瞬きのあいだに君は消え去る

中村ゆい

瞬きのあいだに君は消え去る

「マオウってさ、何なの?」


 唐突に隣の席から発せられた問いに、俺と長谷川未子はせがわみこは会話を止めて横を見た。マオウとは、俺のニックネームだ。名前の発音が魔王と似ているからそう呼ばれているだけで、別に悪を牛耳るドンでもなければ学校で悪事を働く問題児でもない、ただの普通の一般男子中学生なのだが。

 隣の席ではクラスメイトの田口香葉たぐちかよが、ぴかぴかの真っ赤っかに塗った指の爪をいじりながら、不機嫌そうにこっちを睨んでいる。え、俺なんか気に障るようなことした?


「何って、マオウこと中野真生なかのまおだけど」

「わかってるよそんなん! そうじゃなくてぇ」


 香葉は俺とハセがそれぞれ一部ずつ手に持っている高校の受験パンフレットをビシッと指さした。


「スポーツできるだけじゃなくて勉強もできるって何? それT高のパンフでしょ! そこ行くの? 行くのか!?」

「は、え、何だよ急に……」

「受験すんのか!?」

「まあ多分……」


 なぜか詰め寄られ、俺はたじたじになりながら頷いた。

 T高校はここらじゃ有名な公立進学校で、地元のそこそこ頭が良いやつは皆こぞって受験する。定期テストの成績が常に学年五位以内で安定している俺は、特に他に行きたい高校もないしここにしとくか的なノリで志望校調査票にT高を書いた。

 そうしたら担任が、T高のパンフレットを志望者に配ってくれたのだ。クラスメイトのハセもパンフを持っていたから、「え、志望校同じ!?」とか言いながら盛り上がっていただけである。

 それだけのことなのに隣に座っていた香葉は、熱心に手鏡を覗いて顔やら髪やらをいじっていた手を止めてマオウは何なのかと謎の質問をし、今度は机の上にびたんと突っ伏してしまった。


「そうか……受験すんのか……」

「なんで俺の受験でテンション下がってんだよ。香葉も受けんの?」

「T高を? なわけないじゃん。あたしの成績、下から数えたほうが早いの知ってんでしょ」

「いや知らんけど」

「あんたはあたしのこと知らなくてもこっちはあんたのこと知ってんだぞ。バスケ部で4番のユニフォーム着てるだろ! あたし知ってんだから! バスケの4番はエースが付ける番号だってな!」

「公式戦で三十七連敗してる伝説の弱小バスケ部だけどな……」

「うるせー、そんでテストもいっつも点数高いし? なんでもできすぎでしょ。せめてあたしに運動神経くらいよこしやがれ」

「あー、わかる。私も運動神経ほしーい」


 ハセがうんうんと頷く。ハセと香葉って仲良かったっけか? あんまり教室で喋ってるとこ見たことないけど……と思ったけれど、女子同士の人間関係に疎い俺にはよくわからない。香葉は涙目でハセの手を取り「ハセちん!」と感激している。


「ハセちんならわかってくれると思ってた! 100メートル走で二十二秒台叩きだす屈辱!」

「わかるー、こないだの体育でしょ? 私も同じくらいのタイムで陸上部の相田さんに記録表二度見された」

「うわ、相田っち自分がクラストップだからって遅い奴の記録二度見すんなし、ハズいじゃんねえ! あーんハセちん運動音痴仲間愛してる! ……でもハセちんはあたしと違って頭良いからまだマシだよね……」

「え、いや……でも私えーと、美術の成績は壊滅的だし……」

「いいよ、そんな気を遣ってくれなくても。ハセちんは勉強ができる。マオウは勉強も運動もできる。あたしは何もできない。ずるい。マオウくたばれ」


 なんで俺がくたばらなきゃいけないのか。論理が飛躍しすぎだろ。

 廊下から他クラスの女子がハセを呼ぶ声が聞こえる。


「呼ばれてるから私行くね。香葉ちゃん、私は香葉ちゃんの頑張り屋なところがすごいと思う。100メートル走だってダルいからって適当に走る子もいたのに、香葉ちゃん授業前に速く走る方法ググってたでしょ? 私はそこまでしなかったしさ。そういう努力は結果よりも貴重だよ」

「ありがとハセちん……あのあと先生に見つかってスマホ没収されたけどね」

「それはドンマイ」


 ハセが行ってしまい、俺と香葉のあいだに沈黙が落ちる。隣を盗み見ると、机に突っ伏したまま顔だけこちらに向けている香葉と目が合った。


「マオウ」

「何」

「マオウもなんか褒めて、あたしのこと」

「は?」

「褒めてくんないなら、今度の体育祭の四人五脚であたしわざと転んでやる。同じチームだもんね。あたしが転んだらマオウも転ぶんだよ。痛いぞ~。いひひひひ」


 地味な嫌がらせだなおい……。魔女みたいな笑い声をあげる香葉。四人五脚だから、彼女が転ぶと俺だけじゃなくて残りの二人も道連れになって転ぶ可能性大。それはとばっちりが過ぎてなんだか気の毒だ。そんなことをくそ真面目に考えつつため息をついた。


「香葉は優しいからそんなこと言っててもわざと転んだりなんかしないだろ。はい、褒めてやったぞ。香葉は優しい。以上」

「っ……あたし別に優しくないし」

「素直に喜んどきゃいいのに、めんどくせー奴だなあ」


 香葉は妙に照れくさそうに頬を緩める。なんとなくそれをじっと眺めていると、彼女はハッと目元を赤らめてそのまま顔面を腕の中に埋めた。最初の機嫌が悪そうだったのは何だったんだろうか。むずがゆい気分になって見ていられず、俺は彼女から目をそらして次の授業が始まるのを待つことにした。


 香葉に何か言われたわけじゃないし勘違いだったら恥ずかしさが限界突破して死ねるから絶対に誰にも相談するつもりはないんだけど、こういうときたまに思う。

 こいつ、俺のこと好きなんじゃないかなあ、とか。



 父親は医師。母親は高校時代にインターハイまで行ったバスケ経験者。

 俺が勉強も部活もそつなくこなすことができているのは、俺自身の努力というよりも両親からの遺伝みたいなところがある。だからずるいと言われてしまえばそうだなと納得せざるを得ない。

 俺は流れに乗ってなんとなく勉強して、なんとなく部活もして、なんとなく自分の居心地が良いように他人と付き合って中学生をやっている。

 何かに抗ったりだとか、納得いかなくて死ぬ気でめちゃくちゃ頑張ったこととかは、ない。どこで頑張ったらいいのかもわからない。

 でもそれで困ってないなら別に良くない? 俺って残念ながらそういう人間。保育園からの同級生であるハセも多分そういうタイプ。

 でも香葉は違う。彼女は自分の納得のいくものを、こうしたいという意志に忠実に追い求めているように見える。

 だからきっと、俺は彼女が気になる。

 例えば、先生に何度注意されても絶対に消えることのないネイルの輝き。定期テストの日にアイドルみたいに大きな目の下に隈を作って登校してきて、直前まで教科書をめくっている必死さ。

 十三歳の俺がいる、なんでもない教室で。その姿は夏の日差しのように強烈に俺の瞳に映っていた。いつだったか具体的な日にちは忘れてしまったけれど、あるとき俺の視線に気が付いて英単語ノートから顔を上げた彼女と目が合った衝撃を、今でも思い出す。

 小テスト始めるよー、という英語教師の間延びした声音の中、きらきらした香葉の瞳が数秒間だけ不思議そうに俺を捉えて、また単語帳のある目元に伏せられた。

 その緩やかな動作の光景を、十五歳になった今でも俺はときどき、思い出す。



 今年の体育祭で俺は、選抜リレーと部活対抗リレーと四人五脚に出場することになっていた。

 選抜リレーはクラスで足の速い奴を男女それぞれ二人ずつ生贄に差し出すルールで、俺は三年一組の生贄に選ばれた。うちの赤団が勝てば英雄だが、負ければ袋叩きである。恐ろしい。

 部活対抗リレーは三年の部員全員と、目立ちたがりの後輩が数人出る。四人五脚は各クラス一チームずつ出ることになっていて、俺もメンバーになっている。香葉もメンバーだ。100メートル走とか目立つ花形競技に出るよりは気楽だな、なんて思っていた。さっきまでは。


 俺は今、グラウンドの砂の上に膝をついている。

 右隣を見ると、俺の足と一緒に細い足を縛られた香葉が、俺と同じように転んでいた。

 残りの二人は転んでこそいないものの、完全に止まってしまったレースに慌てている。

 体育祭当日。四人五脚レースで俺らのチームは香葉がつまづき、つられて俺もつんのめって最下位になっている。今そんな状況。

 花形競技じゃないはずなのに、めっちゃ目立ってる。ざわざわしたお祭りのような喧騒に混じって、周囲の視線がそこそこ痛い。あきらめんなー! と誰かが叫ぶのが聞こえた。


「ご、ごめ……」


 隣を見ると、半泣きの香葉が目に入った。あ、ダメだ。座りこんでる場合じゃないわ。


「やっべえ、超痛い! ごめん転んだ!」


 笑ってそう言いながら、香葉の腕を掴んで引っ張り上げて一緒に立つ。四人の間の空気が焦りからもう少し明るいものに変化する。


「あはは、びっくりした~、てかマオウ血ぃ出てんじゃん!」

「中野も田口も大丈夫? あとちょっとがんばろ!」


 俺と目が合った香葉は悔しそうに、それでもゴールを向いて笑った。




 レース後、揃って膝を擦りむいた俺と香葉は救護テントにいた。怪我といっても大したことないし、処置はすぐに終わる。テントを出れば、太陽が俺たちをぎらぎら照らした。あっつ。


「ごめん、マオウ。怪我させた」

「ん。大丈夫」

「あの、わざとじゃないよ。前に、転んでやるとか変なこと言ったけどわざとじゃなくて……」


 あー、なんかそういうことあったなそういえば。クラステントに戻ろうと歩きながら、後ろをとぼとぼとついて来る香葉を振り返る。


「わかってるよ。香葉、そんなことしないもんな。優しいから」

「優しくないし」

「あと頑張り屋だから、こういうときガチで走るもんな」

「頑張り屋じゃないし」

「じゃあなんで泣いてんの」


 香葉は涙声で俺に言い返しながら、手の甲でしきりに目元を拭っている。最下位ゴールがそんなに悔しかったのか。


「順位、誰も気にしてないと思うよ。他の競技の結果のおかげで赤団勝ってるし」

「違う……そんなんじゃないし」


 これ以上元気づける言葉を思いつけない。手を持ち上げて、どこに伸ばすか少し迷いつつ香葉の薄い肩をぽんぽんと叩いた。ジャージのざらついた感触が手のひらに残る。

 最大限に優しくしたつもりだった。できたかわかんないけど。


「てか暑くね? ほんとにこれ十月かよ……俺クラステント戻るけど香葉どうする?」

「……決めてたんだ」


 脈絡のない返事に、俺は数回瞬きをした。


「決めてた?」

「四人五脚、一位取ったら好きな人に告るって決めてたのに、転んだ。サイアク」


 あーほら、誰にも相談しなくて良かったよね俺。俺にこんなこと言うってことは、香葉の好きな人は俺じゃない。

 そのことに俺は想像以上にがっかりしていた。


「なんで四人五脚なんかにそんな大事なこと賭けてるんだよ」

「だって……あたしが勝つってことはその人も勝つってことだから」

「意味わからん」

「わかんなくていいですぅ」

「はあ?」


 俺だったら何に賭けるかなあ、と考えてそれも無意味なことに気が付いた。俺はいつも受け身でそもそも何にも賭けない。

 でも香葉はそうじゃない。


「一位取ったらとか言わずに告ればいいんじゃないの」

「え?」

「一位じゃなくても香葉がそんな願掛けみたいなことまでして頑張って走ったのは嘘じゃないだろ。その頑張りに免じて自分の好きなように動くんだって思えば?」

「……わかった。好きです」

「おー、そんじゃ頑張って……え、なんて?」

「マオウが好きです」


 心の底で欲しいと思いながら諦めていた台詞が聞こえて、夢じゃないかと思った。瞬きを忘れて香葉を凝視する。


「俺?」

「そう、あたしは中野真生が好き」


 強い光を宿した彼女の瞳が、俺を真っ直ぐに射抜いていた。周囲の音が遠ざかる。

 俺が好きだと思っている、曇りがなくて一生懸命で、眩しい香葉がそこにいた。

 香葉、と名前を呼ぶのと同時に、遠ざかっていた周囲のざわめきが耳に戻って来る。

 止まっているかのように静かだった心臓が急にばくばくし始めた。

 次に言うべき言葉が見つからなくて口を開けっ放しにしていると、少しずつ香葉の表情が曇っていく。


「迷惑だったらごめん。やっぱなしってことで! 今のは忘れてほし、」

「あ、や、違う迷惑じゃない!」


 焦り過ぎて、無意識に香葉の肩をつかんでいた。緊張の一種なんだろうか、心拍数がどんどん上がっていく感覚とともに香葉の顔がまともに見れなくなって、彼女の薄い肩を捕まえている自分の手を見つめる。

 こんなの頑張るの範疇に入りもしないんだろうけど。えいや、と視線を上げてもう一度香葉を見た。


「えーと、迷惑じゃなくて嬉しい。……付き合う?」

「えっ、いいの? あたしの頭じゃ多分あんたと同じ高校行けないし……いや、中学卒業してからも付き合ってる前提とかいう図々しい考えがそもそもどうかしてるよね! とりあえずあたし何にもできないバカだけど、こんなんで彼女にしてくれんの?」

「何を気にしてんだよ。今の香葉が好きだからそのまま彼女になってくれるとありがたい」


 むしろ俺が香葉にふさわしい彼氏になれるんだろうか。そんな不安がよぎったけれど、俺は顔にも口にも出さなかった。

 勉強はできるかもしれないけど、適当で頑張らないこんな奴。だけど、その引っかかりは香葉の心の底から嬉しそうな笑顔によって覆い隠された。

 俺の視界も胸の内も、香葉だけになる。


「やった~、信じらんない。マオウと付き合える……夢か? これ夢? ……いった!」

「全力でつねりすぎだろ」

「痛い……ほっぺた赤くなってない?」

「びみょーに赤くなってる」


 くだらないやり取りをしながら、俺たちはふわふわとした足取りでクラステントへ向かって歩きだした。



 なんだかんだで俺たちはその後二年ほど付き合った。中学で付き合っていても高校が別々になって別れる同級生がちらほらいる中で、高二の秋まで続いていたのはかなり持ったほうな気がする。

 でも最後は同じ高校に通っていれば何か違ったかも、という終わり方だった。いわゆる喧嘩して連絡を取らなくなって自然消滅、である。自分から連絡しようと努力しなければ香葉と話す機会などなく、俺たちはあまりにも交わることのない日々を送っていた。

 同じ学校にいれば嫌でも姿を見かけるはず。そうしたら、意地っ張りな香葉も頑張ろうとしない俺も、仲直りするきっかけをつかめたのかもしれない。


「マオウ、こんな寒いとこで何やってんの?」


 体育館横の古びたベンチに座ってぼんやりしている俺の目の前に、飛び出した手がひらひらと動く。見上げるとマフラーに顔を埋めたハセがいた。

 俺たちはどちらもT高校に進学し、今も変わらず同級生を続けている。今年はクラスが違うから、顔を合わす回数はそんなに多くないけど。


「別に何も。部活終わったから友達待ってんの」

「バスケ部の友達?」

「や、同クラの卓球部の奴」

「あー、小島くん?」

「知ってんの?」

「去年同じクラスだったよー、たまにマオウと一緒にいるの見かけるからそうかなって」


 少し暗い気分になっていたところだったから、のほほんと話しかけてくれるハセの登場は正直ありがたい。俺は張り詰めていた息をふっと吐きだした。空気が白く染まる。冬だな。


「マオウ、もしかして元気ない?」

「あー……わかる?」

「まあ。これでも保育園児の頃からの仲だしね」


 ハセは香葉のことを知っているわけだから、考えごと……というか女々しく感傷に浸っていた心の内を詳しく話してしまおうかと思ったけれど、結局俺は小声で彼女と別れた、とつぶやいただけだった。ハセはほんの数秒黙ってから、そっかと頷いた。


「ハセはここで何してんの?」

「えーっと、彼氏迎えに来た」

「バレー部の三田だっけ」

「そう……あの、マオウがこんなときに、なんかごめん」

「やめてやめて。謝られるといたたまれない。俺のことは気にせずに青春を楽しみたまえ若人よ」

「いや、誰目線よそれ」


 くすりと笑いながら、ハセの視線は俺から隣に立つ自販機に移された。


「寒いねえ。私ホットレモンティー買おー」


 ハセが軽やかに自販機に駆け寄る靴の音。ピッとボタンを押す電子音。ガコンガコンと商品が吐き出される音。耳をすっと通り抜けていく。夕方の空は薄桃色に群青色が混ざり始めていた。


「はい。あげる」


 目の前におしるこの缶が差し出される。受け取りながら金を返そうとカバンを引き寄せると、「いいよ、おごり」と言われた。


「好きなもん飲んで元気だしなよ。そんで私が元気ないときになんかおごって」

「……ありがとう。なんで俺がおしるこ好きって知ってんの?」

「だって小学校の修学旅行のとき言ってたじゃん。ホテルでココアと間違えておしるこ買った奴がいてさあ、自分好きだからって交換してあげてたでしょ。そんでそのあとおしるこの良さについてマオウが熱弁するから小学校卒業するまであだ名がおしるこ大魔王になっちゃったんだよね」

「なんでそんなしょうもないこと覚えてんだよ。今すぐ忘れろ」

「おしるこ大魔王」

「黙れ」


 沈んでいた心がわずかに温かくなっていく。冷えていた指先も汁粉缶のおかげてあったかい。

 数人の話し声が聞こえてきてそっちを見ると、バレー部の男子っぽいグループが見えた。


「彼氏来たんじゃない?」

「あ、ほんとだ。じゃあね、おしるこ大魔王」

「うるさい、早よ行け」


 ハセは楽しそうに笑い声を上げてひらひらと手を振り去っていった。

 マフラーからはみ出した黒髪がふわりと揺れる。そのまま駆けていく彼女の後ろ姿を、見つめる。

 かつて香葉に見ていたような眩しいものを、一瞬ハセに垣間見たような気がした。

 残っていた胸の痛みを薄めてくれるかわりに、それは新しい胸の疼きを微かに生み出す。

 ハセが男子グループに近づいて、そのうちの一人と親し気に言葉を交わしている様子が遠目に見える。

 本当に少しだけ、追いかけて彼女を捕まえたい衝動に駆られる。だけど、俺はベンチに座ったまま動けない。

 だって彼女には彼氏がいるから。こんな一瞬の気の迷い、恋でもなんでもないかもしれないから。というか俺、こういうときによっしゃ頑張ろうって思えない人間だから。


 俯いて二、三度瞬きをする。顔を上げるとハセも男子たちの姿も見えなくなっていた。

 半分以上群青色に染まった空が、様々なものを覆い隠す。隣にたたずむ自販機の光だけがやけにギラギラと目立って鬱陶しい。

 俺はあと何年生きるのだろうか。長い人生の中で、欲しいものを手に入れるためにがむしゃらに動かなければいけないときが、いつか来るのかもしれない。

 でも今はまだ。言い訳や逃げなのかもしれないけど。あともう少しだけ、じっとしていたい。

 俺はハセがくれた温かい缶を握りしめながら、ベンチの上で蛹のようにうずくまっていた。

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瞬きのあいだに君は消え去る 中村ゆい @omurice-suki

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