第2話 きつねとたぬき
「なんでこんな日に、そんなもの」
お
お兄がどう言おうと、これは私にとって特別なごちそうなのだ。小さな頃から、ずっと。
幼かった頃。昔の家での最後の記憶は、酒に酔い母を殴る父に向かって、お兄が積み木のおもちゃを投げつけた場面。私を背中に庇いながら、「お母さんをいじめるな!」って叫んで。
父は思わぬ反撃に呆然としたんだと思う。母はその隙に、足元に転がった積み木の汽車と自分のバッグをさっと掴むと、私たちの手を引いて外へ走り出た。こうなることを予期していたのか、母はいつもバッグに通帳類をしまっていたのだ。
父は私たちがそのうち帰って来るだろうと高を括っていたらしいが、出て行ったと知ると執拗に私たちを追いはじめた。
警察が介入して父が諦めるまで、落ち着かない生活が続いた。
母が離婚を勝ち取り、私たちが自由になった日。
私たちは海の見える階段のてっぺんに、積み木の汽車を置き去りにした。元の家からたった一つ持ち出してお守りみたいになっていた、赤と緑の剥げかけた汽車。
それは私たちなりの、父との決別の儀式だった。お守りは、もう要らない。
母と兄妹、3人の生活は、お兄の高校卒業まで続いた。
進学を薦める母に逆らい、お兄はずっとバイトしていた地元のスーパーに就職すると言い張った。
「血の繋がらない僕らをここまで育ててもらっただけで充分です。母さんにはうんと幸せになって欲しい」
そう言って、お兄は深く頭を下げた。
かつての母の月イチのお出かけは、生さぬ仲の私達を引き取るための話し合い。化粧は戦うための気合いの装いだったのだ。
母の交際相手は優しい人だったけれど、知らない大人の男性と一緒に暮らすよりも、私はお兄と2人で暮らすことを選んだ。何より、私だって母には幸せになって欲しかったから。
今でも時折4人で食事するし、私達はなかなか良い関係だと思う。
そしてお兄は宣言通り地元スーパーへ就職。私は進学し、憧れだった船舶関連の職を得た。
「お湯沸いたよ」
お兄が私の「赤いきつね」にお湯を注いでくれる。
私はもう、お兄の膝に座る事は無いし、左手もちゃんと動くようになった。
月イチの行事ではなくなったけれど、でもやっぱり、特別な日の晩ご飯は今でも「赤いきつね」と「緑のたぬき」。
「ねぇお兄、なんかお話ししてよ」
久々にそうせがむと、お兄は吹き出した。でも、優しく笑って「そうだなぁ」と呟き、僅かにこちらへ顔を寄せて声を潜めた。
「……実は俺、スーパー戦隊の運び屋やってるんだ」
「はぁ? 何それ」
「うちのスーパー、裏で悪霊退治の仕事もしててね。例えば、総菜担当の黒井さん」
黒井さんなら知ってる。3人の子持ちママさんで、彼女の作る豚カレーうどんが評判。
私がそう言うとお兄は意味深にニヤリと笑い、自分のぶんの「緑のたぬき」にお湯を注いだ。こっちは3分。
「彼女は『キャラ弁の黒井』と呼ばれ、悪霊を弁当箱に詰め込んで封印する」
今度は私が吹き出す番だった。何よ、それ。
「2階手芸コーナーの紺野さんは手芸用品を駆使する。
でたらめすぎる。もう子供じゃないんだから……と思いつつ、やっぱり笑っちゃう。お兄のバカ話、大好き。
「3号店DIYからは、修理屋
大笑いの中、ピピピとタイマーが鳴る。笑いながらも蓋を剥がし、七味を振り入れると揃って両手を合わせた。
「「いただきます」」
まずは緑のたぬき。カリカリの残る天ぷらを半分と、最初のひとくちを私がもらう。お兄は染み染み天ぷらが好きなんだって。
お兄も赤いきつねのおあげさんの半分と、麺をひとくち食べる。で、あとは交換。
懐かしい味を堪能しながら、思い出に浸る。
「お兄、昔私におあげさんほとんどくれてたよね」
「なんだ、憶えてたんだ。そんなこと」
「うん。それに気づいてからは、きっちり半分こにしたんだ。こんな美味しいもの、ちゃんとお兄にも食べて欲しいなって思って」
お兄は残りの麺を一気に啜ると、「ごちそうさま」と背を向けて座布団を枕に寝転がった。
「……にいちゃん、もう寝る。お前も早く寝ろよ」
ヘタクソなたぬき寝入り。泣いてんのバレてるぞ。
結婚相手は船乗りだもん。夫の航海中には帰って来るってば。
私は小さく震える背中に向かって言った。
「お兄、今までありがとね。私、うんと幸せなお嫁さんになるよ」
結婚前夜、最後の晩ごはん。優しく懐かしいその味を、私はゆっくり味わった。
きつねの嫁入り 霧野 @kirino
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