Disc 2_都市伝説篇=Strangeness in the Cyber city

File:6-1_見えない何か=Invisible Object/

 光の落ちたリノリウムに一つの足音が響く。乱れるも規律のある呼吸の連続には、焦りと困惑、そして恐怖が含まれていた。


 ここが自分が毎日通う彩りホログラム溢れる学びの園とは到底思えなかった。お菓子の家に誘われたヘンゼルとグレーテルのように、彼女は――大橋尚子は裏切られた気分を味わっていた。暗かろうと、ホログラムのない建造物はひどく無機質なのはその手に握られたIvisonアイヴィーのライトでわかった。


 機能しないXRグラスを落としたことに構わずがむしゃらに走り、逃げ場所を求めるも、何に追われているのかさえ彼女には解らなかった。ただひとつわかることは、その得体のしれない、名状しがたい何かに友人が呑まれた・・・・ということのみ。

 窓は割れない。無駄に強靭な機能性非晶樹脂膜ホログラスポリマーフィルム製なのはわかっていたが、それにしては鉄の壁のように硬かった。廊下の角を曲がった先、そんな、と声が漏れる。


 壁。のっぺりとした白磁色のそれにはドアも窓も何もない。行き止まりということを告げているだけ。大橋は壁を強く叩き、わめき散らす。だが、それは"奴"を読んでいる行為に等しい。気配を感じた彼女はゆっくりと振り返り、暗闇の奥に潜む何かを見つめては涙をあふれさせる。


「も、もうやめてよ……っ、お願い、私が悪かった! 私がっ、悪かったからぁ!」

 何かの唸り。笑い、怒り、苦しみ。そのいずれでもないかもしれない。ただ、獲物を狙うような踏み込み――無機質の床がめりめりと軋むような音が、最期の時を告げているようにも感じ取れた。


「あ、ああ……たすけ――」


 大橋尚子。中郷恵梨香。

 今日も一人、また一人。

 世界からその名が消えていく。


   *


 偽物の味。誇張した言葉。擬態した音。

 何もかもがデジタル的にも、バイオ的にも再現され、ましてや立体投影ホログラムが発達したこんな時代、何もかもが偽りに思えて何も感じないほど人間は馬鹿じゃない。少なからず息苦しさを抱える者だっている。


 鳴園奏宴わたしもそのうちの一人だ。

 UNDER-LINE施設内に籠っていても、ホールに並ぶソメイヨシノのつぼみが開きかけているのを見れば季節感はわかる。とはいえ、これもホログラムで映されたに過ぎない現実的リアルな虚構なので、解読の能力カルマを生まれつき宿す私からしたら出来のいい看板とそう変わりない。


 もちろん、私がわざわざパーカーとレギンスを履いてルームから出ているのは目的があってのこと。でなければ今頃マイルームで寝ころびながら半裸でゲームをしている。

「ここか」とヘッドホンを外しながらつぶやいた声はうんざりするくらい気怠けだった。


 パネルにタッチし、金属製の無骨な自動ドアを開ける。入った先、DSOの一員である、知人ですらない研究員が二人。髪を一つ結いにしている二十代カナダ人女性の名はピーク。三十代後半と見られる短髪眼鏡の中国人研究員はシャット。

 ここの機関アンダーラインに所属する人たちは規則として本名でなくコードネームを使う。カナわたしも例外ではない。


 そして、私の良く知るメンバー――第三隊のエイミー――がこちらに気づいては満開の笑みを向けて手をぶんぶんと振ってくる。相変わらずの白衣の長袖からは手が見えない。


「カナちゃんおっはよー!」

「……おはようございます」と返した声は気恥ずかしさを含んでいる。ここが公道でなくてよかった。彼女らのもとへと歩を進めつつ、他二人とのあいさつも交わした。


「イルトリックの立ち合い?」とガラス越しの無機質な部屋へと見やる。そこにも一人、私の知る――どころか直属の上司のインコードが椅子に座っていた。


 その部屋にあるのはただの白い椅子ふたつと同じ色と材質をした丸テーブル。ロイヤリティがあるそれにインコードは腰を掛けており、空いている席をただ見つめているだけだ。なんとも滑稽だろうと思うが、私は鼻で笑ったりしなかった。


「オブジェクトNo.3890[語らぬ来賓]。カテゴリαでハザードレベルはB1。人間にしか反応しない代物だったのでクローンでの接触を試みたんですが……」

「いずれも壊されてな。不明点が未だに多いんだよ」と、ピークの言いにくそうに発した言葉を繋げるようにシャットは口を開く。「だからインコードさんにお願いした」

「なるほど、それで」と適当に返す。

「図々しいよねー。レベルA未満なのにうちの隊長使うなんて」

 いたずらな笑みを浮かべるエイミーにあわててピークは弁論した。


「そ、それは悪いと思ってますよもちろん!」

「わかってるわかってる。どうせ隊長から首突っ込んだんでしょ? 行き詰っているって会話聞きつけて『じゃあ俺立会うよ。その方が早いだろ』って感じで」

「こういうフットワークの軽さはこちらとしても助かってるよ」とシャットは頷く。「普通頼みたくてもなかなかできないからね。特策課に申請しても多忙なことが多いから」

 そういうところが、あいつの人気の一つなのだろう。おせっかいで、なんでも首突っ込む天真爛漫。やっぱりあいつは苦手だ。


「インコードさん、なにか確認できますか?」

 ピークが手元のホログラム操作盤に触れながら、マイクを通じインコードに訊く。室内に青年の声が返ってきた。

『ああ、見えないけど確かにいるな』

「っ、反応有り!」

 何かのスペクトルを検出したのだろう、ピークの驚きともいえる一言を発した途端、インコードの前のテーブル中央にケーキスタンドと数種類のケーキがパッと出現した。


「やはり物が出てきたか」とシャット。

「インコードさん、続行をお願いします」

『……あぁ、わかった』

 ピークの指示に対し少し遅れた返事をし、インコードは正面にいるであろう不可視の異常存在を見つめている。まるで彼だけには見えているかのようだ。


『そうか、まぁ確かにまともな人間と話したのは久しぶりかもな。はは、そういうあんたも別嬪さんだろ。いや話し方でわかるんだよそういうの、適当言ってないって。ん、紅茶? そうだな、マリアージュやフォートナムとか好きだけどあんたのおすすめがあればそれを飲みたいね』


『俺はインコード。あ、何笑ってんだよ。悪かったな変な名前で。いやコードネーム。本名なわけないだろ。で、あんたは?』


『ここに長くいるんだってな。退屈してないか? ん? いや、別に尋問とかするつもりない。ただあんたとおしゃべりしたいだけ。いやいや、研究員に言われてやってないって、俺から首突っ込んだの。ははっ、言うねぇ、あんた意外と面白い人なんだな。ああ、その方が人間らしくてかわいげあると思うぜ?』


 傍から聞けば独り言そのもの。滑稽に思える状況だが、誰もがそれを笑ったりしない。確実に何かいる。その直感とある現象を目の当たりにして、そう脳が告げてくる。


 会話が進むにしたがい、紅茶、お菓子、チェス盤が白いテーブルの上に瞬時に現れ、周囲に草花がどこからともなく一瞬で出現する。どんなに高性能なハイスピードカメラをもってしても、その顕現は一コマで済まされている。原理は不明。


「ホログラムやボトムアップインジェクションの類じゃないね。エンタングルメント特有の非局所性相関に基づいているかも」

「だとしてもスケールがマクロすぎる」とシャットはエイミーの言葉を返す。「認識阻害の一種かもしれん」

「インコードさん。応答願えますか」

 ピークが画面を見つつ遠隔で話しかけるが、紅茶を飲むインコードは応答しない。


「あれ、返事がないですね」

「あー、たぶん話しかけないほうがいいかも」とエイミー。こういうときの勘の良さは試用期間の時も助かっていたことを思い出す。


「今、会話しているんだと思います」と私は付け足した。

「会話って……?」

「相手がインコードに話しかけているのかと。それを聞いている最中にこちらに意識を向けたら相手は機嫌を損ねるかもしれません」


 インコードの会話内容から察するに相手は十代後半の女性であり、端的に言えば良くも悪くもお嬢様気質。警戒心があるのはUNDER-LINEを信用していないからだろう。


『……まぁ、それは悪いことしたな。こっちも悪気があってあんたをここに閉じ込めているわけじゃない。……そうだよな、好きでこうなったわけじゃないだろうよ。あんたの気持ちが分かるなんて言うつもりはないけど、理解したい気持ちはある。……ああ、本当だ』

「……」

「カナちゃん?」

 エイミーが話しかけたことに気づき、なんでもないです、と返した。


 イルトリックはどいつもこいつも話が通じないバケモノばかりかと思っていた。不可解な存在や現象で、決して相容れないものだと、私はどこかで決めつけていたのかもしれない。

 イルトリックの中にも人間と同じように意思はあるのだと解っていたはずなのに、どこか忘れている自分がいた。


「タイプライター?」とピークの声で画面に集中する。

 卓上のものがすべて瞬時に消え、代わりに年代物のタイプライターが出現する。それがひとりでに動き――否、相手が打ち込んでいるのだ。

 記入が終わったのか、風が飛ぶようにはらりとインコードの前に紙が滑る。それを手に取り、目を通したインコードは正面へと目を向け、微笑んだ。


『ああ。こちらこそありがとう。あんたと話せて楽しかった』

『けど』と続ける。

『その想いには応えられない。ごめんな』


 静寂が流れる。何も起きていないはずなのに、どこか凍り付いたような、鋭い針が刺さったような悍ましい、本能的な恐怖を感じた。それは研究員らも同じだったようで、顔を青ざめている。一人例外のエイミーが嬉々としてモニターを見ていた。

 変化のない――いや、一点だけある。


「やっば、隊長の首すっごい血管張ってる」

「っ、すぐに鎮静措置セーフティの実行を――」

「その必要はないと思います」


 焦るピークに対し、私は止める。

 やっぱり、相容れなかったか。

 インコードがこちらへ目を向けることなく、手のひらを見せている。"何もするな"のサインだ。


『そうやって好きになった男の首をねじ切って持って帰ろうとしたのか。悪いけど、俺は誰かのものになるつもりはない』


 目の前の存在がインコードの首か頭部に手をかけているのだろう。それを抵抗しているにもかかわらず、いつもと変わらない声で、その見えざる手を添えたような挙動を取る。

 途端、折れたナイフがインコードの胸部あたりで出現した。白い床に落ち、金属音を奏でた。


『痛ったぁ、落ち着けよあんた。さすがに悪戯おいたが過ぎるぜ?』

「あのナイフHRC65はありますね。人体に刺してあんな風に折れるのは見たことないですけど」

 私がそう呆れると、笑みを向けていたインコードが真顔になる。


『……あー、それはダメ』

 一瞬だった。

 居合よりも速い一蹴――否、正面で寸止めした。同時に、鞭で打ったような空気の破裂音と、部屋の右半分に一筋の線が刻まれたことを確認した。


『あんたの言う通り、本当にここでペストを散布するんだったら、その首を斬り落とさなきゃならなくなる。せっかくの縁を俺は切りたくないし傷つけたくもないけど、あんたは……サンドラはどう思う』


 名前を呼ばれたイルトリックはどういう顔をしているのか。ただ、彼女の異常性は任意の物体を何かしらの原理で出現させるものであり、心理面はただの人間に近いのかもしれない。少なくともインコードの怪物的なフィジカルよりは。


『……わかってくれてうれしいよ』

 ふっと笑い、右足を下ろす。そして相手の頬を撫でるしぐさをした。

「おお、手なずけたぞ」

「対象は恐怖心も兼ね備えていると。心理システムは人間に類似しているかもしれませんね」


 シャットとピークの会話の間に、言葉をいくつか交わしていたインコードはその部屋を後にした。

 監視室にある扉が開き、インコードが頭をかきながら出てくる。


「ごめーん、怖がらせちゃった」

「隊長って女にも脅すタイプだったんですねぇ」

 にやにやするエイミーにインコードは若干申し訳なさそうにする。

「悪かったって。いやぁ箱入り貴婦人のご機嫌を取るのは難しいね。ごめんねふたりとも、大した情報得られなくて」

 そうピークとシャットに話しかけた。


「いえ、ご無事ならいいんですけど……まさか物理的に接触できるフェーズまでいけるとは思わなくて」

「報告じゃ首もってかれて終わるよな。外部介入もするだけ被害が増えたらしいし」

「まぁ成果データはゲットできたんだしノーマンタイよ隊長」


「壁の修繕が必要だけどね」と私は付け足した。それに気づいたのか、インコードはこちらを見た。

「というかカナまで来るの珍しいな。どうしたんだよ」

「あんたが呼びつけたんでしょうが!」

「え? ……あーそうだった。午後に任務が入ってたんだったな」

 その思い出すしぐさが本当かウソかなんてどうでもよかったが、忘れていたという素ぶりを見せたのが腹立つ。


「お、ついにカナちゃんの初出動?」

 エイミーのわくわくした声にインコードは頷く。

「ああ。ようやく第一歩だな。まぁパパっと終わらせて映画でも観に行こうかなーって。二年ぶりに出たんだよ、フランク・ジョーンズの新作が」

 その第一歩を前に緊張しているのがバカらしくなってきた。

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Paradigm-Records《パラダイムレコーズ》 多部栄次(エージ) @Eiji_T

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