雪膚散朱泥
月庭一花
ゆきのはだにちるしゅでい
仕舞いだよ、そう声をかけて、畳の上で伸びている男の脇腹を蹴飛ばした。男は呻きながら恨みがましい目でわたしを見上げ、けれども何も言わなかった。男の背中は血と朱泥で赤く染まっている。それよりもなお濃き深紅の龍が、わたしをじっと見つめ返している。
「さっさと湯に入って色揚げしておいで」
よろよろと男が出て行くのを確認し、わたしは額の汗を拭った。指と指の間、爪の隙間に血と墨とが入り込んでいた。ふと格子の外を見ると、ちらちらと白いものが舞っている。
火事場の灰のようなそれは、粉雪だった。
その日の夜半のことだった。降り始めた雪は勢いを増し、虚空に
手の甲にまで彫り込まれた刺青は、北の国の雲だった。瑞雲祥雲の
かたりと小さな音がして、誰かが戸口の外に立つ気配がした。こんな雪の夜に一体誰だろうと思い
「
戸口を開けて外に出れば、降り頻る雪の中、笹の枝を手にした女が、ふらりふらりと舞い踊っている。白の
「こんばんは。刺青の綺麗なお姐さん」
女が言う。わたしが思わずはだけた胸に手をやると、女はその仕草を見てくすくすと笑う。笹を振る手。袂に覗くその肌が雪のように白い。まるで、質の高い画布のようだ。
「お前さんは女だてらに体に墨を彫るのだね」
……わたしの父は、名うての彫り師だった。
わたしの体は父の作品だった。わたしの人生はそのためにあった。望むも望まぬもなく。
だからこの家業を継いだのは、あるいは父への復讐だったのかもしれないが。今となってはどうでもいいことだった。屈強な男たちがわたしの針に根をあげて悲鳴を漏らすのを見ているだけで、溜飲の下がる思いだった。
「ここはあんたみたいな嬢ちゃんの来るところじゃないよ。それにこの空だ、早く帰りな」
「わたしの背にもそいつを彫っておくれよ」
女は笹をわたしに向け、笑うように言った。
わたしは自分の二の腕を無意識に撫でた。
墨で覆われ、もはや人の温もりを失くした、つるりとした奇態な肌の、憐れな感触。
わたしは吹き荒ぶ雪の中に出て女の手を取った。女は動じることも抗することもせず、ただ笑みを浮かべたままわたしの手に引かれて敷居を越えた。女の手は白く、冷たかった。
「こいつはただの絵じゃないんだよ。一生消えない痛みそのものさ。そんなものにお前さん、耐えられるのかい」
わたしの手はまだ女の手首を掴んでいた。
燈の横に据えた針を反対の手に取り、動くんじゃないよ、と言い添え、女の手の甲に素早くそれを刺した。女は微動だにしなかった。ただほんの少し、眉をひそめただけだった。
真白い肌に、血の雫がぷっくりと浮かんだ。
女は、じっとわたしの目を見ていた。まるでガラス玉みたいな、温度のないその瞳で。
「わたしの得意は朱彫りといってね、並みの針よりよほど痛いのさ。何百何千ものその針があんたの体を蝕む。……後悔しないのかい」
「しないよ」と女は言った。
「姐さんは後悔したのかい?」
逆に訊ね返されて、わたしは言葉を失った。
後悔。父に逆らえず、肌を汚され、……わたしはずっと、後悔してきたのだろうか。
「わたしは、姐さんみたいになりたいだけ」
女が言う。切実な声で。わたしは彼女の手の甲に浮いた血の珠を舐めとって、わかったよ、と力なく答え、その手をそっと離した。
飄々と風が鳴っている。雪は止まず、世界は胡粉のように、白く染め上げられていく。
女に着物を脱ぐように言い、わたしは道具の支度を始めた。絵筆、焼酎、顔料、そして針。そのどれもが手に馴染んだものだった。
女が幾人もの男どもの、汗と涙を吸った薄い布団の上に身を横たえている。その背にはしみ一つ、黒子一つない。細やかな肌は冷たくしっとりとしていて、上質の絹のようだ。
わたしは思わず息を飲む。これほどまでに綺麗な肌を、未だかつて見たことがなかった。
で、何を彫ればいい、とわたしは訊ねた。
女は逡巡する様子もなく、顔を伏せたまま、姐さんの背中のと、同じものを、と言った。
「……朱い火の鳥。それでいいんだね」
わたしの背に羽を広げているのは遥か彼方、遠い北の国の火の鳥だった。卵の中に人の魂を閉じ込め、永遠を生きる鳥。鳳凰のような瑞鳥ではなく、ただただ美しいだけの鳥。
この図案を別の誰かに彫ったことは、今まで一度もない。わたしの、わたしだけの
わたしは女の顔の横に手ぬぐいを置いた。
女が不思議そうにわたしの顔を顧みた。
「痛みに我慢できなかったらそいつを噛むといい。これから……地獄が始まるのだから」
わたしは始めるよ、と声をかけて、絵筆を右手に、針を左手の中指と薬指にかけた。
彫り進めると、時折、びくんと女の肩が震えた。背中に汗と血が噴き出していた。女は声を上げない。ただじっと、手ぬぐいを奥歯で噛んで、その痛みに耐えている。格子から吹き込む雪が、燈の火に、そしてわたしたちの発する熱に、空中で溶けた。女の背中の上で火の鳥が、徐々にこの世へ生まれ落ちようとしていた。
途中で燈の油が切れた。雪の発する仄かな光が女の背中を照らしている。日が昇り、夕方になり、また夜になった。そのあいだ雪は
火の鳥はその禍々しい
刺青とは、新しい命を肌の上に宿すことだ。
わたしは父にそう教えられた。わたしの背中の火の鳥は、やがて男たちを喰らい尽くすだろう、帝辛の
わたしは幾日も幾晩も針を、絵筆を動かし続けた。女はじっと痛みに耐えている。わたしは女が哀れだった。いいや、違う。哀れなのは、わたし自身だった。いつしかわたしは泣いていた。涙は後から後から溢れてきて、女の背中を濡らした。それでも針も絵筆も、微塵も揺るぎはしなかった。銀色の爪がわたしの指を裂いても、緑色の舌がわたしの針を嘲笑っても、手を動かし続けた。羽の一枚一枚が紅蓮の火となってわたしの肌を焼いた。北の空を覆う巻雲は、氷雪を伴ってわたしを苛んだ。嗚呼、父はこの痛みに耐えながら、わたしの体を彩っていったのか。わたし以上に、父は苦しかったのか。父はわたしの炎に焼かれて死んだ。わたしも、そうなるのか。
背中の火の鳥が、五色の声で鳴いた。
気づくとわたしの手は襤褸襤褸になっていた。火傷に腫れ上がり、爪が割れ、血が滴っている。その血を吸って、火の鳥は嬉々とした声で鳴いた。わたしの肌を離れた鳥は、女の背に宿っていた。わたしの腕を覆う暗雲はいつしか晴れて、女の腰に
わたしがあれほど望んだ、元通りの白い肌。なのに……どうしてこんなにも辛いのだろう。
「終わったよ。……全部終わった」
わたしは言った。
「さあ、湯に入って色揚げしておいで」
女の噛んでいた手ぬぐいには、くっきりと歯型が浮かんでいた。黙って部屋を出て行く女の背中を、わたしはじっと見ていた。
女はいつまで経っても帰ってこなかった。
まさか……痛みに湯の中で意識を失ってやしないかと、逸る気持ちを抑えつつ湯屋を覗きに行くと、そこには誰もいなかった。雪は溶けてしまったよ。どこかから声がした。見るとわたしの描いた火の鳥が、窓の縁に立ったまま、わたしをその双眸で見つめていた。
「わたしは行く。北の国に帰る。卵と苹果は置いていく。それはあなたと、あの子だから」
あとは好きにすればいい。最後に父の声でそう言い残して、火の鳥は飛び去っていった。湯床には溶けた、ひと塊りの雪だけが残った。わたしは泣いた。臥して、延々と泣き続けた。
あれからどれくらいの月日が流れただろう。
わたしは金色の苹果を弄びつつ、
燈の火に手をかざすと、まだ、火傷の痕や傷の痕らしきものが見える。日常生活には困らない。ただ、もう絵筆を持つことも、針を使うことも叶わない。それだけ。ただそれだけなのに……なぜだろう、心が晴れない。
寒いな、と思って外を見遣ると、ちらちらと雪が舞っているのが見えた。初雪だった。
そういえばあの娘に出会ったのもこんな夜だった。今でもふと考える。あの娘は雪の精だったのだろうか、と。湯に入れたりしなければ、ずっと側にいられたのだろうか、と。詮無いことだと思いつつ、わたしは煙を吐く。
また会える、その日まで。……ずっと。
雪膚散朱泥 月庭一花 @alice02AA
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