【眼鏡百合】逆さま厳禁 あるいは天地無用の無用性

サクラクロニクル

逆さま厳禁 あるいは天地無用の無用性

 最初の一行を会話から始めてはいけない。


 以前、誰かが私に教えてくれた創作技法だ。

 それを誰に教わったものかをイメージする。


 まず最初に、銀縁の眼鏡が頭の中に出てくる。そこから始まって、黒曜石のような瞳、それとよく似た色の透き通った黒髪、私よりも小さな背、セーラー服、本――のように、彼女を言い表す言葉は眼鏡が適切だった。


「最初の一行を会話から始めたらダメ。その会話文が誰のものだかよくわからないから。アニメみたいに、どんな声なのか読者の中で定まっていない。だから適当な想像が翼を広げ始めてしまう。その結果、あとからイメージを書き換える作業が読者に発生したり、性別の取り違え事故が発生しやすい。だから、最初の一行を会話から始めてはいけない」


 私はそれに首を傾げる。


「結構あるけどな、最初が会話から始まる物語。アムネジアみたいにさ」


 そのあと、私たちはなんやかんやと会話を交わした。結論として、私は彼女の所属する文芸部に入ることにした。どういう流れなのか、説明するのは面倒だ。ただ、彼女をわからせてやりたい、という気持ちはあった。




 いくつか、始まりに鍵括弧のついた創作をやって、やればやるほど、それが創作からかけ離れていく感じを味わった。私は勝った負けたを深く考えることも放擲して、彼女には屈してないと言い訳しつつ、だんだんと落ちていく視力に自分の未来を重ねていた。




 説明しなければ誰にもわかってもらえない。

 たとえば、私たちは高校の二年生。

 ここは共学で、高一の頃に、図書館で偶然に出会って。私の方は、昔はスポーツをやっていて、彼女より背が高くて。髪の毛の色はいじってないけど、すこし色が薄い。そういうことは、書かないと誰にも伝わらない。


 文芸部の部室で、秋を通り越して寒いような日に、眼鏡が会話を始めた。


「天地無用って言葉、あるよね」 


「漫画のタイトルだっけ」


「いや、逆さま厳禁って意味」


「逆さま厳禁ってどういう意味。逆にしちゃいけないってこと?」


「上下を入れ替えちゃいけないってこと」


「文脈がわからないと、わからないじゃん、それ。思い出した。郵便局で見たことある」


「天地無用も文脈がわからないとわからないでしょ?」


「わかんないね。だいたいその言葉自体、全然聞かないし、見ることもないよ。あー、古い小説も同じタイトルだったな。アレは両方とも同じ作品か、あるいは偶然の一致のどっちかかね」


「ああいうさ、文脈に左右されるような言葉、よくないと思う。要らないんじゃないかなって」


「そうだね、眼鏡」


「いつまでわたしのこと、眼鏡って呼ぶ気なの?」


「私の中の歴史で、お前が眼鏡以外の何かになるまで」


 彼女はそれを聞いて笑う。


「どうせ最初に描写したのが眼鏡だったんでしょ。都合のいい記号だから」


 創作じゃあるまいし、とメタなことを心に思う。私はどこかの誰かがシミュレーションした夢かもしれない。そう思うと、途端に宇宙が無限に膨らんでから、そこに放り出される自分を想像してしまう。怖かった。私は目を伏せて、ゆっくりと深呼吸する。




 宇宙は無限ではなく、最終的には無になる。小学生の頃に読んだ星の本に書かれたその言葉がとてつもなく恐ろしくて、それがいまでも尾を引いてる。記憶の中では八百億年後、つまり自分が死んだあとのことだというのに、宇宙が無になるってことの方がずっとずっと怖い。八百億年なんて、想像ではほんのまばたきに過ぎない。




 眼鏡がある時、眼鏡を外して登校してきた。ちょっとした話題になった。眼鏡を外すと美人という概念がある。眼鏡はその生きた見本みたいなやつ。一方の私は、いよいよ視力の低下がひどくなって、もうそろそろ眼鏡が必要になるという事実と相対していた。現実はこうしてぐちゃぐちゃになった。


 美人と噂の彼女を横目に、私は辛うじて見える距離にあるキーボードを指先で叩いた。叩きながら問いかけた。


「なあ、眼鏡。眼鏡の眼鏡、借りていい?」


「いいけど、どうなっても知らないよ。それと、もうわたしは眼鏡かけてないから、眼鏡じゃないよ」


「――――そうだね、眼鏡」


 ため息が聞こえた。手元にはケース。それを開くと、銀縁の眼鏡。


「あなたも一度、眼鏡をかければわかるようになるよ。記号化されることのむなしさがさ」


「そうかな」と私は言って、眼鏡をかけた。


 世界はくっきりして、気持ちが悪くなった。


 眼鏡の方を見る。眼鏡を通じて眼鏡を覗くと、そこには――私は拒否した。認識を。言葉を。それでも、過ってくる文字列に正当性を持たせたくて、くだらないことを口にする。


「クリシェを使っていい?」


「珍しいね、そういう物の言い方。普段なら常套句とかテンプレって言うのに。よりによってクリシェ。メガネって呼んであげようか?」


「いいよ、別にそれでも。だから教えて。君の名は?」


「サクラギ・レイン。桜の木に雨。そういうキミは?」


「アサクラ・ルリ。浅い蔵にガラスの瑠璃。瑠璃は難しすぎる」


「何度聞いても綺麗な名前だよ、ルリ。でもすこし男の子の響き」


「眼鏡は完全に女の音だ」


 そう。ルリって女の子もいるけど、私が初めて知った瑠璃は男だった。だから私は瑠璃という名前が男につけられるものだと思って、本当に望まれた性は男だったのだと思う。父性社会じゃあるまいし、と誰かが反論するかもしれない。


 でも私は、瑠璃という名前を思えば思うほど、眼鏡の名前を心の中で唱えることを拒否してしまう。最初に出会った時からわかっていた。私は桜木雨のことを、眼鏡と呼ばないと狂ってしまうことが。


「たまには名前を呼んでよ」


 そうやって、私の心の中に雨を降らせる。


 桜の木の下に逃げ込んで、私は私自身をそこに埋葬したいと願う。そんなことさえも、彼女の思惑通り。いいや、違うな。だんだんとおぼろげになる世界の中で、全部が真っ暗になってしまうのならば、それならいっそ、桜木の下に埋まりたいんだ。


 私は女だ。でも、男が好きじゃない。男になれという他人の願いを錯覚した時から、私は女である自分を憎み、父と母のネーミングセンスを呪い、男を嫌った。


 でもそんな文脈とは何の関係もない。


 黒曜石の瞳。そこに私が映っていた。


 見えるわけがないのに、私は自分が恋する人間の顔をしていると感じた。




 眼鏡を借りた次の日。眼鏡は眼鏡をしていた。


「また眼鏡、貸してあげよっか」


 昨日よりも視界はぼやけて、私はその恐怖を克服するために眼鏡を必要としていた。でも眼鏡でなくてもいい。たとえばコンタクトレンズとか。私にはきっと、コンタクトが似合うと思う。


 だって、眼鏡ほどの美人じゃないから。


「いいよ。むなしくなるんだ」


「記号にされることが?」


「本当の女の子を直視することが」


「本当の女の子ってなに?」


「――――桜木雨」


「天地無用が無用で、逆さま厳禁に変えたとしても、きっと時代の向こう側で意味が通じなくなる。では、いますぐに天地無用という概念そのものが消えたとしたら、わたしたちはどうなると思う?」


「なにを言ってるのかわからない」


 そう返した私の背に立って、彼女は自分の眼鏡を私にかけさせた。


 また気持ちの悪い明瞭感が襲ってきた。情報処理の混乱。いいや、失ってしまったものを取り返せるという錯覚。全部違う。違うんだ。


 眼鏡をかけると、自分が女の子になってしまう。


「やめて、やめてくれ! メガネでいい! メガネでも私はいいから!」


 恐怖に視界が揺れて、それでも私は眼鏡をかなぐり捨てることができなかった。それをそっと、彼女だと思ってキーボードの上に置く。ひどいモザイクが視界を覆った気がした。そしていつか、永遠の闇が自分に襲い掛かってくるという妄想に支配される。


「怖い」


「なにがそんなに怖いの?」


「女の子になりたくない。痛く、苦しく、ヒステリックで。真っ暗が襲ってくる。もう嫌だ。お前のことを見ていたくない。ひどいんだ。レイン、レイン。雨が降るよ。土砂降りの雨が」


「詩人シンドロームでも発症しました?」


 笑い声。唐突に、身体を抱きしめられた。背中から。私の肩には彼女の温度が微かに伝わってきた。寒いから? 違う。すぐにわかった。桜木が薄着になっていたんだ。


「ルリがルリじゃなくなったな。でもわたしにはとてもおもしろい。歴史は変わりました?」


 現実改変能力者。レンズマン。そういった言葉を心の中で並べ立てて、どれもが創作から生み出されたものだなと思う。そんな中で眼鏡と桜木は両方とも現実で、それを伝えてくるのは熱量だ。


「眼鏡は返す。私は絶対にコンタクトレンズにする」


「誰に返すの? わたしはとっくの昔に瑠璃のものなのに」


 何を言っているのかわからなくて、私は桜木を振りほどく。


 眼鏡を取り上げて、身につける。


 まっすぐに桜木を見つめる。


 雨が降り始めた。頬から垂れ落ちていく雫。


「眼鏡じゃないでしょ。これが本当の桜木雨。天地無用は無用でしたか?」


「違う。ずるい。そうじゃない。私は、私は男じゃない。男じゃなかった。不完全だ。欠陥だ。不良品だ。見えない。見えていない。私はレインの眼鏡を見ていただけ。眼鏡は眼鏡だ。人間じゃない」


「でも、女の音なんでしょう?」


 桜木に手を取られて、無理やりに胸を触らせられた。


 そこからは心臓の音が伝わってきた。


「今日、いまこの時から、わたしは眼鏡をやめる。あなたがメガネをやりなさいな。それでもなお、その心が生きながらえたら――その時は、今度は瑠璃がわたしのものになればいい」


 桜木雨はそう言って、目の前でコンタクトレンズを入れ始めた。


「裏切り眼鏡」


 と、私は虚空に向けて呟いた。


「正直に言えば戻ってくるんだから」


 あまりにも見えすぎる世界の中で、桜木雨はそう言い切った。




 雨が上がって、銀縁の眼鏡は私のものとなった。


 これを突き返せる未来に向かって歩こう。


 私は、涙を拭った。

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