開夏宣言

一縷 望

8月31日。旧暦の「夏」である。

 真っ暗な寒空の下、荒れた街路に、少年は震えながら座り込んでいた。闇に自分が溶けていないことを確認するかのように、冷えた指に息をハーッとかける。


 もう、この街──いや、世界から誰もいなくなったことは分かっているのに、癖で辺りを見回した。


 分厚い雲に覆われた頭上からは、星はおろか太陽の光さえ届かない。

 コレを雲と呼んでは、太古の雲たちに失礼か。

 遥か昔、「人間たちがおそろしい兵器によって巻き上げた塵」は、焼けただれた空を鉛色に塗り潰した。


 以来、「夏」は博物館の展示物となり、恐竜の化石の横に並んだ。


 寒さを紛らわすように少年は、初めて「夏」を知った時のことを思い出そうと、目をぎゅっと搾るようにつぶった。


 学校の友だちか、はたまた先生の話で聞いたのだろうか。

「古代、兵器が生まれる前の時代には、光が天から降り注ぎ、それはそれは暖かい『夏』という気候があった」というのだ。


 想像もつかない光景に、彼は言い表せないほどの好奇心を覚えた。


その日、「夏」をもっと知りたい、と興奮して帰ってきた彼を見た父は、昔の曲──夏をテーマにした曲──を彼に聴かせてくれた。



「夏」はジュースをぬるくすることも、


「セミ」という生物の声が降り注いでいたことも、


恋の神が宿っていたことも、


空がことさら青かったことも。


全て、曲たちから知ったことだ。


 彼は、「夏」を貪るように聴き続けた。そしていつしか、本物の「夏」を取り戻すことが彼の夢になった。


『いつか、僕が科学者になって、夏を取り戻すんだ!』そう高らかに宣言した彼の頭を、父は優しく撫でた。その時、ターコイズ色の父の目に揺れていた別の色を、彼はまだ理解できていなかった。


 今なら、その色が何を表していたのか、彼にはよく分かる。


 人類が滅びゆく中で、人々はそれを抑えることに精一杯で、「夏」を取り戻す余裕など無かったのだ。


 そして昨日、最後の仲間さえも死んでしまった今日となっては、彼に、空から「夏」をもぎ取る術などあるはずも無かった。


 今は、自分も同じようにもうすぐ死ぬのだという予感だけが、彼の腹の底で重みを増し続けている。


 せめて、自分の死亡時刻だけは知りたくて、彼はダウンのポケットから、携帯電話を取り出した。この街の電力が尽きる前に、充電しておいて正解だった。耐寒の機能がついたそれは、慰め程度に指を温めてくれる。


「14:40」と無表情に映し出された時刻。

太古の「夏」ならば、今が一番暖かい時間帯か。


 どうせ死ぬなら「夏」に包まれて死にたいなという想いが頭をよぎり、やけに落ち着いた自分に苦笑する。


──僕にとっての「夏」か……。


 彼は、携帯電話に指を滑らせ、ある音楽フォルダを開いた。その方法は体に染み付いていて、凍えてこわばった指でもできた。


 音量ボタンを、動かぬ指の代わりに手首でどうにか押し、再生ボタンを見据える。


 三角マークを指が覆いかけたその時。


──夏を取り戻すんだ!──


 走馬灯のように、幼い頃の自分の声が体を打った。


 その衝撃は次第に胸へ降りてゆき、心臓が共鳴するようにドクドクと鼓動を増す。


 カラカラなのどに、あるはずもない生唾を飲み下し。


 彼の頭は、想い人との甘い日々を空想する少女のように、あこがれの「夏」でいっぱいになった。


夏をもう一度甦らせることができるのなら。


 筋肉が波打ち、寒さに震える腰を据えた。

 勢いに任せて立ち上がる。


 足と目配せをするかのようにうなずき合った彼は、辺りの闇を蹴って駆け出した。


 行き先は、街の放送塔。

 まだ人がいた頃、物悲しげな弔いの音楽で街を包んでいた放送塔。


 あの塔のメガホンなら、音は街を抱き込める。


「夏」で包むことができる。


 塔に駆けよった彼は真下から、その陰鬱な影を仰ぎみた。ここが今から「夏」の始まりになると思うと、足に力がみなぎった。


 さび色と白のまだら模様の階段を、崩さないように、慎重に駆け上がる。途中、心臓が痛みに鼓動を乱したが、彼はそれどころではなかった。


 てっぺんに着くと、迷わず操作室のドアを蹴破った。椅子は、飛び乗ると驚いたかのようにホコリを舞い上げた。


 携帯電話の端子を引きずり出し、塔の電源ボタンの銅線でぐるぐる巻きにした。


 太古の技術を秘めた携帯電話は唸りを上げ、溜め込んだ膨大な電気を一度に吐き出した。あまりの発熱に携帯電話を放り出す。


 電子のしずくは、さびた塔に優しく染み込み……

 備え付けのメガホンが、喜ぶようなハウリングの咆哮で応えた。


 管制台から生えるマイクを、携帯電話の白熱する口元へ、荒ぶるマスコミのように押し付ける。


 そして、夏の始まりを宣誓するかのように右腕を振り上げ、ビカビカと光る三角の再生マークの上に、喜びの拳を叩きつけた。


 静寂。そして。


 さらりとした炎天下の汗のような、ぬるく甘ったるいジュースのような、

今は亡き「夏」の代表ソングが市街スピーカから吐き出された……!!


 セミの声が街路を埋め着くし、日差しが真白なうなじと入道雲をこんがり焼いた。スカイブルーは寒色のはずなのに、暑さを引き立ててしょうがない。「ほら、きこえるか?」と、迫る夕立のささやき声が、こんなにも心を揺さぶる。


 小年は、上気した頬を引き伸ばして叫んだ。


──なつを。ナツを、僕は夏を取り戻したよ!!


 街に向かって、スピーカに負けないほどのがなり声で。のどが裂けて血を吐き出すまで、叫び続けた。


 4分19秒の「夏」は、ホンモノの夏と同じくらいの早足であっという間に走り去ってしまった。


 彼の、寝顔のような柔らかな死に顔に、少しばかりの温もりを残して。

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