捨てられ、彼との縁も切れたまま、現在に至っているわけです。
【あなた】は今、この文章にあたって非常にやきもきしているかと思われます。それでいいのです。私が送る文章を残らず知る必要がある【あなた】と、この文章を読ませる必要のある私の思いは合致しているのですから。
そうして【あなた】はまた、私の論旨を露にせず、判然としない内容を書き連ねている私の文章をこれ以上ないほど酷評するのであろうと思います。
話を戻しましょうか。ここからの話が、【あなた】が求めているであろう部分になります。
私と彼との交友関係は、果たして絶たれることになりました。これには私も不如意の心持ち、さりとて縁りを戻すよすがもなく、学門にて交わるもかつてのように語ることはなくなりました。去る者は日々に疎しとはこのこと、私も特に気に掛けた覚えはありません。しかしながら、同原因にて私から去ると思われた貴女は、そうすることなく私との交際を続けていたわけであります。
その交際は不純なく清らかであった事を私はここに宣言します。休日に二人揃ってふらりと街を散策する。目についた本屋に入り立ち読みをする。おしゃれなカフェに入って日長談笑に明け暮れる。私も薄々彼と貴女の関係は知っていたつもりでしたから、下手に水を差すことを望みはしませんでした。
しかし、人間の真心ほど伝わらないものはないのでしょう。私と貴女との友人関係を耳に入れてか、彼は再び私を追及し始めたのです。
私は想像しこそすれ、本当にそうなったことに驚きが隠せませんでした。
またそれに呼応するように(実際「呼応」していたのでしょう。彼は嫉妬深い質であるから)、私にも驚くべき出来事が待ち受けていたわけであります。貴女の結婚です。
これには青天の霹靂、寝耳に水。藪から棒に窓から槍。時代が異なればビルから猫でも出たことでしょう。おめでたい話なのでしょうが、他方で私は貴女と取れる時間が少なくなるであろうことに少し残念な気持ちを抱いていました。
……これは【あなた】の知るべもない話でしょうが、私と貴女の交際は続いていたのです。更に深い、人間から動物の異臭がする場所にまで。
今の【あなた】の表情が気になるばかりです。
さて、この手紙を【あなた】に読んでいただく、できるだけ時間をかけて読んでいただく、この目的は達成されたことでしょう。
「あの時」、私は彼と出かける予定でした。彼の誕生日が近いということもあって、ささやかな贈り物までもをバッグに忍ばせていたものです。元よりそれのせいでバッグの容量が圧迫され、結果の落とし物という流れになったわけでありますが。
「あの時」、どうして貴女が彼の元へと急ぐ私に、切符のおまけのように付いててきたのか。私は判然としないのです。貴女の気持ちを問うているのではなく、どうしてそうならなければ行けなかったのか。その事実について非常に恨めしく思うのです。
あるいはそれで良かったのかもしれません。そうなるしかなかったのかもしれません。しかし、それならばしかし、彼と貴女との……否【あなた】と貴女との関係が始まった、その事実がこれ以上もなく怨めしいのです。
こうして手紙を『落とした』のは他でもありません。私と彼の関係性に起因する、貴女と彼の関係性が及ぼした、私の安い恨みを【あなた】に送るためにございます。
こうして貴女の名前を記した手紙を落とせば、【あなた】が拾ってくれると私には分かっていました。結果として貴女が拾ってくれても構わないのです。嫉妬深い【あなた】はきっと、最終的には読んでくれるだろうから。
【あなた】の幸せを心からお祈り申し上げます。
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彼女の叫び声が電車の到着したばかりのプラットホームに響く。私が手紙を読み終わるその瞬間に、人が一人、飛び降り自殺をした。
亡くなったのは、私の知己だった者。彼女ともかつては交友関係を結んでいた。この手紙に記されていることが正しいのであれば、つい先日まで続いていたようである。
私は、彼の残した醜悪な感情を振り払うべく手紙を破り捨て、プラットホーム常設のゴミ箱に捨てた。
泣きじゃくりながらうずくまる彼女の肩に手を置き、慰めの言葉を紡ぎ出す。
刹那、彼女の腹に納まっている生き物が、私の理解を超えた何かであるような気持ちが湧き出てくると共に、数刻前まで眼前に輝き続けていた光がその勢力を失ったように思われた。
私は、思わず彼女の肩を力の限り握りしめていた。
西崎紗枝様 真槻梓 @matsuki_azusa
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