きつねの嫁入り

霧野

第1話 赤と緑の

 ここへ越してきて以来、毎月末は2人で留守番と決まっていた。

 仕事を掛け持ちして忙しい母が、この日ばかりは綺麗な格好をして夕方から出掛けるからだ。



 母が作り置いてくれる昼飯を食べ終えると、いつも僕は妹と手を繋ぎ、図書館へ行く。

 時間をかけて絵本を選んだら、帰りは少し回り道をして、家々に押しつぶされたみたいに狭くて長い階段を上る。

 妹はまだ小さいから、ゆっくりとしか上れない。階段に座って何度も休憩しながら、小さな足で一段一段、頑張って上る。

 だって、階段のてっぺんまで上がると家々の隙間から遠くに海が見えるんだ。

 きらきら光る海と、行き交う船。妹はその光景を眺めるのが大好きなのだ。


「きょうもおふね、いっぱいだねぇ」


 階段の手すりの隙間に顔を押し付けて、妹は嬉しそうにそれを眺める。僕もその隣で、青い海と白い船を眺める。あの船はどこまで行くんだろう。うんと遠く、ひょっとしたら、外国まで行くのかも。

 妹はまだ、「外国」というのが何なのかわかっていない。無理もない。彼女はまだ4つになったばかりだし、僕らはこの階段と、家と、図書館の3つの場所しか知らなかったから。


 海と船を眺めるのに飽きると、僕らは階段のてっぺんに腰掛けて借りてきた絵本を開く。僕が読んであげて、妹は隣で絵を眺める。小さな指で絵を指差したりして、絵本に覆い被さるぐらい夢中になる。時おり顔にかかる柔らかい髪を梳かしてやりながら、僕は絵本を読む。

 たまに住宅街の方から猫がやってきたりすると、妹は僕の腕にすがりつき、腕と脇の間に顔を突っ込んで猫から逃げる。猫は好きだけど、触るのはまだ恐いみたいだ。


 陽が傾いてきたら、布の鞄に絵本をしまって肩にかけ、階段をゆっくり降りる。片方の手で手すりを、もう一方の手で妹の手を掴み、ゆっくり、ゆっくり。



 月に一度のその日、僕らが家に帰って絵本の続きを読んでいると、仕事から帰ってきた母が身支度を始める。

 ひとつに結わえた髪を下ろし、いつものズボンじゃなくすてきなスカートを履いて、小さな筆でまつげや口に色を塗る。

 そうして変身を終えると、買い置きの箱の中から僕らに選ばせてくれるのだ。


「今日はどれにする?」

「赤いの」


 他にいくつもあるのに、妹はいつも『赤いきつね』を選ぶ。蓋が赤くて可愛いし、マルちゃんのマークが好きだから、だって。

 僕は『緑のたぬき』を選ぶんだけど、まだ一度も食べた事はない。何故って、妹は『赤いきつね』を半分も食べきれないので、僕が残りを食べることになるから。

 でも母は、僕にもちゃんと選ばせてくれる。足りなかったら食べなさいね、って。



 夜になってお腹が空くと、僕は電気ポットから慎重にお湯を注ぎ、『赤いきつね』を作る。蓋をして待つ間に、妹のために小さなお椀とフォークを準備する。それらをテーブルに置くと、妹は僕の膝の上に座る。

 これが、月末の赤いきつねの定位置。


 父親から受けた暴力のせいで、妹は左手がうまく動かせない。

 普段のご飯なら、まぁ食べられるんだ。でも何故か、この月末の『赤いきつね』だけは、僕に食べさせてもらいたがる。母が居ないから淋しいのかもしれないな、と僕は思う。仕方ないよ。妹はまだ小さいし、僕はお兄ちゃんだからね。


 美味しそうな香りをかぎながら待つ5分は、長い。だから、妹は僕にお話をせがむ。僕は膝の上の妹に、でたらめなお話を聞かせる。時にはからだを揺すったり、わき腹をくすぐったりしながら。

 妹はこの時間が大好きで、きゃあきゃあと声を上げて笑うので、僕もすごく楽しい。


 5分が過ぎると、僕はまずおあげさんをお椀に取り出し、ふたつのフォークでいくつかに分ける。そうしないと、たっぷりとお出汁のしみたおあげさんから、おつゆがこぼれるから。何度かそのままかぶりついて、テーブルをびしゃびしゃにしてしまったことがあったのだ。

 妹は小さなおくちで自分のぶんをみんな食べてしまうと、振り向いて僕の顔を見上げてくる。わかったよ、はい、僕のぶんもどうぞ。


 そういうわけで、僕はいつも甘くて美味しいおあげさんをちょびっとしか食べられない。でも、いいんだ。妹が美味しそうに食べるのを見るのが嬉しいから。


 アツアツの麺とスープを取り分け、ふーふーして麺を食べさせ、お出汁を飲ませる。

 妹が満足したら、今度は僕の番。麺は少々ふやけ気味だけど、それでも美味しかった。



 食べ終わったらはみがきをして、おふとんの部屋で眠くなるまで遊ぶ。

 僕らの持っている唯一のおもちゃは、積み木の汽車。枕の山とおふとんの谷を越えて、海の中や雲の上だって、汽車はどんどん走る。赤と緑に塗られていた積み木の汽車は、もう色がハゲハゲになっていたけど、僕らを乗せてどこまでも走った。どこまでも、どこまでも……


 そうして気づいたら朝になっていて、笑顔の母に起こされる。でも、この日は違った。



 母は僕が眠る前に帰ってきて、真剣な顔で言った。


「お父さんと、やっとリコンできることになったの。もう、逃げ回らなくて済むのよ」


 すやすやと眠る妹の傍で、僕をぎゅっと抱きしめてくれた母の胸は、とても温かだった。でも僕は、すごく不安になっていた。


 僕らは、どうなるの? だっておかあさんは、僕らのほんとうのおかあさんじゃないのに ───


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