第41話 サファイアである

 それから時は流れ、私も今や大学生になった。


 大学生といえば、一般的にはモラトリアムが許される、遊び放題の時期とみなされている。


 しかし、これが医学部生の立場ともなると、そうはいかない。


 特に私のような平凡な脳みその持ち主の場合はそうだ。


 周りが全員、進学校出身の天才か秀才ばかりの環境の中、毎日、覚えることとやることがいっぱいで、あたふたしている。


 それでも、今日――彼の命日だけは、何とかオフにして、七里ヶ浜へとやってきた。


「あれからもう三年ですか。年を取ると時間の経過が早く感じていけません」


 譲二さんはそう言って、秋晴れの空に眩しそうに目を細めた。


「そうおっしゃる割には、今日も譲二さんを出待ちしてるお客さんがいらっしゃいましたけどね。まだまだおモテになるじゃないですか」


 私は冗談めかして言った。


 年寄り臭いことを言ってるが、譲二さんはまだ大人びた医学部生でもギリギリ通用するくらいには若々しい。ファッションも最先端ものを取り入れているし、身体も引き締まっている。


 譲二さん曰く、「お客様に好感を持って、信頼して頂くには外見も重要なんですよ」とのことだ。その努力には本当に頭が下がる。


「ですから、陽性転移は治療の過程ではよくあることなんですよ。あなたも精神科医になるなら、覚悟しておいた方がいい。――それで、どうですか。医学生としての生活は」


「大変ですよ。でも、譲二さんが事前に効率的な予習のテキストを作っておいてくれたので、その貯金でなんとか――といったところですかね」


 私が医学部に合格できたのは、譲二さんのおかげだ。


 一浪はしたけど、譲二さんが懇切丁寧に私に合った勉強方法を指導してくれなければ、医学部に受かることなど、到底難しかっただろう。


 仕事も忙しいに違いないのに、一体、いつ寝ているのだろうかと思う。


 本当に頭のいい人とはきっと、譲二さんのような人のことを言うのだろう。


「お役に立ててよかった。まあ、実際に現場に立つ者としては、あまりお勧めできる職業ではないのですがね。特にあなたのような優しい人は、患者に共感しすぎて、自らのメンタルをやられてしまう危険性も高いので。せっかく医学部に入れたのですから、精神科医以外にも医者はいるという事実を考慮してもよいかとは思います」


「その話はもう何度もしたじゃないですか。私、決めましたから」


 精神科医になる。


 それが今の私の目標だ。


 今の時代、タマイシ関連の悩みを抱えた精神病の患者は多い。


『人のタマイシより自分のタマイシは劣っているのではないか』、『昔は綺麗だったタマイシがくすんできた。もう自分に価値はないのではないか』。


 心が可視化された世界は、心の病も増幅され、表に出やすい世界だ。


 私はかつて外聞のいいタマイシを持っていたし、今は偏見視されがちなクズ石のタマイシを胸につけている。なので、タマイシに恵まれた者とそうでない者、どちらの気持ちも分かる――とまでは言わないけど、理解しやすい立場にある。そのメリットを活かそうと思ったのだ。


 とはいえ、最初から、こんな確固たる決意があった訳じゃない。


 無人病から治ってから数ヶ月は、やはり、何をやっても手につかなかった。


 彼を失った心の隙間を埋める――いや、見なくて済むような、没頭できる何かを求めてはいたのだけれど、それが何かわからなかった。


 最初は高卒で働こうかと思った。けど、両親は私を大学に行かせたがっていたし、やりたい職業もなく、何となく就職するのは、違う気がした。彼にもらった私の命を、怠慢に浪費することはしたくなかった。


一瞬、彼みたいな裏稼業の仕事に興味を持ったこともあったけど、譲二さんにその過酷なエピソードを聞いて、すぐに私には務まらないとわかった。それに、おそらく彼も、私が危険が多い仕事をすることを望まないだろうと思ったから。


 精神科医に興味を持ったのは、譲二さんから、「純も昔は精神科医を目指そうとした時期もあったんですよ」という昔話を聞いてからのことだった。


 今は、色んな意味で、一番彼の近くにいられる職業だと思っている。


「決意は固いようですね。ですが、老人は頑固ですから、これからもボクはことあるごとに小言を並べ立てると思います」


 譲二さんはちょっと呆れたように言った。


 過保護な所は、純にちょっと似ている。


 いや、因果関係が逆か。むしろ、譲二さんに純が似ているのか。


 それに加えて、譲二さんが純への義理立てから、私を守ろうとしている側面もあるのだろう。


 その厚意は、純粋にありがたく思う。


「アドバイスは嬉しいですけど、お小言は嫌だなあ――そういうのは、私じゃなくて、純に言ってあげてください」


 私は手提げバックから、ガラスのボトルを取り出して言った。


 その中には、すでに私からのメッセージが詰められている。


 そこに、譲二さんからの手紙も入れて、海に流す。


 それが、純の命日の恒例イベントだった。


「キツキツですね。その内、一本では足りなくなりそうだ」


 譲二さんは目を細めて呟く。


「ごめんなさい。思ったよりも多くなっちゃいました」


 段々、彼への想いが薄れていくことを心配していたけど、今のところそんな兆候は全くなかった。


 むしろ、彼に伝えたい想いや、報告したことはとめどなく溢れ出し、毎年手紙の枚数が増えていく。


 ずっとこうだろうか?


 それとも、就職したらさすがに変わるのだろうか?


 今はまだ分からない。


「まあ、最悪、ボクのはなくても純は気にしない――っと、ギリギリ入りましたね」


 譲二さんが器用な手つきで、彼の分の手紙をボトルに収納した。


 今年はなんとか一本で済むようだ。


 私が書きまくることを考慮して、枚数を控え目にしてくれたのだろうか?


 いや、きっと、譲二さんみたいに頭がいいと、気持ちをシンプルに文章にまとめられるのだろう。


「それじゃあ、投げますよ」


「ええ」


 私たちは人気のない場所に移動して、ボトルを海へと投げる。


 沖へと流れていくそれをしばらく見送ってから、私たちは砂浜に踵を返し、駐車場へと続く階段を目指す。


「この後、どうしますか? もしお時間いただけるなら、両親が譲二さんに会いたがってるので、家で夕飯でも食べていってください」


「……気を遣わせて申し訳ないですね」


 譲二さんが眉根を寄せて言った。


「いやいや、そういうのではありませんから。私も、学校のことで相談できればありがたいですし」


 私は両手を振って言った。


 両親は、私が助かったのは、譲二さんのおかげで、彼を唯一無二の命の恩人だと思っている。


 まあ、両親は純のしてくれたことを知らないし、譲二さんが命の恩人なのはある意味で事実だから仕方がない。


 でも、両親は私と譲二さんの関係を男女の仲なのではと訝しんでいる雰囲気すらあるが、それはいくらなんでも杞憂だ。


 彼の父親だったような人と、男女の仲になるなんて、全くもってあり得ないと断言できる。


 私にとっての譲二さんは、久しぶりに再会した兄のような、気のいい親戚のおじさんのような、親友と尊敬する先輩の間のような存在だった。


 純が結び付けてくれた人間関係だから、大切にはするけれど、それは恋愛対象としては明確に区別されている。


 砂浜は、私たちの足跡を正確に記録する。


 でも、今日の内には、風か波かが、それらを元の無意味な砂に回帰させるだろう。



 バシャバシャバシャ!



 その時、背後から不意に波をかき乱す音が聞こえてきた。


「す、すみませーん! あの、このボトルを投げた方たちですよね! あの、サーフボードの先にボトルが当たって割れちゃったみたいで!」


 次いで、焦ったような男の人の叫び声が響く。


「うーん、日中だとこういうことも起こりますか。夜にでもこっそりやるべきでしたかね」


「ははは、ですね」


 私は譲二さんと苦笑し合って、声のした方へ振り向いた。


 これからも、私はいくつも新しい出会いと別れを経験するだろう。


 その全てを避けることなく、けれど、流されることもなく、私は生きていく。


 いつか、恋をできるようになるだろうか?


 今の私には、その疑問に対する答えも、予感もない。


(私の中の恋人のハードルが、随分高くなっちゃったな。――全部、純のせいだからね)




                      了

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