異世界勇者は絶対家に帰りたい

新巻へもん

心残り

「勇者さま、ご壮健で」

 俺との別れを惜しみ、涙ぐむ姫様に頭を下げる。城の最深部にある石造りの部屋には偉業を成し遂げた仲間と王国の高官が詰めかけていた。元々それほど広い部屋ではない。そのせいで人いきれが凄いことになっている。

 だから旅立ちは少数でとお願いしたのに、そうはいかなかったようだ。先方の事情も分かるだけに無下にもできない。

 俺は数歩後ずさりもう一度頭を下げ、踵を返して部屋の中央に進んだ。

 床には幾重にも円が描かれ、その中を複雑な線が絡み合っている。時折白く発光するそれをまたいで何も書かれていない中央の小さな円の中に立った。

 皆に向かって手をあげると聖女に向かって大きく頷いて見せる。聖女は一瞬だけ寂しそうな表情を見せた。

 迷いを打ち消すように表情を引き締めると、聖女は両手を高く広げて顔をあお向ける。そして、詠唱の声を一層強くした。


 皆がかたずをのむ中、俺はよれよれのジャージ姿で魔法陣の中央で神妙な顔で立っている。寝巻代わりに使っている高校生時代の遺物のジャージはこちらの世界に召喚されたときに着ていたものだ。

 異世界の住人には変わった素材の服としか思われていないのが救いだが、周囲の豪華な衣装を見ているとかなり見劣りはする。まあ、彼らの服は服で致命的な難点があるのだが……。


 体の周りからもの凄い圧力がかかり始めるのを感じる。

 儀式を行っている聖女を見ると苦しそうにしていた。聖女の額からつうっと一滴の汗がほおを伝いあごから落ちるのが見える。

 それが石の床に落ちる瞬間、大きな力が体を押し上げるのを感じたと思うと周囲の景色がふっと掻き消えた。

 めちゃくちゃに揺れる船に乗っているかのように体が激しく揺さぶられ、三半規管が悲鳴を上げる。胃の中からこみあげてくるものを必死に飲み下した。

 目を閉じて周囲のチカチカするサイケデリックな色彩の渦を遮断してひたすら耐える。あと少し、あと少しすれば元の世界に帰れる。それだけを念じ続けた。


 不意に体から不快感が消える。


 そおっと目を開けると懐かしい我が家、六畳一間の狭いアパートの一室とおぼしき風景が目に入った。大きく息を吸う。少々埃臭いことを除けば変なにおいはしない。

 帰ってきた。私は帰ってきた。大声で叫びだし跳ねまわりたい気分だったが、大家のおばちゃんの渋い顔が脳裏に浮かびすんでのところで思いとどまる。


 薄暗い部屋の中を記憶を頼りに壁を触って電灯のスイッチを押す。白く無機質な明かりがあふれ、思わず目をしばたいた。

 まさに文明の明るさ。獣脂臭かったり、黒い煙が出たりしない。

 テーブルの上に置きっぱなしになっていたスマホを取り上げた。電源が入らない。充電ケーブルに接続すると生き返った。

 そして表示される残酷な現実。日付からみるにこちらの世界では一週間ほど時間が経っている。

 スマホが力尽きるまでに残る課長からの鬼電とメールの山は見なかったことにしよう。

 とりあえずはシャワーだ。体のあちこちがかゆい。すぐに出るお湯、シャンプーの泡立ち。ああ素晴らしい。

 ぎしぎしする髪の毛を洗い、全身に石鹸を塗りたくって綺麗にした。


 ああ。さっぱり。


 身ぎれいになったら、猛烈に腹が減っていることに気づいた。

 六畳と玄関との間にある申し訳程度のミニキッチンの戸棚を開ける。

 半球型のプラ容器。ああ。会いたかったよマイスイート。緑のたぬきちゃん。恭しく両手で捧げ持つ。思わず頬ずりした。

 小鍋に水を入れてコンロに乗せる。スイッチオン。深呼吸をしてお湯が沸くまでの間に心を静めた。


 目を閉じるとこの半年ほどの苦労が蘇る。まあ色々あった。何度か死にかけたし。

 それでも災厄の元凶を封印し、世界を救ったという充足感は貴重な体験だったと思う。それでも、「こちらの世界に残って欲しい」という皆の懇願を俺は断った。

 だって、誰も風呂入らねえんだもん。だから服も裏地の汚れがひどい。いくら魅力的な子でもさあ、山羊みたいな臭いがするんじゃねえ。奥さんに入浴するなとか言っちゃうナポレオン一世とは俺は違うんだ。

 それになんといっても、向こうは信じられないぐらいにメシマズ。この後の人生をアレ食って生きてくのは無理。

 茹でただけの野菜。もうくたくたで食感も味もしない。強烈な臭いを発する塩辛い肉は何回も咀嚼が必要だった。


 ぐらぐらとお湯が沸く。

 いざ開封の儀。蓋を慎重にはがして粉末スープを取り出す。ちょっとてんぷらの油でべたつくが些細なことだ。

 袋にくっついていた薄い半円の切片を我慢できずにつまんで口に入れる。唾でふやかしながらゆっくりと味わった。

 スープの封を切ると鰹節の香りが広がる。ああ。日本の香り。海外出張から戻って成田空港に降り立ったときと同じ郷愁が俺を襲う。

 容器の中に粉末スープをふりかけた。てんぷらにかからないようにする。ちょっとしたこだわりだ。

 小鍋からお湯を注ぐ。粉末スープが解け、さらに広がる香り。箸をひっつかんで蓋の上に乗せテーブルに運んだ。口の中にあふれでる唾。蓋を開ける。俺はてんぷらはふやけ切らない状態が好きだ。箸でつまみ箸を一かじり。さく。さく。


 味わって食べようと思っていたのに止まらない。次はそばだ。おっと、付属の唐辛子を忘れちゃいけねえ。ささっ。

 そばを手繰り寄せる。ずずず。不覚にも目の奥が熱くなる。夢中で食べた。ちょっと口の中をやけどしたかもしれない。

 涙が頬を伝う。ちょっとしょっぺえな。

 つゆも飲んじゃえ。久しぶりだからいいだろう。イノシン酸ナトリウム最高です。鼻水をすすりながら、しみじみ思った。ああ、うまい。

 一滴残らず飲み干す。もう一度食えて本当に良かった。


 ごちそうさま。


 


 

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