赤い幸せ

烏川 ハル

赤い幸せ

   

 カーテンの隙間から朝日が差し込んできて、その暖かさで目が覚める。いつも通りの朝を迎える中、僕は小さな違和感を覚えていた。

 ベッドの真ん中ではなく、左半分しか使っていなかったからだ。なぜ右半分をけて寝ていたのか、ボーッとした寝起き状態ではわからなかったけれど、すぐに頭がハッキリしてきて理解する。

 そこは彼女が眠っていたスペースだ、と。


 僕の部屋に泊まり、僕の恋人になってくれた彼女。

 その彼女の姿が消えている……?

 慌てて体を起こして室内を見回せば、彼女はキッチンに立っていた。青いホットパンツと白いTシャツというラフな格好で、優しい微笑みを浮かべている。

「おはよう。先に起きたから、朝食でも作ろうかと思ったんだけど……。冷蔵庫の中、何もないのね」

「男の一人暮らしだからさ。仕方ないだろ」

 僕は肩をすくめてみせた。

 全くのからっぽではないが、確かに、料理の材料になりそうなものは皆無のはず。

 せっかく彼女の初めての手料理を食べられる機会だったのに……。残念に思いながらも顔には出さず、流しの下の収納スペースに指を向けた。

「カップ麺の買い置きならあるよ」

「朝からカップラーメン?」

 彼女の表情が少し曇るけれど、扉を開いて中を見た途端、パッと明るくなった。

「あら、ラーメンじゃなくて、そばとうどんばっかり。でも、これなら和食って感じで、朝食に相応しいかもね」

 僕の部屋に常備されているのは『赤いきつね』と『緑のたぬき』。小さい頃から食べ慣れている、伝統的なインスタント食品だ。いわば日本の味だから、その意味でも、朝食に相応しい和食と言えるだろう。

「どっちにする?」

 左右の手にそれぞれ丸いカップ麺を持ち、彼女が尋ねてくる。

 その瞬間、ふと僕の頭に浮かんだのは、赤いオーバーコートだった。

 昨晩この部屋を訪ねてきた時も、彼女は鮮やかな赤色の上着に包まれて、頬も少し赤らめており……。

 出迎えのドアを開けた瞬間、僕の視界に入ってきた光景。あれはとても心に響いた。おそらく一生忘れないだろう。

「じゃあ、赤い方で」

「『赤いきつね』ね? うん、私もそれにする」

 彼女は『緑のたぬき』をしまって、もう一つ『赤いきつね』を取り出した。


「はい、できあがり!」

 キッチンタイマーが鳴ると同時に、彼女が宣言する。聞いている僕まで笑顔になるほど、嬉しそうな声だった。

 向かい合って座る僕たちの前には、それぞれ『赤いきつね』が一つずつ。蓋を開ければ、食欲をそそる湯気が立ちのぼってくる。

「いただきまーす!」

「うん、いただきます」

 二人揃って口をつけて……。

「久しぶりだけど、やっぱりいいわね、これ。昆布と鰹節の出汁が利いてるのかしら。なんだか懐かしい味がするわ」

「うまい!」

 冷静にコメントする彼女とは対照的に、僕は思わず叫んでいた。

「あら、やだ。大袈裟な……。びっくりさせないでよ」

「いや、だって……。いつもの味と、全然違うから!」

 僕の部屋に買い置きしてあったカップ麺だ。ほんの二、三日前に食べたばかりなのに、その時とは比べ物にならない風味と歯応えが、口の中に広がっていた。

「どうやって作ったの、これ?」

「どうやったも何も……。普通にお湯を注いだだけよ」

 改めてキッチンに視線を向ければ、火を消したコンロの上には、いつものやかんが乗っている。少なくとも調理器具に特別な点は見られなかった。

「もしかして、調理時間が違う?」

 蓋には『熱湯5分』と書かれているが、うどんのコシを強めるためには5分より短い方が良い、という話を聞いた覚えがある。僕は試したことないけれど。

 また逆に、時間を伸ばすと麺に味が染み込んだり、もちもち感がアップしたりという話もあるそうだ。こちらも、僕は試したことないけれど。

 それらが頭に浮かんだのだが、彼女は首を横に振った。

「普通に5分よ。ほら、これで」

 キッチンタイマーを手で示す。いつもはマグネットで冷蔵庫に張り付いた小さな道具が、今はテーブルの上に置かれていた。

 自炊しない僕にとっては『赤いきつね』と『緑のたぬき』専用であり、前回も『赤いきつね』の方だったから、5分にセットされていたはず。彼女もその設定のまま使ったようだ。

「じゃあ、何が違うんだろ?」

「何も違わないんじゃないかしら。単なる気分よ」

 と言いながらも、彼女は誇らしげな笑顔を浮かべている。

 それを見て、僕は気づいた。

 なるほど『気分』なのかもしれない。調理方法ではなく、恋人と一緒の食事だからこそ、美味しく感じるのだろう。

 これが「恋人ができる」ということなのだ。

 うどんを口にしながら、僕は幸せを噛み締めるのだった。




(「赤い幸せ」完)

   

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