第40話 あの海の色をした

「どうしたんですか?」


「すみませんね。何か、引っかかってるみたいで。多分、どっかから流れてきた漁網だと思うんですが、巻き込んだらまずいんで、ちょっとお待ちください」


 頭にタオルを巻いた船頭さんが、操舵室から出てきて、鬱陶しそうに言う。


 船頭さんは鉤棒みたいなものを手に、そのままガニ股でドカドカと船首に向かう。


 確かにそこには、オレンジ色の網が引っかかっていた。


 船頭さんは鉤棒で網を外し、そのまま海流に任せて流そうとする。


 その時、雲間から太陽が覗いた。


 カーテンを開くように、海が光に照らされる。


 刹那、私の視界にきらめく何かが映った。


「すみません! あれ! あれ!」


 私は遺骨の入った壺を床に置き、船べりから身を乗り出して、輝きの源を必死に指さす。


「はい? ああ、なんかペットボトルみたいなのが絡まってますね」


 違う。


 あれは瓶だ。


 その形に、私は確かに見覚えがある。


「何か、道具はありますか!?」


「ああ、釣り用のタモなら、そこに」


「貸してください!」


 私は操舵室の壁に備え付けられていた柄付きの網を引っ掴み、網ごとそれを掬い上げる。


(やっぱり!)


 服が濡れるのにも構わず、網をほどく。


 やがて全貌を現わしたそれは、純と出会ったあの日、サバミと一緒に海に投げ入れたメッセージボトルだった。


 自分で投げたメッセージボトルを自分で開ける。


 何とも皮肉な話だったけど、私は好奇心を抑えきれなった。


 瓶を逆さに振って、中身を取り出す。


 一枚目は、私の入れた手紙。


 今となってはくだらない悩みが、延々と書き連ねられている。


 そして、二枚目。


 雨の染みがついた、純の書いた四つ折りの手紙。


 彼は、あの時、何を書いたのだろう。


 純は、どんな言葉で、サバミを葬送したのだろう。


 それは、これから純を送る、私の参考になるのだろうか。


 私は急く気持ちを抑えて、ゆっくり手紙を開く。


『サバミ。短い間だが、お前のおかげで幸せだった。まあ、せいぜい十年そこらで、俺もお前の所に行く。だけど、ちょっと、変な奴に出会ってしまってな。そいつは、落ち込んでるみたいだから、死ぬまでの暇つぶしに、幸せにしてやろうと思う。お前が、俺の側にいてくれたように、こいつも幸せになればいい』



「純……。純! 純! 純! 純! あ、ああ、あああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」



 その文章を読んだ瞬間、心の均衡が一瞬で崩れた。


 私の方から、彼に近づいたと思っていた。


 寂しそうな彼を慰めたつもりでいた。


 でも、違った。


 最初から救われたのは私だった。


 純は初めから、私の側にいてくれるつもりだったんだ。


 そう思うと、勝手に目から涙が溢れて来た。


 ここ一ヶ月、散々泣いたのに、さすがに涙も枯れ果てたと思ったのに、また私は泣いてしまった。


 手紙を顔に押し付ける。


 純の匂いはもうしない。


 でも、その文字には、確かに温度がある気がした。


 彼の魂の温度が、確かに宿っていると思った。


「あのお、お取込み中のところすまんけど、もう出発していいかね」


「い、いえ! ここで、ここで、撒かせてください!」


 私はそう言って、船頭さんを制止する。


 船頭さんは無言で頷いた。


 私はガラスの壺の蓋を開く。


 直接、手で掬う。


「純! 好きだよ! ずっと、一生! 好きで、好きで、好きで、もし、この先、他の誰かを好きになったとしても、絶対、忘れない! あなたがくれた命も、思い出も、全部、全部、私の一番だから! 愛してる!  愛してる! 愛してる! 愛してる! 愛してる!」


 一回、一回、丁寧に撒いた。


 手で掬えなくなったら、壺を逆さにして、純の全てを海に還した。


 胸に手を当てて、彼から貰った指輪をぎゅっと抱きしめる。


 後には、過去からやってきたメッセージボトルだけが残される。


 ちょっと迷って、決断する。


 もし、彼が生きていたならきっと照れくさがって、こう言うだろう。


『見るなっつっただろ。流せ、そんなもん』


 だから、私はメッセージボトルに、二枚の手紙を細かくちぎって詰め直す。


 そして一度だけ、その無色のボディに、心からの長いお別れのキスをした。


 蓋を開けたまま、メッセージボトルを再び海へと投げ捨てる。


 あの時はすぐに戻ってきてしまったけれど、今度は絶対にそうさせない。


 このメッセージボトルは、二人だけの思い出だから、他の誰にも届けない。


 じっと、その行く末を観察する。


 一回。


 二回。


 三回。


 波に煽られ、海水を含んだメッセージボトルが浮力を失っていく。


 五回。


 六回。


 七回。


 ボトルは逡巡するように、時に波に隠れ、時に顔を出して、上下運動を繰り返す。


 八回。


 九回。


 ボトルの抵抗は、もはやささやかだ。


 十回。


 ボトルが垂直になって、ボコボコと泡を吐き出した。


 潮時だ。


 もうさよならなんだ。


 言わなくちゃ。


 彼に最後にかけるべき言葉は――。


(キミのタマイシは、この海みたいに最高な、青い、青い、青い、とっても青い、世界で一番のサファイアだったよ)


 心の中で呟く。


 私の涙と一緒に、静かに、穏やかに、その瓶は悠久の深海へと沈んでいった。

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